カテゴリー「23、戦国史」の記事

山本耕史が演じる「石田三成」と「土方歳三」

              <真田丸で石田三成役で登場>

Image3大河ドラマ『真田丸』の石田三成役を演じる山本耕史の姿が懐かしくTV画像を通じて、伝わってくる。
山本耕史と言えば 12年前に大河ドラマ『新選組!』(2004年)の土方歳三役がどうしても、抜けきれない存在なのであるが、変わらぬ姿がつい、昨日見たような錯覚さえ覚える。
それほど鮮烈なイメージの濃い歳三役であったのである。

新選組の副長として、隊長の近藤勇を支え、局中法度など厳しいルールを作り、組長のために平隊士は死を恐れぬのが「忠義」 と自ら実践するなど、強力な武装集団として新選組を作り上げた。
血気盛んな青年たちが一緒に成長しながら幕府を支えていった。

石田三成、土方歳三時代を越えた二人の人物。三成は豊臣秀吉 を支えた戦国武将で、歳三は局長近藤勇の新選組を支えた幕末 の副長である。

何れも主役では無いが、組織を支える重要な役割 を果たす脇役として、二人が果たす役割が共通の物を感じる。
それぞれの時代背景から、どんどん駆け上がっていく姿を二つの ドラマから見るようである。

◇石田三成像

豊臣家に絶対的な忠誠を誓う参謀。秀吉への取次役であり、高級 指揮官を補佐して作戦・用兵その他一切の計画・指導に当たる 将校のような役回りである。
三成のイメージは、端的、明確で、余計なことを一切言わず、 余計な仕草もしない、秀吉命にひたすら忠誠を果たすロボット のような感じである。
その 秀吉は、全く自由奔放で晩年はエスカレートするが、三成 はその横でずっと息を止めて存在しているというイメージである。

◇秀吉に忠誠をつくす。
秀吉はお百姓から成り上がったが、遂に信長を超えたという自負も ある反面馬鹿にされたくないという強い気持ちもあった。
千利休は茶の湯を通じて、信長にも寵愛され、秀吉にも仕え名声と 権威を誇り、秀吉の政事にも関与したが、秀吉に逆鱗に 触れ、切腹させられる。
秀吉の側室となった茶々が子を身ごもり、秀吉は有頂 天になるが、城下では鶴松が秀吉の子ではないのでは と言う、ゆする落書きが発見される。犯人探しに乗り出 すが、捜査は難航、怒りがおさまらない秀吉は、犯人が 見つからなければ門番や町人たちまでをも処刑すると 言い出す。
姉の子である秀次を切腹に追い込み、家族もろとも斬首 したりと、常軌を逸した行動もとっている。
そんな無軌道の主を持っても石田三成は従わざるを得 ない。

殿下への忠誠心、豊臣家への思いから、ただただ 淡々と配下諸公の取り次ぎに尽くしている。
三成は殿下がいるからこそ、自分の才能を発揮出来る、 だから、自分の居場所はここだと定めていたのだと思われる。
三成は個人的な思いより、豊臣のために生きるという ことに意義を見出していた。

◇秀吉没後の三成
秀吉没後、秀吉配下でまとまっていた諸公が東西に 別れ、雌雄を決する天下分け目の関が原の戦いが生 まれ、家康配下の東軍が勝利し、結束力で弱かった三成の西軍が破れる。
三成は戦場から離れ、逃れたが捕縛され罪人として引き 回され、家康命で六条河原で斬首。時代を越えて近藤勇 が晒された、三条河原で首を晒されたのは運命的なものを感じる。
『真田丸』の三成は頭も良く、理屈でものを考え、時代を 背負って熱くなった人物。

どのような最後を迎えるのであろうか、 散り花の飾りかた、悲劇のヒーロにまた話題を呼びそうである。
あまり動かず、反応せず、ほとんど表情も変えないが、 実は熱い三成をどう演じられるのであろうか、興味が尽きない。

◇あれから12年

            <土方歳三、見たさに押しかけるフアンで殺到する>

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             <さっそうと、羽織姿の土方歳三役>Image212年前、歳三役の山本耕史が日野にやってきた 。
そんな歳三も新選組祭りでは本陣前の広場で架設ステージに普段着で現れ 、インタービューに応じた。その姿を見たさに、物凄い黒山の人だかりに、全く近寄れなかったことは、大河で膨れ上がった歳三人気が思い起こされる。
しかし、12年経った現在、 大河を見ていない層が、此処本陣に訪れ、賑わいを見せている。既に12年の経過が新しいフアン層を呼び、新選組フアンの根強い人気が時代を越えて引き継がれている。

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かく戦えり、「真田一族」 その二

かく戦えり、「真田一族」 その一 より

             <松代城跡>

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◇)転封された「信之」の抵抗
徳川秀忠は関ヶ原の戦いを前に、真田父弟らの戦闘で遅参したことや、大坂の陣におい真田軍を苦しめたことから「信之」は「秀忠」に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。松代への移封は加増されているとは言え「秀忠」の嫌がらせの一つとされている。

「信之」は温厚な人物だったといわれるが、屈辱的な松代移封には不服を持ち、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上でさらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。
松代へ移封した後「信之」は倹約しながらも、九度山へ配流された父弟にも生活が困らぬよう自費で生活援助を行っていた。
「信之」が松代へ移封になった時、父の形見として、本丸の石垣の、高さが2.5m、幅が3mもある「真田石」持って行こうとしたが動かぬ巨大石に諦めたと言われている。

◇信濃の雄藩として引き継がれる
真田氏が上田より松代に移藩してから廃藩までの10代250年間、殖産を興し文武をすすめ、その治政に見るべきものがあった。安政2年(1855)に「文武両道」を目指す にふさわしい文武学校が開校し多くの人材を輩出し、近代日本の発展に大きく寄与した。
明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加した。明治4年(1871年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。

◇真田の名声
1)「司馬遼太郎」も絶賛する「真田昌幸」
上田城を造ったのは「真田昌幸」であるが、「昌幸」を時代を越えたヒーロとしていまだに地元に根強く慕われているのは何故であろうか。「司馬遼太郎」は上田に訪れ、「街道を行く」で「真田昌幸」を「司馬遼」流の独特の表現で以下のように絶賛している。
「昌幸」が近隣の家康嫌いで、その勢力を牽制して貰うこともあって上方の豊臣方と手を組む。秀吉の死後も情勢の変化に流されず亡き秀吉に忠実であったことは律儀者の信州人に好まれるところであろう。関が原の前後に「石田三成」と締盟し、勢力拡大を図ったが「三成」が破れ徳川の天下になり、「昌幸」と子の「幸村」は紀州・高野山麓の九度山(くどやま)に流された。
「昌幸」の場合は知能的に最も優れているといっていい。かれは義経や正成と同様、政略や調略を用いて敵を腐敗させたり、利を与えて敵の有力者を寝返らせたりするような手を用いず、徹底的に軍事的でその巧緻さはそれを芸術的に楽しんでいるのではないかと思わせるほどであった。このあたりも、代表的信州人という印象を後世にまであたえる由縁である。

2)真田赤備え兜

             <赤備え兜>

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二度に亘り徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に響き大阪夏の陣において武具を赤で統一し「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」である。幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称された。自ら信じる道を民とともに歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしている。 ・・・「真田神社奉賛会」
輝き、鮮やかな真っ赤な色は大変目立ち、人々の燃える血に闘争心が植えつけられる。

その姿は現代でもスタンドを埋めつくす某球団の、チームカラーが目に焼きつく。「赤ヘル」はすでに戦国乱世の時代「赤備え兜」で先陣をきっていた。

3)六文銭
                <真田家の式台で掲げられる、六文銭の幟>

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六文銭の旗はかっての海野氏が用い、真田が継承した。千曲川沿いの豪族、郷士、農民達は海野氏の後裔と信じているために、この旗のもとに集まる習慣を持っている。千曲川統合のステータスシンボルとして六文銭が人々の心に強い結束力が自然と沸いてくるのであろう 。
六文銭は正確には六連銭(これは六道銭からきている)と言われる。

専門的になるが「六道」とは、仏教において命あるものは迷いの世界で現世とあの世の境界を繰り返すことを輪廻転生と言われている。その輪廻する迷いの世界が六道と言われ地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの世界のことを言う。
この六道に苦しみを救ってくれる仏様が寺や街角で見かける「六地蔵」である。
我々が住む、近隣にあるお寺の境内にはこの六地蔵があり、街道筋にも見かけられ身近な所に鎮座されている。
死後の最初の行き先であろう六道に銭を持たせれば清く成仏できるだろうと、「六道銭」ができたようである。
信濃の名族滋野氏の流れの海野氏から生れ、その支流の真田氏が戦国武将で使われ真田の六連銭で有名となった。三途の川は地獄道・畜生道・餓鬼道を表す様で、六道銭を持たせれば戻る場合も安心なのであろう。

現世を振り返り、散々悪行を繰り返し、何とか生き延びたが、そろそろお迎えの時期に、六道銭の備えもしなければと思い立つのである。

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かく戦えり、「真田一族」 その一

大河ドラマ「軍師勘兵衛」も何れ、関が原の戦いに山場を迎えるが、歴史旅で信州の上田、松代へ行った折りに天下取りに真田家が武将として同地方にどっかりと居すわっていた。その真田家を代表するヒーロの「真田昌幸」とその家族が皮肉にも関が原の戦いに東軍、西軍に分かれそれぞれ参加し、その結果が行く末に大きく影響した。

徳川との戦いに2度も制覇した真田家は関が原の戦い以降の顛末について、実にドラマッチクであり大変、興味を引いた。
ドラマで何処まで紹介されるか、判らないが、真田の上田と松代にまたがる、その顛末を整理してみた。

◇乱世に独立を図った真田
「真田昌幸」は「武田信玄」に属し「信玄」の卓越した陣法と民政を身に付けた一人であったといわれている。

信玄の子勝頼が「織田信長」によって滅ぼされてしまう。、その「信長」は本能寺で非業に死ぬと、武田の信州旧領は無主の国となり東海の徳川家康と小田原の北条がそれぞれ草刈り場のように兵を入れてきた。そんな背景の中、「昌幸」は千曲川流域に独立国を作ろうとした。「六文銭」「六連銭」の旗印が有効になったのはこの時からと言われている。
             <「六文銭」の幟が旗向く、背後は上田城跡>

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◇徳川襲来から守った上田城
天正11年(1583)「真田幸村」の父「昌幸」が上田城を築城した。当初から天守閣を持たない平城で現在は3つの隅櫓(すみやぐら)と石垣が本丸堀が残っている。石垣も少なく要塞兼備とは言えないが、周囲の河川や城下町を含めた全体が極めて秀れた構造で、圧倒的数の多い徳川軍を2度も追い払った戦国の名城である。

1)最初の戦勝
天正13年(1854)武田氏滅亡直後、「徳川家康」は「昌幸」に対し武田の旧領の沼田領の明け渡しを迫ったが父祖伝来の土地として断った。徳川軍は上田城で、矢玉を浴びせられ、神川まで敗走したが、複雑な城下町にも伏兵や罠が仕掛けられ、、増水した神川に流され多くの将兵が死亡した。攻め寄せた7千の徳川勢に対して2千の真田勢は巧妙な戦術で真田の死者40名余りに対し徳川方は1千数百名を出す大敗となった。

2)2回目の戦勝
慶長5年(1600)「徳川秀忠」率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上し関が原の合戦に向かう途中再び、上田へ押し寄せた。
徳川の大軍を迎え討った真田勢は僅か2千5百ほどで「昌幸」は虚空蔵山(こくぞうさん)に伏兵を置いて「秀忠」本陣を急襲上田城の城兵が討って出て徳川軍は大混乱に陥った。「秀忠」は上田城攻略を諦め、抑えの将兵だけを残して中山道を西上したが木曽路の行軍に手間取り、関ヶ原合戦に遅参すると言う大きな失態を残した。

         <押し寄せる徳川方を2度も跳ね返した上田城跡>

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◇関が原の戦いで破れ、徳川配下に立場が逆転
父「昌幸」の妻は石田三成の妻と姉妹)と弟の信繁(妻が三成配下の武将大谷吉継の娘)は三成らの西軍に付いたのに対し、長男の信幸後の「昌幸」(徳川家康の養女を妻)は家康の東軍に参加し、親子が敵味方になり、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に父の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。
関が原の戦いで「三成」が東軍に破れ、徳川の天下となる。
敵味方に分かれた真田家は豊臣方であった「昌幸」と子の「幸村」は紀州・高野山麓の九度山(くどやま)に流された。

「信之」は元和8年(1622年)10月、信濃国松代藩に加増移封され、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。
関ヶ原の合戦にて、東軍が勝ったため、真田に散々痛めつけられ、遺恨のあった上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた。

<その二>に続く

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信州の旅「松本城」

26号に継いで27号の台風が来るぞ、来るぞと大騒ぎする中、雨合羽と傘を持ち信州方面へ一泊のバス旅行に出かけた。

              松本城の雄姿

Img_467511 しかし、遥か彼方に停滞し、影響は殆ど無く、傘を一回さした程度であった。
最初に寄ったのが松本城であった。

国内では四つある、国宝の、その内の一つで、優雅な姿は築城技術を今日に伝える貴重な遺産である。
明治維新を迎え、186城があったが、幕府が滅び廃藩置県で無用の長物に、その大半が、打ち壊されやがて消え去る運命にあり、同城も同じ運命にあった。
藩がなくなった後の松本は明治4年7月筑摩県となり、筑摩県は松本城を維持管理できないことから明治5年1月に天守を競売にかけ、235両余で落札、 破却 されることになった。(※235両は米価換算で約400万円)
御一新によって古いものを破壊しても新しい時代を迎える期待感があったが、それが崩れ、逆に遺産を守ろうと言う機運が芽生えた。
そんな背景から松本下横田町副戸長市川量造(りょうぞう)が、此処で博覧会や寄付を募って買い戻され、破壊から救われた 。
人件費で大工さんの日当が50銭であり、現代1万5千円で換算すると5億円になる。

☆どうして城が生れたか
文禄2年(1593)関が原の戦いの7年前、豊臣秀吉が天下を取ろうとした時に家臣の石川数正に作らさせた。
天下統一のためには力を持つ、徳川家康を江戸に移し、その動向を見張り、備えるため城は関東に向けて建ったと言われている。群雄割拠の戦国時代から、実力で淘汰されていく時代の産物である。
元々家康の配下で要職を勤めた石川数正が家康を裏切り、秀吉側に付いたので人に寄っては「裏切りの城」とまで言われている。

城は5層6階で、高さはビルの10階建てに相当する 29.4mもあり、高層の建物が無かった時代に360度の俯瞰は戦時の監視に力を発揮し、攻める敵を威圧した。城は内堀、外堀、惣堀の3重のお堀で、守りを固め、攻める敵を寄せつけない堅牢な守りの構造になっている。城側から高い位置から俯瞰し、鉄砲や矢で射止め、隅にせり出た所から石落しで、登る敵に備えている。

☆入り口の家紋

                      「五七の桐の紋」

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入り口の梁に立派な家紋で出迎えられる

秀吉が作った城であるから、秀吉の家紋である「五七の桐の紋」が多数並べられている。
3本の直立する花序(かじょ)と3枚の葉から構成され、花序につく花の数が5-7-5となっているものは「五七の桐」と言っている。
桐紋は元々は天皇家の家紋であった。菊紋に次ぐ紋であったが天皇家が功績のあったものに下賜したために武家に広まった。
昔秀吉は羽柴秀吉であったが、豊臣に変えた。羽柴から豊臣の姓を貰ってその時の紋を借りたが自分の紋にしてしまった。時の権力者が使う紋であり、現代の政府や皇室も使っていることなど、TVの報道などで見受けられるように現代でも繋がる。

                     「丸におもだか」

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その脇に歴代藩主の家紋が幾つかある。
水野家の家紋「丸におもだか」であったが、我が家の家紋でもあったので思わず息を飲んでしまった。
寛永19年(1642年)三河吉田藩より徳川家康の従弟、水野忠清が大坂の役で先陣争いをして戦功を立て松本に赴任以来、六代続いている。
歴代藩主には才智に優れ、財政改革に着手し、日常生活の切り詰め尽力し松本藩政は確立した藩主も居れば、一方では財政的には困窮する藩政も省みず 遊興にふける暗愚の藩主も居た。
寛文の飢饉、延宝期にも飢饉が相次いで財政が逼迫し、年貢を増徴して、貞享騒動と呼ばれる一揆が起こり鎮定したが、一揆側と交わした約定を破棄し、首謀者は兄弟子供を含めて28人を磔獄門に処する。など苛烈な断行も行われた。
第6代の忠恒は享保10年(1725年)将軍吉宗の拝謁を無事終えて帰る時、江戸城中の松の廊下で長府藩の世子毛利師就とすれ違った際に小刀を抜刀して斬りつけるという事件を起こし所領没収・改易とした。
松本藩水野家の引き払いは、一部を除き浪々の身となり悲惨な生活を送ったと伝えられる。

☆高遠から内藤新宿へ

高遠藩の内藤家初代は水野家であった。そんな繋がりから、恐らく戦国時代は家来ではなかろうか・・・。

家康命で内藤家は高遠から内藤新宿に来ており、その折に我が家の先祖が一緒に江戸に来たと言う口伝が残されており、四谷大番町住んだ名前が江戸切り絵ヅ図に載っている。

四谷大番町の「大番」は親衛隊のようなもので、甲州街道を守る意味があって、
旗本が多く住んでいたようである。

内藤氏は、百人鉄砲隊を連れてきたことでも知られているが(百人町に住んで
いた)、四谷にも鉄砲打ちを先祖とする集がおり、そのなかにひょっとしたら居たのであろうか勝手な推測を、膨らしてしまった。

☆天守六階
登り・下りの入館者が重なる、狭く、急な階段を登って一番高い天守六階にたどり着く。四囲を俯瞰できる眺めの良い場所である。敵陣の動向を捕らえ城主以下、幹部が作戦会議と指揮を取った。
市街地は見下ろせたが、乗鞍、槍ヶ岳、常念岳など北アルプスの山々は生憎の天気で、見えなかった。

               天守六階から下界を見下ろすImg_46971

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風雲「八王子城」

Image111 <城代、横地監物が使われた兜>

「天地人」も佳境に入り、家康率いる東軍は大坂を目指して進軍、三成率いる西軍はこれを阻止しようと陣を敷き、両軍は「関ヶ原」で向き合う形となる。大砲など重火機を使い大量な騎馬と兵士の総力戦がダイナミックに繰り広げられた。
当サイトも「天地人」に関わる限定された地域の情報記事を書いたが、関心の高さがサイト訪問のヒット数に繋がり、改めて大河ドラマの影響の大きさを感じさせられる。

そんな背景から八王子城の攻め落としをもう少し追ってみる。
豊臣秀吉と徳川家康による小田原城攻めが始まり、北条氏照は主力の精鋭数千を小田原城に向ける。このため八王子城は横地監物、中山家範などの僅かな老将と戦場経験の浅い雑兵だけが残された。
八王子城は天正18年(1590)豊臣方、上杉景勝、前田利家の圧倒的な数の前に半日あまりで一気にのみ込まれてしまう。
八王子城が落城し、中山家範は30人余りを斬り倒し自刃する。横地監物は山伝いに檜原城に向かい、再起を図ったが城が落ち、小河内で切腹にしたと伝えられている。

八王子城は自然立地を活かした山城であるが、その城下の一角に自宅の一室を開放して、当時の戦いの武具が並べられた私設の「八王子城址歴史資料館」がある。周辺には当時の家来団も住んで居られるようで、当時の家臣団の先祖に持つ山口家が個人的に運営している資料館である。
資料館として案内パンフレットが有るわけではなく、その存在は知る人ぞ知る、コアーな場所の一つである。
八王子城の戦いを物語る歴史的な遺品の数々が一室に所狭しと置かれ、戦いに散っていった往時の武将の姿を確かめられる。
その一つが豊臣方を迎え撃ち、中心となった横地監物が着用した兜が目を引いている。

Img_15071 <「千人同心」の槍隊、鉄砲隊の武具>

徳川家康が関東に入国し、織田・徳川連合軍に破れた武田の落ち武者や八王子城の落城で豊臣側に落とされた
小田原北条氏の浪人が集められ徳川幕府に忠誠を誓った「千人同心」が生れた。
「天地人」で放映された「関ヶ原」の戦いではこの「千人同心」が徳川の中核として出陣し、活躍している。
以来、「千人同心」は徳川幕府への忠誠心が極めて高い集団としてあり続け、幕府瓦解まで命運を共にした。

誉れ高き「千人同心」の武具が所狭しと並べられ、戦国武将の戦いの息づかいが身近に感じられる。こんな姿で身を固め「関が原」で戦ったのか、手の届くところの武具を前にわくわくしてくる。

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野武士姿の武将

Image11 <江戸城、二の丸巽三重樽周辺>

幕府は大政奉還によって政権返上し一介の大名に降格する。江戸城二の丸が放火され炎上、焼失、薩摩藩邸に匿われた浪士たちの狼藉からの放火の風聞から、報復として薩摩藩邸が焼き討ちされた。目には目をがエスカレートし、薩摩と徳川の衝突はやがて鳥羽伏見の戦いにエスカレートし徳川家は「朝敵」として追討される危機に陥った。
江戸の町を火の海にしかねない武力攻略の官軍に対し、嘆願工作し、江戸城開城が無血で行われる。
慶応4年(1868年)4月11日江戸城は徳川家から新政府軍に明け渡され徳川幕府260余年の歴史は閉じた。

800pxkokkaigizidou11 <国会議事堂>

折しも衆院選の戦いで民意が自民党から民主党を選び、圧勝した。
"江戸城"に変わる謂わば戦いの場であった国会議事堂や"武家屋敷"の議員会館も去る者、入る者それぞれ粛々と入れ代わる。
自民党は、結党以来歴史的な「代議士会」で使ってきた自民党の控室は明け渡され、民主党に引き渡され、元より無血開城である。
永田町議員会館も当選直後は「料亭へ行ってみたい」「無料のグリーン車乗り放題」と大はしゃぎしていた小泉チルドレンの“代表格”杉村太蔵も在職中は目立った活躍もないまま結局去っていく。
中には、祖父、父と3代40年以上使ってきた事務所を明け渡す3世議員も同様に去っていく、落選議員の悲哀が漂った。

組閣が決定する中、一つのスローガンが「脱官僚」の中、各省庁に乗り込む姿とそれを迎える姿はそれぞれ象徴的であった。取り分け厚生労働省の長妻大臣には迎える拍手もなく、組織的で対決姿勢、孤立無援の地に落下傘で降りて行くようであった。
各省庁が概ね新内閣に"恭順"を示してしているが、取り分け此処だけはもろに感情をむき出し、爆弾の火種を抱えた"上野戦争"にも見えてきた。舛添旧大臣に花束に拍手で見送る怒派手なパフォーマンスに手のひらを返したような対応振りは陰湿な体質の官僚の姿が透けて見える。
それに立ち向かう飾り気のない、長妻大臣の"野武士"のような出で立ちの武将の姿が格好よく見えてくる。

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天と地と

Image111 正月気分が未だ抜けきらない日曜日、某国営放送の「篤姫」、某民放の「天と地と」の時代劇シリーズに長時間TVの前に貼りついてしまった。「風林火山」を敢えて意識して、ぶっつけたのか「天と地と」は武田信玄の対局座にある謎めいた人物の上杉謙信に光を当て、終局的には川中島の決戦までどう展開されるのか、ドラマの展開を追ってしまった。

「風林火山」では主役の軍師山本勘助は歴史家加来耕三さん曰く、山本姓が武田配下の武将として居たかもしれないが、軍師としての所在は疑問視されているが、再び独眼竜の姿でちょこっと現れるのも面白い。

最終的な川中島決戦、武田、上杉両軍相まみえ戦い、両軍多数の犠牲の中で両雄あい譲らず、決着付かぬまま歴史的な対決は終わったと、頭の中では整理していたが、上杉軍の騎馬部隊が武田軍を粉砕、蹂躙し、得意満面で上杉謙信が捨てぜりふを残して消えて行くシーンは、ヒーロ化した主役の肩入れをしたかったのか、不自然にも映った。

戦国時代に疎い聴取者にはドラマの合間に歴史事実や場所の解説などのナレーションはドラマを通じて歴史を知る格好の機会であり、大事な脇役でもある。大河を見て埋もれた歴史遺産に光が当てられ、セリフに出て来ない歴史の流れが明らかにされ、物語も判り易くなる。そんな役割を持っているのが「風林火山」であったのかと両ドラマ見て改めて思い知らされた。

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終わってしまった風林火山

Image11111 正に壮大な川中島での武田信玄と上杉謙信とのダイナミックな決戦、山本勘助の憤死をもってこのドラマは終わってしまった。武田と上杉が死闘を繰り広げられ、両軍の夥しい戦死者の中で、「六文銭」の軍旗をかざした真田軍が疾駆し、やや傾きかけた武田側の勢いを取り戻す、騎馬軍団の姿が逞しく、目に映る。武田側が戦勝に沸くが、余りにも多い犠牲者の中で心なしか「エイエイオ~」の勝ち名乗りが弱々しい。

歴史を残した川中島の決戦も、両雄あい譲らずそれぞれの領地に引き揚げ、名を残す。疾きこと風の如く、除かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く。類まれな武田軍のイメージを残し、その名は後世迄伝えられる。今回はきつつき戦法と言われたが、正に動かざる軍団が風の如く表れ、風の如く去っていく姿は正に言葉通りの象徴的姿であった。

その武田軍団の血を引くのが、幕末期の勝沼戦争で戦勝する東征軍の板垣退助であり、一方では旧幕府側の八王子の千人同心であり、八王子の戸吹村に住み着いた天然理心流の門弟達であり、中でもあの新選組の井上源三郎も武田の血を引く一人である。そんな背景から武田の遺影を追いながら一生懸命見てしまった。

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