カテゴリー「20、坂の上の雲」の記事

絵画館と周辺に残す戦前の遺稿

プーチンを首相の故郷、山口まで招いての日露交渉、北方四島返還は日本の思い込みだけが一人歩きして、テーブルにも乗らず、厳しい現実に叩きつけられた。
第2次世界大戦後、日本は旧ソ連から宣戦布告を受け、日本は敗戦、終戦後はアメリカのGHQにより北方領土を含む日本の行政権を停止された。
これにより北方領土はソ連の領地となり、千島列島の領有を放棄した。
1951年サンフランシスコ平和条約で戦勝状態は終結し、日本の領土占有も解除された。
但し、北方4島の旧ソ連とは個別の条約が必要であった。
1956年、日本と旧ソ連との条約で日本は歯舞と色丹、旧ソ連は国後と択捉を所有することで話を進めていたが、アメリカが反対し、この妥協なら沖縄返還はしないと横やりが入り、交渉は行き詰まった。
第2次世界大戦の戦勝国の既得権がそのまま、まかり通り、その糸口さえ掴めないのが現状である。
◇此処にもある、樺太国境標
北方四島と言うと避けて通れないのが樺太国境標である。
第2次世界大戦前にあったロシアと日本との間には樺太国境標があった。
そのモデルが明治神宮絵画館の前にひっそりとあり、改めて見てきた。

Img_6881何故、此処にと言うと、司馬遼太郎作品「坂の上の雲」の語りに繋がってしまう。
(日本海海戦)
清(中国)の遼東半島(りょうとうはんとう)という場所は、不凍港として戦略的に重要な位置にあり、南下を図るロシアと遂に日露戦争になる。
日本のような小国は極東で大ロシア帝国と戦える程の実力はないと、巨大な軍事国家ロシアは南下を続けた。 ロシアは旅順の要塞の強化し、シベリア鉄道で満州に兵力を送る侵略意図を持ち続け、遂に開戦に突入した。
世界に冠たるバルチック艦隊がヨーロッパから日本海に向かってやってくる。
日本海軍の連合艦隊は、戦艦:三笠、敷島、富士、朝日  巡洋艦他で迎え撃ち。
練度の高い艦隊を背景に東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀で、恐れたバルチック艦隊を戦艦6隻、巡洋艦4隻撃沈し、日本が勝ってしまう。
(英国の海軍研究家評)
この海戦は白人優勢の時代は終わった、歴史上の一頁。欧亜という人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるを得ないであろう。この海戦が世界史を変えたことを指摘している。
(講和条約)
明治38年(1905)アメリカのポーツマスにおいて、我が国とロシアは講和条約をに調印し、日露戦争は終結した。
米大統領ルーズベルトは我が国の講和斡旋の依頼に応じ、ロシアに講和の席に就く様勧告した。
ロシアが応じ講和会議が開かれ講和条約の調印に至った。
樺太の南半分を日本に割譲することなどが定められた。
◇樺太国境画定(かくてい)
明治39年、両国委員は国境線に至り、ボロナイ川以西の境界測量は我が国、以東は日露共同で作業を実施した。
国境画定は森林を伐採しつつ調査・測量を行い、東はオホーツク海沿岸から西は間宮海峡に至る130㎞の森林ツンドラ地帯のため、人跡未踏の場所も多く、国境線上を登破は容易ではなかった。
両国の委員は日夜山野を踏み越え水を渡って露営の生活を続け、ボロナイ川上流を初めに天測境界標を北緯50度線上に4基、中間に17基の小標識を設置した。苦心を重ねての、国境画定と言われている。

◇日本海海戦の立役者「秋山真之」
樺太国境標は小国日本が近代化への道しるべと思われる。その遠因とされる日本海海戦の立役者がこの近くに住んでいた。オリンピックで再び掘りおこされる国立競技場周辺の原は青山練兵所として、日清日露の兵士の集結場所でもあり、軍人幹部も周辺に住んでいた。
そんな過去の残影から、自然と足がそちらに向いてしまう。

JR信濃町から四谷三丁目側に向かい、左門町の手前で聖教新聞社本社が面する路地に出る。
此の路地の一画が明治・大正・昭和にかけて文筆活動を続けた「長田幹彦」の邸宅であった。
石壁に囲まれた邸宅で、この辺りは戦災にあわず、昭和30年代まで周辺は戦前からの建物がそのまま残されていた。

Image8
その長田邸の先住者は、バルチック艦隊を日本海で迎え撃つ歴史的な日本海海戦の旗艦三笠で活躍した軍人「秋山真之」である

200pxakiyama_saneyuki1
日本海海戦で、旗艦『三笠』のマストに高々と掲げ、戦闘開始指令「皇国の興廃、この一戦にあり。

各員一層奮励努力せよ」の起草者が秋山中将であった。軍人には似合わぬ海軍切っての名文家と知られている。

絵画館から信濃町新旧織りまぜた佇まい。微かに残す戦前の姿、司馬遼の「坂の上の雲」此処から、大勢の若者たちが、戦地へ駆り出されたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Stand Aloneの心地良い、響き

終日、雨の予報と今にも降りそうな気配に傘を持って本陣に出かけた。
旗を掲げても、雨が降れば、撤収するのも、かったるいなあと思いつつ、何時もの様に
10本近くの旗を担ぎ、通りに面した場所に掲げ、いざ本番に備える。
しかし、結局は降らなかったばかりか、午後から日も出てくる天気に、予報が思い切り外れていた。
「なんてこったい、嘘つき天気予報め」
と思ったが、その雨降りの前触れもあったが、寒さもあって、出足をくじかれ、休日にも関わらず、何時もと違い、一桁違う寂しい来館であった。

100坪の館内の片隅に固まって、カーペットと電気ストーブで暖を取りながら、出番を待つ。拝は寒冷地仕様と皮下脂肪で、差程、寒さは苦にならず、まあ、我慢できる。
こんな日に限って、天候なにするものぞと歴史、取り分け幕末にかなり造詣の深い、ヘビーユーザも多い。こんな閑散であっても、対話の中で学ぶことも多い。

そんな一時、一通り、説明が終わっても、人気のない部屋で、立ち去り難く、その雰囲気・歴史の空気を確かめている。
静かに歳三や彦五郎の姿を追っているのであろうか、・・・。
「どちらからお見えですか」
「愛媛からです」
熱心な女性フアンである。
「愛媛? ・・・と言うと大河ドラマの"龍馬"」
「いえ、龍馬は高知、今は"坂の上の上の雲"です」
咄嗟の軽はずみな言葉に、丸抱えで四国の文化圏は一つとの勘違いで、思い切り外してしまった。

            坂の上の雲のエンデイングで登場する印象的なシーン

Question_ph011

その坂の上の上の雲は3年に亘る放映で、惜しみつつも終わってしまった。
朝の散歩で携帯ラジオは必携で出かける。
たまたま聞いていたのがNHKで偶然にも、聞き覚えのある、メロデーが流れる。
ああ忘れもしない、"Stand Alone", であった。

「ちいさな光が 歩んだ道を照らす
希望のつぼみが 遠くを見つめていた
迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し・・・・」♪♪・・・♪

街中を歩きながらも、テーマ曲に映し出される、山の尾根の先にたなびく雲の情景が浮かんでくる。
実に響きのある素敵な唄である。
作った作曲家も坂の上の雲を熟読した上で、練り上げられた "Stand Alone"であった。

数有る司馬遼太郎作品が大河ドラマで取り上げられ、放映された。
坂の上の上の雲も何度かエントリーされたが、司馬遼太郎は頑に断った。
そして、故人となってから、漸く放映が実現された。
今頃、坂の上の上のたなびく雲の上から、司馬はきっと見ているだろう。
生きていればどんなコメントが返ってくるのであろうか・・・。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

日本海海戦

                   <戦艦三笠の主砲>Mikasa14

年越しのロングドラマも最終回を迎え遂に終わってしまった。
高い山の切り立つ尾根筋の瓦礫を背景にたなびく雲を背景に流される、あのテーマ音楽が、何時までも耳に響き、わくわくするような感覚に思わずテレビの前に釘付けになってしまった。
12月28日の朝日新聞に"戦艦三笠、39年振りのにぎわい"と報じられ、年間見学者が、平時10万人 を越え、18万人を越える勢いであること、改めてNHKドラマの影響の大きさを感じさせられる。
拝も5月に横須賀に押しかけ三笠艦橋に登り、三笠に見学した中の一人であった。
最新鋭戦艦4隻を擁し、世界最大・最強レベルと言われていた巨大艦隊のバルチック艦隊を日本海で向かい撃ち、完膚なきまで叩き日本艦隊の勝利で、ドラマは終幕を迎える。
海戦が何故これまでに完璧終わったか、節々に伝えている。

             <情報戦で活躍した三六式無線電信機>    Mikasa4

1 )情報能力のツール
戦力を集中して1箇所でバルチック艦隊を捕捉迎撃するには位置と向かう方向が大事な情報である。
ロシアが有視界の旗信号に頼っていたが、貨客船「信濃丸」の三六式無線電信機から、日本艦隊に いち早く情報を伝え、大事な役割を果たしている。
モールス符号を使った無線電信は当時の最新鋭のものであったが、古典的な原理の無線機であり、モールス符号も既にプロでは使わなくなり、趣味のアマチュア無線の一部で使われている程度に淘汰されてしまった。

それはさておき、いち早く伝えられた情報を基に、艦隊編成を伴う次の作戦計画にに如何に重要であったかを物語る。

2)「丁字戦法」で緒戦を飾る
この時代の軍艦は砲の多くが舷側に並んでいるので、横方向に砲撃できる単縦陣が主流であった。
先頭をいく旗艦「三笠」は大胆に敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった。
しかし、敵前での回頭は危険の状態を晒し、ドラマでも当初は先頭の「三笠」に攻撃を集中し、多数の命 中弾を受けていた。そんなリスクを負いながら、単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、進路を横にふさぐ形の、丁の字の体勢を形成する。
敵の後続艦が遠いうちに、味方の全艦艇の側方から先頭艦へめがけて一斉に砲撃する。連合艦隊の砲弾が バルチック艦隊先頭の2艦に多数命中し、「オスリャービャ」と「クニャージ・スヴォーロフ」で火災が発生する。

緒戦の砲戦でバルチック艦隊は統一のとれた艦隊運動が行なえず、連合艦隊が追撃し集中砲火で多数の艦船が炎上や沈没へ向かう。

        <伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭>               Mikasa3

3)『飛んでくる水雷』
秋山真之が大本営に打った伝文が「天気晴朗なれど波高し」の天候であった。
軍艦の装甲構成は艦の水線付近は厚く施され、水線以下は海水が土塁の役割を果たし、装甲は全くされて いない。当日は波高しでロシア艦隊が絶えず動揺し、腹(水線以下)を見せるために其処へ日本の砲弾が命中し、海水が入り艦は傾き沈んだ。波高しは魚雷と同じ結果を引き出した下瀬火薬を詰め込み伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭である。
『飛んでくる水雷』とも言われ恐れられた三笠の後部主砲下に置かれてあった。

4)射撃能力の高さ
鎮海湾で砲員の訓練で日本艦隊の射撃能力の高さはロシアの倍以上。100発中70発の命中の域に達し新たな数隻の戦艦、装甲巡洋艦などが戦列に加わった鮮烈に鮮烈にを増加した結果になる。
砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。
数隻の戦艦、装甲巡洋艦などを増加した結果になる。砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。

◇勝利に終わったが
撃沈された戦艦6隻、巡洋艦4隻、 死者約5000人、捕虜6100人 華々しい戦火を上げた大勝利に終わった。
しかし、連合艦隊の凱旋を前に三笠は佐世保港内の係留中に謎の爆破で、339人の船員と共に海底に沈没してしまう。

坂の上の雲の主役秋山真之はこの海戦の中枢を担う一人として活躍した。
戦略家として卓越した手腕や、文書も非凡な才覚を持ち、海軍幹部として将来を約束された逸材であるが、天才と狂人が同居しているとも言われ、穏当な官僚でもなくこの海戦で燃え尽きてしまったのか、50歳で病死してしまう。

華々しい海戦の陰に、こうした事実も、残しながら、歴史的な海戦であった。
NHKドラマとして、何度かエントリーされながら、消え、司馬遼太郎没後、3年越しのスパンで漸くドラマは終わった。
三笠の見学を含め、その姿をこちらでも書いてみた。

軍艦 三笠

| | コメント (2) | トラックバック (0)

広瀬中佐

司馬遼太郎の代表的長編小説「坂の上の雲」は2009年から3年にわたって放送されいよいよ大詰めを迎える。
放映は1回1時間半の番組を13回(1170時間)にわたって放送するが、年に4~5回程度放送し、3年かけて完結される。
時間と金をたっぷりかけてじっくりと熟成させるようであるが、年末限定だけに、1年間のブランクは間延びしてしまいその間の記憶が薄れ、再放送版で、ようやく記憶を蘇らせ、ドラマの連続性を繋いでいるような感じがしてなら無い。
時間と金をたっぷりかけてじっくりと言う背景から、このような変則的な大河ドラマになるのであろうか。
まあ、そんなことはさておき、今年の歴史旅の印象的な一つはやはり軍艦三笠であった。
10数人の仲間を引き連れ、横浜、横須賀へ、予定したが、3.11の地震で鉄道の乱れが長く続き、止むなき延期する。

更に延期後5月28日は2号台風を迎えると言う、最悪の事態であった。天地異変が、付いて廻り、神がその旅行きを阻んでいるようでもあったが、それでも雨の中、僅かな欠席者もあったが、皆の熱意で決行した。

おりょうさん縁の横浜の田中屋、横須賀のおりょう会館に次いで、行ったのが軍艦三笠であった。
雨の中、滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役の大きな砲門が実に印象的であった。

           <広瀬武夫の写真>

Hirose_takeo 短い時間の館内見学であったが、色々見る中で、広瀬武夫の写真の前に引き寄せられた。その夢とロマンが広瀬役を演じる藤本隆宏が重なりあい、ドラマのシーンが浮かび上がってくる。

                  <広瀬武夫役を勤める藤本隆宏>

Inter09_visual01

広瀬は日露戦争を予期し、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友し、ロシアを第二の故郷とこよなく、愛する存在になる。
友人のボリスとは絆を深めたが、日露戦争によって、そんな友情も、打ち砕かれ、敵味方となって相まみる悲劇が生れる。
中でも広瀬を愛し慕われていたアリアズナと語り合いや、広瀬が亡くなり、日露問わず、多くの人から、死を悼むシーンは思わず胸が熱くなってしまった。
広瀬役の藤本隆宏も以下のように語っており、広瀬役になりきっている姿が何とも共感をも呼ぶ。
「役者としてはあまり良くないのかもしれませんが、実は広瀬が亡くなる第9話の台本を読むと必ず涙が出てしまいます。」

                  <ロシアへ留学時代>Inter002

その死は広瀬(死後に中佐)と共に顕彰され、万世橋駅前に広瀬と共に銅像が建てられたが戦後撤去され、その陰も形も無くなっている。
他にも飛騨護国神社などに碑が建てられたようである。

文部省唱歌にもなった『広瀬中佐』の歌詞の最後の部分が何故か拝の幼き子供時代にも、意味の判らないまま伝わり記憶の中から蘇る。
♪♪・・・♪轟く砲音(つつおと)飛び来る弾丸(だんがん)
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ)杉野は居ずや」

広瀬は第2回の旅順港閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死。享年36。即日中佐に昇進した。

                <広瀬の遺体はロシア軍により手厚く埋葬>

Image1流れ着いた遺体はロシア軍により埋葬された。

ドラマはバルチック艦隊を迎え、終幕を迎える。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

戦艦「三笠」と「龍馬」

              戦艦「三笠」Mikasa1横須賀を語るに欠かせないのは何と言っても、軍艦「三笠」である。
この「三笠」を代表とする海軍と「龍馬」は唐突に思えるが、意外と繋がりがを持っている。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
この横須賀に「龍馬」の妻「お龍」は晩年、此処で過ごし、静かに眠っているが、少なからず影響した人物が居る。

「龍馬」と一緒に行動した「菅野覚兵衛」と言う人物が、「龍馬」の没後もその遺志を継ぎ繋ぎ役を担っている。
「菅野覚兵衛」は土佐藩の庄屋の三男として生まれる。土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)、山内容堂を警護する五十人組に参加し上京し、龍馬らともに勝海舟の弟子となる。神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加し、長崎で亀山社中(のちの海援隊)を結成し、物産・武器貿易を行う。第二次長州征討(四境(しきょう)戦争)では社中の船・乙(いっ)丑(ちゅう)丸(まる)(ユニオン号)の艦長と海援隊隊士として活躍する。
慶応3年(1867年)11月15日の「竜馬」は暗殺されるが、翌・慶応4年(1868年)3月、生前の「龍馬」の希望もあり長崎で「お龍」の妹・起美(三女)と結婚する。「竜馬」とは土佐勤皇党以来の同志で、生前既に義妹を嫁に推挙するぐらいに「覚兵衛」と言う人物を信頼していたものと思われ「龍馬」とは義兄弟となる。
「覚兵衛」は戊辰戦争に従軍し奥羽地方を転戦する。維新後アメリカに留学し、帰国後は勝海舟の紹介で海軍省に入省し、艦政局運輸課長、横須賀鎮守府建築部長などを歴任して海軍の要職を担う少佐となる。
「お龍」は「竜馬」没後、自立の道を模索し、明治7年(1874年) 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いたのも「覚兵衛」の紹介とも言われている。
明治8年(1875年)「お龍」は「西村松兵衛」と再婚し、西村ツルとなり、「松兵衛」の住む横須賀で暮らした。
西村松兵衛は呉服商として、寺田屋時代の「お龍」と旧知の中であったが、維新の動乱時に家業が傾き横須賀に移り住み横須賀造船所建設用の資材の回漕(かいそう)業を行い、後に露天商などで生計を立てていた。
再婚は「松兵衛」が「覚兵衛」の家に出入りし、「覚兵衛」の紹介されたと言う説もあり、何れにしても「お龍」の晩年はこの「覚兵衛」が深く関わりを持っていたことが判る。
こうしてみると晩年の「お龍」が横須賀の地で暮らすことは「覚兵衛」の存在が大きく、少なからず海軍との繋がりが見えてくる。

さて、その三笠であるが、「坂の上の雲」が司馬遼太郎が亡くなり、スペシアルドラマとして漸く取り上げられた。
これまで、司馬遼太郎の多くの作品が国営放送の大河ドラマで放映されるが、「坂の上の雲」だけは何度かエントリされながら、中々実現しなかった。
大国ロシアのバルチック艦隊を破り、東洋のちっぽけな国の黄色人種が晴れて評価されたのが、この三笠率いる、日本艦隊であった。
尖閣諸島の領海侵犯、クナシリ・エトロフの領土権の主張など国を取り巻く環境は憂慮すべき事態に陥ってしまっている。
誇大妄想かもしれないが、忘れかけた歴史遺産と関わった先人達が、弱腰の外交に、なにも言えない国に成り下がってしまった現状に、きっと歯がゆい想いで見ているに違いない。

         戦艦「三笠」の艦橋から、俯瞰するImg_05561

当サイトでも紹介したが、台風影響下の雨の中、三笠に再開した。滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
睨みを効かす大きな砲門が火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役はこの砲門と、射撃能力の高い訓練された砲手達であった。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
今にも洋上に走りそうな艦上で、高揚した感覚は雨をも吹き飛ばす世界に暫く心酔した。
時代は遡り、慶応2年6月、第二次長州征討の四境戦争で、「高杉晋作」率いる5隻の軍艦に「龍馬」の乙丑丸も含まれていた。
朝もやで視界の悪い、関門海峡を静かに進み、長州艦隊は、数百にのぼる軍艦が集結していた幕軍目掛けて一斉に艦砲射撃を開始し、幕軍を大混乱に陥れた。その勝因も長州艦隊の連動した操船と長州軍の砲弾の命中率は高さであった。
こうしてみると、近代戦争の走りは既に四境戦争で始まっていたのではとさえ思えてくるのである。
この艦橋に立つと、失ってしまったナショナリズムがフツフツと自然と沸いてくる。
何故、三笠がバルチック艦隊を破ったか、そんな視点で書いてみた。

軍艦 三笠 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「坂の上の雲」と榴弾砲(りゅうだんほう)

Uragac201

何れ、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でもこの榴弾砲が光を当てられるだろう。
観音崎へ行った折りに、砲門をやや上向きに構えるこの巨大で異様な28サンチ榴弾砲に出会いびっくりした。
東京湾につき出した岬であるため東京湾防備の拠点として明治13、28年の間、観音﨑各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が築かれる。これらの砲台は日清、日露戦争に活躍したもので、関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されている。この場所は「南門砲台跡」で残念ながら当時を忍ぶ物は残されていない。
外国の軍艦の襲撃を守るため、主要な海岸にはこの28サンチ榴弾砲が据えられた。砲弾の直径が28cm.長さ75cmで飛距離は7800mで、およその目安は対岸の房総半島の富津岬まで飛ぶ実力をもっている。観音崎には当時東京湾を守るためにこの榴弾砲を備えた砲台がいくつもあった。

明治37年、日露戦争の旅順要塞を攻撃するも、難攻不落に第1回の総攻撃で約1万6千人の大量な犠牲者を生み、ながらも落せず消耗戦となった。
築城攻撃だけで要塞は落ちずやはり砲兵火力は絶対必要であると、第1線の前線から大本営に繰り返し弾薬の補給を要求していたが、既に底を付き送れないのが当時の国力であった。但し、要塞砲の28サンチ榴弾砲の弾薬ならあると、言うことで急遽使われたのがこの砲であった。
再度の総攻撃に 28サンチ榴弾砲を、日本内地の要塞にあったものを取り外し、短期間で陣地に据付た。
戦時下の緊急事態ではあったが、元より建築機械重機のない時代だけに、人海戦術でこの大きな砲を据えつけたと言われている。
早速実戦で撃ち込んだ威力が大変大きく、難攻不落に膠着状態であった要塞に攻略の糸口が生れ、旅順要塞の陥落の大きな役割を果たしたと言われている。
旅順攻略に若し28サンチ榴弾砲が無かったら旅順の攻略は更に長引いたとさえ言われている。

展示される28サンチ榴弾砲は模型である。平和を甘受する世の中、昔はこのような時代があったことを思い起こしてもらうために、観音崎公園のボランテイアさんの労作である。
周辺は要塞地帯として明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上、立ち入りなどを厳しく制限した。
そんな機密の世界が戦後ベールを脱ぎ、軍事施設は埋設・撤去されるなど、公園として手を加えられたが、戦争遺構として未だ当時の姿を留める。観音崎公園として蘇った一帯は観音崎の海岸線の風光明媚な姿とも併せ、鴨居側から観音崎、走水と戦争遺構をたっぷり確かめることが出来る。以下で纏めてみた。参考までにご案内します。

東京湾要塞地帯

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「伊藤博文」と「安重根」

Koreaa31

<韓国独立運動家「安重根」>

「坂の上の雲」で俄に旅順がクローズアップされる。
明治42年(1909)10月26日現中国東北部のハルピン駅頭で訪れた明治の元勲で初代韓国統監であった「伊藤博文」が射殺された。犯人は北朝鮮・海州(へじゅう)生まれの韓国独立運動家「安重根」(アン・ジュングン)であった。
「安」は捕まり、旅順監獄に収監され、1910年3月1日に絞首刑にされた。「安」が処刑される直前に獄中で書いたと見られる「独立」の遺墨が有名でこれまで、韓国始め、日本にも複数見付けられている。
「独立」の遺墨は「安」の思想の中核を表したもので朝鮮半島の民族的英雄とも言われている。

Koreaa32 <「独立」の遺墨>

「安」の遺墨は「独立」と横に書かれ、その左側に「甲戌(こうじゅつ)二月 於旅順獄中 大韓国人安重根」とある。「甲戌」は安が処刑された年の1910年を指す。
「安」の遺墨の特徴は署名の下に押されている墨の手形である。
左薬指は抗日を誓って同志と「断指同盟」を結成した際に第一関節で切断されたため、小指と同じ位の長さになっている。血判書は見るが、「断指」の生生しい姿は、その思い入れの強さの現れである。

ン十年前のことであるが、私が初めて韓国に行ったおり、たまたま起きた事件がきっかけにこの遺墨の思わぬ出会いがあった。

忙しい仕事の中、休みはしっかり取れた休日に言葉もままならない無謀な鉄道の一人旅で、不覚にも不正乗車で取ッ捕まってしまった。当初は居丈高の犯罪者扱いであったが、どうも購入した切符が、謝って購入したことで、特に他意のないことが判明し、無事嫌疑が晴れた。そればかりか、駅長室では茶のサービスまでの持てなしに甘んじ、一外国人として丁重に扱ってくれた。

その、長くて拘留された駅長室に掲げてあったのが「安重根の遺墨」であることを駅長から教えてもらった。
当時、歴史に無頓着であったので、「安重根」も全く判らなかったが、後で気心の知れた韓国人スタッフにこの話を伝えた。スタッフからこのような遺墨を掲げる、駅長は安重根を民族的英雄として讃える代表的な抗日家の一人であること、教わり、思わず身震いさせられた。
安重根が絞首刑された 三月一日はサムイル節として、抗日独立運動に命を捧げた記念日として祭日になっている。
当時、我々日本人スタッフも一緒に仕事を休み思わぬ韓国の祭日を甘受した。しかし国民感情が悪い中、安重根を讃えるこの民族的祭日は、日本人が悪感情のターゲットになっていた。外の食堂もトラブル回避ともあって「日本人お断り」の張り紙さえ貼られるなど、外部、取り分け繁華街は出られず、宿舎でおとなしく、固まっていた。

この日に限って、サムイル節は日本人とって、居心地の悪い一日でもあった。韓流に沸き返る今日、日韓を往復する交遊は深まるが、忘れられない一日であった。

当時のことを此処で紹介してます韓国プラント建設回想記

| | コメント (2) | トラックバック (0)

[坂の上の雲」と日清戦争

Seoulc02

<興礼門(フンレムン)>

「坂の上の雲」のドラマもいよいよ日清戦争に突入する。日清戦争というと日本と中国の対決がクローズアップされるが、戦場は朝鮮半島だった。
朝鮮半島と言うと、ン十年前になってしまうが、輩の仕事も同地には深い関わりを持ち、何十回か往復し、長い時は半年近く、建設業務で一冬を越してしまったこともある、第二の故郷でもある。
昨今の韓流ブームに「大長今」に夢中になり、そのドラマに背中を押され、かみさんとソウルに行ってしまった。
その観光名所の一つが忘れもしない「景福宮(きょんぼくぐう)」と言う荘厳で華美な王宮であった。
明治27年(1894)7月、日清戦争は事実上ここから始まった。日本軍の一団が「景福宮」の門に爆薬で破壊を試みたが失敗した。門によじ登り斧で叩き、四苦八苦しながら破壊し、乱入する。他の門も開け、王宮を守る朝鮮兵たちと約3時間余りの、銃撃戦で王宮を制圧した。
王宮占領は日本に取って思い通りにならない偽政者をとりかえさせ、清国の軍隊を朝鮮から追い出してくれと日本に依頼させるためであった。
当時、お上に反旗を翻す東学を奉じる農民らの「世直し運動」に手を焼いた朝鮮政府は宗王国の清国に出兵を頼んだが、そこで日本も兵を送り込んだ。武装蜂起した東学農民は日清の動きを見て朝鮮政府と手を打ち、騒ぎを納めたが日本軍は引かなかった。2日後に仁川に近い豊島沖で日清の海戦が始まる。
日本軍は王宮占拠に留まらず清国軍と戦う一方、東学農民軍を殲滅にかかる。
日本政府内では慎重論の多い中で主導したのがドラマでも登場した外相の「陸奥宗光」であった。こんな背景からドンドンと深みにはまってゆく。
「景福宮」の戦いが謂わば日清戦争の始まりでもあったが、偶発的な小競り合いとされ、日本軍の公式戦史にはなく、真実は闇に葬られた。しかし、奈良女子大の中塚明名誉教授が福島県立図書館で詳細な戦史草案を見いだし、百年の後に世に問うたと言われている。

Seoulc307

<明成皇后遭難の地>

一方「景福宮」の敷地内には暗殺された皇后の碑がある。

1895年、乾清宮で明成皇后が殺害される乙末(ウルミ)事変が発生した。当時、日本は日清戦争後ロシア、ドイツ、フランス三国の干渉により、領有権放棄し日本の威信は失墜すると共に、朝鮮内における日本勢力の後退を意味していた。そんな背景の中、政治の実権を握り、親露政策を推し進めていた李氏朝鮮国王の高宗の王妃明成皇后に不満を持つ者や「三浦梧楼」が指揮する日本軍・日本人壮士によって暗殺したのである。
無惨に殺害された場所に「明成皇后遭難之地」と言う、碑が建つ。「三浦梧楼」は長州出身で戊辰戦争では寄兵隊で参戦、維新後は西南戦争に参加したバリバリの軍人である。

詳細は此処で紹介してます。韓国最大の古宮へ , 

| | コメント (0) | トラックバック (2)

「坂の上の雲」と「近衛師団」

いよいよ、「坂の上の雲」が放映された。
秋山好古が陸軍大学校時代にコルーマン髭のドイツ軍人で教官の「メッケル」が教壇に立ち、強国となった背景に近代兵学を教える如何にも厳格な教育姿が見られた。好古はフランス留学が決まった旧松山藩主久松家の若殿に帯同してとともに渡仏することになり、フランス仕込みの騎兵を学ぶ。
そんな好古であるが阿部寛に置き換えるようにかなりの男前であった。
風貌は当時では日本人離れした長身で色白、大きな目であり陸軍大学校時代はその厳めしい教官のメッケルから、ヨーロッパ人に間違えられた言わしめるほどであり、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったようである。

Img_52961

<旧近衛師団司令部>

一方、明治政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設しこの御親兵は、「近衛兵」として改組され、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加する。徴兵令で集められた鎮台兵を配下に、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊が編成される。
好古は日露戦争など輝かしい功績から13代目の近衛師団長となる。

Img_529411111

<北白河宮能久親王>

因みに近衛師団長2代目は北白河宮能久親王である。親王は上野の寛永寺に入り通称「輪王寺宮」として上野戦争に巻き込まれた彰義隊の盟主に、更に彰義隊敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主になる。幕府敗北した維新に蟄居を命じられ、その処分後、伏見家に復帰、更に北白川宮家を相続する。
プロイセンに留学し、陸軍に身を置き、陸軍中将となり近衛師団長として台湾でマラリアに罹り、死去する。という劇的で数奇な運命を辿っている。

旧近衛師団司令部は北の丸の一画に現東京国立近代美術館工芸館で、明治を彷彿させる姿が残されている。
その近くに北白河宮能久親王の乗馬の雄姿がある。
このように戊辰以降の姿がこの建物、銅像に繋がり、その歴史事実を「坂の上の雲」が呼び起こしている。

詳細は旧近衛師団司令部で掲載されている

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スペシャルドラマ「坂の上の雲]

司馬遼太郎の数々の作品はNHKの大河ドラマに取り上げられ人気を博している。しかし、司馬遼太郎が生前のおりNHKからの懇願もあったが、大作「坂の上の雲」は当人の了解を得られず、放映が実現しないまま、司馬は亡くなってしまった。
史実の不透明な部分が残される幕末を素材とするものが、小説化されても、余り問題にされないが、維新以降の現代史ともなってくると様子が違ってくる。舞台となる日露戦争の乃木大将を「立派な軍事であったが、いくさ下手」という司馬の一方的評価が広まってしまったことが問題の根っこのようである。

そんな事情の中でどのようなやりとりがあったか判らないが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」が実現する。

Img_60721111

ドラマは2007年11月にクランクインして以来、撮影は終わり編集中のようである。
国内では主人公の秋山兄弟と正岡子規の故郷である松山をはじめ18の都府県で、ロケおよびスタジオでの収録。
海外はロシア、中国、フランス、イギリスなど6か国でロケを行った。
放映は2009年秋で第1回 11月29日(日)から12月27日(日)全5回、毎日曜日午後8:00~9:30放映される。

Image11

出演者は「秋山真之」 … 本木雅弘、「秋山好古」 … 阿部 寛、「正岡子規」 … 香川照之を中心に伊東四朗、竹下景子、松たか子、片岡鶴太郎、小澤征悦 、的場浩司 など多彩な俳優さんが出演される。

早いもので、もう8月も終わり、年末の話しは拙速気味であるが、楽しみにしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)