カテゴリー「18、天然理心流」の記事

二つの奉納額

新選組でその名をとどめたのは天然理心流の剣術である。戊辰役などの戦いでは刀から銃に変わっていくが、剣術が普及する時代の象徴として、奉納額と言われる看板があった。

◇八坂神社奉納額
      <写真はその奉納額で八坂神社で保管され、特別な催し以外は非公開>

Tennen2401安政5年(1858)8月、日野宿の天然理心流一門によって、日野鎮守の八坂神社本殿南側の*?間(びかん)に大小二振りの木剣をかけた奉納額された。縦 50㎝ 横80㎝で欅(けやき)の一枚板で作られている。
冒頭に近藤周助、門人として佐藤彦五郎、井上源三郎ら17人、発起人として島崎勇を名乗った近藤勇、幼名愡次郎を名乗る沖田総司、総勢26人の名前が記入されている。

この奉納額は日野宿でも人目に付く神社に掲げ、日野宿における天然理心流の隆盛を誇示し、当地における剣術は一門でありと既得権を示す看板の役割でもあったようだ。門弟獲得の草刈り場にならないよう宣告し、他流派による進出を防いていた。
土方歳三は未だ名前を連ねていなかったが、この奉納額も目に触れ、当然刺激にもなり、翌安政6年3月、神文帳に名を連ね、正式に天然理心流の門下になる。
*母屋(もや)に指し掛けて作られた小屋根。またその下の部分

◇府中六所宮奉納額
万延元年(1859)9月に願主近藤周助で作られたと言われている。この時点で勇は宗家に襲名する前であった。奉納額は既に存在していない幻の奉納額である。
大きさは、富沢日記の完成予想図から縦330㎝ 横633㎝ 約13畳と言われるう巨大なものである。使用した材木は檜の糸柾(いとまさ)と言う目の細かいものである。
      <その巨大さを二つの奉納額で大きさを対比してみた>

左側は六所宮、右側が八坂神社である

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書かれた門人は約1200人と言われている。
奉納額の制作は相原村の名主であり、芝増上寺の山門に寄与したことから名字帯刀を許された青木勘次郎が担当した。青木は天然理心流二代目宗家の近藤三助の弟子で邸内には青木道場を持っている。多摩豪農のネットワークの一員であり、近藤周助、勇にも仕え天然理心流の有力な支援者の一人であった。

書は谷保村の本田覚庵が10日間六処宮に通って書いたが、完成間際では六処宮で徹夜になったと言われる位に、大変な作業であった。
八坂神社の奉納額は日野宿限定でその存在を表したが、六所宮は武州一円に広げ、その存在を誇示したものであった。
この奉納額は府中六所宮(現大国魂神社)に掲げられた。

<奉納額処分>
しかし、その巨大な奉納額は短命で処分されてしまった。
慶応4年(1868)3月、近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成して甲州に目指すが勝沼で破れたことが府中に知らされた。奉納額は逆賊とされた近藤勇の名前が大きく書かれているので処分しなくてはならないと言うことで、板垣退助以下西軍が府中へ来る前に、慌てて下ろされ処分されてしまった。

勇は 流山で捕まり4月25日板橋で処刑されるが、勇が新選組に入る前、天然理心流の一門として名声を究めた象徴である巨大な奉納額も歴史の渦の中、消してしまうのである。
<今あるのは奉納額を支えた高さ55㎝の金剛力士座像の片われだけである。>

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天然理心流の聖地「桂福寺」

Keifukuji21千人同心や新選組の武州多摩地域に広まった一剣術の原点である、天然理心流の聖地として八王子市の郊外、戸吹町の桂福寺が知られている。
その史跡である桂福寺を尋ねて見た。
治龍山桂福寺は寛永2年(1625)に八王子から北5㎞程の寒村戸吹村(現八王子市戸吹町)に開基された。徳川幕府から朱印を賜り、幕府と関係が深いお寺の一つであることが判る。
此処、武州八王子戸吹村であり、この祠が聖地としての意味合いを持っている。


◇剣術の流行った戸吹
この付近は北条、武田の滅亡後の武士の子孫が多く、土着し農業や養蚕に従事していたが、剣道の盛んなところであった。
幕府は八王子千人隊を組織し、直轄領にし、江戸城を控える甲州街道の防御の拠点として、治安維持すること、併せ日光東照宮の常駐警備の任務に就かせた。戸吹から、千人隊に入隊する者が多かった。一方では夜盗など荒れる治安に備え、自衛の手段として若者は剣の道に励むことが多く、名主の家では道場も備えていた。

◇天然理心流の聖地
天然理心流は近藤内蔵之助によって創始された武術の一流派である。
当時、江戸にあった多くの道場は江戸に参府する武士たちが剣術を学び、地元へ流派を伝え広まった。しかし、天然理心流は出稽古によって広めたという、他の流派にない特長を持っている。
初代内蔵之助の道場は両国薬研(やげん)堀にあったが、出稽古に歩き、門人を増やしていった、一つが、武州八王子戸吹村(現八王子市戸吹町)であった。
戸吹の坂本家は武田氏滅亡時に一族と共に住み着き、代々名主を勤めた。その坂本家の三助が非凡な才覚を見いだされ、薬研堀の道場に向かい内蔵之助の門人として数年間修行する。
三助は後に天然理心流宗家二代目を引き継ぎ『近藤三助』を名乗り、自宅に道場を開いた。
内蔵之助に同伴し、出稽古に廻り飛躍的に門人を増やし、1500名余りを数える。
近藤三助は内蔵之助から剣術、柔術、棍棒(棒術)の三術と気合術も継承した唯一の人物である。
三助の門下から育った師範達は三助と同郷戸吹村出身の増田蔵六や松崎正作のほか島崎周平(町田小山村)、桑原栄助などがおり、それぞれの地元で門人の育成にあたった。島崎周平は後の近藤周助で、新選組で天然理心流の名を天下に広めた試衛館道場組も、三助の門下であった。
こうして、初代から二代目の引き継がれ、多くの門弟が生れ天然理心流が多摩地域普及の基盤となったが、三助が出稽古先の相原で謎の急死で気合術は途絶えてしまう。

◇天然理心流の祠

Keifukuji32 桂福寺の境内に入ると本堂の左手、墓地の入り口に「剣聖光武神」と大書された看板のある祠が目に入る。天然理心流の祠であり、一般の墓とは区分し、縁に相応しい扱いで、本堂の背後に控えてある。
この祠に3つの墓石と盤碑が並んでいる。右手にある小さな墓石は天然理心流開祖であり・初代宗家の近藤内蔵之助の墓であり、左手が第二代宗家の近藤三助のものである。二つの墓石は当初、坂本家屋敷墓地にあり、幕末の渦に巻き込まれ土中に眠っていたが、昭和45年深い眠りから覚め、現在の桂福寺の位置に建立された。
真ん中の光輝いてる墓は二つの墓が、発見される前年に地元有志によって作られたもので近藤内蔵之助と近藤三助の宗家の名が併記されている墓石である。
墓石の背後はには、木刀が掛けられた天然理心流の額が奉納されている。
右側の背後の説明板と盤碑は天然理心流の開祖から二代目に継受される、発祥と系譜、が詳しく書かれている。
ここが天然理心流の原点と知られる場所である。

◇復元された近藤三助の痛々しい墓石
近藤勇は天然理心流宗家第四代目である。近藤勇以下試衛館の剣士達は浪士組として京に向かい、治安維持で活躍し、新選組と命名、内外に知れ渡る。
池田屋事件では、テロ活動を発覚し、長州の吉田稔麻や熊本藩、土佐藩の志士達を襲撃する。
慶応4年(1868)年4月、戊辰戦役で薩長主体の新政府軍が、勢いを持つ中、新選組隊長近藤勇が朝敵として流山で捕縛され、板橋宿で斬首され、京の三条河原で晒された。
近藤勇の死は坂本家に伝わり、天然理心流宗家して繋がる近藤内蔵之助、三助の墓石が東征軍に知れ、追求を恐れた。
三助の墓石は小さく砕き、内蔵之助の墓石は小さいのでそのまま深い穴を掘って埋めてしまった。

◇100年後深い眠りから覚める
坂本家には代々墓石を処分した話が伝わっており、新しい墓石が建った翌年の昭和45年に坂本家の子孫と、三助の門人松崎正作の子孫によって発掘され、100年の永い眠りから再び甦った。
継ぎ接ぎだらけの墓石は近藤三助の家の南側の山裾の中腹にあったが坂本家の墓地から、桂福寺の現在地に墓石が建てられた。
三助の墓石は粉々になっているので一つ一つ掘り出し、この墓の復元について八王子郷土資料館に運び修理を依頼し、半年ほどかけて復元し墓石が完成した。

ショッキングな勇の処刑と三条河原の晒し首の事件はこんな寒村にも及んだ。
当時の新政府軍の追求の厳しさから、墓石をこのように粉々にして埋設してしまった。100年後再び、復元された墓石の傷が国内内戦の歴史を生々しく伝えている。
その痛々しい姿と桂福寺についてはこちらで紹介されている
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武州多摩郡出身の攘夷志士「真田範之介」

◇多摩が創出した剣士の一人
戦国末期から江戸末期までの二百数十年は幕府の直接の支配下にあったことなどから、幕府を支え、幕府色の強い土地でもあった。
そんな佐幕の風土の中にありながらも、勤皇の志士として、多摩郡から輩出した異色の人物がいた。
此処滝山街道の東端の入り口に当たる多摩郡左入村はご存知、天然理心流のメッカと言われる、戸吹がこの滝山街道沿いにありその門弟が此処から輩出した。
真田範之介もその一人で剣の道で非凡な才覚を発揮し、剣術の道を歩み勤皇の志士であるが、黒船来航とも併せ関東各地に起きた攘夷活動に参画し、悲憤に倒れていった一人であった。
八王子で誕生した剣士「真田範之介」であるが、佐幕色強い土地柄、死後も後難を恐れ、関わる史料は殆ど処分され、残されていない。

◇小峰家と天然理心流

             <多くの門弟を指南した増田蔵六>

Img374 真田範之介は武州多摩郡左入村の名主、小峰久次郎の長男として天保5年(1834)に誕生する。
小峰家は左入村のを勤めていた。
小峰家は左入のお大尽と言われる豊かさを誇る財力の豪農で名主で、自分の所有地だけを歩いても、多摩川の釣りに行けたと言われている。
久次郎は剣をたしなみ、八王子千人町に住む、千人同心増田蔵六より、剣術天然理心流を学び、免許皆伝迄取った。
自宅内に仮道場を設け、剣に歩む父の姿の後を追うように、長男範之介及び次男松之助は剣の道に入っていった。
小峰家の範之介及び松之助の両兄弟は養子として離れ、逆に高木家から養子を迎え入れ、継いでいる。

◇天然理心流で才気発揮
範之介は19歳で戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門する。生まれつき剣の素質にすぐれ、通常の半分の約3年ほどで、中極位目録迄取得してしまう。その後、下恩方村の山本満次郎で習い、「天然理心流三術井薙刀武術門人姓名録」に残されている。
天然理心流は四代目近藤勇を始めとする、新選組の隊士達が輩出し、幕末の京の活躍で一躍「天然理心流」の名前を全国的に知名度をのし上げた。しかし、彼等は「天然理心流」の剣術のみで、範之介は剣術、柔術、棔法を含めた正式な三術を引き継ぎ修得した一人であった。

◇北辰一刀流、玄武館への入門
範之介は何故か、神田お玉ヶ池のほとりにある北辰一刀流の玄武館に入門した。
範之介は養子に行き、小峰軍司からに真田範之介に改め、各地流派の道場を訪れ剣客録に真田の名前で記録が残されている範之介は文久2年(1862)師でもある栄次郎が没後、実力が評価され、玄武館の塾頭になるなど、北辰一刀流でも非凡な才覚を発揮する。

◇天然理心流との絆
安政7年(1860)3月、松崎和多五郎は牛沼山王社(秋川神明社)に天然理心流の大扇額を奉納しており、客分として真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っている。
範之介が江戸に出て 北辰一刀流に移ってからも、剣術を始めた天然理心流との交遊関係があり、深い絆で結ばれていた。

◇攘夷活動に身を染めて行った
玄武館の門人には江戸に屋敷を構える全国各藩の藩士達も多く、ペリー来航や桜田門の変など激動の世の中、情報が玄武館の中でも飛び交った。取り分け千葉周作が水戸藩に招かれて出仕したことから、千葉の門下生に多くの志士たちが集まった。範之介は攘夷に心動かし、西洋人のために日本が植民地化されることを恐れ、尊皇攘夷運動に走った。
◇攘夷に立ち上がったが失敗に終わる。
文久3年(1863)11月12日(旧暦)に上州高崎城を襲撃して奪い、更に兵を得て、横浜の夷人を襲撃する挙兵計画が北武蔵の尊穣派で建てられた。参画する同志は北武蔵土豪出身の儒者などの「天朝組」。千葉道場に入門した渋沢栄一、その近在する郷党の「慷概組(こうがいぐみ)」。九十九里の「真忠組」らが立ち上がった。
千葉道場の塾生である範之介は「慷概組」に参加を予定していた。
しかし、「天朝組」は予定した盟主が立たず、不発。「慷概組」は西国の天誅が惨めな敗北報に行動に無理があると中止。九十九里の浜地や小作農を結集した「真忠組」だけが立ち上がった が幕府の討伐軍に壊滅された。

◇範之介、幕吏と相まみえる
範之介は水戸藩の武田耕雲斎、などと深く交わりを深め、元治元年(1864)3月上州筑波山に水戸藩攘夷天狗党が挙兵した時に範之介は天狗党の外にあって資金面の協力と同志を集め天狗党に参加しようとした。
範之介は天狗党と袂を分け、一派を連れ、利根に航して横浜の夷人を襲う為、鹿島に行こうとする時、幕吏に囲まれ、戦ったが、勝ち目なく解散して流れた。

◇範之介の最期
元治元年(1864)10月16日夜陰にまぎれて江戸に潜入して深川船手屋の小林権左衛門に匿われたが、市中警護の幕吏新徴組に包囲され範之介と他は抜刀して戦い、新徴組6名に斬り付けたが遂に力尽き両名とも斬殺された。
範之介は21箇所の傷を受け凄惨な姿で絶命したと言われている。
範之介は31歳、二人の屍体は千住小塚原の回向院下屋敷に棄葬された。当然、この訃報は左入の小峰の実家にも伝えられた。
小塚原回向院は、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり安政の大獄(1850)以降桜田門外事件、坂下門事件の橋本左内吉田松陰、頼三樹三郎その他、憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
幕府に刃を向けた範之介も、同罪で、攘夷で杯を交わした仲間と境内で身を寄せ合い当院で静かに眠っている。

◇兄の敵討ち
惨殺された兄範之介の仇と、15歳の小峰松之助は、勝沼の戦いで新政府軍に破れた近藤勇が甲州道、八王子、浅川の大和田の渡しを渡ろうとしている襲撃したが失敗する。たまたま軍装した勇が通り、幕府側として、兄の仇と狙われた。

真田範之介の詳細についてはこちらで紹介しています。

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近藤勇と天然理心流

      <近藤勇の生家跡>Matutune101

◇近藤勇の生家
新選組局長近藤勇はの生家、宮川家は武蔵国多摩郡上石原村(現在の調布市上石原)
の北部、野川の右岸にあった。勇は天保5年(1834)宮川家五代目久次郎の三男として
誕生する。
上石原宿は甲州道布田五宿を担う一つで、村一の盛り場であったが、茶屋が数軒、問屋場や、数軒の民家がある程度の寂しい宿であった。
江戸の近郊農村で多摩のゆったりした豊かな自然の中で勇は育った。
宮川家は幕府の殖産興業で新田開発に参加、豊かな大地に恵まれ地元では有数の豪農となった。
屋敷は約7、000㎡もあったといわれ、壮大な入母屋の茅葺きの母屋はじめ多数の蔵からなっていた。
◇天然理心流に剣術を究める
徳川250年の安泰の時代から、黒船来航、天候不順による飢饉、各地で起こった農民一揆、更に安政2年(1855)で襲った大地震で世の中は騒然とした。
関東の豪農達は御法度とされていた剣術に力注がざるを得なかった。
幕末に関東取締出役の下に組合村が出来ると、捕り物に動員されるようになり、武術修得のニーズが生れた。
天然理心流宗家三代目の近藤周助は多摩の豪農層を中心に門人を開拓した。
宮川家の広い庭は後の天然理心流の剣術の格好の練習場にもなった。
勇は国領宿で天然理心流の道場を持つ原田忠治に非凡な才能を見いだされ、天然理心流宗家三代目の近藤周助に引き合わされる。

嘉永元年(1848)勇は正式に天然理心流に入門し、翌年、周助の養子として迎い入れられ、周助の旧姓嶋崎とし、名を勝太と改めた。

勇は住み慣れた上石原の宮川家を離れ、江戸牛込甲羅屋敷(現在の新宿区市ヶ谷柳町)にあった天然理心流試衛館道場に移り住む。
安政2年(1855)天然理心流の腕は磨かれ、晴れて免許を取得する。

◇野試合

                  <野試合が行われた日吉神社の背後>

Img_3941111 老齢化した近藤周助から勇への世代交替が必要であった。
文久元年(1861)8月、府中六所宮の境内で勇の天然理心流四代目襲名披露の試合が行われた。
その陣容は
本陣: 総大将 近藤勇、 旗本衛士 江戸七人、軍師 寺尾安次郎、軍奉行 沖田林太郎(総司の義兄)、軍目付 原田忠治(勇の師) 江戸二人、太鼓 沖田総司、鉦役 井上源三郎

赤軍大将:萩原糺(きゅう) 以下
         佐藤僖四郎(日野宿)、日野信蔵(日野宿)、中村太吉朗(日野宿) 山南敬助、土方歳三、他隊長以下全員で36名
         
白軍大将:佐藤彦五郎 以下
        井上松五郎(千人同心)、多摩・江戸剣士、隊長以下全員で36名
一流剣士が双方36名が小グループに別れ布陣し、沖田総司の打つ太鼓を合図に激しい野試合を行った。
一回戦は白軍が勝ち。二回戦は山南敬助他が白軍の大将、佐藤彦五郎を打ち取り赤軍の勝利になり、、三回戦は大将同士が打ち合い、佐藤彦五郎が萩原糺を打ち取り白軍の勝利になった。
試合に関わった80名と見学した、取り巻き連中を併せると大変な賑わいの中で行われた。

戦いが終わった後、血気にはやった若者達が府中宿に繰り込み、酒の勢いもあって大騒ぎしたようであるが、総大将も自ら野戦に出陣したことを吐露している。
総司の太鼓、源三郎の鉦が打ち鳴らす姿を想像するだけでも面白い。

こうして名実共に近藤勇、天然理心流四代目が誕生する。

       <近代化の渦に、松本旅館はホテルに替わってしまった>

Img_39861 大騒ぎした場所の一つ府中六所宮前の旅籠松本屋も近代的に改装され、すっかりその面影も消えてしまった。

久しぶりに訪れた府中に、勇の関わり場所を見てきたが、時代の波に、呑み込まれる姿が残念であった。

            <かっての旅館の姿 >

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勇はこの後、妻つねを迎えるが、短い結婚生活であった。そんな"つね"の姿をこちらで書いてみた。

ようこそ幕末の世界へ

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多摩の天然理心流

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◇多摩地域の拡がり
多摩に展開する天然理心流について、今まで訪ねあてた史蹟を地図上に整理してみた。
地図上では東に多摩郡府中(現府中市)大国魂神社、西に下恩方村(八王子市)山本満次郎、南に多摩小野寺村(町田市)小島鹿之助、北に多摩郡二宮村(現あきる野市)井上才市まで、天然理心流にとって縁の場所と人物である。未だ未だ埋もれているものが沢山あると思われるが、こうして地図で軌跡を辿って見ると広い地域に及んでいる。時間もかかったが剣術の姿に取りつかれ、我ながらよくぞ廻った。

地図のメッシュ・表記範囲から、表記出来る範囲におのずと限界があり、東西に分けて描ける範囲で作画してみた。

◇その源流は
八王子の戸吹から始まった天然理心流は剣術・柔術・棍法の三術を宗家の初代から二代、さらに増田蔵六に受け継がれる戸吹派の歴史の流れ。
一方では 天然理心流でも剣術のみで受け継がれ小山の近藤周助から近藤勇へ、出稽古で日野宿を中心に広まり、やがて新選組で一躍、天然理心流の知名度を全国版で広めていったのが周助派の歴史の流れ。

              <桂福寺の天然理心流の宗家の墓>                

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◇時代の流れの中で
二代目宗家、近藤三助の出稽古先の謎の死。近藤勇の処刑から、天然理心流を通じて、新政府から追求を避けるため宗家の墓を埋めてしまった。昭和の時代を迎え、末裔の方達によって破壊された墓石や埋めてしまった墓石が掘り起こされ、再び復元された。再び蘇った墓石の姿に戊辰戦役の傷が生生しく歴史の傷跡を今日に伝えてくれる桂福寺。

徳川の天領と言われる地域にも関わらず、天然理心流から北辰一刀流へ流派を越えて極めた剣士が攘夷活動に身を置き、一時天狗党などと行動を共にするが、新微組に追われ惨殺されてしまう真田範之助。その怨恨から実弟が、勝沼戦争で敗走する近藤勇を、浅川の大和田の渡しで襲撃するが、軽くかわされる勇襲撃事件。

新選組に入隊し戊辰戦争に突入し、土方歳三らと一緒に北に向かい、捕縛される者。倒幕の嵐から新政府に変っていく歴史のうねりのなかで天然理心流の姿と、武士の生きざまを今日に伝える、殉節両雄之碑。

天然理心流の指南の傍ら、伝統の下原刀の鍛治職を守ってきたが、近代の戦争で武器として刀の時代が淘汰され、自ら切腹する、武士魂を貫く山本満次郎。
などなど

明治時代になって、前述の通り新選組は敗者の歴史を辿り宗家四代目が近藤勇であったため、新政府から賊軍の武術として禁じられ、「みだりに見せない教えない」ということもあって、幕末期に旺盛を極めた同流派もかなり淘汰されてしまったところもある。一方では流租近藤蔵之助の教えを守って、稽古に励み、同流の現代への橋渡しに尽力されている、新選組ご子孫もおられる。

多摩地域の天然理心流を地図から辿ってみよう。
多摩の天然理心流

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天然理心流の宗家と話

Img_00631 天然理心流の宗家9代目宮川清蔵さんが撥雲会の若い剣士達の皆さんと稽古で定期的に日野に、やってこられる。ちょっと藪用があったのでお目通し願い、暫くお話をする機会を得た。

今日は稽古着を持って来られず、何故かと思ったら、この季節変化に風邪を引かれた様子で、時間はたっぷり持つことが出来、じっくりお話出来た。宮川さんは御存知、近藤勇の生家、宮川家の末裔でもある。

日頃天然理心流で鍛えた肉体は筋金入で、当たり前のようであるが背筋がピンとのびて威厳があり、自然と風格が備わっている。

その宮川さんが、最近甲州路の旧道を高尾から、小仏、相模湖を奥様と一緒に歩いたそうである。その旧道は新たに出来た20号線で所々、寸断され、上を見上げれば、無粋な中央高速がついて廻るが、未だ未だ旧道の歴史を確かめる所があると言う。

敢えて何故、甲州路の旧道かと言うと、やはり近藤勇が甲陽鎮撫隊を率いて、江戸から甲府に目指した縁の路であることから、じっくり確かめてみたいこともあるようだ。江戸の屯所から大砲2門と砲弾を抱えての西下は小仏峠でも、自ら歩かれての登板体験から改めて大変さを体感されたようであった。その小仏より更に数倍厳しい笹子峠が待ち構えており、その厳しさは想像を絶するようである。

その鎮撫隊が歩いた旧道コースをなぞるように小仏の関所、小原宿本陣などを寄って、確かめ、その筋では有名な豆腐屋で冷ややっこなどは、結構いけるよなんて言われ、益々行きたくなってしまった。甲州路を歩け歩けで今や、人並みが増えたなかに宮川さんもその一人でもあった。

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天然理心流を間近に見て昂奮

Img_0063 新選組ふるさと歴史館、特別展示「新選組戊辰戦争のなかで」のオープニング記念行事の一環で天然理心流の実技を身近に見て感動した。当日は大雪のため、元々屋外でやる予定が、急遽館内で実施され、お客様の来場も少なかったこともあって、こんな近い所で迫力のある演技を見せて貰った。

当日の演武は近藤勇のご子孫であり天然理心流の宗家宮川清蔵さん、井上源三郎のご子孫で井上雅雄さん始め、天然理心流撥雲会の荒川治会長以下門弟の皆さんの迫力ある演武でした。写真は基本中の基本「切り紙」の木刀 五本で、まさに近藤勇、井上源三郎の末裔による「エイトウ」の掛け声と木刀の相打ちで館内に響きわたる迫力あるものでした。

Img_007311 ついで実刀によるわらの試しきり。「ブーン」と言う風きり音が聞こえるような距離で、見事な太刀裁きはこれぞ刀の呼吸する様を見る様で、何とも言い難い贅沢な見学であった。

天然理心流の教えは
一切書き教えることをせず、
総て口伝のため、演武の間の宮川さん解説は大変貴重なものでした。

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相原に幕末を見つける

Img_65631 天然理心流を追って、横浜線の相原駅から新・旧町田街道を東に向かう。ここ相原は都心から1時間、駅を降り立つと、未だ開発過程の自然がたっぷり残される街並みが優しく迎えてくれる。

旧町田街道にはご覧のような茅葺きのどっしりした名主の青木家屋敷が生きた歴史を、そのまま見る事が出来る。

「お~凄い、凄いと」この茅葺き家屋をたっぷり手間隙掛けて、現実に守り続け現在でも医院として近隣の人を迎えている姿に感動を与える。

文久2年というから140~50年も経っているが茅を守り続けている事に凄さと、生きた歴史の証の中に、身を置けると言う喜びにたっぷり浸れる。

この屋敷の一角に道場を置き、「青木道場」として天然理心流の近藤三助を多摩郡戸吹から出稽古で迎え入れ、相原始め小山から多くの門弟が此処に集まり、育っていった。その門弟の一部が維新以降に自由民権運動に育っていくなど、歴史の渦が此処の家を街道筋を駆けめぐっていく。

天然理心流二代目の近藤三助の相原村での出稽古先の謎の急死、とそれを悼んだ追悼碑のある清水寺。

近藤勇の養父であり、天然理心流の三代目を名乗った近藤周助の出生地である小山まで町田街道筋を歩き、新たな歴史発見に凄い充実感に浸る事ができた。

近藤周助でサイトアップしました。

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