カテゴリー「21、篤姫」の記事

駿府の国で篤姫語る

江戸無血開城は脈々たる約300年に亙る徳川幕府の終焉を告げ、歴史的にも大きな節目である。
大河ドラマ「篤姫」でもドラマ後半の大きな山場でもあった。
慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である。
しかし、この「勝・西郷会談」ばかりが歴史的にも大きく光を浴びているが、この会談はある種セレモニー的なもので、実質的な打ち合わせは、西郷らが江戸に入る前に駿府(現静岡)へ幕臣山岡鉄舟が西郷の所に出向き、歴史的な会談が行われている。Image211

駿府の国、東海道府中宿、かっては本陣もあった伝馬町通り。この左側の建屋で西郷と山岡が会談した。

既に西から朝敵徳川慶喜を討つと東征軍の渦が、江戸城を目指しやってくる中で、危険を冒し官軍参謀の西郷隆盛の懐所に飛び込んで行けたか、その意義ある交渉の地に飛んで行きたかった。
その駿府、府中宿は江戸から約44里(175㎞)、西郷と山岡が会談後、富士山の秀麗を仰ぎ、駿河湾沿いに、箱根を越え3日後に江戸に入城している。
そんな長い距離を新幹線こだまで約1.5時間であっと言う間に運んでくれ、お小遣いさえあれば気軽に赴く事が出来る。
静岡駅に近い、伝馬町通りが旧東海道で、背後に駿河城を控え、かっては本陣などがあった賑やかな場所であるが、繁華街の一等地として開発されその面影が殆ど見えないが、その一角に、会談の地として西郷と山岡のレリーフが飾られてあった。
その会談の経過、場所については何れ、当サイトで詳しく書いてみたい。Image11

駿府城の復元された二の丸建屋

折角、此処まで来たのであれば、関連地も見てみたいと足のむくまま、家康の姿を色濃く残す駿府城跡や慶喜公が謹慎の身として20年近く過ごした「浮月朗」など終日たっぷり楽しめた。
駿府城の復元された二の丸建屋の城内に身を置きタイムスリップし、建物の重厚さを味わい、城郭の一角の紅葉山庭園で風情を味わいながら、濃茶と和菓子にしばしの休息を取った。
ん~ん、この渋みに加わる甘さが何とも繊細な風味が口一杯に伝わり、流石名産のお茶と感服する。
茶を接待する、二人の元お嬢様から、他にお客も居なかったから「どちらからですか?」と声を掛けられ「東京」からと応え驚いていた。
その駿府来城は「大河ドラマ篤姫」から江戸無血開城の「西郷と山岡の会談の地」がどうしても見たかったのが動機付けと話したら、お二人とも、「篤姫」フアンであったようで、庭園の茶室は思わず「篤姫」談義で盛り上がってしまった。
お互いに見ず知らずの間なのに、こうした取り持ったご縁が「篤姫」であったことの影響の大きさを改めて、思い知らされ、ここ駿府で生れた絆が嬉しかった。庭園に植樹された「葵」の葉がこれから徐々に温かくなると土から芽を出し、その姿がまさに葵の御門の形にと教えて貰う。家紋しか知らない拝にとって、此処は葵の葉で覆われる徳川の筋金入りの聖地であることを認識した。

最後に駿河城を見下ろす「静岡県警察本部」に行って見なさいと教えられ、特に悪い事はしていないが場所が場所だけに、多少の負い目を感じながら、怪しまれず、なるべく平然と警察本部の22階に上がって見る。Img_467611

県警察本部22階から360度の景観をたっぷり楽しむ。

遥かな眺めは駿河湾から伊豆半島、駿府を包み囲み立ちはだかる日本平、遥か遠い江戸に向かった東征軍の行く手を追ってみた。

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篤姫追って寛永寺

今まで幕末関連で上野には主に上野戦争の痕跡を求めて彰義隊墓や併設の彰義隊資料室や西郷隆盛の銅像や東照宮、不忍池など時々見に来た。その彰義隊資料室は末裔の方が個人で行っていたが、運営出来ず、惜しまれつつも閉鎖されてしまった。
上野はその程度の範疇であったが、昨年の大河ドラマの篤姫で寛永寺行きをせき立てられた。
但し、墓地には入る事は出来ず、たまたま特別に公開されたこともあったが、何十倍の競争で、遥か遠い、存在であっても、その寺の雰囲気だけでも確かめられればそれで気がすんだ。
上野駅から線路沿いを北に向かい、鉄道の路線橋を渡ると寛永寺側に出る。

Img_41191現龍院墓地に「殉死者の墓」

途中に現龍院墓地に「殉死者の墓」を見る。
慶安4年(1651)4月に三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家来5名が殉死し、さらに家来や家族も殉死した墓が目を引く。説明板から武士の世界では戦死した主君に殉じ切腹するという追腹という風習があった。
文久3年(1863)幕府は殉死を禁止し、その風習は絶えたが、その主従関係の絆は命をも厭わない太い繋がりがあった。家来に留まらず家族までも、主君の後を追う残酷な世界を墓石に見る。
明治天皇が亡くなられた夕に妻と共に割腹した乃木大将も殉死した一人で、明治になってもこうした武士の風習は脈々と生きていたのであった。
道なりに進むと国立博物館と寛永寺の霊園の塀で挟まれた道に出る。長い回廊に霊園の広さを改めて思い知らされる。その回廊の途中に四代将軍家綱公の墓所入り口の「徳川家綱霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)」がある。
家綱公は延宝8年(1680)に没し、約330年も経過する重要文化財である。
入母屋作りの赤地を基調の重厚な門は、権力の象徴を示されるようであり、手入れが行き届いているのか今だに輝いている。

Image11天彰院 篤姫の墓がある 「徳川綱吉霊廟勅額門」

更に先に行き寛永寺の墓地正門に入ると「徳川綱吉霊廟勅額門」に出る
この勅額門も約300年を経過する重要文化財である。
この門と柵が施され、徳川綱吉霊廟内に家定公と仲良く隣あわせて天彰院 篤姫の墓がある。
一般人が入れるのは「徳川綱吉霊廟勅額門」までであるが、それとなく判る篤姫を追う来訪者は次から次へとやって来て、霊廟内の佇まいを眺め引き返す。                          綱吉霊廟勅額門前はこの大河ドラマに併せ、天彰院 篤姫墓所(非公開)の案内板が平成20年寛永寺教化下部の名前で建てられている。今泉島津家の幼名一子(かづこ)・於一(おかつ)の時代から家定の正室になり、江戸の地で生涯を閉じるまでを脈々と紹介されている。

その紹介文を追いながらも未だ記憶に新しいあの薩摩からやってきた奔放な姿が目に浮かぶ。冊の向かうに目を転じると、直ぐ近くにあの笑顔の天彰院篤姫が居るように、じーんと蘇ってくる。そんな雰囲気に覆われ、何時までも此処でと、立ち去り難い気分の霊廟勅額門前であった。

そんな篤姫の温もりを認めながら、寛永寺を後に、因州池田屋屋敷の黒門、東照宮など一級品の文化財を見ながら、上野駅へ、冬の日は短く、既に落ちていた。

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眩しく輝く篤姫の駕篭

Img000051_2江戸東京博物館 で眩しく輝く篤姫の駕篭を見学してきた。

安政3年(1856)11月篤姫はこの乗物に乗って渋谷村別邸から江戸城まで
第13代将軍家定の元に輿入れした。
徳川家の葵紋と近衛家の牡丹紋が散らされた見事な乗物である。

ワシントンにあるアサーギャラリー所蔵するものが篤姫が利用したことが判明したのは2008年7月であった。
黒塗二葉葵 唐草葵牡丹紋散薪絵(ちらしまきえ)女乗物はまさに数有る展示品の中でも眩いばかりの金箔で散りばめられた高級車にあっと息を呑んでしまった。
ともかく凄い凄い、ガラスケースの前で貼りついてしまった。
保存状態が良く、これが150年経過しているとは思えないぐらいに眩しく輝いていた。
隣にはキャンキャンおばさん13代将軍家定公の生母本樹院所用の駕篭も篤姫用と遜色ない高級車であった。
解説によると同じ製作者によるものと推定されている。
篤姫用と判明した一つは徳川家の葵紋と近衛家の牡丹紋が散らされたところも注目する所か・・・。
忘れがちなことであるが、篤姫が近衛家の養女となり諱を啓子(すみこ)となっている。

多数陳列された駕篭で、いかにも豪壮な男乗物に対して、華美な女乗物が対照的。
駕篭の重さは通常約50㌔と人間の重さ一人分の重量であるが、中には200㌔と重戦車もどきの駕篭もある。

江戸の文化が直に触れられる「正に珠玉の輿」の展示
お薦めの記念展示である。
2月1日で終わり、急げ江戸東京博物館へ

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篤姫が手招き

Aoi_top1 慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開く。その後江戸城の天守閣や北の丸が造営され、江戸城の骨格備わってくる。
日本橋を起点に東海道や甲州道はじめ街道の整備が始まる。参勤交代などの制度が生れ、江戸城を中心とした磐石な徳川幕府体勢が生れていく。
時が変わり、外国船が近海に現れ、近代化の渦の中、長州藩の尊攘派の台頭、薩長連合による反幕府体勢など徳川体勢が弱くなり、慶応3年(1867)大政奉還で王政復古の大号令が宣言される。
そして明治元年(1868)戊辰戦争が始まり、江戸城が開城され、幕府が事実上の瓦解となる。
とまあ、簡単に幕末を現せばこんな所であった。
そんな潮目に天璋院篤姫は幕臣に促され、江戸城を退去していくことが、徳川の最期を飾る、幕引きの儀式であったようだ。将軍亡き後、何千人も居た大奥のトップレデイとして、徳川家を守続けてきたが、再び戻る事の無い天璋院篤姫は江戸市内を転々とする。
権力の象徴でもある大奥から江戸市内に下りたことは大きな事件として江戸っ子にも、広く知れ渡ったのであろう。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で「何でも天璋院様の御祐筆(ごゆうしつ)の妹のお嫁にいった先の御っかさんの甥の娘なんだって」猫どうしの対話の中で、天璋院として登場している。

Tensyouinmap502 江戸城を退去した後、重い徳川の重責を事実上解かれ、江戸城開城以来の幕臣であった勝海舟が近隣に住んでいたこともあって、勝海舟の案内で芝居を見たり、吉原を訪ねたりした。暮らし向きは決して豊かではなかったが、薩摩から来て初めて江戸文化に触れ合い篤姫は新たな生き甲斐が生れたので無かろうか。
その広い江戸の世界の氷山の一角かもしれないが、天璋院篤姫が足跡を残した関連地を「お出で、お出で」と手招きし、促すように思えてくる。
昨年はその天璋院篤姫に取りつかれるように、ドラマの進行に併せ、周辺を歩いてみた。
半蔵門から皇居を挟んで反対側の九段下の田安門側から北の丸公園を通って、北詰橋門側から急坂は厳しい天守閣入りを果たしこと。誉れ高い皇室和宮が江戸城に輿入れし、天璋院と別れ江戸城を離れた和宮が潜ったのは田安門や、縁の田安邸・清水邸跡。罪人として追放された絵島も此処から高遠へ向かった大奥専用の出入り口の平川門。
青い目の欧州系や中華系の人々の国際観光スポットになっていた何も無い天守閣。
坂道と入り組んだ迷路の赤坂に勝海舟の3箇所の赤坂居住跡。大奥で散々敵対したパキパキおばさん家定の生母・本寿院達と過ごした赤坂福吉町の旧相良邸。迎賓館として使われ壮麗なネオバロックの宮殿の紀伊殿中屋敷跡(写真が赤坂離宮の森)等々天璋院篤姫が沢山の踏み跡を残してくれた。
爽やかで、熱い薩摩御女が徳川家に身を注いだ姿を重ね併せ、我ながらよくぞ歩いた。ドラマも一区切りついた現在、記憶が鮮明なうちに、その縁の場所をマップ上で整理した。時代と共に一石を投じた篤姫の世界を辿ってみては如何でしょう。下をクリックするとmapが表記されます。
篤姫大江戸巡り

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篤姫が伝えたかった言葉

Img0000411111 戊辰戦争で江戸無血開城した後、新政府軍と旧幕府軍との戦いは関東から東北へ移っていく。旧幕府軍の会津藩は急迫する新政府軍に若松城下で防御するが、新政府軍に突破されてしまう。西郷頼母家では家に入ってくる薩摩藩の前に一族21名の死、その日の内に婦女子も多く100名以上の大量な死を数える凄惨な戦いであった。

会津藩は籠城したが小田山からの新政府軍の無数の砲撃を浴びせられる。大量な犠牲を生み降伏する。写真は天守に無数の傷跡が残されているが、明治7年取り壊される。現在の天守は戦後復原されたものである。

折しも幕末・維新の激動を敗者の側から描いた長編歴史小説「会津士魂」などで知られる作家の早乙女貢(さおとめ・みつぐ、本名鐘ケ江秀吉=かねがえ・ひでよし)さんが昨年12月23日、胃がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。
先祖に会津藩士を持ち、戊辰(ぼしん)戦争で「逆賊」とされた同藩の歴史にこだわった。
会津側の資料や手記などを駆使して落城に至るまでを再検証。誇り高き藩士たちの悲劇を描いた「会津士魂」は月刊誌で18年間にわたって連載され、89年、同作で吉川英治文学賞を受賞した。

大政奉還、15代将軍慶喜公は江戸城無血開城で蟄居の身で救われたが、官軍の厳しい追求の手は会津藩に及んだ。慶喜を必死に支えたのは松平容保、定敬の会津藩であった。
天璋院篤姫が最期に語った「徳川は 亡き家定さまのお心を・・・孫々に伝える事こそ我が道と思い定め、果たすべきことが天命」を早乙女さんが現代まで自らそれを追っていたような感じさえする。

天璋院篤姫の大河ドラマをご覧に成られたか、不明であるが、大河が終わった時期に期せずして、静かに眠りについた。一度TVで会津戦争を語られる姿を拝見したが朴訥した姿が印象的であった。ご冥福を祈る。

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篤姫人気

St50_021篤姫全50話に及ぶストーリーは脚本家田淵久美子さんが3年掛かっていたと言われている。
その間、2人のお子さん連れで再婚されるも、ドラマの作品の作成過程で、其のご主人がガンに襲われ、作品完了後の2カ月で亡くなってしまう。篤姫・家定公との束の間の幸せであったことはドラマの外側で既に体験されているのである。

ドラマでの中で力を注いだのは生きざま、家族に拘ったと言うのもそんな背景から作品がうまれているのであろうか
ドラマの最終に飾るのは篤姫に関わり、ドラマを引き立たせる主役・純主役の登場人物が次々と倒れていく、展開に篤姫が「人を見送りたくはありません」の台詞が何となく、せつなく際立たせられる所が、脚本家田淵久美子さんの傾注した部分ではと思われる。

明治3年7月通風による足痛で小松帯刀がお琴さんに見もまれて療養中の大阪で亡くなる。
明治10年鹿児島では西郷は新政府の方針に不満を抱く薩摩藩士のために挙兵、世に言う西南戦争で命を落とされる。西郷の死によって武士の時代は此処で幕を下ろした。
翌年の明治11年5月14日大久保が、紀尾井町の馬車で政策に不満を持つ者達の手によって襲われその命を奪われてしまう。
そして最期は天璋院篤姫が天命を全うし、静かに目を閉じるのは明治16年11月20日のこと、享年49であった。

朝日新聞の文化欄でNHK大河ドラマの「篤姫」が高視聴率を記録した人気の理由は紙面の1頁を割いて報道されていた。
各界著名な100人から、元より好悪様々の評価があったが、敢えて好いとされるものに絞り、成るほどと共感を呼ぶコメントが以下のようにあった。
①篤姫の人生そのものがドラマチックなのと、幕末から維新への動きを幕府側から描くことが珍しく、近年の大河ドラマでは傑作。
②あおいちゃんは高峰秀子以来の大成する子役スター。若い俳優が元気で真剣
③「大奥から幕末を眺め直す」視点が面白い。慶喜が悪者で家定、家茂がが良い人であるという視点も新鮮。

幕末から維新に変わる変革の中でベールに包まれた大奥の世界で繰り広げられる、ストリーが面白いが、中でも篤姫の存在が大きい。ドラマの演技で何度か涙腺を緩めるが、スタパーなどインタビュウーなど普段着でも自然と感極まり涙が沸き出るのは演出でもなく、あおいちゃんそのもの篤姫役になりきり大成する姿なのであろうかと改めて思い起こした。

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篤姫が終わった

240pxkaneijipagoda12701 未だ余韻がさめやらないまま、天璋院篤姫がとうとう終わってしまった。この幕引きをどのように迎えればと整理がつかないまま、未だ来週があるのではと錯覚を覚えるぐらいに深く入り込んでしまった。               写真はその菩提寺である上野の寛永寺である。

篤姫の幼少期を伺う資料はない。篤姫の人物評の大半は江戸城に入ってからで、江戸城開城前後のものが多いと言われている。
安政2年(1855)12月に成彬と親交の深かった松平慶永(春嶽)が渋谷の藩邸で対面している。
一言、背が高い女性であると述べている。
更に成彬の篤姫評は松平春嶽の「閑窓(かんそう)ひょう筆」で以下のように記録されている。
「我々のごときものの及ぶ所ではない」と絶賛している。
忍耐力があって、幼いころから怒っていること見たことない。不平の様子なくもなく、腹の中に何か大きなものを抱えているように見える。
軽々しいところもなく、温和に見えて人に接するのもとても上手。
・・・と成彬は評価している。
婚礼が滞ったおかげで、篤姫が成彬ととともに過ごした時間が長く、嫁ぐ前に成彬から色々なものを学び、最後は将軍継嗣問題について大奥工作を委ねられた。
しかし、江戸入輿以降、大きな仕事が叶える前に夫である徳川家定を失い、この仕事を託された養父である成彬もほぼ同じ時期に亡くなってしまった。
迫り来る幕末から明治に変わる時代の渦の中で篤姫は身内の喪失が転機となって、江戸城大奥の役割から、何をすべきかを見極め、徳川家の土となる覚悟で見事に生きていく。
その間、大政奉還で徳川家は江戸を追われ、70万石の駿府へ、更に廃藩置県でそれすら剥奪され新しい時代の風の中に生きていかなければならない。

最終回のドラマでは千駄ヶ谷別邸で勝海舟との対話の中で
「亡き家定さまのお心を伝える事こそ我が道と思い定め、幸せとは地位や名誉まして財産などとはなく家族と共に過ごす穏やかな日々の中にこそあるのだと思っておる」
と、その心情を吐露しながら、明治16年(1883)篤姫もこの世を去ってゆく。
座ったまま裁縫をしながらの最後を迎える姿が、ドラマの幕引きを飾る印象的で胸に迫るシーンであった。
千駄ヶ谷から上野まで、葬儀には10000人もの人々が沿道に集まり葬列を見送ったといわれている位に市民に支えれ規模の大きな荘厳な葬式と想像する。
徳川家の菩提寺の一つ寛永寺 49年の波瀾に満ちた人生を終えた篤姫の墓があり、傍らには好物と伝えられるびわの木が植えられ、天璋院篤姫の遺子が伝えられている。

叶わぬことではあるが、せめてもその、びわの木だけでも、見て置きたい気もするが・・。

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スタジオパークに天璋院篤姫が

Image11 未だインタビュウー始まる前、宮崎あおいが大勢のフアンの垣根に囲まれた花道を通り、アナウサーに紹介されゲストコーナの席に着くまでに、大きな瞳から、もう涙が止まらなかった。改めてこんな多くの温かいフアンに囲まれ、大河ドラマのニューヒロイン篤姫は既に感極まり、涙腺が緩んでしまったのであろうか。

未だ23歳の小娘がと思ったが、於一から始まり、今泉島津から養女篤姫、さらに13代将軍家定の元に入與した。家定亡き後、落飾して天璋院となり、多い時では1000人近く居たと言われる大奥の御台所と言うトップレデイとして君臨し、徳川瓦解までの大役を見事にやり終えた達成感から生れた涙であったのであろうか・・・。若さを全面に奔放な於一から御台所への変身は私生活で普段の対話が、まるでおばあさんの喋り方と廻りから言われるほど芯から役にはまっているようであった。その数々のシーンが走馬灯のように蘇り、特に際立ったシーンとして以下が紹介された。
奇行な行動を背景に心を割らない家定の懐に飛び込み、夫婦としての絆は生れるが、それも束の間、家定は短い人生を閉じてしまう。しかし家定亡き後天璋院として徳川家を守り続けるのは家定の遺子であったりする。

江戸城から追われた一橋邸で、天璋院を前に天璋院篤姫が、育んだ静寛院や滝山などファミリーが淋しく次々と去っていく。そんな中で宮尾登美子の原作では殆ど出なかった、幼なじみの青年家老小松帯刀が突如現れる。自ら心の内を開き、もし大奥に入與しなければ、私(小松)の所に嫁ぐのではと言う問いかけに、天璋院は家定に聞いてみるとの語りは揺らぐ心の中でも、徳川家の人間に成りきった姿を小松帯刀に見せたかったのであろうか。

脚本家田淵久美子の意図した作品がこんな所にあったのであろうか、天璋院と小松帯刀のやりとりに、ぐんと胸に迫るものがあった。この大河ドラマによって、歴史の中に余り登場せず、埋もれた存在であった天璋院や小松帯刀がこの大河ドラマによって躍り出て、その存在感を大きく、語りかけているようであった。

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篤姫江戸城を去る

Tensyouinedo01 大河ドラマ天璋院篤姫もいよいよ大詰めを迎え、終幕が迫ってきた。
遥々薩摩から江戸へやってきて入輿以来、一橋家、紀伊両家にまたがる将軍継嗣の問題、病弱な家定を夫に、短い夫婦生活、3000人の大所帯の中での確執・派閥争い、生活習慣の違いから、皇妹の嫁と姑のぶつかり合い、最後は送り出した薩摩藩から賊軍として倒幕の矛先を向けられ、徳川家一筋に尽くした結果が何の報いを得らず遂に敵に居城を明け渡し、徳川隆盛約260年の歴史の幕引きを行う、波瀾万丈の大奥の13年間であった。
江戸へやってきて以来、江戸城大奥での生活を拠点に、江戸城に入る前や、大政奉還以降に江戸城から追われた以降も、江戸市内をあちこち、転々としており、歴代御台所でも最も多く、「お移り」をした人でもあることが判った。
大河ドラマでは余り、多くを語られなかったが、江戸市内を数多く「お移り」をした事実は天璋院篤姫の歴史の中での大きな発見であった。

その邸宅は芝の薩摩藩邸、に始まり渋谷の別邸、大手町の一橋邸、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山の尾州邸、赤坂の相良邸、最後は千駄ヶ谷の紀伊邸等々十指に余ると言われている。現在の23区分で言えば港、千代田、品川、中央、渋谷、新宿と広範囲に江戸に根を張った徳川家の屋敷を思い知らされると共に江戸の切絵図に見る多数の幕末の屋敷跡や史蹟跡の存在を光浴びる結果が生れた。

某ラジオ局から、江戸城を紹介するボランテイアガイドさんが、江戸城の平川門とその木橋だけでも案内してくれと、大河ドラマ天璋院篤姫のブームを呼んでいるようであった。

赤坂福吉町の相良邸と赤坂氷川町の勝の屋敷とは隣町と言うこともあって、大奥から江戸市中に下りて、柳橋や向島の料理屋へよく天璋院篤姫を誘い出し、天璋院篤姫も応じた中であった。大奥の御台所として重い責務から解放され、下町の情緒や隅田川の風情に触れ、生涯を通じて一番良き時代ではなかったので無かろうか。
ベールに包まれた大奥の世界から江戸城から追われ、江戸庶民に近づいた天璋院篤姫の晩年の姿を辿って見た。

晩年江戸市内で送った世界は果たしてどうであったか篤姫江戸城を去るで纏めて見ました。

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篤姫と浜御殿

Kign501 皇室の和宮が許嫁もおり本人の意向を曲げ、公武合体の岩倉具視の策に押し切られ将軍家茂の正室
となる。
天璋院篤姫も和宮の降嫁に色々気を使うが、武家風と公家風の慣習の違いから、嫁姑の関係、背後に引き連れた女中方を含めた争いの対決の座は中々埋まらなかった。
上座、下座の武家のしきたりなどの違いから和宮と対決する。
具体的には和宮は、武家出身の天璋院から指図を受けることを嫌い天璋院を大奥から出すように頼む。
和宮について天璋院が述べた言葉
「和宮様の世話をしたいと思うのですが、京都出身の女中達から風儀の違いを笑われ、なかなか思うようにいきません」
『静寛院宮御文通留』所収の和宮の書状より引用し意訳。
・・・と天璋院も程々手を焼いたことが判る
大河ドラマでは家茂死後、片や薩摩藩片や公家の境遇に違いがあるが悲劇のヒロインとして、天璋院の亡き家定を支える姿に心うたれ、同じ境遇にある和宮も遂に殻を破り、天璋院に寄ってゆく。
しかし、その氷解兆しはそれ以前からあったのでは無かろうか
天璋院が病気の和宮を見舞った辺りから雪解けになり、その秋には浜御殿へ三人お揃いで清遊に来られた。
この時の様子を、勝海舟がこの日の事を伝えており、つかの間の幸せを浜御殿で過ごしたのではと思われる。

一方では浜御殿の「お上がり場」は鳥羽伏見の戦いで破れ、突如、大阪を逃れ品川に幕府軍艦開陽丸に何の前触れもなく戻ってきた徳川慶喜の姿があった。
肩を落とし、悄然とこの「お上がり場」の階段を登る、慶喜に最早、徳川の将軍に相応しい威厳も何も無かった。
江戸時代、将軍が隅田川から浜御殿に来られたときや舟遊びをして休息のために立ち寄られたときなどに乗降された船着場で今も原型を保っている。
明治元年(1869)15代将軍徳川慶喜は大阪から軍艦「開陽丸」で江戸に入り、このお上がり場から上陸して、騎馬で江戸城へ帰還した。・・・案内板より

この窮状を慶喜が、天璋院と和宮にどのように報告したのだろうか?

徳川慶喜の朝廷への嘆願を行うが拒絶する西郷隆盛の言葉は大変厳しかった。
「慶喜を穏やかに引退させよとの嘆願、はなはだもって不届き千万。ここは断然、慶喜を追討しなければならない」

いよいよ物語は押し詰まってきたが、この浜御殿も押し迫った幕府の姿を姿追う、関わり深い場所の一つとして、見逃せない場所である。

浜御殿(現浜離宮庭園

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