カテゴリー「05、新選組」の記事

2017年ひの新選組まつり、「日野宿本陣」にて

京都守護職の格別の思し召しを賜り、市中見回りの大役を負せられた。
「誠」の心で市民の安寧を守ろうとした。
新選組隊士たちの武士としての理想を表していたに違いはないであろう。
取り分け今年は新選組隊士、百五十回忌の記念すべき年にあたるが、人集めには繋がらなかった。

Img344「誠」のシャツを着て新選組の血を掻き立て、今年も本陣に立つ開館間もなく、ぽつりぽつりとやってきた入館者も、時間も経たずにど~っとやってきて、閉館まで切れ目なく続く。
予想はしていたが、この日のためにやってくるエネルギー、熱意は凄い。
当日集計の結果は約850人、去年は約940人、一昨年1000人越えであったが、徐々に入館者が減っていることが否めない。

慣らし運転は未だしも、30分単位の休みのない繰り返しに、遂に喉を傷め、声が割れ、出なくなってしまった。しかし何時もと違う、熱いまなざしを前に「気」を貰い、覚悟の上でのこの日と、何とか頑張った。

☆盛り上がりは歳三の昼寝の場所

慶応元年、新選組の成長過程に忙殺される歳三であったが、江戸で念願の隊士募集に目途が立ち日野へ来た。束の間の安らぎに安堵したのか、5月の爽やかな風に、気付いた時にはふと、昼寝の世界に入ってしまったのであろう。
その2年前、浪士組として上洛、京の治安維持で評価され『池田屋』の死闘、継いで会津藩の配下で『蛤御門の変』で本格的な戦闘体勢で新選組が幕府軍の第一線で立つている。
歳三は新選組の参謀役として、第一線に立ちながら、隊士募集などでより強固な体勢造りをする一方では、組織内の体勢維持の為、時には鬼になって、切腹などで維持に勤めた。
京都からの長時間の長旅とも併せ、息も付けない戦いのラッシュで、追われ、実家同様の佐藤家で気が休めた一時であった。
式台のある玄関口で歳三の姿を思い浮かべ、重ね併せ、一緒に居る空間として、入館者が共有できる一番盛り上がるのが、この場所での語りであった。
僅か二日間の逗留で再び、最前線の京へ向かった。

☆甲陽鎮撫隊として敗走の悲劇

鳥羽伏見の戦いで破れ、幕府軍は東下する。
幕府討征軍は江戸城総攻撃を目標に東海、東山、北陸の三道から江戸を目指している。その一つ東山道軍が諏訪から甲州街道下って江戸を入りを図っている。
その進軍阻止の為、新選組の生き残りを集めて甲陽鎮撫隊を編成し、甲府へ目指し、江戸を出発する。

慶応4年3月始め日野宿へ到着し、休憩し、西へ下っていく。
試衛館時代の仲間であった、山南敬助は切腹、藤堂平助は斬殺、井上源三郎は戦死、沖田総司は病気で離脱し、既にこの組織には居なかった。
佐藤彦五郎と日野の農兵は兵糧部隊として参加する。
目指す甲府は既に東山道軍の手に落ち、途中の勝沼で甲陽鎮撫隊は陣を構えるが、圧倒的な数の東山道軍の前に破れ、再び江戸へ敗走する。

<凝縮された勝沼の戦場>

(画像をクリックして拡大)

Tinbutai204①幕府軍の陣地
②永倉新八と諏訪兵の攻防戦の岩崎山
詳細はこちらで説明
http://bkmts.on.coocan.jp/tinbutai.htm

江戸敗走後、勇は会津行きの同行を求めたが、一緒に勝沼に行った永倉新八は請共隊を組織原田佐之助以下数名はそれぞれ、勇から離れてゆく。
東山道軍は甲陽鎮撫隊を追うように東下し、日野に厳しい探索の手が入る。
彦五郎も参加していることが既に東山道軍に割れ、彦五郎一家はばらばらになって逃げる。
彦五郎とおのぶさんは五日市の大久野村へ、長男の源之助は八王子宇津木村で捕縛、次男力之助以下兄弟は小野路の小島家に隠れる。
近藤勇は日野宿へ休憩して以来、2カ月も経たない4月25日、板橋で処刑される。
そんな悲劇の一頁が繰り広げられる、日野宿本陣での新選組集団で束の間の休憩の場であったのである。

未だ熱気の消えぬ閉館後、入り口の門付近はフアンがかなり居た。
甲州街道から、高幡不動へ向かう「大門」と言う小道で、用水路のところで背後から「〇〇さ~ん」と何処か聞き覚えのある声が掛かってきた。
うわ~佐藤彦五郎館長である。「誠」を付けた青色のユニフォームから、直ぐ判ったようである。
やっぱり入館者は本陣同様、資料館でも少なかったが、嵐の通り過ぎに、お互いに慰労の声をかけあって、お別れした。
人込みから開放され、神明の長い急坂を市役所側に向かうが、緊張も解かれ、疲れも一気に出た。敗残兵のように体を斜めにしながら、ふらふらしながら家路についた。

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新選組と勝海舟

                <江戸城無血開城のおりの勝海舟>Img445 勝海舟の生家は名ばかりの旗本で貧相な暮らしから、剣術、蘭学を習得するペリー来迎寺に「海防意見書」が上層部に目に止まり評価、出世に巡り会う。

長崎海軍伝習所で要職を担い、咸臨丸に乗って薩摩へ航海し、その時あった西郷は海舟の見識の深さに、目を開かせたと言われて いる。
日米通商条約批准書交換の咸臨丸で艦長で日本で始めて渡米し、米国海軍士官の支援により日本で最初の太平洋横断の壮挙をなし遂げる。
その間、私塾した攘夷派浪士が「池田屋事件」や「禁門の変」に参加したことで、咎められ軍艦奉行を免じられ一切の役目と役高を召し上げられ、謹慎する。

鳥羽・伏見の戦いで破れ、恭順路線を引き、徳川慶喜もそ の姿勢に乗る。新政府軍、江戸城総攻撃の背景の中、既に交流のあった西郷との間で江戸城無血開城を果たす。
徳川慶喜と一緒に駿府へ移るが、対外的な顔が広いことから新政 府との斡旋役など担う。
維新後新政府に傭われて、駿府から赤坂へ移り、政府の中枢部を担う。
海軍を創設し、軍事力強化から日本近代化に繋げる。
薩長藩閥の自重を促すなど、歯に衣を期せず、江戸ッ子のご意見 番として面目躍如であったようだ。
幕臣でもあり新政府の要人でもあった、海舟が新選組とも関わりを持ち、幕府側が敗色濃厚な時期に救いの手を差し伸べてくれた。
そんな接点を追ってみた。

□<新選組隊士・三浦啓之助

                            <佐久間象山>

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松代藩士佐久間象山は西洋砲術家で開国主義者として象山の名声は全国に広まり、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、小林虎三郎など錚々たるメンバーはじめ百人の門弟が生まれた。
しかし、弟子松陰の黒船密航事件に連座し、9年余り国許で蟄居されてしまう。
釈放後、幕府に傭われ政治顧問に就任、、上洛して公家らに開国を解いて廻った。
折しも池田屋騒動で激怒した長州兵2千が京都を包囲してしまう。象山は孝明天皇を一時譜代藩彦根藩から江戸へ遷し開国の勅諭(ちょくゆ)を発布させる提案を行う、策を勧めた。
これを察知した尊皇攘夷派は象山抹殺に走った。
これが実行されれば攘夷派は追い詰められる為に、象山抹殺の機会を狙った。
そんな背景の中、元治元年(1864)7月に象山は、刺客に殺された。
リーダ格の肥後の『河上彦斎(げんさい)』、隠岐の『松浦虎太郎』美濃の『安藤源五郎』、因幡『前田伊右衛門』さらに数名の長州人で構成される。
馬上の象山木屋町に入り腰を刺され、落馬、めった斬りされる。
松代藩は遺体に後ろ疵(きず)が多く、武士にあるまじき醜態と断定し、松代藩は象山の息子三浦啓之助(元は佐久間恪二郎)に領地没収と家名断絶を言い渡した。厳しい処分の背景は高慢な象山を藩の重役が日頃忌み嫌っていたことが、この機会に一気に吹き出た。

象山の正妻は勝海舟の妹『順子』であるが子供がいない。象山と三浦お菊との間に誕生した『三浦恪次郎』が唯一の子であるが、妾の子供である。
妻妾は江戸時代の武家社会では珍しいことではなく、明治時代にもその残滓(ざんし)は残っていた。象山が特別の存在だったわけではない。
啓次郎は勝海舟の甥(但し、妾の子)に当たるのである。

◇新選組入隊

      <幼少のおりの居りの三浦恪次郎>

Img446象山は万一の時は啓之助を頼むと門弟である会津藩士の山本覚馬に依頼しており、覚馬から新選組の近藤勇に頼み預けたと言われている。
こうしてて啓之助は藩から捨てられ、その数日後、三浦啓之助は父親の仇討ちのために新選組に入隊した。
勇はその境遇に同情し、敵討ちを隊が支援する旨、受け入れたと言われている。
新選組に属し、恪次郎から『啓之助』に改め、僅か二日後、禁門の変に参加している

◇素行悪く、新選組脱走
啓之助は象山の実子であり、幕府の軍艦奉行の勝海舟の甥と言う、血筋を重んじ、勇や土方歳三も丁重に扱った。そんな背景に啓次郎は自然と甘えるばかりか、隊内では馬鹿にされた隊士への怨恨から斬りつけたり常軌を逸する行動に、周囲に顰蹙を買う。
常軌を逸した行動は更にエスカレートしていく。

町人を斬殺したり、島原で大喧嘩し手に負えなくなっていくが、流石に居づらくなったのか、遂に新選組を脱走する。戒律の厳しい新選組も啓之助を追わなかった。

◇薩摩藩に入隊
啓之助は新選組から脱走したが、その後、三浦姓から佐久間姓に戻し『佐久間恪次郎』を名乗る。
戊辰戦争で、官軍の薩摩軍で武功をあげるが、其の戦った相手はなんと象山の門下で両虎の一人、小林虎三郎の長岡藩であった。
戦後、恪次郎は西郷隆盛の口利きで帰藩し、明治3年『家名再興』する。

◇官職に就くが、自ら潰す
明治4年(1871)勝のコネで慶応義塾に入学。
明治6年恪次郎、司法省に出仕
明治8年恪次郎、松山裁判所の判事
明治10年恪次郎、現職のまま31歳で逝去
恪次郎、宮使いで鬱の毎日、何時も瓢箪に酒を満たし千鳥足日本橋で車夫と喧嘩、駆けつけた警官を殴り罰金刑を負う。
偉大な亡父、偉大な伯父、偉大な父の門弟に囲まれ威圧感に萎縮し、酒で紛らわした。親の七光に押しつぶされ、殻を破りきれなかったのであろうか、不幸な幕引きであった。

◇象山の仇は
明治4年、反乱を起こした奇兵隊士を匿った罪で『河上彦斎』が伝馬町獄舎で斬罪される
象山を殺害した犯人の一人『安藤源五郎』が慶応義塾に在籍していた。
慶応在籍中『源五郎』は同室の『城泉太郎』に犯行を語っている。
明治7年源五郎は、恪次郎を追うように司法省出仕し、長崎上等裁判所へ赴く、更に大審院(最高裁)検事長へ栄転する。
皮肉なことに源五郎の方が出世している

◇新選組と勝海舟
勝海舟の甥であり、啓之助は、親の敵討ちは成就出来なかったが、新選組に預け、世話になっている。戊辰役で新選組甲陽鎮撫隊が破れ、勇捕縛や日野宿佐藤彦五郎が潜伏中の赦免に幕臣として海舟が尽力しているのも、その恩義から動いたのではなかろうか
具体的な海舟の救いの手は以下に紹介されている。

;『ようこそ幕末の世界へ』

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ひの新選組まつり 2016年

                   <日野宿本陣、式台のある玄関口>Img_1136
ああ~今年も、新選組祭りは終わった。
天候も恵まれ、朝の空気は若干ひんやりで、さほど暑からず外出には申し分ない。
旧甲州街道は当日に限りパレードで交通規制がかかり、全国からフアンが押しかけ、祭りにに盛り上がる。
オープニングの前にメイン会場となる旧甲州街道は架設のテント小屋が建てられ係のスタッフが、この日に合せ、忙しく準備にかかる。
その前を通り過ぎるが、同じ祭りを間接的に支える一人として、今日は特別な日であることの、思いがじわじわと伝わってくる。
この祭りに併せ、大量な来館を予想して、本陣の受け入れも、員数は増やし、滞留しないように人の流れを上手く回し、満足頂き、建屋と幕末の空気を味わって貰う。
去年も一緒だった、Yさんと一緒で、開館前の庭掃除、水撒き、旗挙げの準備にお互いに、今年も頑張ろうと声を掛け合うが、これが最初で最後で大量な人の渦の前に、呑み込まれ、それぞれのお客さんの渦の中にあり完全に離れ離れの世界にある。
此処まで来る過程で道すがらの様子から始まる前の人の姿、流れに、、今年は何となく少ないことが、お互いに共通の認識であった。
開館時はやはり、出だしは悪かったが、時間と共に祭りならではのラッシュが始まり、その対応に追われる。
当日集計の結果は去年は1000人越えであったが、約940人とやはり未達であった。

◇熊本地震
パレードに身を心も注ぐダンダラ模様の戦闘着に鉢巻き姿や、中には洋装化した幕府陸軍の姿で身を包む姿が散見された。
そんな中で小学生の男の子がイメージキャラクターのクマモンのタオルを掲げる姿が一目を引いた。
折しも熊本地震が未だ納まりそうも無く、体感する地震は延べ1000回を越えるという天災は一向に収まりそうも無い。
熊本と言うと山鹿流軍学師範で吉田松陰と同じ境遇から意気投合し、共に全国行脚し、
池田屋騒動で倒れた『宮部鼎蔵』がふと思い浮かんだ。
「宮部鼎蔵」の生地は、震源となった益城町のすぐとなり、御船町である。
一昨年(2014)、池田屋騒動で亡くなり150年忌が御船町で開かれたそうである。
宮部鼎蔵とその弟・春蔵は直後の蛤御門の変で落命しており、二人を祀る鼎春公園も無事であることを祈るばかりである。
熊本地震の震源地として、激しい揺れの中、
家屋の倒壊や墓石の滑落宮部も池田屋で倒れ、152年の眠りから覚まされたのではと思われる。
日本全国、何処へ行っても、地殻変動の渦の上、休まることない。

中庭を挟んで北側の広場は、催し場のメイン会場になっている。
遮るものもなく、ドーン」と打ち鳴らす、大太鼓と小太鼓の連打 大音響が館内に直に伝わり響きわたる。
「えいえいお~」の掛け声に、いよいよパレードが始まったか姿の見えない此処では声と音だけの世界であるが、その熱気が十分伝わってくる。
その鼓舞する戦闘姿は京都見回り組として池田屋騒動など、武勲を立てた武闘集団の新選組の姿がある。
その存在の正しいとか悪いということでは無くて、幕府の為に忠誠し、最後まで殉じた姿が憧れに通じ、ではなかろうか・・・。
一方では池田屋騒動の向こう側の世界からも、見ている人がいる事を忘れてはならない。

式台に繋がる玄関の間に、限られた空間に寄せ合い座って頂くが、人となり自然と温もりが伝わってくる。戸は開け広げ、 季節柄五月の風が吹き抜け、大変気持ちが良く、歳三にあらぬとも、眼が閉じてしまう。
案内人の声も子守歌に、異郷の世界で歳三の出会いが確かめられるのであろう。

終わって、喉はガラガラ、我が家に帰っても人の渦の残像が何時までもかすめ脳まで侵される刺激的な一日であった。

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新選組増強の隊士募集

◇隊士の離脱
新選組は攘夷の先兵の心積もりで、大きなステータスでもあった。その、攘夷断行を下すのは将軍の差配に掛かっていた。所が将軍は攘夷断行の命が下されないまま、東帰してしまった。
新選組は、攘夷問題が先送りされ、目標も無く、徒に市中警護は望む任では無いと隊士が集団で脱走し、浮足たっていた。
更に、池田屋事変を迎える前に隊内に病人も多く、前線に出られる隊士に限りがあった。

◇池田屋事件で幕府から評価
そんな矢先に態勢立て直す間もなく池田屋事件が発生し、僅か40名程で華々しい戦果を上げてしまった。
池田屋事件の功績で新選組は評価され幕府から500両の報奨金、朝廷からも100両の慰労金が授けられる。
勇や歳三に幕臣としての取り立て高位の身分も用意の上、見回組の召し抱えの申し入れがあったが、辞退した。
新選組は浪士団として幕府内部に組込まれず、身軽な立場として存在する道を選んだ。

◇隊士募集で続々と江戸へ
新選組は強固な組織作りに迫られた
「兵は東国に限り候」・・・文久3年5月近藤書簡
壬生結成以来、相次ぐ脱走に勇が出した結論で、8月、隊士募集に藤堂平助が京都を出立し江戸に向かっている。
勇も後を追って江戸に向かった。
その結果、藤堂は北辰一刀流で面識のあったの伊東甲子太郎とその実弟鈴木三樹三郎他伊東の関係で10数人が入隊する。
勇の天然理心流、横倉甚五郎他、大石鍬次郎など、入隊を誘い総員24名が入隊する。
伊東甲子太郎が上洛した10月は幕府が征長が直前の時期で、それに備える新選組は70人程の集団になった。

◇人集めに成功し、凱旋の屯所帰り

      <歳三が寝てしまった、日野宿、佐藤家の式台付き玄関口>04110004a1

翌、慶応元年、3月歳三は隊士募集で後を追うように、伊東甲子太郎、斉藤一と帯同し、江戸に向かった。
既に江戸に居た藤堂は、天然理心流門人の中島登の協力を得て各地から応募者は募っていた。
江戸での宿舎は伝通院に近い、小石川町の新福寺であった。
歳三は江戸の仕事が一段落した後、日野に向かう。

佐久間象山の七言絶句の書を手土産に佐藤家に訪れている。
この時、佐藤家の式台付玄関の部屋で昼寝をしたと言われている。当初の目的であった隊士募集の目途が立ち、江戸で忙殺された毎日に一段落した。

我が家のような佐藤家に気を緩め 長旅の疲れもあって、ほっとした、束の間の休息ではなかろうか・・・。

◇江戸から京へ草津宿で投宿
4月27日、歳三は伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂ら新人隊士52名を引き連れての江戸を立ち、5月9日、草津宿へ宿泊する。

                        <草津宿本陣>

Kusatsusyuku3031    <巨大な規模の草津宿本陣、中廊下に延々と部屋が続く>

C2ea371111<投宿した歳三、伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂らの宿帳が生生しく残る>

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その間、京阪でも隊士募集しており隊士総数は一気に140人ほどに膨れ上がる。
新選組の隊士募集の成果に意気揚々の屯所戻りの凱旋であったが、同行した幹部連中は同床異夢であったのであろうか、抗争の渦に入っていく。

◇御陵衛士旗揚げ
その後、一緒に同行した、伊東甲子太郎は主義の違いから藤堂平助らと御陵衛士(高台寺党)として旗揚げし、新選組を離れる。高台寺塔頭(たっちゅう)の月真院を屯所とする。
薩摩側と接触し、薩摩側に何とか付きたいと、新選組の看板を降ろし、新選組の離別を証明評価してもらおうと勇の殺害を計画する。しかし、密偵として、御陵衛士に混じったた斉藤一を通じて、計画が新選組に漏れてしまう。

慶応3年(1867)11月伊東が油小路で新撰組に殺害される。
月真院に居た御陵衛士が伊東の遺体を引き上げるときに待ち伏せした新選組に惨殺される。
その時に亡くなった御陵衛士一人が、 藤堂であった。
試衛館以来の仲間であり、沖田総司、永倉新八、斎藤一とともに近藤四天王とも称され、池田屋に最初に飛び込んだ、のも藤堂であった。そんな仲間意識から、勇の意向を受けた永倉新八が逃がそうとしたが、事情を知らない隊士に藤堂は殺害され伊東の後を追ってしまった。

こうして、かっての仲間造りに、尽力し、大きく育って行った新選組もやがて、激しい抗争の中、離合集散し 倒幕に揺れる激動の渦に巻き込まれていく。

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「因果応報」、近藤勇の最後が重なる

過去の悪事が「因果応報」遂に身にふりかかり、報いがあった。
見ている視界で、視点に歪みが、生まれ、驚いた。早速、調べたら、専門医から緊急処置を宣告された。
命まで落すことはないが、いざ、その場に臨み、身を任せるだけであるが、体の中枢機能に手が加えられる事に物凄い、不安な気持ちに支配される。

近代医学のプログラムに載せられ、一つ一つ階段を登っていくが、節目では散っていった近藤勇や吉田松陰の処刑のシーンが何となく蘇ってくる。

勇の処刑、前後の姿を重ねて、その日の出来事を追って見る。

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①入院
1対1で向き合い、綻びた被媒体を検査に継ぐ検査、経験を踏まえ、その手法が検討され、具体的な計画が提示される。
「よろしいですな」安にこれでやるから、覚悟せよとの、告知に、既に逃げ場もなくサインする。

内外の高い評価から、手術の患者さんラッシュで、順番が決まらず、一旦自宅待機。
電話が入り、日にちが告げられ、当日に出頭する。長期戦を覚悟に、日用品は元より大量な書籍に、丸で海外旅行の如く、荷物を抱えての旅立ちであった。

◇捕縛・連行
近藤勇最後の地、流山で訓練中、無防備であった本陣はバラバラと来た西軍に取り囲まれ、勇は出頭する。勇は紋付き姿で、馬に乗せられ、薩摩藩士有馬藤太他に警護され流山を後に、越谷経由で総督府のある板橋に連行された。

②手術前日
当日にさっぱりと臨みたいこと、術後の入浴や洗髪を禁じられていることなど、娑婆の世界のお別れにゆったりと風呂に浸かり、髭を落した。
覚悟はしたものの来るべきものに興奮覚めやらず、睡眠薬で夢の中へ

③当日
当日の対象者、朝、検査室に一斉集合、向かい側暗幕の前に椅子が並べられ、それぞれ緊張の面持ちで呼び出しを待つ。「わあ~多い」10数人の群れの中に、入る。
暗幕の中に、最後の検査、当該、目の上に黒ペンで識別のマークが描かれる。
「さあ、いよいよ、頑張りましょう」の励ましの言葉に暗幕から送り出される。
ガウン状の専用着に着替え、キャップを被り、愈、戦闘体勢。

◇処刑前
勇は夜、髭を剃りたいというので、ひげそり道具一式貸した。処刑当日の4月25日、曾祖 父が着替えを手伝い、近藤は百衣を着て刑場に送られた。・・・石山家口伝から


④愈、執行

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  腕に刺された注射針とパイプを通じて点滴用ビンがぶら下がり車椅子に乗せられ、人通りの多い花道を通り、人気の少ない、病棟の奥へ連行される。分厚い鉄扉が開き、主治医、医師他、大勢のスタッフに迎えられ、台上に仰向けに寝かされ、手術が執行される。

                       「さ~覚悟は良いか」二人の医師始め、多くのスタッフに囲まれる。

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◇勇は板橋本陣で縛りに付いた後、問屋場に移された後、駕籠で平尾一里塚の刑場に運ばれた。
太刀取りは神道無念流の皆伝、横倉喜三次他1名である。喜三次は一カ月前に諏訪で赤峰隊の相楽総三他の首を落しており、腕は達つ。
勇は喜三次が「ながながご厄介に相成った」の一言を残し、首を差し伸べた。
多くの群衆が見守る中、彼は静かに仏徳を賛辞する偈(げ)を唄え終わると、佩刀二王清綱により一刀で近藤の首を落とした。
            <勇は天空の彼方へ昇華していく>Image1

⑤漸く終了
体を強張らせ終わりなき苦痛に耐えながら、始まってから1.5時間、阿修羅の住まう世界、正に「修羅場」を潜ることはこのことであろうか・・・。
その間、主治医、医師のやりとりが聞こえ、勝手な想像から、色々な妄想が生まれてくる。
終了宣言に強ばる体に、力を抜き、漸く、緊張から解きほごされる。
勇は散ってしまったが、勇の元へ、追うのであろうか・・・。地蔵様の救いの手で輪廻転生、再び娑婆の世界へ、戻ることが出来た。

眼にはガスが封入され、2週間は霞の中の独眼竜の世界で片目の生活。光が差し込むまで、長い長い闇のトンネルの世界に、僅かな希望を持って、待ち続ける。

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「池田屋事件」のよもやま話

暑い京に起きた、新選組が過激攘夷派を襲撃した「池田屋騒動」は京の町をテロ活動か
ら守る。一方では長州側からの怨恨を買い倒幕の嵐に傾注してゆく。
激しい乱闘事件の中で行われた「池田屋騒動」のよもやま話を拾って見た。

                   <乱闘劇が繰り広げられた池田屋の内部>

Img149◇池田屋事件
安政の大獄と言う形で幕府が手を振り上げ、その対抗手段で大老を襲撃した。
「天誅」と言うゲリラ活動を進める過激攘夷派、その対抗として新選組による殺傷など、こうして反幕派と親幕派との抗争が激しくなってきた。
そろそろ梅雨も開け、祇園祭の準備に取りかかろうとする元治元年(1864)六月はじめの夜、京の町に激震が走った。
新選組は捕縛された攘夷派の古高俊太郎の、自白から京の何処かで攘夷派が集会している事実を掴み、手分けして探索した結果、三条木屋町にある池田屋と言う旅籠に討ち入った。

◇勇以下池田屋踏み込み激しい乱闘
新選組側は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、が踏み込み、入口は谷万太郎、浅野藤太郎、武田観柳斎と裏口は奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門でそれぞれ固めたが、裏口の三人が亡くなる。突然新選組に踏み込まれ、必死で逃げようとする多数の浪士が刀を振り回し、三人を倒したのであろう。

藤堂平助が鉢鉄を打ち落とされ、眉間に傷を負い、刀の刃はのこぎりのようにギザギザになった。
永倉新八ははかなりの刀の使い手であったが左手の肉を削がれ、刀が折れた。沖田の刀は"ぼうし"と言われる刀剣の切っ先が折れた。
近藤勇は養父の近藤周斎に宛てた手紙の中で「下拙刀は虎徹故に哉,無事に御座候」とも説明しており,近藤勇いわく,虎徹だったからこそ折れることもなく無事に戦い抜けたというのである。
このときの虎徹は本物か偽物か、諸説あるが、正に激しい乱闘事件であったことを物語。
池田屋の乱闘は約2時間余り、戦闘後、休む間もなく、残党狩りに走り、壬生の屯所に帰陣したのは翌日の昼頃と長い一日であった。

◇攘夷派の犠牲者
二十名ほどいた池田屋で新選組が踏み込み、激しい乱闘があり攘夷派の九人の命が失った。
但し、勇自身の報告は七人と言われ、記録によって様々である。
亡くなった浪士に長州藩が信奉する吉田松陰に深く関わった人物がいる。
吉田松陰と共に東北を歩いた肥後の宮部鼎蔵。長州人では高杉、久坂、入江らと「松陰門下生の四天王」と言われる、吉田 稔麿(としまろ)、さらに松陰門下生の杉山松介が倒される。
この騒動の知らせが長州に伝わり、松陰の盟友、門弟の犠牲に過激派はその敵討ちと、京への進発が体制をしめ、長州は藩を上げての京攻めに傾注していく。

◇禁門の変
同年7月19日池田屋の報復に長州藩が京に押し寄せたが、会津、薩摩に撃破される。
この時の禁門の変(蛤御門の変)と呼ばれる騒動で久坂玄端はじめ長州の多くの人材を失う。
藩論が京進発に押し進められる中、高杉晋作は進発論に反対した。余りにも過激な進発に自ら京の実情を調べてくるから待てと、京に飛び出して行く。それが脱藩行為と看做されかって松陰が二度も入れられた藩牢の野山獄に繋がれた。
不思議な運命の中、長州藩存亡の瀬戸際で混乱から距離を置いた晋作が登場する。

◇根が深い怨恨
松陰没後、門下生の理解者であった周布政之助は禁門の変後、責任を取って自刃する。
時代が変わって明治42年(1909)横浜開港の功績者として井伊直弼の銅像建立したが、除幕に事件が発生した。当時の神奈川県知事、周布公平の父は周布政之介であった。
松陰の処刑、父の自刃の怨恨から除幕の許可を与えなかった。許可がないまま、旧彦根藩士が強引に建立したが、松韻信奉者によって数日後銅像の首は落された。

◇鎖着こみ
                <土方歳三が着用した鎖帷子(くさりかたびら)と籠手>

Canvas小島資料館には当家で使っていた道具類の展示とご案内があった。
文久元年の小島日記に4月20日に近藤勇が剣術を教えに来た。その時に小島鹿之助が護身用として鎖着こみを江戸の道具屋で近藤には斡旋を頼む。この時に鎖かたひらの手付金を1着に付き2両払い、2着注文。その後文久元年の6、7月頃、注文ござ候の所鎖着こみ出来いたし候、お預かり候。

文久3年1月15日、勇・歳三が来宅する。
近藤、土方、星野屋円蔵年始に来る。それぞれ土産年玉を貰う。
これが近藤、土方が小島家に来た最後で丁度京都に行くと言う挨拶に来た。
翌日、野津田村石坂主人、道助同道にて石田迄、年礼に行く、夜帰る。
この時は京都が物騒だからといって、1着は勇に護身用として贈っており、1着は当家に残っている。

翌年近藤は池田屋事件があるが、これを着込んで戦った筈である。
近藤勇が鎖着こみは重さが6キロある。鎖で出来ているので刀で切れず、護身用に作られた。歳三には刀を贈った。
と言うのが文久3年の小島日記に書いてある。

現在、小島鹿之助の物が残っていて頭に被るのと鎖手袋と着こみと3点セットとなっている。
後に小野路農兵隊を作り、その時にこう言う物を使ったらしい。
着こみ帷子は大河ドラマでNHKも来てたビデオで撮っていたが6キロもあると重いのでプラスチックで作ったと言われている。

池田屋事件の時に、夏の一番熱い時期に身を守る為に、近藤勇が重い鎖を身にまとい、此れを着て戦った。多数の浪士を相手に咄嗟の身のこなしも、求められる真剣勝負であるが、身につけた重さと想像を絶する暑さとの戦いでもあった。

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百花繚乱の新選組まつり

新選組まつりも漸く終わった
祭りの華、新選組パレードは 此処数年、市役所のメイン会場から旧甲州街道に変わった。 前日とは打って変わり好天に恵まれたこともあって、本陣では凄 い人出で入館者は昨年900数十名、今年も1000名の大台を越え る賑わいであった。

祭りに先立ち、先月、JR東日本企画の 新選組特別お座敷列車で行く「新選組ゆかりの地を訪ねる旅」と 言う特別列車が仕立てられ会津に向かったが、120名の定員には ほど遠い、結果であった。 JRならではの特別路線で、お座敷のくつろいだ雰囲気で、その まま現地へ行ける贅沢な旅に鉄ちゃんや新選組フアンにはたまら ない旅であったと思えるが、如何せん前触れが短く、宣伝不足 ;もあって、参加喚起に結びつかなかった。

しかし、新選組祭りは例年の恒例行事の、全国版として浸透し、 新選組に対する熱い熱気は覚めやらず繋がっている。

今更言うまでもないが5月11日は歳三の命日、新選組が一番輝 いていた時期の隊列行軍姿に、憧れ、自ら隊士になりたい、あるい は近寄って見たい、活字では伝わらない新選組の姿をしっかりと焼き付けたいのであろう。

          <本陣、18畳の名主の仕事部屋>

Image開館間もなく、次々と人の群れ、 土間の簀(すの)子に周辺には瞬く間に脱いだ靴で埋まってしまう。

土間に 繋がる巨大な18畳の名主の仕事部屋から畳みで、奥の部屋 に繋がるが、忽ち人の渦で埋まってしまう。 直に畳みの上に座って、文久3年(1863)建立の以来の幕末の 空間の中、日本古来のを和室の心地良さを確かめてもらう。

継いで式台に繋がる玄関の間は板戸で仕切られ、大名を迎え、そして見送る、 この建物の中でも、重要な役割を担っている。
式台の戸は開け広げ、 季節柄五月の風が吹き抜け、大変気持ちが良い。中庭を挟んで北側の 広場はテントが張られ、催し場のメイン会場になっている。
遮るものもなく、 大音響が直に伝わってくる。「ドーン」と打ち鳴らす、太鼓と小太鼓の連打の場面 では最早声も届かず、大声を張り上げるか、鳴りやむまで待つしかない。

◇夢の世界

催しのピークを過ぎた一時、静かな空間が生まれる。詰め寄って座られる人の群れに、 アイコンタクトで確かめながら、話を進める。目をやると、大半が頷いているが、そのうち の何人かは、目を瞑っている。炎天下の資料館巡りにお疲>れか爽やかな風もあって、 気持ちよさそうに寝ている。
歳三が京から江戸へ、疲れもあって寝てしまったこともあっ て、時代を越えて歳三気分で眠りを誘う場所、案内の言葉も子守歌に聞こえることであろう。

◇歳さんの世界へ

混雑の中、式台付きの玄関口では着物の姿の女性が隅っこで座ったまま目を閉じ、 沈降思考の世界で動かなかった。 歳三の姿を思い浮かべ、歳三の世界へ浸ってているのであろうか?

この雑踏の中、居に介さず、居続ける、「泰然自若」の凄い根性に関心する。

文久3年(1863)歳三は建物の完成を見ないまま、浪士組として上洛、池田屋騒 動などの後、元治元年、隊士募集で伊東甲子太郎、斉藤一と江戸へ東下し、 歳三が同家に訪れている。

丁度、大河花燃ゆで、話題の吉田松陰がペリー来 迎時の密航を加担した罪で佐久間象山が、信州で蟄居を命じら>れた。 蟄居を解かれ、象山の寓居で勇と歳三が訪れた際に書を貰っている。 その書が佐藤家に訪れた時におみやげで渡されている。開国論者攘夷で向き 合う勇と歳三がどんな話がされたのであろうか・・・。

◇情報に踊らされ

一回りして、スタートした元の仕事部屋に戻ると、次のクルーが待ち受け、大声に 喉の痛みも癒えないまま、こんな繰り返しで一日が終わった。

その合間に書類を抱えた親子の二人連れ、「刀の切り傷は何処かと」真面目に 食い下がられる

此処は前川邸ではないので、そんなものはない旨、伝えてたが何処かの情報に、 刷り込まれ信じきっている。
安易に吸い上げられ、情報が溢れる世界で あるが、一瞬考えてしまった。 その出所を確かめたかったが、喧騒の渦の中、時間も取れず、こんな話しも飛び 交うのも、まつりなのである。

閉館時でも、大勢のフアンが去り難く、何時までも、居残り、確かめていた。 百花繚乱、漸く終わった。目の前を通り過ぎた人々の渦が、走馬灯の如く焼きつ いていた。

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勝沼で戦った幕兵がキリストの世界へ

◇結城無二三

Img0991111甲陽鎮撫隊に参加した結城無二三がキリスト教の世界に入る。その変化に富んだ生涯を追ってみる。

弘化2年(1845)甲州で誕生、幼名は有無之助。
結城無二三は16歳で江戸に出て、幕末の攘夷派は志士の思誠塾や幕府の講務所で文武を習。父の死で帰郷後京に上がって見回り組に入り、*慶応2年(1866)に新選組に移籍したとされている。
但し、歴史作家山村竜也氏は後述の長男の書かれた私本で書かれたもので、裏付けもなく、新選組隊士ではないと、言い切っている。
唯一、結城との繋がりは新選組が甲陽鎮撫隊が出来、近藤が甲州に詳しい者を探して欲しいと言うことから、結城との出会いが生まれた。

結城は生まれは甲府で甲州に地理に詳しく、大砲の心得があったと自ら名乗り出た。
慶応4年(1868)甲陽鎮撫隊に加えられ、地理嚮導兼大砲差図役および軍監と言う肩書を与えられた。

と言うことで、結城は新選組隊士ではないが、甲陽鎮撫隊で参加している。

◇勝沼戦争で幕軍惨敗

甲州街道の勝沼から江戸(東京)方面の姿。戦場となった柏尾の陣の日向平そして 、甲州街道を挟んで反対側の岩崎山も戦場となる

Image1

幕軍はフランス製の最新鋭の砲を持ってきた。雷管が付いているがその使い方を知っているのが、結城無二三だけであった。
結城は甲州の出身と言うことで、当日、村々の人を塩山の寺に招集をかけ説明会を開いていた。その最中に戦争が始まってしまった。
戦線に残った連中は昔の大砲しか知らず、雷管をセットせず、そのまま撃ってしまった。爆発せず、そのまま地面に放置されてしまった。
三方から攻め、数で圧倒する新政府軍に甲陽鎮撫隊が惨敗し、その日のうちに鎮撫隊は江戸に退却するが結城は駿河方面へ逃した。

◇開明の世界、乳業に取り組む
結城は沼津兵学校に入り西洋式学問を学び、教師としての山岡鉄舟と知り合う。
山岡、勝海舟の勧めで伊豆大島で日本では習慣のない牛乳飲料のため乳牛の飼育を計画するが、甲府盆地で農民騒動が起こり、計画を中止し甲州に戻る。
明治9年、妻を娶り甲府で、乳牛の飼育に取り組み成功する。

◇俗世界から縁切る、反骨精神
この成功事例に、突然県庁で同じく牛乳を始め出した。
開明の事業を私人に手を着けられ、県庁で関係しないとあっては政府へ対して面目が立たぬという趣旨であった。
結城は尊皇攘夷の旗を掲げていた政府が恥かしくもなく開明屋に早変り、寄ってたかって自分を圧迫するのかと、不平が一時に勃発し、直ちに県令のところへ押しかけた。

激論した上、牛を売って牛小屋を叩き潰して、さっさと御代咲の山の中へ引き込んでしまった。
己は敗軍の将であり、明治政府の治下で仕事をしようというのがそもそも間違いと、深く決心し、勝沼より南方方向の大積寺という人里離れた山にこもり、俗世界と縁を切る。
世間では武士が大積寺の山へ入って仙人になる修業をしていると評判になる。

◇危急に救われキリストの世界へ
明治11年、人里離れた山中で夫婦とも病気にかかり、医者にもかかれず窮したところ支那訳の『聖書』を一冊持ち、キリスト教の聖書の詩篇で祈ったところ、快方に向かう。
これを機会に結城は英語と歴史を教える傍ら布教活動を行う、カナダの宣教師イビーを訪問する。伝道所は現在の日本基督教団甲府教会である。
明治12年洗礼を受け教会の伝道師としての道を歩み二年間、山梨県下を巡る。
明治13年単身上京して麻布の東洋英和学校へ入る。既に若くない、結城の全く経験のない分野の学習も伴い苦労するが、熱意で克服する。勉強の傍ら牛込教会を引き受けて伝道を行った。

◇厳しい布教活動

布教活動は大きな障壁もあり、結城に襲いかかった。
明治16年結城39歳、全国にわたり耶蘇退治の運動が勃発した。浜松はこと激しく布教活動として講義所の演壇で演説する結城にめがけて石が飛んでくる荒れた世界で、暗澹たるものであった。
関係者危険だからと家の者と一緒に奥の部屋へ閉じ籠って、投石から身を守り、内で讃美歌を歌う悲惨なものであった。
石は結城にあたるが平然と構え、投石で洋燈は消えても暗闇の中で演説を続けていた。
激しい妨害の中で、その熱意に耶蘇は嫌いだが、同情するものが現れ、投石防禦に廻ってくれる者もいた。
そんな厳しい布教活動の中で熱意が徐々に受け入れられ評判を呼び結城を慕って京都から訪ねてくる者もいた。
以来各地で献身的伝道を行う。

晩年の韮崎での生活は恵まれず厳しい暮らしであったようだ。そんな困窮生活の中で息子に教育を続けさせた。

明治45年(1912)病没する。
結城を指導した宣教師イビーはカナダで訃報を聞き「ああサムライ結城無二三」と絶句した。

幕末から維新にかけて、一戦士が未知の分野の乳業の世界へ、政府の横やりで、挫折するも、反骨精神で更に布教の世界など千変万化に富んだ生涯であった。

幕末から維新へ様変わりする環境に挑戦的に生き抜いた、結城の姿に、心響く。、「無二三」とは「俺ほどの豪傑は天下に二人も三人も居ない」という意味で名乗ったと言われる。

(参考資料)

*歴史読本2002年「結城無二三の足跡」山村竜也著
**結城の長男結城禮一郎著した私本「お前たちのおぢい様」(中央文庫・絶版)

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島原の角屋と新選組

            <島原の角屋、現在は文化美術館とて公開>

Simabara01_2昨年(2014年)京の弾丸ツアーで印象的な一つが島原の角屋であった。新選組と角屋を触れてみた。
歌舞音曲の遊宴の町を称して花街と言うそうであるが、豊臣秀吉の頃から古き歴史を持っていたが、その居住まいとして、御所に近いとか、風紀を乱すなどから転々の繰り返しで、あった。寛永18年(1641)現在地の島原(京都市下京区)に落ち着いた。
京の島原にその花街に代表する揚屋(料亭)が「角屋」であった。
各藩の武家屋敷の大宴会を「角屋」他の揚屋が担ったが、幕末になると「角屋」勤皇派の久坂玄端、西郷隆盛坂本龍馬など密議に使われ、一方では新選組も使われ、変転する幕末の舞台になっている。
明治維新以降は大型宴会の需要もなくなり、土地の足場の悪さもあって、島原の街全体の灯が消えかかり、かっての隆盛を極めた役割は終えた。
「角屋」は揚屋を止め、昭和60年までお茶屋業で細々と宴会業務を行っていた。唯一「輪違屋」だけがお茶屋業で、営業を続けている

        <輪違屋>

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◇芹沢鴨 の暴挙
この時期に水口藩の公用方が会津藩邸に壬生浪士の乱暴狼藉の取り締まりを申し入れる。怒り狂った芹沢は公用方の召し捕り屯所連行を隊士に命令するが、詫び状を書いて収めた。
一浪士に出した詫び状は外部に知れたら大変な事になり、島原の角屋で浪士一同を招き、酒宴を開き、何とか詫び状を回収した。遍く暴挙と越し引けた公用方であった。
酒宴の席で座敷に芸者ばかり、仲居が居ない事に腹を立て鉄扇で瀬戸物、膳、更に厨房の食器まで破壊の限りを尽くし、挙げ句の果て7日間の営業停止を申しつけ、立ち去った。
留まることのない暴挙に会津藩も芹沢一派の処分を命じた

新選組隊士は総出で島原の角屋に繰り込み、宴会を開き、夜もふけるころ、泥酩状態、芹沢は腹心の平山五郎平間重助と共に駕籠で八木邸に戻る。芹沢に芹沢に手込めされ情婦にされてしまったお梅が、平山には桔梗屋の小栄、平間には輪違屋の糸里待っていた。三人はそれぞれの女と寝入った。
土方歳三以下が踏み込み、芹沢は太刀を浴びせ絶命、お梅も首を斬られ、平山も首を落され、何人かは逃げた。
芹沢らの死は表面上「病死」、隊内には長州浪士の闇討ちとして処理された。

◇歳三のモテ自慢
文久3年(1863)11月「同郷の松本捨助の入隊に壬生まで訪れたが帰郷させた」と小野路の小島鹿之助に手紙を送った。追伸にモテ振りをさらし、島原では花君太夫、祇園では芸者三人、北野では君菊、小楽という舞妓さらに大阪の新町で若鶴太夫ほか、北の新地では多すぎて書ききれないと、述べ「報国の心を忘る婦人かな」と結んでいる。

◇伊東甲子太郎、新選組離脱の同道者を画策
慶応3年正月伊東甲子太郎は自らの腹心と永倉新八、斉藤一を誘って島原の角屋に登楼する。元日は遊廓が休みで、酒だけを準備させ、アヒルを持参した。新選組相手に酒だけでは済まないと芸者を呼んでもてなし、20人程の隊士も押し寄せ大宴会になったが、日が暮れ殆ど帰隊し、伊東、永倉、斉藤の3人となる。
公然とした隊規破りに本来、切腹と決まっていたが、謹慎処分となった。伊東は新選組から離れ斉藤、永倉に同道したい旨のサインを送ったものであろうと、歳三も気づいていた。この謹慎期間に斉藤は新選組を離れ伊東の元へ走り、内偵の密約を負わされた。
御陵衛士は薩摩に接近し、実績を求められ、近藤の殺害計画を立てることを、内偵した斉藤が発覚した。
歳三はこの情報を聞き、激怒し伊東始め御陵衛士の殺害を計画する。
伊東は近藤の休息所に行き、酒宴をあげ、帰途の途中の油小路で待ち伏せした宮川信吉や大石鍬次郎に斬り付けられ、絶命する

◇角屋では刀をお預け

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武士道の必須道具である刀は武士の魂とも分身のような大事な存在であるが、物騒な刀は玄関で預けられる。
預けられた刀は刀掛で、一時預かりし、専用のタンスに保管される。
外来には全く無防備、丸腰で酒宴の席に望むことになる。
部屋は分けられているものの勤皇・佐幕と先鋭化された集団が一つの屋根の下で会合を持つことは、一触即発の乱闘事件が生まれなかったのは、刀取り上げが役立ったのではなかろうか。
しかし、そのルールも新選組は会津藩、預かりの「御用改め」の役割から、帯刀した。
角屋内部には一階にも二階にも廊下や座敷の柱に、深い刀傷が歴史の傷として残される。
その時の意のままにならず感情の赴くまま、多少の酔いも手伝って、刀に手をかけ てしまったのであろうか・・・。

島原の角屋と新選組は「ようこそ幕末の世界」 史跡巡り島原と駆けめぐる志士たちで紹介されてます

 

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新選組を支えた典医「松本良順」

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松本良順は西洋外科の先駆けとなる蘭学塾を開き、順天堂を起こした佐藤泰然の次男として生まれる。幕府の奥医師で泰然の親友松本良甫の養子になり幕医の道を歩む。

長崎に出てオランダ軍医ポンペに西洋医学を学び、長崎養生所設立に尽力した後、蘭方医として神田和泉橋の医学所の頭取となった。

良順は父親の後を追うように、立場は異なるが蘭学医で名声を高め、方や佐倉の藩医に対して、将軍直々の典医になった。

元治元年(1864)近藤勇は医学所の良順を訪ね、西洋諸外国の軍備と近代化の様子とアジア侵略の模様など聞き、知見を深め、医者として、知識人として、近藤との絆が生まれる。

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慶応元年(1865)5月、将軍家茂が征長部隊を率いて上洛の途についた。幕府典医頭の良順は将軍侍医として随行した。
この家茂公上洛時に近藤の招きで、良順は壬生から西本願寺に移った新選組屯所を訪ねた。

西本願寺の屯所は総勢百七、八十豪傑、野心家の集まりとして梁山伯に入るようだと良順は感嘆している。一方、局長幹部が居る前に寝たままの者も居り、無礼と指摘した。しかし近藤は寝ている者は皆病人との説明し、良順は驚き、早速治療した。

厨房に溢れる残飯を見て、再利用して豚、鳥を飼い、食用にすることを勧めるなど医者の立場から生活面での具体的な指導をした。

慶応3年(1867)11月新選組を離れていった御陵衛士は新選組に対立する意識を持ち、近藤勇の暗殺を計画するなど先鋭化した。この御陵衛士の情報を掴み、怒った新選組は油小路で伊藤甲子太郎と御陵衛士を殺害した。

生き残った御陵衛士の残党は何とか伊藤甲子太郎の仇をうちたいと機会を狙っていた。
同年12月18日、 近藤が鴨川東岸に出て、伏見街道を南下することを察知した御陵衛士の阿部十郎以下は伏見の薩摩藩邸で小銃を二丁借り、伏見街道の空き家に潜み待ち構える。その前を近藤は馬上で、それに従う馬丁と島田魁、横倉甚五郎、井上新左衛門の3人だけで通過しようとしていた。
伏見街道墨染付近で、御陵衛士撃った弾が近藤の右肩に直撃する。近藤の体は大きく揺らいだが馬首にしがみつき逃走し何とか伏見奉行所に駆け込んだ。

近藤は右の鎖骨から上斜脊髄付近にかけての銃創された。翌日会津藩と大坂城の将軍家から医師が派遣されたが、設備無く、治療できず駕籠で大阪に下った。沖田も病身で以後は大阪町奉行の屋敷で療養する。

慶応4年鳥羽伏見の戦いが勃発する。幕府軍、利に非ず、総大将となるべく慶喜が大坂城から江戸へ退去し、事実上敗退する。

幕府軍が大阪から撤収する中、新選組も続き、療養中近藤と沖田は富士山丸で江戸に帰り神田和泉橋の医学所に入った。

近藤は肩銃創の重傷を負ったままであったが此処医学所で松本良順から骨片の摘出手術を受ける。裂けた骨を摘出後、此れまで日本に無かったオランダ製のスポイトで洗浄して見事完治させた。この骨片は近藤愛用の印鑑と共に大切に松本家に保管されていたと言う。

良順は近藤との繋がりから医者として新選組絡みで色々広く支えている。
沖田総司の労咳治療は京の新選組屯所から江戸の医学所、浅草の今戸まで渾身的に行っているが、総司は病魔に勝てず、遂に亡くなる。

戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり戊辰役が北上する間、良順も同行する。

この間、良順は会津から庄内に入り、榎本武揚の手紙によって仙台にやってきた。

榎本が勧める蝦夷に渡ることを賛成できず、歳三にも相談する。歳三から 「前途有用な人材なり、宜しく断然ここを去って、江戸に帰るべし、もし不幸にして縛りに就くも、西軍の将士皆君を知れり。何ぞ危害を加えることあらんや・・・」

歳三は蝦夷行きを最早固めているが、良順の身を案じて江戸に帰ることを勧める。良順はオランダ船に乗って横浜に戻って縛りにつくが、維新後明治2年赦免され陸軍軍医総監に就任する。

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