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谷中に見る慶喜と支える幕臣

谷中と言う地名は江戸時代以前からあり、上野台と本郷台の谷間に位置することから下谷に対して付けられた、江戸の代表的な場所の呼称である。
谷中は江戸時代の都市計画で多くの寺院が集められ門前町として発展し、「寺と坂のある街」として親しまれ、2007年には「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれている。

<谷中のほぼ中核に慶喜公、それを囲むように鉄舟、泥舟の墓があり、没後も徳川家を支えているように配置されている>

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幕末から維新にかけて最後の将軍と言われる徳川慶喜と徳川家を支えた要人が此処で眠る。
それぞれの墓石は谷中の一角に集約され、労せず参拝することが出来るのが、この谷中である。生前の姿を想い巡らせ、歴史の中を駆け巡るのも、一興と思えるが、順不同で追ってみる。
◇最後の将軍、徳川慶喜
父斉昭から名将となるべく、一橋家に養子になる。家茂の病死で15代将軍に就く。
国内内戦の最中、討幕を目指す薩長軍に対し劣勢の幕府軍は孝明天皇に休戦の詔勅を出して貰う。しかし孝明天皇が崩御し、後ろ盾を失い慶喜は大政奉還を行い、朝廷配下で国政を担うつもりをしていたが、王政復古のクーデターで朝廷から排除される。
<慶喜、三舟に支えられる>
軍事的に挽回をしようとしたが、勝海舟、高橋泥舟等に説得され恭順し謹慎の身となる。
以後、泥舟は身命を賭けて慶喜の身の安全を保障し、慶喜は身を預けた。
恭順の意向は義弟の鉄舟を通じて、西郷隆盛に伝えられ、江戸城の明け渡し条件の一つとなる慶喜の謹慎処遇始め、徳川家の存続など、西郷・海舟・鉄舟の会談で決められ江戸での無血開城が叶えられた。
慶応4年(1868)江戸城は明け渡され、慶喜は明治2年(1869)にその責を解かれるまで上野、水戸、更に静岡宝台院で謹慎した。
謹慎を解かれ駿府紺屋町の元代官屋敷に移り、多数の子宝に恵まれるなど悠々自適の生活が始まる。
晩年は写真撮影、油絵、刺繍、陶芸、狩猟、弓道、つり、自転車など秀でた才能を背景に趣味の世界に没頭した。
その間、従一位を拝命され、華族最高の爵位公爵を授かり、明治天皇の拝謁や有栖川宮威仁親王に面会するなど、維新以降に完全に復権を果たした。
大正2年(1913)76歳、東京の巣鴨の自宅で亡くなる。
<慶喜夫妻を中心に一族が眠る墓。土葬の神道式でお椀をかぶした径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成している>

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(墓は神式に拘る)
自分が亡くなったら、同じようなお墓を作りたいと伝えた。それから水戸家は代々神道で
あったこと、実業家として慶喜に世話になり寛永寺の檀家総代でもあった渋沢栄一の尽力
から、仏式墓所に拘る寛永寺を説得し、このような形で埋葬されている。
周りの仏式墓所と違う神道式の一際目立つ墓所に拘りを持つ慶喜の強い意志が込められている


◇幕藩体制が崩れ維新移行で駆け抜けた「三舟」と呼ばれた二人の幕臣その「三舟」とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人であるが、山岡、高橋が同じ谷中の徳川慶喜公に寄り添い眠るのも尊王攘夷として徳川家を守る遺志も伝わる。
1)高橋泥舟
天保6年(1835)江戸生まれ、槍術を修業し幕府講武所槍術師範となる。
文久2年(1862)幕府徴募の浪士組を率いて上京したが浪士のうち尊攘を唱える者が数を増し、後に新選組となる残留者を残して江戸に戻った。

慶應4年(1868)鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜に恭順を説き、寛永寺に謹慎した慶喜の警護に当たる。勝海舟は東征軍に慶喜恭順の意志を伝えようと、泥舟を使者に立てようとしたが、泥舟は慶喜の警備に専従し、使者を断り、代わりに山岡鉄舟を推薦する。
維新後は徳川家駿府移封に伴い、地方奉行を務め行政手腕を発揮、徳川家臣の駿河移住に尽力する。その後維新後は徳川家駿府書をたしなみ、余生を送り明治36年(1903)69歳で死去する。


<泥舟の墓がある大雄寺。境内の巨木クスノキは都市の美観風致を維持するための台東区みどりの条例の保護樹木で覆われている>

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<高橋泥舟の墓>

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2)山岡鉄舟
天保7年(1836)江戸本所生まれ、父の赴任で幼少期は飛騨高山で学問・剣術を学ぶ、両親没後、江戸へ戻り貧乏暮し。千葉周作に剣を学び、山岡静山に槍を学び、静山没後、実弟の高橋泥舟に臨まれ山岡家を相続する。北辰一刀流の門下生として清川八郎らと尊王攘夷活動に参加する。前述の江戸城開城を巡って、慶喜の恭順の意志を伝え、江戸城無血開城の道を開く。維新後は徳川家駿府に伴って移住し困窮する徳川旧臣の救済に尽力する。
東京に移り、茨城県参事、伊万里県(佐賀県)権令で行政手腕を発揮する。
明治5年(1872)東京に戻り、西郷隆盛から天皇の護衛をしつつ、儒学・漢詩や世界情勢解説など帝王教育の役割に、推挙され、明治天皇の侍従となる。
明治21年(18883)53歳で死去する

(達観した鉄舟の最後)
死期を悟ると入浴し(逝去2日前)白衣を着し、皇城(こうじょう=皇居のこと)に向かってうやうやしく礼を終わらせて、子供たちの通学、夫人の琴の稽古、門人らの撃剣は平常どおり行わせながら日々の修練を怠らなかった。刀架(かたなかけ)にあった白刃を抜き放ち、常の如く組太刀5点をつかいながら傍人を顧みて、「平生と変わらぬ」と微笑せられた、という。
死ぬまで戦う姿勢を失わなかったといえるだろう。
薨去の暁方、居士は千葉立造(医者)に向ひ、 腹張って苦しきなかに明烏(あけがらす)の句を示し「まあこんなものですな」と云はれた。

<全生庵、鉄舟居士とその因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所がある。>

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<山岡鉄舟居士の墓>

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