カテゴリー「19、坂本竜馬」の記事

「船中八策」と赤松小三郎

◇現代でも持て囃される「船中八策」
選挙が総て、己の保身のみに走り、国民不在、停滞した政治に、もううんざりする。
国難とも言うべきこの時期に、大阪の維新の会 橋下徹代表は、次々と大胆な提案をしている。
その一つに幕末期に坂本龍馬が起草したとされる国家構想「維新八策」が出ている。
中身が見えないまま、心地よい言葉の響きに現代版「船中八策」が一人歩きし、龍馬人気にあやかっているようで、 草葉の陰で、龍馬も嘆いているのではなかろうか。
さて、その「船中八策」は生れる過程は多くを語り伝えれているが、その原本となるべき、建白書を作った人物が居た。
龍馬程、多くを語られず、郷土史家で取り上げられる程度で、埋もれた人物「赤松小三郎」に、光を当ててみた。

              <赤松小三郎>

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◇海野宿で「赤松小三郎」(小三郎)と出会い
昨年(2011年)北国街道の海野宿に行きそっくり江戸の文化残される、建物で気抜きと卯建は印象的であった。
観光客も少なく、閑散した海野宿の一画に「贈従五位赤松小三郎君之碑」と巡り逢える。
上田藩出身の小三郎は勝海舟と出会い、長崎海軍伝習所の伝習生の一人でもあったが、近代兵学や教育の先駆者でもあった。小三郎が松平春獄に出した建白書が時代を先読みした、国家構想が「船中八策」の原本の一つともされている。

         <海野宿の一画に「贈従五位赤松小三郎君之碑」>Sentyuhassaku401

◇「船中八策」
「船中八策」は、幕末の志士・坂本龍馬が慶応3年6月、土佐藩船「夕顔丸」で上洛中の洋上で策定した新国家体制の基本方針である。
後藤象二郎は、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて大政奉還建白書を提出。将軍・徳川慶喜は受け入れ大政奉還を行った。
上田の一藩士である赤松小三郎が既に作成した「御改正之一二端奉申上候口上書」が「船中八策」の内容に酷似していると言われているが、小三郎の話は殆ど出て来ない。

◇赤松小三郎
天保2年(1831年)4月4日 上田藩士芦田勘兵衛の次男として生まれ、清次郎と名付けられる。後、同藩士赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
上田藩主の松平の意志もあって、兵学・数学測量・医学など藩の熱心な教育環境の中で小三郎も藩校明倫堂で教育を受ける。
嘉永元年(1848)江戸に出て、和算・天文・測量・歴学・地理・蘭学・砲術を学ぶ。
安政2年(1865)勝海舟に随行して長崎海軍伝習所に行き、オランダ人より蘭学・英学・兵学・航海術を修める。
横浜在住のイギリス騎兵士官より騎兵術、英語を学ぶ
慶応元年(1865)英国歩兵練法を出版する。
慶応2年(1866)より、京都に居を移し、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。
慶応3年(1867)京都市内で暗殺される。

◇豊かな才覚
小三郎の豊かな才覚は蘭語や英語など語学が遺憾なく発揮され、長崎海軍伝習所や横浜の外人居留地などでイギリス人やオランダ人と自由に意思疎通が出来、ヨーロッパの近代科学の基礎から応用まで、知見を深めた。
長崎にいた4年間で蘭語の原書を74冊も読破し、一緒に参加している伝習生のためにテキストの翻訳までやっている。

◇私塾「宇宙堂」の活躍
慶応2年(1866)より、京都に居を移し、私塾「宇宙堂」を開き、英国式兵学を教える。
門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、後の戊辰戦役の幕府軍側や相まみえる倒幕側の藩士が呉越 同舟状態で学んでいた。
薩摩藩は英国の近代軍備を学ぶため 慶応3年(1867)薩摩藩は京都の薩摩藩邸で小三郎を兵学教授として招き、英国式兵学塾を開講した。門下生には、大日本帝国陸軍の幹部となった東郷平八郎、野津道貫、など次世代を担う人物がbなど門下生は約800人に及んだ。
     
◇建白書の提出
慶応元年(1865)第二次長州征伐には幕府の総力を上げ、長州鎮撫に動員されている。
小三郎はこの第二次征長の役に関しては、「勝算がなく、負けるのは当然だ」と幕府に向かって堂々と主張し、幕政改革の必要性を説いている。
小三郎の主張は天皇家と幕府を合体させて平和的な政権を作るという意味の「天幕一和」であった。
日本人同士が争う愚かさを説き、幕府に大政奉還させて、平和的に新体制に移行させる思想を遂行することであった。
こうした主張で各藩が赤松小三郎に注目するようになり、越前の松平春嶽は使いを出して小三郎に建白書の提出を求めた。
一方、薩摩藩では武力で持って王政復古の断行が決議され、倒幕が必要と固まっていた。従って薩摩藩が倒幕の意向を貫くためには小三郎の存在そのものも、邪魔だったのであった。

◇小三郎の殺害
薩摩藩は小三郎を自藩の兵学教授として招きながら、藩の意向を真っ向から背く「危険な人物」として考え、たちまち世の中からも抹殺してしまう人物に仕立て上げてしまう。
小三郎の評判が高くなるにつれて他藩はもちろんのこと、幕府や会津藩までもが小三郎を招こうとするに及んで、薩摩藩は警戒心を強めた。
慶応3年(1867)9月3日、赤松小三郎は上田藩からの帰国命令を受けて帰藩することになった。その前日の2日の夜に薩摩藩の門下生の有志が集まって、送別会が開かれた。9月3日、小三郎は京都市内で知人に帰国の挨拶をして回っているときに白昼暗殺された。下手人は明治時代になっても判らず、昭和になって明らかになった。
「桐野利秋」こと、薩摩藩士の中村半次郎は日記に赤松小三郎を同僚と2人で暗殺したということを書いている。

暗殺した理由は、赤松小三郎は「佐幕派」であるというものである。
半次郎が、考え方の差から自らの意志で「宇宙堂」の恩師に刃を向け小三郎を斬ってしまうことは考えにくい。倒幕の意志に傾注する藩の意志に背くことは出来ず、その藩命から凶刃を振るったのではなかろうかと考えられる。
当時の事件に関し、以下のことが明らかにされている。
悪者を斬り殺すと理由を書いた斬奸状を2種類書いて市中に貼り出している。
葬儀に当って150両もの高額な弔慰金を贈り、兵学塾の門下生全員が葬儀に出席している。
慶応3年12月に旧幕府軍側の会津藩の本陣である、京都金成光明寺に小三郎の墓と碑を建立しているのも異質である。
などなど、明らかに組織的な事件であったことが判る。

詳細については以下で紹介している

船中八策を生んだ「赤松小三郎」

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竜馬・おりょうが奏でる唄

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後何カ月、後何日、終わるぞ~終わるぞ~
前宣伝もあったが、最後のシーンでポテンシアルを上げていく制作意図に載せられ、しっかり見てしまった。
亡くなる寸前まで陽気で明るく振る舞う竜馬が近江屋で竜馬と中岡が暗殺される凄惨なシーンはどんな形ででドラマは終わってしまったのか、甚だ興味があったが、"明"から一気に"暗"にその落差が自然に涙腺を緩め、"うるうる"させる所なのであろうか、福山雅治のもって生まれたキャラクターと見事な演技であった。

「よう来てくれた。会いたかったぜよ。今この時を大切に生きとおせ。頼んだぜ 日本の未来 おんしに。龍馬」
というメッセージが書かれ、二人が温かく迎えてくれるのが横須賀大津の信楽寺である。

台の上に繊細な木彫りの「龍馬」と「おりょう」の二人が座敷の上に仲良く並んで 座っている。
二人の前には楽譜台と脇には見慣れぬ楽器が据えられ、今にも二人の唄がかなでられるように、生き生きとした姿が目に映る。
見慣れぬ楽器は何であろう?。その姿は琵琶に似ているが、清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」である。
弦をはじくと、琵琶に似ているが、やや高く甘い音色がすると言われている。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、正に衝動的に買い求めた。長崎から「おりょう」のもとへ、「龍馬」が最初に贈ったのが、この「月琴(再現品」である。

東奔西走する「竜馬」は「おりょう」の前に居るのは束の間であり、せめてこの「月琴」が「竜馬」の身代わりと思って抱き、唄って欲しい。しかし、そんな願いも叶わぬまま、 「おりょう」の前から消えてしまった。

そんな二人の絆、「月琴」の音に併せて高らかに唄う「おりょう」の姿に心打たれ、此処信楽寺から立ち去り難かった。
以来、その音はどんな音か、またそれに併せて「おりょう」がどう歌うのか、気になった。
果せるかなドラマの最終回でその演じる姿が歌の響きが、ああ~これなのかと、テレビの前で聞き耳を立てた。

信楽寺で手招きされるまま、近くに寄ってみる。幽玄な世界、二人の前に一緒に座り、仲睦まじい二人に当てられながらも、その姿を一人じめしてしまった。長崎、下関以来の再会が此処、二人の念願が叶い、ここ信楽寺で実現したのである。

「龍馬」の駆けめぐる姿を追っかけ、最後は「おりょう」との隣あわせる姿に終着点までたどり着くことが出来た

その信楽寺はこんな所にあります。竜馬の妻おりょう

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竜馬・おりょうハネムーン

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郵便物がどんと届けられ、宛て先を見ると薩摩のおごじょさんからであった。
はやる気持ちに駆り立てられ早速開けると、薩摩ならではの尚古集成館の記念グッズセットなど薩摩色豊かな贈り物など頂いてしまった。
中でもこの時期、霧島温泉の「湯の花」はこの時期大変タイムリーな頂き物であった。
因みに薩摩おごじょさんのふるさとはこんな神聖な「高千穂の峰」を仰ぐ素敵な牧園町なのである。
大河ドラマの筋書きをちょっと巻き戻し、亀山車中の代表となった「竜馬」を幕府転覆を企てる人物として、幕府捕り方の追求の矛先となる。
潜伏先を嗅ぎつけられ遂に200人に及ぶ幕府捕り方大集団に囲まれ乱闘となる寺田屋事件が発生し、「竜馬」は危うく命は取り留めたが、両手に深手の瀕死の重傷を負う。

おりょうの咄嗟の知らせに捕り方とピストルで対峙し、何とか捕縛を逃れ、薩摩藩の伏見屋敷に駆け込み救われる。当然おりょうの手厚い看護に、養生するが、二人の絆が生まれ、祝言をあげる。

事件後、未だ傷が完治してないまま、傷の治癒をかねて九州ハネムーンに薩摩船籍、「三邦丸」で長崎に向かい更に鹿児島に向かっている。
そのハネムーンが日当山、塩浸、霧島などの温泉を巡り、寺田屋で負った傷の養生に努めたと言う。温泉の効果であろうか傷の治りは早く数日後に霧島山登山し、新たに入手した短銃で鳥撃ちに興じるなど、はしゃぐ二人は最も幸せを感じた一時であったろう。
その霧島温泉の「湯の花」を風呂にしっかり入れ、湯治の二人旅を描きながら、湯に漬かり、思いを馳せることが出来る。

そんな薩摩おごじょさんの気のきいた贈り物に心は霧島に心酔してしまった。

湯船につかりながら・・・鹿児島小原節を
「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー桜島」
「見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー帆が見えた」「あ、よい、よいよいやさと♪♪・・・♪」
風呂のエコーに気分よく、薩摩島津の家紋と桜島にこよなく、気持ちをこめて・・・。
あ~あ、のぼせてしまった。

そんな竜馬ハネムーンも束の間、「後竜馬襲撃に何カ月とか何十日」との案内に竜馬終幕が師走の慌ただしさをかき立てているようである。

二人の脱出劇と蜜月の様子はここで紹介してます

龍馬の妻「おりょう」

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龍馬のもう一人の妻「千葉佐那」

Sanako302                      「千葉佐那」が眠る甲府市朝日町の「妙清山清運寺」

「龍馬のもう一人の妻」として生涯を閉じ「千葉佐那」は江戸から離れた甲府に何故、埋葬されたか、甲府まで赴き、「佐那」の姿を追ってみた。
「佐那」は天保9年(1838)3月6日に「千葉定吉」と「たき」の長女として誕生する。
「佐那子」「さな子」など文献等から記録が残されている。
父親の「定吉」は北辰一刀流の開祖である「千葉周作」の弟で「桶町道場」と称され環境で育っている。
「佐那」は小太刀に優れ、北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれ江戸の町では評判となったと言われている。
嘉永6年(1853年)、「龍馬」は剣術修行のための1年間、江戸遊学し、北辰一刀流の千葉定吉道場で「佐那」と出会う。
「桶町千葉」で「佐那」が「龍馬」に腕試しを願い出る。稽古は師範役の重太郎と佐那が当たり、剣術稽古とも併せ、龍馬19歳、佐那16歳師弟の間柄を越えて、若い男女の二人が自然とお互いに好意をいだくようになったと考えられる。

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桜田門外の変を受け、尊王攘夷思想が土佐におよび「龍馬」「土佐勤皇党」に加盟し文久2年(1862年)3月「龍馬」は脱藩し、土佐を離れる。再び江戸へ千葉道場にも潜伏するなど長州・薩摩など転々としている。
文久3年(1863)8月「龍馬」が姉の「乙女」あてに手紙を書いている。
馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。「龍馬」は「佐那」と出会ってから10年後、密かな想いをこのように書いて、姉に打ち明けている。
慶応2年(1866年)1月「龍馬」の奔走により「薩長同盟」が成立。伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げたが、伏見奉行が「龍馬」捕縛の為に200名が急襲する。「龍馬」は危うく逃れたが瀕死の重傷を負うが「おりょう」の渾身的な看病で助けられ、後日祝言を上げる。傷の養生をかね、九州の霧島などハネムーン旅行など蜜月の時代があったが、慶応3年(1867年)11月、京の醤油商「近江屋」で暗殺集団の手で襲撃され絶命する。
国事に東奔西走する「龍馬」は自然と「佐那」の間が離れてしまい、「龍馬」の死がどのように伝えられたのであろうか

◇「佐那」その後を伝える新聞記事
「佐那」は横浜に移って貸し長屋を建てて生活を始め明治7年(1874)鳥取藩の元藩士「山口菊次郎」と結婚する。
しかし菊次郎は多情で、身持ちの悪さなどから離縁し、明治14年秋には横浜を離れ千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。
従来、「佐那」は独身を貫いたと言われていたが、横浜の毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が「佐那」が一時期結婚していたことが、新聞紙上で報じられた。・・・2010ー7(毎日・東京・日経など)

明治15年(1882)桶町から千住(現千住1ー4)に移り、「千葉灸治院」始めた。明治21年(1888)に更に現仲町1ー1に移って灸治院を続けている。明治25年(1892)に「小田切謙明」と妻「豊次」が「千葉灸治院」に来院し、針灸を通じて「佐那」と深い絆が生れる。
佐那」は山梨の小田切家に訪れ針灸による渾身的な治療など往き来があったようである。
「佐那」が「豊次」を訪ねた折りに、山梨日々新聞記者が取材している

明治29年(1896)10月15日「佐那」は千住にて病気で59歳の生涯を閉じる。遺骨は東京府(現東京都)谷中霊園に埋葬されたが、無縁仏となりその後判らなくなった。
「佐那」が亡くなった後、「豊次」が谷中墓地に墓参りし無縁仏になると、危惧し、分骨して貰い甲府市朝日町の「妙清山清運寺」
の小田切家の墓所に埋葬したと伝えられる。「佐那」にとっても当地甲府は前述の通り無縁ではなかったのである。

以下で詳細をアップしています。

もう一人の妻、千葉佐那

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輝いていた「近藤長次郎」

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大河ドラマもいよいよ薩長同盟が結ばれ、倒幕の流れに潮目が変わっていく。
その間、歴史に関わる人物が次々に登場し、消えて行く。その一人が亀山社中の「近藤長次郎」であった。
その役回りが北海道で人気を博し、さっそうと中央に躍り出た今なお北海道を地盤に今をときめく役者さん「大泉洋」である。ドラマでは龍馬と共に船で最前線で携わり海運日本の先駆けを作って行くが、その過程で実にせつない死で「大泉洋」版、「長次郎」の悲劇のヒーローが生れていく。
本人曰く、僅かに残された「長次郎」の写真がそっくりさんであるのも抜擢された理由の一つと言われているが、「大泉洋」の人懐っこい、明るい朗らかなキャラクターが、そのまま「長次郎」のイメージに染色されてしまった。だから最後のあっけない死はとても切ないのである。
ここで「長次郎」はどんな人物であったか、あれや、これやと書いてみた。
◇饅頭屋から逸材
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ「長次郎」自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれたが才覚優れ名字帯刀を許された。幕末期に「饅頭屋」と言われる特異の存在に思いつくことがある。ドラマでも登場する新選組局長「近藤勇」が天然理心流の剣術修行時代の兄弟子にあたる「島崎一」も実は「饅頭屋」出身である。
「島崎一」の生家は小山にあり家号「饅頭屋」と言い、普段は百姓を行い、村祭の折や、頼まれた時に饅頭を売ったようである。竹刀で「勇」と勝負すると何時も「島崎一」が勝ったと言うから、「勇」を持っても饅頭屋にかなわず技は「島崎一」が一枚上、度胸は「近藤勇」が一枚上だったと言われている。

◇海運の道に
「長次郎」はその才能を山内容堂にも認められ名字帯刀を許さた上で神戸海軍操練所に入る。土佐藩出身である坂本龍馬と共に海援隊の前身である貿易の結社である亀山社中を薩摩藩の支援で長崎に設立する。
英語など語学力始め優れた才覚を持つ「長次郎」はグラバーなど商社を通じて銃や船を買いつけ、長州藩に売るなど、亀山社中の中でも中心的役割を果たす。

◇長次郎事件
「長次郎」は汽船ユニオン号の長州藩への売買に、尽力したことから、長州藩から謝礼金を受け、その一部を仲間には内緒でイギリスへの留学費用に充当し、海外へ向かおうとした。しかし、乗船した船が悪天候のため長崎に引き返し、海外行きが発覚される。所謂公金横領のかどで、亀山社中の隊士からの指示もあって自害したと言われている。「饅頭屋」の出身の「長次郎」は名字帯刀を許さた武士の身分で散ったのである。

◇「長次郎」の残された写真
悲劇的な末裔のその後、息子の「百太郎」は父・「長次郎」の足跡を求めていろいろと旅するうちに行方不明になってしまったと言われている。孫に当たる「百太郎」の娘さんも、戦時中、疎開先の福井で、焼夷弾に被弾し亡くなった。
「長次郎」の写真や手紙が唯一、後世に語りかける姿である。

◇「大泉洋」から語り伝えたいもの・・・本人のコメント(抜粋転記)
1)長次郎さんの最期
『そして、龍馬伝はとりあえず地獄の撮影を一旦終えました。
長次郎さんは残すところあと数シーンです。
この一週間はずっと亀山社中のみんなとのシーンを撮っていました。
あのね、長次郎さんの最期の回は本当に切ないわ。
社中のみんなとお別れするのも辛いし、なんだかずっと切ない気持ちのままの撮影でした。
深夜2時に撮影が終わって次の日もあるのに、そこからみんなで飲んだりもしました。
福山さんが飲ませてくれるお酒は本当に美味しいのよ。
大変な撮影でしたが本当に楽しい撮影でした。
社中のみんなとのシーンはもう無いけど、長次郎さんの大事なシーンがまだ残っています。
長次郎さんに恥じないように一所懸命に頑張ります!!』
2)スタジオパーク
「僕スタジオパーク出られるのめちゃめちゃ楽しみでね」「実は憧れてましたよ」

◇最後に
北海道ローカル版『水曜どうでしょう』から、全国版へブレーク、そして大河ドラマの出演、憧れのスタパへ登り詰める。「近藤長次郎」の道産子スターが今一番、輝いてみえました。

あの、切ないシーンの残像が何時までも、引きずって・・・。

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京急沿線に龍馬を追う

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京浜急行の沿線には龍馬の関わりが大変多いことは既に当ブログでも紹介している通りである。
全国的に大雨が災害を起こしているが関東では梅雨開けとも思える、夏のの日が容赦無く照りつける中、又来てしまった。
京浜大津は閑静な住宅地で駅付近に僅かな店があるが、淋しい場所である。「おりょう」の墓がある「信楽寺」がここにあり、その姿に明らかに「おりょう」をフアンが三々五々訪れている。
京で「龍馬」と出会い、寺田屋で深手をおった「龍馬」と手を携え、 九州での新婚旅行など蜜月の時代を送ったが、「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、襲撃され亡くなってしまう。「龍馬」との生活は僅か3年程で、あるがその後30年近くを横須賀で再婚し、暮らしている。墓も立てられない零落した暮らしぶりであったようだが、「龍馬」との事実が判り、没後立派な墓が立てられた。

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京急を上り「立会川」で下車する。
「おりょう」さん見たら「龍馬」に寄らない訳には行かないだろう。
「龍馬」は、嘉永6年(1853)3月に土佐藩を後に剣術修行の江戸に着くが折しもペリー艦隊が浦賀へ、更に羽田沖までに侵入する。幕府より各大名へ湾の警護を命ぜられ、土佐藩は立会川川口付近にあった土佐藩の下屋敷(現品川区大井)警護のために砲台を設置する。江戸詰の武士を含め一兵卒だった「龍馬」も動員される。
この「浜川砲台」見た黒船が「龍馬」を国防の必然性に心を開いていく。
浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが土佐藩抱屋敷であった。「龍馬」は屋敷と砲台を通ったのである。
砲台で使われた基礎の石が見つかり、砲台跡に飾られ往時の姿を僅かに留める。駅には等身大の龍馬像が出迎えてくれる。

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「立会川」駅から第一京浜を越えて浜川中学校側に行き、広大な土佐藩の下屋敷跡を確かめる。第一京浜を上り鮫洲に向かう。第一京浜に面した高台に大井公園に到着するも、此処も下屋敷の一角にその大きさに驚く。
ドラマでは丁度、吉田容堂は、吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、首領の武市半平太(瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、土佐勤王党は壊滅させられた。
容堂は幕政に参画し井伊直弼、安政の大獄で謹慎。文久3年(1863年)京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としの軍事クーデター(八月十八日の政変)佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国、土佐勤王党の大弾圧が行なわれた。
明治政府樹立まで、徳川宗家温存路線を押したが、薩摩・長州勢に主導権を握られ討幕に押し切られる。
ドラマでも酒を欠かさず飲んでいる姿に、情が入っての意見の変化が多いようである。
晩年武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだとも言われている。
その吉田容堂の墓が大井公園にある。かっては眼下の江戸湾が拡がる眺めの良いところで、巨大な石階段が隆盛を誇った財力を物語っているが、年月の経過に石段が歪んでいる。
吉田容堂の墓から海側に進路を取り、旧東海道を品川宿まで歩き、この暑さに倒れこむ様に品川駅へ

因みに京急沿線では神奈川駅の旧東海道の神奈川宿(現台町)にはおりょうさんが勤めた割烹旅館「田中家」がある。更に横須賀中央駅から米が浜通りには西村松兵衛と暮らし此処で亡くなった終焉の地碑とおりょうさんの胸像が優しく出迎えてくれる。

このように京急沿線は、旧東海道、土佐藩屋敷、砲台、おりょうさん終焉地、海軍基地など龍馬との接点が多いのである。

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晩年の「おりょう」を追って

「おりょう」は寺田屋で深手をおった「龍馬」と手を携え、 九州での新婚旅行など蜜月の時代を送った。
「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、「おりょう」は長崎から下関へと移り住み、ひたすら「龍馬」の帰りを待った。慶応3年(1867)11月、京の近江屋で「龍馬」と「中岡慎太郎」は刺客団に襲撃され凶刃に倒れ、「おりょう」のもとに知らされ、再び「龍馬」の姿を見ることはなかった。
一時土佐の坂本家で暮らしたが、龍馬が海援隊に残した金をめぐり折り合いが悪く、土佐を出る。出身地の京都で「龍馬」の墓を守って暫くいたが明治5年(1869)、弟を連れ東京に出たと言われている。

◇横浜割烹料亭で再出発

現存する割烹料亭「田中家」

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明治に入って「おりょう」は神奈川の田中家という高級料亭の仲居としても働き、美貌、回転の良さからフアンも多かったが、惜しまれつつ辞めた。
「おりょう」は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、勉強家で英語を喋り海外事情にも詳しかったと言われている。
旧東海道の一角にビルに挟まれ、横浜台町に割烹料亭「田中家」が見える。海に接する高台に位置し、この辺は風光明媚な場所に料亭が並び、賑わいを見せていたが、海が埋め立てられた現在、横浜駅の周辺の街並みを見下ろす風情に大きく変わり、尚続けているのは「田中家」のみになってしまった。
田中家の創業は江戸時代後期の文久三年(1863年)。 当店の前身「さくらや」が、安藤(歌川)広重の神奈川宿台之景に二階建ての旅篭(はたご)として描写されている。 現在では神奈川宿ゆかりの店舗として唯一の存在となり、古き良き時代を留めながら、料理を楽しめる場所として食通客が訪れている様である。

◇「西村松兵衛」と再婚、横須賀に住む

「おりょう会館」の隣に住んでいた。

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明治8年、「おりょう」が働いていた寺田屋で宿泊した旧知の「西村松兵衛」がこの料亭に遊びに来るようになる。
彼は横須賀造船所建設用の資材の回漕業をしていて、度々来るうちにおりょうさんと意気投合し、「松兵衛」と再婚し彼の住んでいる横須賀の地で世帯を持つことになった。以来横須賀に住み、「西村ツル」と名前を変える。
回漕業は長続きせず、露天商までやっているが、雨の日は商売ならず、無収入の日もあったようである。貧しいだけならまだしも、プライドの高い「おりょう」はテキ屋に類する大道商人の妻であることがみじめでたまらなくなった。誉れ多き「龍馬」の妻として、この凋落に酒で憂さを晴らすしかなかったのであろう。
明治39年(1906)1月、「松平衛」の結婚生活は30年以上に及んだが、「おりょう」は66歳でひっそりと死去した。「おりょう」と「龍馬」が連れ添ったのは、わずか3年ほど、そんなドラマを温めながら、30年近くを此処で過ごしたのである。
おりょうの終焉の地は京浜急行横須賀中央駅から「米が浜通り」に出て「おりょう会館」にあり、語りかけるような等身大、着物の姿の胸像の「おりょう」さんにあえる。
おりょう会館の裏側の路地が回漕業を営んでいたと言われる「西村松平衛」と暮らした場所で「坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地」の碑も建ってある。

◇信楽寺には立派な「おりょう」の墓

巨大な「おりょう」の墓

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京浜急行大津の信楽寺には立派な「おりょう」の墓があるが、「鈴木清治郎」の尽力によって建てられた。「清治郎」は大道易者であり、「松兵衛」も露天商を営んでいたことから知り合い「おりょう」の存在を認めた。
 横須賀の裏長屋のその家に「松兵衛」の妻「西村ツル」が「自分は坂本龍馬の妻・おりょうだ」を自ら名乗り、酒好きの鉄火婆さんだったと「おりょう」を評している。
折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となりおりょうの存在が世に知られる事にもなる。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
「清冶郎」は「松兵衛」の家を訪ねたが、既に「おりょう」が亡くなったことを知る。(明治39年)。
 しかし、夫・「松兵衛」は零落しており、墓もないとのことなので、自分がおりょうのためお墓を建ててやろうと思いたち、大正3年(1914)皇室の要職にある水戸藩出身の香川敬三や横須賀鎮守府長官などからの支援により改めて建てたのが、現在の横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。
「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。敢えて「西村」を名のらず姓を阪本の名を使うのは「龍馬」とのよい思い出が語り継がれることが供養になる」と住職は解釈している。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。「龍馬」はもとより支えた「おりょう」にも正四位が贈られた。    詳細は下記で纏めている。

龍馬の妻「おりょう」

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龍馬をめぐる3人の女性

大河ドラマもいよいよ、操練所の開設や京の街の舞台に天誅組やそれを取り締まる新選組も登場してくる。ドラマの進行に龍馬をめぐる3人目の女性である、おりょうさんも登場し英雄、色を好むではないが、これ程、女性に好かれるも、龍馬ならではの話しなのであろうか?。ドラマを日めくり、登場する女性を追ってみた。

「平井加尾」

佐藩郷士・「平井収二郎」の妹。「龍馬」とは幼なじみの中の特別な存在であった。「収二郎」は「龍馬」の幼なじみだが、優柔不断な「龍馬」を嫌っており「龍馬」と「加尾」が近づくことを警戒した。
兄の「収二郎」は、「加尾」によい縁談がくるよう花嫁修業を積ませているが、「加尾」は龍馬に思いを寄せていた。

そんな折りに土佐藩で尊皇攘夷(じょうい)の運動が起こると「収二郎」は「加尾」を朝廷工作として三条家恒姫(信受院)の付き人となり、京に送らさせ、兄によって二人の間は完全に引き裂かれてしまう。

「千葉佐那」

江戸の名門・千葉道場の娘。千葉道場を代表する剣術の腕をもっているが、負けん気が強く男たちからは「鬼小町」と呼ばれ敬遠されている。江戸に剣術修行に来た「龍馬」と出会い、激しい剣さばきに「龍馬」をも震撼させるほどであったが、一方ではしんしに剣に向かう「龍馬」の姿に「佐那」思いを寄せていく。
男勝りの佐那に手を焼きながらも、よい縁談に恵まれるようにと願う妹思いの兄である。佐那が龍馬に思いを寄せていると知り、二人を結びつけようと画策する。

「平井加尾」と違って家族ぐるみ、龍馬との良縁と積極的に支援するが、勝海舟のもとに走り海外雄飛に将来をかける「龍馬」には未だ結婚する道は無かった用で「佐那」の気持ちは叶わなかった。「佐那」の「龍馬」に対する思いは大変強く、生涯を思い続け、とうとう独身のまま没してしまう。

「楢崎 龍(ならさきりょう)」

養父「楢崎将作」は勤皇派の医者で安政の大獄で獄舎入りし、釈放後病死する。龍馬と出会ったころは、母と妹2人と弟2人を肩を寄せ合うように住んでいた。

京都の東山区本瓦町(かっては大仏と言われる所)に土佐の脱藩浪士の隠れ家となり、勤皇派「将作」の繋がりから母「貞」が世話役として住み込み、龍馬との出会いが生れた。「龍馬」が寺田屋で大量な幕吏たちに襲われ、「おりょう」の機転で瀕死の重傷を負いながら、薩摩藩伏見屋敷に救われる。

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「龍馬」と「おりょう」は祝言をあげ傷の治癒をかね、長崎、薩摩へ温泉地を含め新婚旅行に出かける。霧島温泉は日本最初のハネームーンとして観光地として光を浴びているが、「高千穂の峰」での二人の手を携え登山する姿は一番輝いていた時ではあったが、束の間の幸せな時であった。
その後、「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、「おりょう」は長崎から下関へと移り住み、陰ながら支え続けた。
慶応3年(1867)11月、京の近江屋で「龍馬」と「中岡慎太郎」は刺客団に襲撃され凶刃に倒れ、「おりょう」のもとに知らされる。

「おりょう」と「龍馬」が連れ添ったのは、わずか3年ほど、そんなドラマを温めながら、横須賀で再婚し30年近くを此処で過ごしたのである。

折角、掴んだ幸せも、若くして散った「龍馬」との蜜月の時代は2年にも満たない、束の間の間に「龍馬」は駆け抜けていってしまったのである。

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龍馬と千葉さな(一部修正)

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「龍馬」が江戸に行き、北辰一刀流の千葉道場に入門する。桶町千葉道場を開いた千葉定吉の娘の「さな」と出会い、「さな」が「龍馬」に腕試しを願い出る。
「さな」の息する暇無く、激しく襲いかかり素早い竹刀さばきで打ち込まれ、土州藩士に剣客とも言われた「龍馬」も圧倒され、江戸の剣術のすごさに驚かされる。
そんな「さな」の逞しく凄い姿が、大河ドラマからの印象であった。
「千葉佐那」千葉さな子とも呼ばれる。
桶町千葉道場を開いた千葉定吉の娘。初名は乙女。
小太刀に優れ、10代の頃に早くも皆伝の腕前に達し北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。
美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれたという。
16歳のころ、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた「坂本龍馬」と知り合い、後に婚約を交わしたとも結婚したとも言う。龍馬が姉・乙女に宛てた手紙いわく、馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。
龍馬の死を知った後も彼を想い続け、一生を過ごした。
「さな」の実像は果たしてどんな姿であっただろうか、口伝しか伝わらず、絵や写真は無く全くの想像の世界であった。
そんな背景の中で「さな」を描いた錦絵が見つかり、朝日新聞にも報道される位に話題になった。
しかし最近になって錦絵の作品の中に長刀(なぎなた)を手に取って男性と戦っている女性は「千葉貞(てい)」で、千葉周作の孫、周之助之胤の姉妹にあたることが判り、「さな」とは別人であることが判った。錦絵が描かれた撃剣会の番付表が残っており、そこに「千葉てゐ」の名前が確認でき、菩提寺の仁寿院の墓所にも「千葉貞」の名前が刻まれている。ことなどそれを裏付ける記録が確かめられている。

明治6年(1873)深川で開催された千葉一門の撃剣会の様子を描いた3枚1組の錦絵に描かれてあった。当初、「さな」節を発表されたのは龍馬研究者の京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんであったが、誤りであったことを認められたようである。

維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、千住にて家伝の針灸を生業としてすごした。死後、身寄りがなく無縁仏になるところ、山梨県の民権運動家として知られる小田切謙明が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の日蓮宗妙清山清運寺に墓がある(引墓のようである)。墓石には『坂本龍馬室』と彫られている。

「龍馬」の妻となった「おりょう」による千葉佐那評が悪意に満ちていることを考えると、龍馬と佐那との関係はかなり深いものであり、坂本家での佐那への認識が相応のものであったと推定される。
「おりょう」は当サイトでも紹介した写真でもある通り、まれに見る美人であり、再婚しているが「さな」がどういう姿であったのであろうか・・・。両女性共「龍馬」を思い続け,ひっそりと亡くなっているのは共通しているところである。
2001年に「おりょう」の写真を見つけ出したのも宮川禎一さんであり、今回も龍馬に関わる新真実を発見されており、幻の世界から実像の姿に繋げる探索力にわくわくさせられたが、残念であった。

新聞・TVにしても、センセーショナル記事に疑いもなく、乗せられ、後になって実は言う話しに、中々修正報道、記事は目に付かない。後になってネットによって初めて見る事実に、メデイア情報の危うさも伺える。特に歴史記事は感情によって流されることもあるようだ。

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龍馬と黒船

Image111                                                          <龍馬像>

「龍馬」は、嘉永6年(1853)3月に土佐藩を後に剣術修行の江戸に着くが折しもペリー艦隊が浦賀へ、更に羽田沖までに侵入する。
幕府より各大名へ湾の警護を命ぜられ、土佐藩は立会川川口付近にあった土佐藩の下屋敷(現品川区大井)警護のために砲台を設置する。江戸詰の武士を含め一兵卒だった「龍馬」も動員される。黒船は砲台から約6㎞、望遠鏡によって確認出来る距離まで近づいた。
翌年、ペリー艦隊7隻が再度、浦賀へ来航し、ワシントン・バースデイの祝砲を放ち、「龍馬」はこの地鳴りのような轟音を浜川砲台で聞いている。
この煙を吐きながら疾走する異様な船影と砲の威力の衝撃的な出会いに、「龍馬」は驚き、江戸市民を恐怖のどん底に陥れ戦々恐々とする。「龍馬」はもとより、吉田松陰、佐久間象山もこの異様な姿を見届けようと浦賀まで来ている。
目の前の黒船に異国と自国の軍事力の彼我の差に愕然となったようである。
「軍(いくさ)も近き内と存じ、承り候。その節は異国の首を討ち取り・・・」と衝撃的な事実を父親に送っている。

浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが土佐藩抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。
ここは土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府の許可を得て、翌年「浜川砲台」と言われた砲台を造った。砂浜の柔らかい土地を石、土砂で埋立2300坪に拡大させている。警備陣は「品川下屋敷」を宿所としてこの砲台に配置されていた。

「浜川砲台」と「品川下屋敷」を結ぶ連絡路は現在の立会川商店街であり、その距離約200mである。若き日の「龍馬」も警備陣に加わっており、この道を「龍馬」がさっそうと毎日歩いた。

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そんな姿を確かめたく、京浜急行立会川へ行ってみた。「若き日の竜馬が行く、はまかわ砲台」「龍馬の街」と旗、看板とまさに立会川商店街はまさにブラックカラーからブルーカラーの龍馬一色で塗りつぶされ盛り上がっている。 再び、戻った「龍馬」も恐らく、この姿に黒船以上に戸惑い驚くであろう。商店街が町おこしにかける、地域のエネルギーを見るようであった。
立会川駅近くの小公園の一角にかっこいい龍馬像もある。「龍馬」の像は2004年龍馬研究家の小美美濃氏を通じ、高知市と品川の交流が始まり浜川砲台の礎石の一部を高知市へ贈る一方、高知市から寄贈された。
歴史には一見遠そうな女子校生やおばちゃん達までも、携帯かざし、パチャパチャと賑わいを見せていた。動機はどうあれ今を時めく「龍馬」が此処でも、人集めに一役買っているのである。
立会川沿いに「浜川砲台」の看板表記にある種の期待感を持って訪れたが、運河の護岸壁の隅に置かれた、育種かの巨岩のみであった。
説明が無ければ、何の変哲もない只の石であるが、恐怖に陥れた黒船を迎え討つための、先人が残した貴重な歴史遺産なのである。
こんな所にも「龍馬」が居るのである。龍馬の姿を以下追ってみた。

坂本龍馬

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