カテゴリー「02、幕末」の記事

150回忌、14代 松平保久氏講演『会津藩と新選組』

2017-3-18日高幡不動で行われた「新選組隊士150回忌供養祭」の中の講演について、写真など加え、以下整理した。全般を通じて、 聞き辛いところがかなりあり、かなり推測も加え、繋げました 。多少、誤りもあるかも知れませんがご容赦ください。

□松平保久さん講演「会津藩と新選組」

新選組プロの集団の前で新選組を語るのも辛い思いをする。元々接点のなかった「会津藩と新選組」は"誠と愚直"の言葉が二者を繋げるキーワードである。大河ドラマ「八重の桜」でかなり朝敵の汚名が消せると言う思いで、皆大騒ぎして見ていた。かなり会津贔屓でドラマ化され、私自身としては嬉しかった。 Image11

私は保科正之公から数えて松平家14代目藩主に当たる。

真之公は二代将軍徳川秀忠の4男で三代将軍徳川家光とは母違いの異母弟である。

最後の会津藩主容保は9代目にあたる。容保公の孫が秩父の宮家に嫁がれている。

初代の正之公は家光公が信頼を寄せ、四代将軍家綱まで支え政治的手腕を発揮していた。以来幕末まで徳川将軍家の忠誠を誓っていた。幕末には政治不安定な時に京都守護職を、拝命している。この京都守護職で容保公は幕末動乱の表舞台に登場する。幕末には五稜郭の戦いなど徳川幕府の256年余の歴史の中で4年近い短い中でも大変大きな激動とも云うべき歴史転換が図られた。薩長連合軍の倒幕が僅か数年間でなし遂げられ幕府の終焉を迎えた。

会津を通して、最後の最後まで徳川将軍家に忠誠を尽くした新選組であった。

 

◇会津藩家訓(かきん)15箇条が憲法

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初代会津藩主、正之公の会津藩家訓15箇条があり、その憲法の精神が脈々と幕末の容保公の時代まで伝えられた。

城内で藩主、家臣他、全員集まり家訓15箇条を読み唱え出動が習わしであった。

「一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処る、べからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従う、べからず。」

大君、即ち徳川将軍への忠誠を誓う。初代藩主真之公は自分の事を信頼してくれた家光公の恩義が非常に強く感じていた。自分の教えに背く藩主が現れた場合、自分思想とは思わないから、そんな藩主に従わなくても良い、と強く主張されている。

他の箇条を含め会津藩士としての心得があり、精神的なことから実務的なことまで判りやすく、規定されている。今読んでも、違和感なく受け入れられる。

 

◇什の掟

この家訓15箇条から「ならぬことはならぬものです」什とはグループをさし6歳から9歳までの子供たちの「什の掟」に繋がってくる

一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ

二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

三、うそを言う事はなりませぬ

四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ

五、弱いものをいじめてはなりませぬ

六、戸外で物を食べてはなりませぬ

七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

        <ならぬことはならぬものです>

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◇治安維持に京都守護職を設置

文久2(1862)から京都守護職に就いてから会津藩の運命は大きく変わっていく。

当時の京都は新しい時代を切り開こうとする尊皇攘夷派などそれに乗じた過激派などで治安が悪化した。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍した。

幕政に登場した松平慶永公は京都守護職と言う職制を設け、徳川親藩の中でも非常に真面目で忠誠心の強い、実践的な藩として会津藩に白羽の矢を立てた。

 

既に会津藩は外国に対して、蝦夷、江戸湾、房総半島など警備を備えていた。

徳川時代を通じて、各藩は幕府の命令に背くことが出来ない。しかし藩内では守護職のような危険の任を引き受けることもないという意見もある中で、容保公も体が丈夫でなかったこともあり固辞続けていた。慶永公から就任を迫られ、会津公のお役目が、先程の家訓第一条ではなかろうかと、守護職を受ける苦渋の決断をする。

   <黒谷の金戒光明寺、山門>

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同年12月、会津藩松平容保公は藩兵1000名を率い、東山の裾野、黒谷の金戒光明寺に本陣を置き京都に入った。これで、これまで接点の無かった、会津藩と新選組の運命的な出会いが生まれる。

◇壬生浪士隊

「尽忠報国」の「尽忠」は君主や国家に忠義・忠誠を尽くすこと。「報国」は国のために、力を尽くして国の恩に報いること。「尽忠報国」は新選組に繋がってくる。新選組の前身である、壬生浪士隊は文久32月、江戸に居た、庄内藩士の清川八郎が関東、江戸周辺にも色々浪士がおり、上手く使う方法をと言うことで将軍の上洛警護のための傭兵軍団を作ったらとどうかと、幕府に提案し受け入れられ具体化する。

その時のスローガンが尽忠報国の志を持つ者であれば、身分、年齢、過去を問わないものであった。小石川の伝通院に300人余の浪士が集まりその中に近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨等の後の新選組の中核をなすものが集まった。

しかし、清川八郎は表向き将軍警護であったが、攘夷の先兵として、彼らを使おうと言う狙いであった。京都で近藤以下が公家の為に働くこともない、話が違うと、浪士集団を江戸に呼び返される中で、京都に残った。

斉藤一も上洛し近藤たちに加わり、こうして腕の達人間が居ることを、浪士の取締役の幕臣、鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)を通じて浪士組の存在が、会津藩に伝わる。

会津藩も将軍警護の任に当たっており、近藤勇も尽忠報国の誠を使っており、会津藩の愚直な精神が上手く整合しているのではないかと考えられる。

会津藩にしてみれば、テロ行為が頻発する中で有能な武装集団が必要であろうと言うこと、一方、壬生浪士組は会津藩お預かりということで、単なる腕自慢の浪人集団ではない事を訴えるメリットも考えられる。

その時の藩というものは正に国で独自の規律・法律があり、それを他藩が口を挟むことが出来ない。会津藩お預かりはワンクッション置き、ある意味、動かし易く、その存在は非常に心強いものであった。

容保公は自ら斉藤一、永倉新八の壬生浪士隊の稽古を見る。腕の確かさを背景にした活躍ぶりを大変喜び、評価したようである。

 

◇新選組の誕生

Matutune305文久3年(1863)818日の「8.18の政変」で会津藩と薩摩藩が長州藩とそれに、付随する尊皇攘夷派を京都から追い出す、一種のクーデターがあった。その功績から容保公は孝明天皇から藩士へのねぎらいの言葉と孝明天皇直々の和歌も書かれた御宸翰(ごしんかん)を賜った。

容保公は天皇から身に余る光栄と終生離さず、この原図は家宝として、松平家に保管されている。

8.18政変」の時に壬生浪士隊が非常に活躍したと言う記録がある。

数年前新しい資料が、発見され、この政変の時の御所の警備体勢の一角に"壬生浪士隊の記載があった。

この功績が認められ、晴れて新選組の名が与えられた。

江戸中期の会津藩では藩の中では非常に武芸の優れた藩士を集めたエリ-ト軍団を差し是を「新選組」として使っていた。

こうしたネーミングを壬生浪士組に与えたと言うのは会津藩が如何に新選組を信頼していたかを物語る。

こうして京都警護の先兵になっていく、大変な役割を持っている。

池田屋事件、禁門の変未だ未だ出来事があるが、幕府、特に京都守護職会津藩松平容保に対する怨念が非常に高めていく。

 

◇倒幕の嵐~王政復古

坂本龍馬の仲介によって、薩長連合が生まれ、倒幕に勢いを付けて行く容保公の最大の後ろ楯であった孝明天皇が35歳の若さで崩御されてしまう。

そして、15代将軍徳川慶喜は大政奉還はゆくゆく政権は徳川に戻ってくるだろうと言う読みもあって決断する。しかし岩倉具視の王政復古の大号令で発せられ、徳川将軍の権利は土地を含め剥奪されてしまう。

流石これ以上抑えきれないと、慶喜は薩長連合の打倒を考え、幕府軍15000名余りを差配し従えて出兵し鳥羽伏見の戦いが始まる。

新政府軍は倒幕で錦旗を掲げ、我等こそ官軍であるぞと唱え、その威力は想像以上のものであったようで、それまで幕府軍についていた、諸藩も朝敵にはなりたくない、帝には逆えないと、どんどん離脱していった。

兵力では圧倒的に勝っていた幕府軍であったが、僅か三日で鳥羽伏見の戦いは破れてしまう。

慶喜は松平容保公・松平定敬、など引き連れ江戸へ帰ってしまう。慶喜自身も錦の旗が上がった以上、これはもう逆らえない、朝敵にはなりたくないということで、会津藩は完全に取り残されてしまう。新選組も江戸に戻る。

慶喜は江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、会津藩は見捨てられる。容保も再三、新政府軍には抵抗する気はないと恭順の意を表明するが、新政府軍は一切受け入れなかった。容保は会津に帰ってゆく。

江戸城は無血開城で徳川幕府は名実共に完全に消滅してゆく。・

新政府軍は会津藩が残っていては、後々に火種になるだろうと徹底的に会津を追い詰めてゆく。

◇勇処刑

北へ敗走する幕府軍と共に新選組も江戸から去るが、その間近藤勇は流山で捕縛され、板橋で処刑される。新選組は幕府の状態を見て、もう勝ち目はないだろうと重々判っていた。

風前の灯火にある幕府軍として、会津藩と共に新選組は何故戦ったか

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皆さんご承知の勇の辞世

 孤軍援け絶えて俘囚(ふしゆう)と作り

 君恩を顧()念して涙更に流る

 一片の丹哀(たんちょう)()く節に殉じ

 すい陽(すいよう)は千古を是(これ) (わがともがら)

 他に靡(なび)きて今日復()た何をか言わん

 義を取り生を捨つるは吾(わが)尊ぶ所

 快く受けん電光三尺の剣

 只だ一死将()って君恩に報いんとするのみ

(意訳)

孤立した軍隊となった援軍が途絶えて囚われの身になった。

 君主の気にかけてくださったことを思い起こせば涙がいっそう流れる。

 満身の忠誠心は 節義のために 命を捨てる事が出来る(唐の代)すいようで奮戦した*?陽こそが永遠の同志である敵方になびいて 今更また 何をか言わん大儀の立場に立って生命をなげうつことは私の(平生)尊ぶところ(わたしの首を斬る)長剣の閃(ひらめ)きを快(こころよ)く受け容(い)れよう。

ただ一身の死をもって、君主の恩寵に返報しよう。

ここにある君恩とは既に徳川慶喜ではなく、会津容保公をさしているのではなかろうか京都で会津藩と共に過ごしていた新選組はある意味会津藩の愚直な姿勢に、共感したのではなかろうか・・・。

 

◇戦いは東北から北海道

近藤勇亡き後、土方が率いる隊、斉藤一を中心となす隊が東北で戦うが、しかし新政府軍の動きが早く、あっと言う間に東北の玄関、白河まで進出する。白河城の戦いでは斉藤一の僅か130名の隊が400名の新政府軍を打ち破る大活躍をなし遂げる。

更に猪苗代方面から上がってくる母成峠で戦い、そこでも激戦が行われている。

土方は援軍を求め会津に帰る。会津も持たず、更に北へ向かう中、斉藤一は会津に残る。

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この間、若松城においては悲惨な籠城戦が行われるが、援軍も無く、容保公は開城する。

戊辰役で亡くなる会津藩士の犠牲者は2973名と言われている。

土方は僅かな新選組の隊士と榎本艦隊に合流し、更に北海道でも再起を図るが命運も尽きる。斉藤一は会津藩士として、投降する。元々正規の会津藩士でなかったので、ここから脱出することも可能であったが、何故か名乗り出る、斉藤一は藤田五郎で名前を変え、西南戦争にも参加する。斉藤一は明治維新以降も容保公や会津藩とは交遊関係が続いていた。二人は誠の心で運命を共にしたのかも知れない。

容保公は日光東照宮の宮司を勤め59歳で逝去する。

 

◇新選組と会津藩の絆

正に非常におおきな動きが起こった幕末の会津であったが、晩年の容保公の全く信じる道それに向かって国の為、将来の為に命をかけて戦ってきたのに非常に屈辱的な立場に追いやられ、それを思うと辛い思いをする。

幕末に置いて、目先の損得に捕らわれずなっていくことを考え私は愚直なまでに物事の成事を追い詰めた会津藩と一介の浪人集団でありながら誠を追った新選組。

会津藩と新選組の純粋な気持ちを共有しながら絆を深め、共に戦った。

会津藩と共に幕末を駆け抜けた新選組の御霊に改めて感謝と深い尊敬の念を持ちたいと思う。

                                以上(講演は終わり)  
 

◇講演を聞いて

何よりも、松平保久さんのお話の中で、会津藩を称して『愚直』ということであった。

松平容保公が松平慶永公から京都守護職を拝命されたときに、身を晒し危険な役回りに藩内でも反対者が多く、容保公も病身でかなり躊躇したが、最後は真之公が作った会津藩の憲法、家訓(かきん)15箇条から、苦渋の決断であったようである。

これが、後々の会津藩の行く末を大きく運命づけ、悲劇が生まれる結果になってしまう。

戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者が生まれる。

戊辰役で破れ慶喜は容保らを引き連れ大阪から江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、とまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。

それに関連して、身近な所で、高幡不動に新選組の近藤、土方を称える御存知「殉節両雄之碑」(碑文は明治9年、建立は明治21)がある。

篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、受けないで終わった。良順は慶喜公の揮毫を断念し、松平容保に依頼することにした。

慶喜が書けなかったことも、松平保久さんの話しで明確になり、こんな話が繋がってくることを改めて、思い知らされた。

当日は東軍西軍かかわりなく、戊辰役の供養で新選組隊士、松平藩主、西郷隆盛、勝海舟とそうそうたる末裔が集まった。

そんな中で、誉れ高き松平家14代目藩主松平保久さんが、幕府の当事者として何を語るか、大変興味があった。

記事でもあるが、大河ドラマのフアンであることも、吐露され、会津藩を客観的に評価紹介された八重の桜が、やはり嬉しかったのか特別な思いでご覧なられている。

「冗談ですがと、断りながら、来年の大河ドラマは西郷ではなく、八重の桜の再放送があれば」とさらりと言ってのけた。

静寂な会場で聴衆が一番、反応、爆笑したのがこの時で、しばし余韻が残った。

戊辰役後、節目の150年、色々なことを考えさせられる、話しでもあった。

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山本耕史が演じる「石田三成」と「土方歳三」

              <真田丸で石田三成役で登場>

Image3大河ドラマ『真田丸』の石田三成役を演じる山本耕史の姿が懐かしくTV画像を通じて、伝わってくる。
山本耕史と言えば 12年前に大河ドラマ『新選組!』(2004年)の土方歳三役がどうしても、抜けきれない存在なのであるが、変わらぬ姿がつい、昨日見たような錯覚さえ覚える。
それほど鮮烈なイメージの濃い歳三役であったのである。

新選組の副長として、隊長の近藤勇を支え、局中法度など厳しいルールを作り、組長のために平隊士は死を恐れぬのが「忠義」 と自ら実践するなど、強力な武装集団として新選組を作り上げた。
血気盛んな青年たちが一緒に成長しながら幕府を支えていった。

石田三成、土方歳三時代を越えた二人の人物。三成は豊臣秀吉 を支えた戦国武将で、歳三は局長近藤勇の新選組を支えた幕末 の副長である。

何れも主役では無いが、組織を支える重要な役割 を果たす脇役として、二人が果たす役割が共通の物を感じる。
それぞれの時代背景から、どんどん駆け上がっていく姿を二つの ドラマから見るようである。

◇石田三成像

豊臣家に絶対的な忠誠を誓う参謀。秀吉への取次役であり、高級 指揮官を補佐して作戦・用兵その他一切の計画・指導に当たる 将校のような役回りである。
三成のイメージは、端的、明確で、余計なことを一切言わず、 余計な仕草もしない、秀吉命にひたすら忠誠を果たすロボット のような感じである。
その 秀吉は、全く自由奔放で晩年はエスカレートするが、三成 はその横でずっと息を止めて存在しているというイメージである。

◇秀吉に忠誠をつくす。
秀吉はお百姓から成り上がったが、遂に信長を超えたという自負も ある反面馬鹿にされたくないという強い気持ちもあった。
千利休は茶の湯を通じて、信長にも寵愛され、秀吉にも仕え名声と 権威を誇り、秀吉の政事にも関与したが、秀吉に逆鱗に 触れ、切腹させられる。
秀吉の側室となった茶々が子を身ごもり、秀吉は有頂 天になるが、城下では鶴松が秀吉の子ではないのでは と言う、ゆする落書きが発見される。犯人探しに乗り出 すが、捜査は難航、怒りがおさまらない秀吉は、犯人が 見つからなければ門番や町人たちまでをも処刑すると 言い出す。
姉の子である秀次を切腹に追い込み、家族もろとも斬首 したりと、常軌を逸した行動もとっている。
そんな無軌道の主を持っても石田三成は従わざるを得 ない。

殿下への忠誠心、豊臣家への思いから、ただただ 淡々と配下諸公の取り次ぎに尽くしている。
三成は殿下がいるからこそ、自分の才能を発揮出来る、 だから、自分の居場所はここだと定めていたのだと思われる。
三成は個人的な思いより、豊臣のために生きるという ことに意義を見出していた。

◇秀吉没後の三成
秀吉没後、秀吉配下でまとまっていた諸公が東西に 別れ、雌雄を決する天下分け目の関が原の戦いが生 まれ、家康配下の東軍が勝利し、結束力で弱かった三成の西軍が破れる。
三成は戦場から離れ、逃れたが捕縛され罪人として引き 回され、家康命で六条河原で斬首。時代を越えて近藤勇 が晒された、三条河原で首を晒されたのは運命的なものを感じる。
『真田丸』の三成は頭も良く、理屈でものを考え、時代を 背負って熱くなった人物。

どのような最後を迎えるのであろうか、 散り花の飾りかた、悲劇のヒーロにまた話題を呼びそうである。
あまり動かず、反応せず、ほとんど表情も変えないが、 実は熱い三成をどう演じられるのであろうか、興味が尽きない。

◇あれから12年

            <土方歳三、見たさに押しかけるフアンで殺到する>

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             <さっそうと、羽織姿の土方歳三役>Image212年前、歳三役の山本耕史が日野にやってきた 。
そんな歳三も新選組祭りでは本陣前の広場で架設ステージに普段着で現れ 、インタービューに応じた。その姿を見たさに、物凄い黒山の人だかりに、全く近寄れなかったことは、大河で膨れ上がった歳三人気が思い起こされる。
しかし、12年経った現在、 大河を見ていない層が、此処本陣に訪れ、賑わいを見せている。既に12年の経過が新しいフアン層を呼び、新選組フアンの根強い人気が時代を越えて引き継がれている。

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1年を振り返って(2015年)後編

前回、当ブログで所属する会の活動を伝える『1年を振り返って回顧の記事』を纏め前半を紹介した。その続きを紹介する。
戦国時代から幕末まで会員のそれぞれ蘊蓄を熱く語る『談話会』の披露 。一方では会の象徴的な存在であり、色々お世話になっている日野宿佐藤家から館長さん自ら飾られた、晴れ舞台の観劇など賑やかな後半であった。

◇7月談話会

①「大奥草創期の御台所『お江』と乳母『お福』」
浅井長政とお市の娘、『お江』は徳川秀忠に嫁ぐ。実子『竹千代』『国松』が徳川将軍を継がせるため、『お江』と乳母『お福』(後の春日局)間との激しい争い。
『お福』は『竹千代』を実子のように育て、家康に直訴、三代将軍家光として世継となる。『お江』が押した『国松』は徳川忠長として大納言の官位になるが、家光との幼少期の将軍継承争の確執から、追い詰められ改易、自刃する。
約260年の幕藩体制が敷かれる原点の大事な将軍の世継ぎに『お江』『お福』の二人の女性が互いに牽制しあうウーマンバトルに微笑んだのは『お福』であった。
会の京旅巡りで、金戒光明寺の墓地での春日野局が建てたお江の供養塔は運命的な出会いであった。
<遺髪も収められ、追善菩提で建立したお江の墓>

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②「白虎隊奮戦の地碑建立に関わる秘話」
白虎隊奮戦の地で相まみえた戸の口原で戦った土佐軍戦士の末裔住職『結城治』の発案から地元の会津若松市の関係者の協力で 供養塔建立をみる。住職の発案から、受け入れた会津人の温かい志が碑の脇に紹介されている。

戊辰戦争の怨恨が、未だ消え去らぬ中、敵味方分け隔てなく、供養成就に繋げた美談の紹介。

③「井上源三郎は三番隊長であった」
新選組が組織として拡大し、機動的な活動を意識し、一番隊から十番隊に編成し井上源三郎は六番隊隊長と言うことが、原点として伝わっていた。
しかし、西村兼文が書かれたた「新選組始末記」に矛盾点を指摘した上で、新たに発見された複数の史料から八番隊の編成で井上源三郎が三番隊長であったことが発表された。

④中島三郎助と新選組余話」
地元の財産家から町民まで広い層に支えら建立した中島三郎助の浦賀の招魂碑。
三郎助の興味の幅が広く、生活を楽しんだ長崎海軍伝習所時代、沢山の事を吸収しようとした閉窓(かんそう)雑記。榎本艦隊で同行した佐倉藩漢方医林董(後の外務大臣)が残した、回顧録に千代ケ岡の三郎助父子が壮絶な最期を遂げた臨場感ある記事であった。
函館に訪れ、三郎助や土方歳三を弔い、供養続ける現地の人に感謝を伝える筆者の気持ちを披露された。

◇8月「北の果ての理想郷」ザ・ウエストパーテイー演劇公演、日野七生公会堂の観劇。
土方歳三は新天地、箱館を目指し、身を案じる佐藤彦五郎自身にも追手が迫る、維新前の筋立であった。地域密着型の地味なテーマの演劇であったが、満員の盛況であった。

日野の歴史を素材に今年で4年目を迎えるが、佐藤彦五郎の末裔にあたる、佐藤彦五郎新選組資料館の佐藤福子館長自ら大蔵院の尼さん役でデビューされた。東征軍の日野宿周辺の捜索に数珠を掲げあしらう迫真の演技姿は逞しく、透き通った張りのある声と立ち振舞いに心酔した。

多数観覧された会員と共にカーテンコールの鳴りやまぬ拍手と声援の渦の中、感動を覚えた。
真夏の暑い時期の長期、稽古はかなり長い時間拘束され、家庭を持つ身に大変なご苦労があったようであるが、素敵な素地が、一気に開いた役者の姿をみた。
<熱い演技に、満員の盛況極めた演劇公演>

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◇12月談話会
会員の蘊蓄の披露と納会の宴
①「利休切腹の謎」
信長政権の後継候補として秀吉が政権強化に千利休を活用し、それに応え利休は秀吉の側近にまで抜擢された。秀吉政権の中で信頼関係も厚かった利休であったが、利休の娘「おさん」の側室要請を利休が断った。

朝鮮出兵に反対する諸大名に利休の影響を警戒した。等々秀吉との対立から信頼関係が崩れ、切腹されてしまう。

②御用盗と岩倉具視」
毒殺か孝明天皇の謎の変死。倒幕の為に幕末騒乱の一旦を担った薩摩の御用盗のメンバー相楽総三、益満休の助、伊牟田尚平の死を遂げた。戊辰後、己の立場を護るため、事情を知る面々を消し去ってしまったのは岩倉具視ではないかと推論する。

◇美酒に心酔する、納会の宴
納会は佐藤彦五郎と縁戚に当たる、有山家の広大な敷地の一角にある花豆で宴を持つ事が出来た。鬱蒼たる樹木に囲まれた屋敷の中、ご主人の案内の、自慢のスポットは季節柄、色鮮やか紅葉が映る異郷の世界であった。庭先に映る炯眼を前に、ゆったりとした気分で飲める美酒は格別であった。
<用水沿いの、自然の中『花豆』での宴>

Img_322<原稿完了>
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◇暗転の世界から復帰
一年を振り返ると個人的には横浜、吉田橋でのつまずきから始まった凶事は眼から始まり、胃にも及んだ。年の後半は雑居房での入退院の繰り返しに拘留・拘束の悪夢の連続であった。

出所後に備え、格好の学習機会でもあったが大量な書類はお持ち帰りで、無為に終わってしまった。12月に拘束を解かれ、娑婆の空気を思い切り吸い解放感に浸り、納会の席に戻れたのも、奇跡的であった。
◇広報資料
巻頭に佐藤福子館長の言葉を貰い、1年に1回の発行の『彦五郎通信』も第11号を数えるに至った。紙面の割り当てから、此処で書いた記事は、半分程に圧縮され紙面に添えられる予定である。
<新選組持って広島に嫁がた旧会員Mさんの作品、ちょっと美形な彦五郎>

遥々、遠く、長州系配下の世界に西下されたが、会の繋がりが続いている。

「重い、重い彦五郎通信の出稿の時期であるが彦五郎さん、今年も何とか、終わったよ」

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1年を振り返って(2015年)

毎年、4月に所属する会の活動を伝える広報資料を発行する。その一旦を担い1年を振り返って回顧の記事を纏める。その出稿責務に学校時代の苦く嫌な期末試験の準備を思い起こす。
まして、昨年の後半生は語りに尽くせない、入退院を繰り返す病魔との闘いに振り回され、廻りを見通す、余裕もなく、お断りしたが、それでもさぼりの償いに、半ば強制的に押しつけられた。
そんな言い訳は別に、1年を振り返った。
■3月「ペリー来航の地・浦賀を歩く」
◇西浦賀
浦賀は狭い浦賀湾を挟んで東西浦賀町がある。咸臨丸の修理など造船はじめ神社仏閣や浦賀奉行所跡がある。高台に登れば外国船砲撃した台場や相模湾を挟んで房総半島は手の届くところにあり、炯眼が確かめられ、濃縮した幕末に触れ合える素敵な場所である。
黒船来航以来、国防に目覚めた浦賀は艦船の造船、修理に浦賀ドックが誕生した。日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」の建造や太平洋横断前の「咸臨丸」の修理など海国日本の造船技術が育ち中島三郎助など多くの技術者を輩出するなど輝いていた。
そのドックも閉鎖され、迎える船も無く、かっての活気を帯びた時代を伝える設備は恐竜を思わす象徴的なタワーとして虚しく立っていた

                 <ドックのタワー>

Img_6376その三郎助も、幕臣として主家徳川家に報いんと函館千代ケ岡に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に散下する。
西浦賀の代表する一つは浦賀港を一望に見渡せる愛宕山である。山頂には、母卿の地を思い舟を愛す三郎助を追慕する「中島三郎助鎮魂の碑」や木の葉の様な咸臨丸に乗り、米国に渡った、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らの名が連ねた「咸臨丸出航の碑」もある。
招魂碑から浦賀港挟ん向かい側は三郎助親子の墓が対座するように建ち、入り江を挟む用に東西からこの港を見守っている。
◇東浦賀
僅か数分で対岸に着いてしまう渡船に乗ってミニ船旅気分を味わい東浦賀に渡る。
         <東西浦賀を結ぶ連絡船> Img_6409黒船来航に熱く語る物見深い吉田松陰や佐久間象山が泊まった旅籠の徳田屋跡に影を追う。
咸臨丸は榎本艦隊として蝦夷に向かい、台風で浮遊し、清水港で新政府軍に惨殺された36人の一人、浦賀の造船技術者春山弁蔵の墓に哀れを誘った。
咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に修業用の法衣で身を包み座禅を組み、断食修行を叶神社でおこなった。今回特別に拝見した法衣に航海を前の海舟に決死の覚悟をみるようであった。
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。明神山の山頂に立つと房総の山々と海域に白波を立て航行する船に目を見張る。吉田松陰や佐久間象山など彼等が見た鮮烈な黒船の情景を重ね、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

      <明神山から 対岸の房総半島と行き交う舟が見える>                

Image3
■5月「横浜・桜木町界隈」
徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。
JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。神奈川奉行所は東海道と居留地間に位置し、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った 。生麦事件や鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。
◇井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の背後に旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立した、掃部山公園がある。

              <井伊直弼像>
Img_9425
当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、銅像建立は許しがたかった。
周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、強行し、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっていなかった。銅像は戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。
◇野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。
幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
貿横浜村に住む易商人は、彼らを保護する公館は神奈川への道は遠回りで不便で、居留民は不満が爆発した。そのため居留地と神奈川の間を結ぶ、「よこはま道」が約3カ月の突貫工事で繋いでしまった。アップダウンの土地柄、立地面から道路構築を阻み如何にも不自然な戸部坂、野毛切り通しに、往時の歴史の姿が見える。
       <野毛切り通しの間を通る、「よこはま道」>Image2◇野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、かって、横浜軍陣病院のあった老松中学校に出る。戊辰戦争で、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦よる負傷者は、当時の日本医学では未熟で英国医師ウィリアムウイルスの活躍の場になった。薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。
◇横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。
当時、海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。横浜開港に関わる一人として佐久間象山の顕彰碑が建てられた。 幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなく、その後黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
◇吉田橋
野毛坂を降りてよこはま道を進むと、人通りの激しい伊勢佐木町とJR関内の吉田橋に出る。吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
開港当時、木の橋がかけられ、橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである。
        <吉田橋背後はJR館内駅>Image11◇蛇足ながら
この吉田橋でつまずき、鉄柱に激突、眼鏡を破損し、検査から忌まわしい眼病の発見に繋がった。原因は不明であるが、呪いの霊感からか、病魔に苦しむ暗転の始まりでもあった。
<回顧記事、一旦終了。、次回に繋ぐ>

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斬首の介錯人、横倉喜三次

赤報隊の相楽総三や新選組近藤勇を自らの手で斬首されるまでの過程と生々しい事実を追って見る。

◇横倉喜三次

文政7年(1824)、旗本岡田家の臣横倉政能の嫡子として美濃国大野郡揖斐(いび)で誕生する。
天保5年父病死で、11歳で家督を相続する。
吉田久兵衛に剣術を学ぶ。
天保11年(1840)、17歳で江戸勤番となる。神田小川町の小野派一刀流、酒井家に入門する。
天保14年美濃に帰省し、弘化2年同門の梅田棒太郎光太の門人に入り修行する。
剣術以外に柔術、砲術を学び、武術全般にも技術を磨き、岡田家の家臣として剣術、柔術の世話方に抜擢され、岡田家の武術指南役、となる。神道無念流は皆伝。明治27年 71歳で没する。

慶応4年(1868)2月美濃大垣に到着した東山道軍先鋒 総督岩倉具定に勤皇を誓った岡田家は家老柴山理太郎以下43名が従軍する。喜三次は岡田隊の副隊長として従軍する。

1)東山道軍として諏訪で立ち取り

□赤報隊活動~捕縛、処刑
◇「赤報隊」の結成
慶応4年(1868)1月 赤心をもって国恩に報いるために活動する」と言う意志から「赤報隊」と名付けられ、東山道を行く東征軍の先鋒隊として近江国松尾寺山で結成される。
公郷の綾小路、滋野井の二人を盟主に三隊に構成される。一番隊の隊長は相楽総三、二番隊の隊長は元新選組の鈴木三樹三郎、三番隊は水口藩士の油川錬三郎である。鈴木三樹三郎は新選組を離脱した高台寺党で、暗殺された伊東甲子太郎の実弟である。更に、高台寺党の仲間で阿部十郎は大坂から京へ向かう途中の新選組局長近藤勇を狙撃し、重傷を負わせた人物である。

◇太政官へ嘆願書と建白書の提出
相楽は先鋒隊の出発に先立って、京都に戻り、太政官へ嘆願書と建白書を提出している。
建白書は民衆を官軍に引きつけようとする政治的意図もあったが農民の困窮から救うための年貢半減であった。
暫くして太政官から「年貢半減令」 が布告された。
「赤報隊」は屯所に一部を残し、彦根、柏原、美濃の岩手に進軍し、行く先々では年貢半減を布告した高札を立てている

◇太政官の軌道修正
相楽総三は建白した「年貢、半減令」で民心に応えたが、これを実施すると財政に欠陥を生じ、太政官は許可した布告令を取り止めた。一方では設楽ら草莽が力をつけ競合すること危惧した。更に本隊から東海道行きを命令し、二番隊、三番隊は、応じ京に戻ったが、一番隊は無視して東山道へ進軍してしまった。
そんな背景の中で赤報隊が金品を略奪し統制を無視していると噂が流され、新政府は赤報隊切り捨て策に転じ、松尾寺に残ってい公郷の滋野井の一隊は近江から伊勢に向かうが捕縛され8名が処刑される。
一番隊は大砲6門、小銃隊70人他人足を含め大凡220人であったと言われているが、2月6日、下諏訪に到着する。相楽は信州諸藩に勤皇を解き、誓約書と軍資金、食料、武器などを出させた。所が東山道総督府から信州諸藩に赤報隊はにせ官軍であり、取り押さえを命じるの布告文が回っていた。
◇相楽 以下、隊士捕縛
3月1日、桶橋(とよはし)に居る相楽に、下諏訪に陣を構える東山道総督府の岩倉具定(具視の子)から軍議出席の呼び出しがかかる。相楽は剣客、大木四郎を伴って下諏訪に向かった。 総督府の本陣の門を入り、玄関に入ったところ、総督府側のわなにかかり数人に囲まれ二人は捕縛された。
翌日、桶橋に残留の赤報隊の総督府の本陣への出頭命令の書状を書き届けられた。

隊士は隊長が軍議で呼ばれたので、疑いもなく、下諏訪に向かった。脇本陣では、二、三人ずつ呼び出され中に入ったが拘禁され、外に居る連中も、総督府兵にいっせいに包囲され、有無を言わさず縛り上げられた。

<東山道総督府が陣をはり、相楽総三と大木四郎が捕まった下諏訪宿本陣(岩波家)>

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◇「にせ官軍」と処刑
設楽以下54人はただ一度の取り調べもなく、二昼夜、下諏訪神社の境内で並木に縛られ氷雨の中さらされた。3月2日、相楽以下赤報隊幹部8名は礎田の刑場に移され、「赤報隊はご一新の時節に乗じ、官軍先鋒を偽り諸藩や農民を脅かした」と言う罪によるもので処刑を宣告され、、無言のうちに斬られていった。
「にせ官軍」であると言う罪文をちらりと見せただけで、有無を言わせず残酷な処刑であった。
江戸騒乱に動員され、倒幕の前線で利用され、今度はご維新のために江戸城開城のお先棒を担がされ、挙げ句に果ての処刑であった。
相楽は同志の最期をじっと眺め、死の座になると皇居の方角に向かって、遙杯(ようはい)し、太刀取りにに「しっかりやれ」と声をかけた。振り降ろした刀に相楽の首は三尺飛び、地に音をたてて落ちた。
処刑場所は下諏訪の外れにある礎田と言われる刑場であるが、その呼称は現在使われていない。
砂利を敷きつめた広場に魁塚があり、顕彰碑とも併せ、墓が立っている。

Sagara503

昭和3年、相楽総三の孫、木村亀太郎と、赤報隊関係者の奔走によって、資料の収集に半世紀余りも努力され、にせ官軍と言う汚名は晴らされ、相楽総三に「正五位」が贈られた。

東山道総督は斬首8名を含む54人の処分を行った後、3月4日下諏訪を立ち、江戸へ向かった。

2)板橋で近藤勇、 立ち取り
3月4日下諏訪を立ち、中山道で江戸へ向かい、13日板橋に着陣する。
□新選組の結成~活動~勇捕縛
◇浪士組結成
天保6年(1835)、時正にペリー来航で揺れる国家の危機に幕府の求心力も低下していた。倒幕を打ち出す薩長と幕府を支える佐幕派の会津藩との闘争が激化していく。
そんな折り、上洛する将軍警備に剣術好きの若者が、 江戸小石川の伝通院に250~300人が集められ、清河八郎山岡鉄舟らに引率され中山道を通り京都に向かった。
清河は生麦事件の始末で英国からの戦争に供え、攘夷の護りにつきたく江戸帰還の提案し、朝廷から許可され、浪士組は江戸に帰還する。
江戸帰還には反対と近藤勇、芹沢鴨が異を唱え、その結果京で二十二人が残留となり、会津藩預かりとなり、新選組の母体となる。
◇新選組
放火テロなど京の治安維持に活躍し、会津藩から評価され、壬生浪士組から晴れて、「新選組」を名乗り、近藤勇局長、土方歳三副長が中心になって、 幕府を支える。
慶応4年(1868)1月、鳥羽幕府軍とる薩摩軍が衝突し、国内を内戦とする戊辰戦争が始まる。
刀槍を中心とした幕府軍の装備では、銃火器を中心とした薩摩軍相手にまともな戦いになれず、幕府軍は総 崩れとなり、大阪方面へと退却し、新選組も伏見奉行所を放棄する。
鳥羽伏見の戦いで破れた旧幕府軍は江戸に引き揚げ、配下の新選組も富士山丸に乗って帰ってくる。
慶応4年3月、江戸城を目指す新政府軍を阻止するため、新選組は新たに甲陽鎮撫隊の名前で、土佐軍を主体とした東山道軍のと勝沼で交戦するが破れ江戸に敗走する。
◇勇捕縛
新選組は下総流山へ転陣し武装訓練して、会津に向かう予定であった。野外訓練で僅か数人残る長岡屋で東征軍に囲まれてしまう。近藤勇は出頭し、武装解除し越谷本陣に連行され、翌日板橋の本営に護送される。
大久保大和と名乗っていたが、板橋で薩摩兵として従軍した元御陵衛士の加納らに近藤勇を見破られる。
◇勇処刑
総督を護衛し、江戸因習邸にあった喜三次は4月25日勇斬首の立ち取りを命ぜられる。
一方の勇は板橋本陣で縛りに付いた後、岡田家に預け替えとなった。25日、身柄を移された問屋場を出た勇は鉄砲 隊に護衛され、駕籠で平尾一里塚の刑場に運ばれた。
斬首の太刀取りは二人用意され、その中の一人が「やっ」と言うと一太刀で斬ってしまう見事な腕前であった。
勇は喜三次が太刀取りを命じられることを喜び、「ながながご厄介に相成った」の一言を残し、首を差し伸べた。 多くの群衆が見守る中、彼は静かに「諸悪本来無明、当期実・・・・」の*偈(げ)を唄え終わると、佩刀二王清綱に より一刀で近藤の首を落とした。
喜三次は同年7月22日揖斐に帰り、以後も武術を持って家臣の育成に努めたが、終生、勇の命日には贈られた刀を出して香華を供え、その冥福を祈ったと、『岡田家維新始末記』に記されている。
*偈とは経などの中に仏徳を賛辞し、教理を述べたもの、またそれに準じて仏教の真理を詩の形で述べたもの
<板橋の近藤勇墓。勇が処刑された「平尾一里塚」には住宅が建ち、残されものがない>

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横倉喜三次によって斬り落とされた勇の首は拾い上げられ新しい手桶で洗い清められている。
此処迄の様子を見届けた勇五郎は上石原の勇の生家宮川家に急を つげるために踵(きびす)を返した。
首級は板橋の一里塚に以下の一文が記された高札が用意され 晒された 。

◇ 晒された高札
近藤 勇
右者(みぎは)元来浮浪之者にて、初め在京新選組之頭を勤め、 後に江戸に住居いたし、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山において官軍に手向ひいたし、 或いは徳川の内命を承り候等と偽り唱へ、 不容易企(よういならざるくわだて)に及び候段、 上は朝廷、下は徳川之名を偽り候次第、その罪数ふるいに暇(いとま)あらず、よって死刑に行い、梟首(きょうしゅ)せしめる者也。

◇京都三条河原にて
勇の首は塩漬けにさえた上、岡田藩の北島秀朝によって京へ送られ、改めて三条河原に晒される羽目になった。
数年来新選組局長として京洛の人々の畏敬を集めて来た勇だけに、良きにつけ悪しき大きな衝撃を人々に与えず おかず、連日黒山の人だかりであった。

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病魔との闘いに高杉晋作を思う

今年(2015年)の夏以降は目の手術、胃の手術と続いてしまい病魔との連続の戦いであった。
経験の無い変事に、一時はどうなるかと思いつつ、不安な毎日であった。

胃の手術後、内視鏡の検査で術後の経過も良好と、三分粥から始まり、正飯に切り換え8日後、無事退院した。
ところが2日後、下血が始まり、再び暗黒の雑居房に戻ってしまった。
術時の出血が便に交じり、便は酸化、発酵し猛烈な匂いを発し、排泄まで1週間以上続いた。
その出血からか、ヘモグルビンも下がっており貧血気味であった。トイレで血圧が降下し、脳への酸素供給が一時的に絶たれ、意識を失い床面に昏倒した。
混濁した世界から徐々に意識が戻り、初めて、口から出血していることが判った。
CTで脳を調べたが、悪いのは昔のままで、致命的な損傷はなく、転倒時の外傷と判った。
今になって、その因果関係が詳らかにされ、回復の方向に向かいほっと安堵している。

しかし、"口から血"の時ならぬ変事に一瞬浮かんだのは武勇に秀で、病に倒れた奇兵隊の高杉晋作であり、新選組の沖田総司の世界であった。
その追い詰められた時期に、重なるものあり、妄想の世界に、色々駆けめぐってしまった。

                    <高杉晋作>

Img173
晋作は辞世まで用意し、淡々と最期を迎える世界が司馬遼太郎作品に残されており、改めて心打つものがあり、その部分を拾い上げてみた。

<司馬遼作品から>

◇労咳の宣告
下関の医者から労咳(肺結核)の診断が下された。
奇兵隊から大きな鯉が運ばれ、この世で最も飲みづらい生き血を朝夕飲んでいる。
奇兵隊屯所前の家から精を養う、うなぎと熱さましの氷砂糖を持って見舞い、口にした。
晋作の発病は小倉落城以前で、風浪を衝いて海峡を押し渡り、小倉戦争を指揮した。
高熱は下がったが衰弱している。

        <奇兵隊の攻撃で陥された小倉城>

Img175
◇急速な衰え
晋作は咳をし、痰を紙に吐くと、血がまじり肺炎と自覚する。
京の政界は幕軍の敗退、将軍家茂の死、幕長戦争の止戦論議で井上聞多ら長州政客は忙殺され見舞いも出来ず、晋作は病気静養に専念する。
京に送った手紙には病床で自分の手足を眺め、これが生きた手足かと嘆き、更に喀血に驚いている。

異様な病体に下関郊外、桜山の麓の独立家屋「東行庵」に移る。
晋作は再起をしたかった。これほど人の手綱を嫌う、晋作は人変わりしたように医者の言うことを聞いた。食欲もなく一杯の芋粥が精一杯であった。

◇最後の花
長州の亡国の危機を救った男をこのまま書生の身分で終わらせたくないと言う藩主の配慮から重大な処置を取った。

高杉家は父、小忠太が当主であり、晋作は新たに100石、谷家を立たせ継がせた。
晋作は喜び、重態に関わらず、馴染みの酒楼の名を口走り、病床から太刀を杖にして立ち上がった。とめてもきかず駕籠に乗り。晋作の生涯の思い出造りに、最後のどんちゃん騒ぎをやってみたかった。駕籠が半丁も走らぬうちに駕籠の中で便を漏らし、もはや遊べる体力が残っていないことを知り、駕籠を戻させ、再び病床についた。
その日から容体は悪化した。

◇辞世を造る
皆、燈火を寄せ、晋作の枕頭に集まった。晋作昏睡状態であったが、夜がまだ明けぬ頃、不意に瞼を明けて当たりを見た。意識が濁っていないことが誰の目にもわかった。
晋作は筆を要求し、筆を持たせた。
晋作は辞世の歌を書く積もりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で書き始めた。
『おもしろき こともなき世を
おもしろく』

とまで書いたが力尽き筆を落としてしまった。
晋作にしてすれば本来おもしろからぬ世の中を随分面白く過ごしてきた、最早なんの悔いもない。
晋作のこのしり切れとんぼの辞世に下の句を付けてやらなければならないと思い、

「すみなすものは 心なりけり」と見舞いの尼さんが書き、晋作の上にかざした。
晋作は今一度、目を覚まし、「・・・面白いのう」と微笑、再び昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。

~~~~~~~~~~~~~
と、言うことで完結している。
今回、目の前の凶事に混乱したが、結果的に晋作や総司の後を追うことも無く、粛々と退院日を迎えられた。当日は朝風呂で浴び、それまでの垢を落とし、もう戻るまいと、娑婆の空気を思い切り吸った。
晋作のように、再び戻されることはなかった。

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駆り立てられ、草津宿へ

東海道を東へ、京から二番目の宿が草津宿である。近くに琵琶湖を抱え、東海道と中山道が分岐する追分に京と江戸を結ぶ、要所として、街道には古い家並みの宿場街がその風情を残している。自然で西日本で一番住みたい街とも言われている。
江戸と京を結ぶ幹線路拠点の一つとして、人の往来も多く、2軒の本陣と2軒~4軒の脇本陣と、70~130軒の旅籠が大きな宿場の代表でであることを物語る。
2軒の本陣のうち、田中九蔵本陣は無くなったが、田中七左衞門本陣は国内最大級の本陣として残されている。
時代を追って馴染みのある所では慶長六年(1601)に家康公と配下の大名と役人が宿泊、東海道を翌年は中山道を使っている。
嘉永6年(1853)10月に篤姫(天璋院)が九蔵本陣に泊まっている。
文久元年(1861)10月皇女和宮が昼食を取り休憩、宿泊は一つ先の守山宿であった。
慶応元年(1865)5月土方歳三ら新選組が江戸から京へ向かう途中で宿泊している。

時代の中で、登場する人物は、将軍の輿入れで、或いは仲間作りなど、それぞれ、歴史上の行方を左右する大きな意義・役割を持ちで東西を、移動している。書籍やドラマで、馴染みの人物はどんな立ち姿で、或いはどんな想いで休憩、或いは泊まったか、残されているものから、時代の風勢を確かめたくなった。

◇草津追分の姿                     <クリックで拡大>

Canvas11現地に行ってみて、トンネル有り、干上がった天井川が有り、予備知識がないと、さっぱり判らない地勢であり。
現地の案内阪で漸く、古道の状況が掴めた。
今は改修され、川の姿を留めるだけの旧草津川を挟んで、手前側が東海道、川向こうが中山道である。東海道は川向かって、右折し、川沿いに東海道が走る。この分岐点が追分で、東海道沿いに多数の古い家並みを残している。草津宿の中核となる、本陣・脇本陣が群れなし、中心街であることが判る。

Image211
写真は追分で、正面のコンクリートが旧中津川の護岸に当たる。旧草津川を潜る形のトンネルで、中山道側に繋がる。右側の石積み沿いに道があり、これが東海道になる。
トンネルの上が旧草津川で、渡し船で中山道を渡っていたが、このトンネルが川下を潜り、輸送の役割を担っている。
この分岐の部分が大きな役割を果たし、道しるべとなる灯篭に中山道、東海道の道案内が刻まれ、高札場のミニモデルが立っている。
時代は異なるが、京を出発した篤姫・和宮は同じ東海道で草津宿まで、来たが篤姫はこの追分を起点に右側へ、和宮は真っ直ぐ、川を渡り、中山道へそれぞれ別ルートで江戸へ向かう。
東海道側は大きな川を越えるため、出水による川止めがあるが、中山道側は数箇所の険しい峠道を越えるが、川止めがない。本街道と比べると人通りが少なく、犯罪に巻き込まれる可能性が少ないといった事情から、女性旅行者に選ばれ「姫街道」とも呼ばれた。

◇最大級の本陣

Image11<規模>
敷地が1305坪、屋敷の間口が14間半、建物の建坪468坪、39室の大規模な構えであ った。玄関広間 現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である。
格式を重んじる厳粛な建物の雰囲気、例え高位の武家集団の旅でも、厳然としたルールの元で、利用した。
<賑わいの中、予約制>
玄関前の道が東海道で、江戸から始まって52番目の宿、隣が大津で53番目となる。中山道が分岐しており、大変賑わい宿泊も予約制であった。予約は1年前から受付、遅くとも50日前には取っていたそうである。予約のために当家に訪れ、成立すると本陣は請書とともに、部屋割りの為の本陣屋敷絵図を渡した。
そんな予約も天候異変で、川止めや旅の行程変更なども生まれ混乱の収拾に苦慮したようである。
<利用者負担>
1)部屋割り
泊まりの数日前に宿割り役人がやってきて部屋割りを行った。階級制度を重視した武家世界に大事な采配であったようだ。、
2)自前の関札
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には関札が並べられていた。 
大名、公卿、幕府役人が宿を利用中にその内容により、名前の後に宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)が付記し、例えば「松平出羽守宿」など関札が掲示された。
近衛、九条、鷹司、二条、一条など摂政関白役は特別扱いで敬称を付けたが、それ以外は呼び捨てで松平出羽守宿、毛利安房守宿などと呼称された。
関札はお客が持ってきて、使い捨てのため、皆置いていった。465枚、紙で3千枚位ある。
3)自前の食事
台所役人を連れてきて家来の「御膳掛り」が食事を作った。一歩外へ出れば、災禍に晒され、身を守るのも必然であろう。
毒害を警戒するため、自前で安心、安全を大事にした。
泊となると本陣任せで一泊二食事付きである。一日40キロの行程に午前に一回、午後に一回の休憩を取る。ちょっと休む場合は小休みとなる。
◇二人の将軍への嫁入り
将軍の嫁入りに二人の姫が草津宿本陣を宿泊、休憩している。篤姫は御用人たちと老女他僅か数十人規模の集団であったが、皇女和宮は総人数は警備・人足まで含め10、000とか25,000人と言われる桁違いのものであった。
片や大名の養女と皇室の身分の違いも、あるが、和宮は公武合体の象徴としての降嫁で、攘夷派の襲撃を警備強化などで随行者が膨らんだ。行列の通過時は住民の外出禁止、見物御法度であった。道中の毎日、「宮様のご機嫌よくお目覚め」と早馬で江戸に知らされる位に手厚い加護の元の嫁入りであった。

◇新選組、土方歳三他草津宿、宿泊
新選組は将軍東帰で攘夷の先兵の心積もりが果たせず、市中警護は望む任では無いと隊士が集団で脱走し、浮足たっていた。
態勢立て直す間もなく僅か40名程で池田屋事件で戦果を上げ、強固な組織作りに迫られた。
壬生結成以来、相次ぐ脱走に、隊士募集に藤堂平助が京都を出立し江戸に向かっている。
その結果、伊東甲子太郎とその実弟鈴木三樹三郎他伊東の関係で13人、横倉甚五郎他、総員24名が入隊する。
翌、慶応元年、歳三は隊士募集で後を追うように、江戸に向かったが、藤堂、中島登で各地から応募者は募っていた。
4月27日、歳三は伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂ら新人隊士52名を引き連れての江戸を立ち、5月9日、草津宿へ宿泊する。その間、京阪でも隊士募集しており隊士総数は一気に140人ほどに膨れ上がる。
新選組の隊士募集の成果に意気揚々の屯所戻りの凱旋であったが、同床異夢であったのであろうか、倒幕に揺れる激動の世界に新選組も抗争の渦に巻き込まれていく。
その後、一緒に同行した、伊東甲子太郎は主義の違いから御陵衛士として旗揚げし、新選組を離れ、試衛館以来の仲間、藤堂も付いて行き、二人とも殺害される。

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「八重の桜」千本木牧場

Img_453111111那須須塩原へ4家族でドライブ
アクセス先は小さい子も居たので、楽しめそうな所を選んでの旅であった。
その一つが千本松牧場で、子供が一緒に戯れる小動物や乗り物があり、ちびっこ達が主体の家族が多かった。アドバルーンが物凄い音を立て離陸し、浮遊する、ミニ空中旅行も楽しそうであった。
牧場の一画に「八重の桜」が咲いていた。
戊辰戦役では広大な栃木県下は激戦地もあったが、「八重の桜」がどう繋がって いるのか一瞬、考えたが、浮かばなかった。

どうやら千本松牧場の広大な土地の一部がロケで使われていたのだ。
そんな背景から、架設の建物で「八重の桜」のPR主体の番組展が実施されていた。
併せてロケ地ツアーも、準備されている。

意外な巡り合わせで「八重の桜」と出会えた。動物達との触れ合いは任せ、一人、八重さんの展示小屋に駆け込んだ。八重さんの衣装や、写真の展示。ドラマのダイジェクト版が映写コーナーで流され、一人独占で見てしまった。

千本松牧場でのロケで代表的なシーンを想い浮かべて見る。、

◇草原に桜の大樹

              <左に尚之助が見上げる木には八重が登り、二人の対話が生れる>

Image11向学心旺盛な八重は木の上で砲術本を無心に読むが、毛虫に驚いた拍子に本を落としてしまう。
たまたま通りがかった武士は江戸から覚馬を援助しようとやってきた尚之助で、その本を拾い上げる。
蘭学所の整備を急ぐ覚馬の協力者となり後の八重の夫となる尚之助との出会いは此処から生れる。

八重のお気に入りの読書スペースとなったり、高見の見物場所となったり、この木は八重と会津の人々を見守る、大事な場所である。
ドラマで度々、登場すえう丘の上にそびえる見事な桜の木のシーンは千本松牧場で撮影された。
シンボルとなる桜の木はNHKの美術スタッフが、高さ7m、幹周り2mの巨木を1ヶ月かけて作ったようであり、イメージ作りに、長期間に渡り、大工事により準備され、その心ゆきを感じられる。
そんな情景に此処千本松牧場の広大な草原の自然がドラマ作りに大事な役割を演じている。

◇「追鳥狩(おいとりがり)」

      <馬に跨がり、武具で装備された武将達、鳥を追う、勇壮な姿が繰り広げられる>

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会津藩の役割は奥羽の抑え、防御の盾の役割にある。ところが高遠以来の寄集め軍団である会津藩は、過去に戦いの実績を持っていなかった。
徳川家と親戚で、東北第二位の大藩といえども、戦闘実績のある上杉や伊達に対し、軍備強化の備えが必要であった。
会津藩の軍事訓練は追鳥狩と言って、鳥や獣などを野原に放し、整列した侍が一斉に捕まえるという訓練があった。

ある種の軍事デモであり、会津藩の結束力、組織だった統制力を内外に披露し、総合的な軍事力を見せつける、ものであろう。前の晩から野宿して、夜明けと共に演習が開始され、他藩からも見学に来るほどであったと言われている。

会津藩士が最も張り切る軍事操練「追鳥狩」の真骨頂である模擬戦の最中に事件が起こる。
「一番鳥」の本命と目される番頭(ばんがしら)・西郷頼母が一羽の鳥に狙いを定め竹鞭を振り上げたとき、八重が邪魔をしてしまったのだ。そこへ藩主・松平容保が現れ、八重を救う。
追鳥狩の壮大なシーンも此処千本松牧場が使われた。

会津藩の軍事力、規律の厳しさ、警備の意識の高さなど、非常に高い評価を得ることになった。江戸湾三浦半島警備、江戸湾品川のお台場警備、更に京都守護職、などの受諾に繋がっていくが、一方では悲劇の幕開けとなった。

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波乱の薩摩藩士「益満休之助」

「益満休之助をたどって、こちらまできました~。私は益満休之助の子孫です。」こんなコメントまで残されていった。
益満休之助についてHPや当ブログでも紹介したが、こんなブログでも関係者に読まれておられる事実に驚いた。ネットの拡がりから改めてその影響の大きさを思い知らされた。
そんな背景もあって、今年も参拝客で賑わいを見せる、大宮八幡で御参りし、実家のある和泉町に向かう途中で益満の眠る大圓寺に寄って、「こんなこともあったよ」と報告方々、手を合わせてきた。

数奇な運命にある益満の存在は幕末史の中でも主役ではなく、当該HPでも「相楽総三」の世界で諜報家の一人として紹介した。
「江戸城無血開城」では山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせたが、その支援工作要員として、幕府に捕らえられた、薩摩の浪人益満が使われたことを紹介した。
しかし、ある事件や人物紹介で登場する脇役の一人でしかなかった。

慶応3年(1867)江戸市中を薩摩系浪士が江戸市中を荒し回り放火など「御用盗」騒動が起こり、その手が江戸城にも及び、怒りに燃えた庄内藩を中心にした幕府側から薩摩藩邸の焼き討ちに及んだ。
捕まった薩摩浪士の一人に益満休之助がおり、伝馬町の獄舎で仲間が処刑されるなか、益満は勝海舟に命乞いされ、助け出されたのも勝の力によるものであった。
海舟は東征軍が迫ってくる中で打開策が手詰まりにあり、後の幕府側工作要員の一人として使われた。
江戸開城を迫る東征軍が渦巻く東海道を西下し駿府に目指した、幕臣山岡鉄舟に帯同したのが益満であった。

清河八郎は尊皇攘夷-外国人を日本から追い払い、天皇を中心に>日本をひとつにまとめて事に当たる、『虎尾(こび)の会』を結成する。山岡鉄舟は幕臣でありながら参画し、かっては清川八郎、益満とは旧知の間柄、そんな人脈を知って居たのであろうか海舟は山岡の支援役として益満を急遽抜擢する。

こうして、幕臣でありながら、江戸城を目指し、東海道を立ちふさがる新政府軍の群れを益満の訛りの強い薩摩弁等によってくぐり抜け、駿府の総参謀西郷隆盛の陣所までたどり着く。
西郷隆盛が居る駿府で江戸城開城の条件など、聞き出し後の江戸城無血開城に繋がる西郷・山岡会見が実現した。
益満が何処まで鉄舟に帯同して行ったか、謎に包まれるが、この会見に果たした彼の役割存在は実に大きい。
その後、江戸城の無血開城が行われる。しかし、旧幕臣の一部の抗戦派は徳川家の忠誠、旧恩に報じることを旗印に彰義隊を結成し、新政府軍と抗戦する上野戦争が始まる。
益満はその後どう辿ったか、江戸に戻り、薩摩藩遊撃隊として上野戦争に参加する。益満は彰義隊の流れ弾に当たり、官軍側の専用病院となる横浜軍陣病院で亡くなる。
20台の若くして西郷の下、諜報活動に入り第一線で活躍したが、幕府側に捕縛される。処刑されるところを救われ再び西郷の元に戻り、上野の山に突入し帰らぬ人になる。

          <杉並の大圓寺>

Masumitu01大圓寺は薩摩藩主島津光久の嫡子綱久が江戸で死去した際、当寺で葬儀を行って以来、島津家の江戸における
菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が設けられている。
「戊辰薩摩藩戦死者の墓」の墓石台には表面が陶器状のものに埋め込まれた墓碑がある。長い年の歳月に関わらず
文字が鮮やかに刻まれ、履歴がしっかり読むことが出来る。
多数ある戦死者の中にあって、益満休之助の名前がはっきり読み取る事が出来る。
「明治元年戊辰5月 東京上野戦死」組織名は「遊撃隊」の名前が上がっているが、「隊外 斥候役 益満休之助」とされている。
墓誌を読み取って、こんな身近なところに、益満が眠る事に思わず身震いした。
命乞いをして、掴んだ生きる道を1年も経たずして絶ってしまった、益満の生涯であった。
数奇な運命の中で、その行動が断片的で、謎めいてはいるが、今までの記事を繋ぎ合わせ、『波乱の生涯「益満休之助」』
でHPに纏めてみた。

波乱の生涯「益満休之助」で掲載した

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腰痛に思う、3人の幕末の人物

急激な寒さで変調をおこし、通院するも腰痛は一向に見通しがたたない。
整骨院で、横になる。丸で打ち上げられ、これからセリに掛けられる魚河岸のマグロの如く、格好も何もない。
しかし、ベットに横になり温熱され、背骨のマッサージが至福の世界である。
そんな中、治療に関わり、幕末の三人の人物と生活の中での繋がりが、ふと思い浮かばれる。

□土方歳三

戊辰の戦いで新政府軍は宇都宮城の攻防戦で一度落とされた城を奪環すべく、城下の西で 激しい攻防戦でかなりの死傷者が出た。
その時歳三は足の指を銃創する重傷を負い戦線を離脱する。
深い傷を負った歳三は約3カ月を戦線の第一線を外れ、治癒に専念し、 東山温泉で療養した。
湯にうたれ、治癒する傍ら、戊辰の戦いで、東西を目まぐるしく駆けめぐった足跡を振り返りながら、束の間の休息を取り、明日の英気を養ったのでは無かろうか。

Image11             <東山温泉 「原瀧」 野天風呂>

歳三が傷を癒したのは会津藩の座敷役場を兼ねた旅館「瀧の湯」(のちの旅館 松島、現在の「庄助の宿 瀧の湯」)であった。
早速その東山温泉に行ったが予約取れず、同じ温泉の「原瀧」であった。
硬くなった筋肉が、湯の温もりで温まり、腰痛の痛みが湯に浸かっている間は忘れさせた。
歳三同様、長期間の治癒にこのまま湯治の世界にと思ったが、そんな甘い湯治は許せなかった。
源泉掛け流しで歳三の気合を貰っただけで、再び腰を曲げての旅であった

□坂本龍馬

慶応2年(1866年)「龍馬」の奔走により「薩長同盟」が成立。伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げたが、伏見奉行が「龍馬」捕縛の為に200名が急襲する。「龍馬」は危うく逃れたが瀕死の重傷を負うが「おりょう」の渾身的な看病で助けられ、後日祝言を上げる。
事件後、未だ傷が完治してないまま、傷の治癒をかねて九州ハネムーンに鹿児島に向かっている。
そのハネムーンが日当山、塩浸、霧島などの温泉を巡り、寺田屋で負った傷の養生に努めたと言う。
温泉の効果であろうか傷の治りは早く数日後に霧島山登山し、新たに入手した短銃で鳥撃ちに興じるなど、はしゃぐ二人は最も幸せを感じた一時であったろう。

Oryou0205                    <龍馬とおりょう>

霧島に近い薩摩のおごじょから霧島温泉の「湯の花」を送って頂いた。早速我が家の風呂にしっかり入れ湯治の二人旅を描きながら、湯に浸かり、思いを馳せた。
「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー桜島」と唄いながらの霧島温泉であった。
この時は腰痛も無かったので、単に龍馬繋がりだけであった。

□千葉佐奈

「龍馬」は脱藩し、土佐を離れ、江戸へ千葉道場で千葉佐奈に出会う。
「龍馬」が姉の「乙女」あてに手紙を書いている。
馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。「龍馬」は「佐那」と出会ってから10年後、密かな想いをこのように書いて、姉に打ち明けている。
しかし国事に東奔西走する「龍馬」は自然と「佐那」の間と離れてしまう。

「佐那」は横浜に移って鳥取藩士と結婚するが離縁し、千住に移り住み桶町から千住で灸治院を行う。明治25年(1892)に「小田切謙明」と妻「豊次」が「千葉灸治院」に来院し、針灸を通じて「佐那」と深い絆が生れる。
「佐那」は山梨の小田切家に訪れ針灸による渾身的な治療など往き来があったようである。
「佐那」が亡くなった後、「豊次」が谷中墓地に墓参りし無縁仏になると、危惧し、分骨して貰い甲府市朝日町の「妙清山清運寺」の小田切家の墓所に埋葬したと伝えられる。

Img_8836111                <千葉さな子墓>

早速その甲府に行ってみた。「佐那」の墓石の前で未だ鉄道も無い時代にわざわざ甲府まで来ての「佐那」の渾身的な治療に小田切夫婦は幸せだったろうなと思う。
「乙女」姉やんに送った龍馬の手紙から、誉れ高い美人の「佐那」が浮かび上がる。

「佐那」の手からの針に掛かれば、重い腰痛も劇的に直るのかと、思えてしまう。そんな幻想の世界から夢が覚める。「はい、今日は終わり」先生の神の手から、解き放される。

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