カテゴリー「09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」の記事

岩倉具視と『喰違の変』

温かい陽気に後押しされ、赤坂の迎賓館の前から紀尾井坂へ向かう。
平日にも関わらず四谷駅から限定公開で迎賓館へ向かう群れ衆が一杯で、特に見物欲旺盛な群れを組む、おばさん族が取り分け多かった。
元々徳川御三家の一つ、紀伊殿(紀伊和歌山藩)の広大な中屋敷で、紀州徳川家の江戸中屋敷、天璋院篤姫江戸城から移り住んだ屋敷の一つ。
中屋敷は、明治維新後に天皇家に献上され、明治天皇が東京入りして、皇居出火後、新皇居が完成するまで、この赤坂御所が使われた。
この御所から勤めを終え、馬場先門の自宅へ帰る途中、紀尾井坂に隣接する喰違坂で岩倉具視が襲撃された。
何故、事変が発生したのであろうか?、一介の貧乏公家から、国のトップに上り詰めるサクセスストーリの岩倉具視の足どりを辿りながら、事変の内容を追ってみる。

◇岩倉具視、

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1)貧乏公家から高位の地位へ
岩倉具視は文政8年(1825)堀河家の次男として生まれ、14歳で岩倉家に養子となる。
京都の中で暮らし官位と気位だけは高いが、生活は非常に貧しいお公家様。
野望を抱く、岩倉は、安政元年(1854)30歳にして鷹司の推挙で孝明天皇の侍従の地位を獲得する。

2)変転する時代
安政元年、日米和親条約が締結し、世相は尊皇攘夷の運動に騒然とした時代であった。日米通商条約で、幕府は勅許を京都朝廷に求めるが、岩倉は朝廷の権威回復を図ろうと幕府に勅許が下されることの阻止を図る。
大老井伊直弼は独断で条約を調印し、激怒する尊皇攘夷派を弾圧するが、その反動から水戸藩主体の攘夷派に井伊も暗殺される。
崩壊に瀕する幕府は朝廷の和解に、皇女和宮を将軍家茂に結婚する公武合体を図り、未だ薩長の支え無い時期、岩倉は取り敢えず幕府と手を組み、公武合体を押し進め、和宮の降嫁が実現する。

3)岩倉は官中から追放、公武合体から倒幕へ
京都で日毎に尊攘派が台頭し、佐幕派に地するテロ行為が続発し、岩倉も狙われ、身の危険を感じた岩倉は官を辞し、頭を丸め入道となり、郊外の寺に身を潜める。岩倉陰栖中は、暴漢に襲われたり、同志の切り取った腕を投げ込まれ平穏ではなかった。岩倉と最も
気脈を通じたのが大久保利満で、岩倉の身を案じ、ピストルを届けた。 この間、5年間であったが、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、薩摩の西郷隆盛、大久保利満、長州の桂小五郎など薩長土の志士と出会い倒幕に傾注していく。

慶応2年、孝明天皇が急死し、倒幕の勢いが一挙に高まる。
慶応3年(1867)岩倉は宮中に参与として復帰し、薩長土の兵を京都御所に控え、西郷、大久保、岩倉が中心になって、「王政復古」のクーデターが起こす。
慶喜の大臣職放棄と、領地取り上げに、幕府側は不服とし、兵を挙げ、戊辰戦争が始まるが、幕府は破れ、慶応4年(1868)江戸城開城となる。明治維新として、王政復古し、岩倉が描いていた朝廷が政権を握る。

4)政治の表舞台、征韓論
大政奉還後、間もなく、明治政府が未だ地盤造りの過程で一介の公家である、岩倉具視が政府の中枢を担う一人として躍り出た。岩倉使節団として欧米に向かい見識を深めるなど近代化の先鞭を切り走っていた。
使節団派遣で岩倉、大久保ら不在中の留守を預かる西郷隆盛らが、政府の機能を果たしていた。
時恰も日朝関係が悪化するなか、板垣退助は居留民保護を理由に派兵を提案したが明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定する。
所が、帰国間もない時期に岩倉らがこの決定を覆し、中止になった。この間、二転三転する結論の不明朗さに抗議し西郷、板垣が下野する。
世論もこれを圧倒的に支持し、これを機会に、俸祿が少ないこと、兵になれないことなど処遇を巡り、新政府に対し、不満を持つ士族が九州・中国地方を中心に反乱が生まれた。明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る不平士族の乱や土佐で自由民権を唱える契機となった。

◇「喰違の変」
そんな世情を背景に岩倉具視は赤坂喰違坂で多数の兇徒に襲撃される、「喰違の変」が発生した。
明治7年正月、具視は天皇の晩餐に陪席後、馬車に乗って赤坂御所から出て自宅に向かう。
具視を乗せた馬車は赤坂御所から赤坂喰違坂にさしかかった際、兇徒がおり、7、8人が道端で目あてもなく歩き回っていた。具視が馬車に乗っていることを見て、一人二人が前にすすんで、将に手にとらんとするところであった。
馬丁は「誰か」と名を問いただす。
兇徒は急に刀を出し、馬車の右の舵棒をよじ登り、更に馬車の背後から、幌を壊しに かかるもの者もいた。具視と馭者は馬車の左から逃げた。 街灯もなく人通りもない喰違見附の漆黒の闇の中、具視は額に軽い傷と左腰を斬られるも短刀の鞘で深手にならな白刃で探しに来る。兇徒は具視達を追って、四方に走り、探し求める。
一、二人が 具視を後を追い、ピストル撃つが当たらず。
具視は壕に転がり、身をいばら・とげが繁っている中に隠れるが、一人が左手に提灯、右手にく歩き廻っていた。
具視は兇徒に見つかる事を恐れ、黒色羽織の襟を翻して覆い身を隠した。
たまたま宮門の前で、二人の喧々諤々の騒ぎに、兇徒は皆恐れ、慌てふためき、逃げる。具視崖をよじ登り堀を出る。 岩倉公は宮内省で傷の手当てを受けて、数日後に馬場先門の本邸に戻る。こうして、具視は危機一髪、急な傾斜地と茂みに救われた
現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりになって3日後、武市熊吉ら9人は逮捕された。
内務卿大久保利通は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見て半年後、全員が伝馬町牢屋敷にて処刑された。

◇現在の喰違坂

<道を阻むように、土塁が積まれている、かっては柵門で侵入を防いだ>

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その乱闘となった喰違坂の現場に行って見る。行く手には土塁を積み上げ、戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)がそのまま残され、 直進を阻む姿がそのまま残されている。この土塁を抜けて、背後に廻ると下り坂になり紀尾井坂に繋がる。

   <道の側面は急な斜面の底が堀、その上を首都高が走る>

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道の側面は、急斜面で堀になっている。生い繁る茂みは傾斜部分を覆っている。道を挟んで反対側は堀の部分は埋められ、グランドになっているが、当時は恐らく同じ姿であったろう。
この自然の茂みの中に具視が隠れ、危機一髪で兇徒の探索の手を免れた。 堀の淵の生い茂る樹木の部分は井伊家の屋敷の一角である。
紀尾井坂は急な坂道で、清水谷に出る。この清水谷で喰違の変の4年後、大久保利通がやはり馬車で通過するところ兇徒に襲撃され、殺害され「紀尾井坂の変」と言われている。紀尾井坂の一番下部はのオフイス街に囲まれた一角に池と樹木の清水谷公園になっている。公園の一角に大久保公哀悼碑が建っている。

              <贈右大臣大久保公哀悼碑>
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二人の明治の高官が同じ坂道で襲撃、不安定な明治時代のテロ活動のメッカとも言える。
場所、事件の詳細は此方で紹介している。

岩倉具視と「喰違の変

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とんだ、「都市伝説」にのせられた

    <駿河城で見つけた葵の葉(徳川家の家紋)>Image11111

某テレビ番組の制作担当から、
当ホームページを拝見され
ホームページ中で使用している画像を
番組内で使用させていただけないかという
ご相談の問いかけが、拝の掲示板を通じてあった。

どんなテーマかどんな形でメデイアに乗るのか、断る術もなく、電話で応じた。周辺の土地事情を中心に、40分近くに及ぶ、聞き込み、調査であった。

<先方曰く>
『いろいろ調べたが不明瞭であるが、徳川家の屋敷を国が没収したのか、歴史上の真実か知りたい。
十六代将軍徳川家達が徳川邸に住んでおり、その家達が中心になって東京オリンピック招致をしたようであるが、実現しないまま1940年に亡くなる。
戦後の1964年に晴れて東京オリンピックが開催された。
そのオリンピックの開催に関わり、この土地収容を巡り、徳川家と国との間で激しい確執があったとの話であった。』

折しもオリンピック開催に沸く、千駄ヶ谷周辺が都市伝説に繋げ視聴者の話題を呼び起こそうとするのであろうか・・・?

電話でのやりとりに、そんな話があったのか、正確ではないが、半信半疑にその場は先方の話を聞いてはみた。

暫くして、手持ちの史料を振り返ってみる。

明治17年(1884)家正(家達の長男、17代将軍)誕生

明治20年(1887)明治天皇行幸(旧邸母屋付近に碑が残る)
明治23年(1890) 家達貴族院議員
大正6年 (1917) 新邸完成 900坪 (敷地約13千坪) 旧邸母屋(明治天皇行幸)を残して壊す
昭和11年(1936) 家英逝去(家正の長男25歳)・・・(*18代を継ぐ予定であったが)
昭和15年(1940) 家達逝去 (*2年前ロンドンで赤十字会議に赴く途中でカナダのロッキーで心臓発作、以来病状のまま、急性肺炎で亡くなる)
昭和18年(1943) 徳川邸(新邸)は東京都に引渡。 宗家は家正夫妻、泰子家達の妻だけになってしまい原宿に転居している。

<そんなことから>
家達がオリンピックに招致とあるが、カナダで倒れ、病床につき、そんなエネルギーは持ち合わせてない。
家達自身も外国生活も長かったことから、自由闊達であり、将軍家の十六代に拘らず、明治以降は徳川家の初代とも言い切り、新しい時代を率直に受け入れている。
残された末裔も第二次世界大戦以降は華族制度も廃止され、飾り物のような特権意識は既に過去のものと、離別されている。
そんな背景から、土地収用を巡り、徳川家と国家との間による争点はとても、考えられない。

歴史事実を整理し、先方へメールで送付したが、何の反応もなかった。単なる妄想としか思えない。
ネットで見ると「信じるも信じないのもあなた次第」   売り言葉になっている。
TVと言うメディアに釣られ、こんな言葉に乗せられてしまった。

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お江戸ぶらり旅、千駄ヶ谷~お茶の水

Img_10141 当ブログでも案内したが、その日を迎えた
差程暑くなく、格好の外歩きの日であった。
何時ものメンバーとも併せ、ひの広報で呼びかけ、予め予約された方や直接来られた方など10数人の集りであった。

◇紀州徳川家下屋敷
千駄ヶ谷駅前から出発、右手に津田塾大、左手に室内体育館があり、駅前の道は鳩森神社に繋がる。
江戸城を追われた13代将軍御台所の「天璋院」篤姫は14代将軍家茂の生母「実成院」らと一緒に移ってくる。
かっては大奥に仕えた3000人余りの女中衆はそれぞれの道を歩み、此処には僅かな付き人を伴いやってきた。
大奥を新政府に明け渡し、一橋家、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山邸、赤坂溜池の旧相良邸など転々とし、明治10年(1887)に当地にたどり着いた。
屋敷の北端は千駄ヶ谷駅の南側の線路沿いから、西側は現在の明治通り付近、南端は原宿駅付近、東側は現在の室内体育館付近で、間に人家を囲い込んだ飛び地を含め、約10万坪を擁する長方形の広大な土地であった。

Img_5036111 津田塾大背後の樹木の茂みは当時の面影を残すもので旧邸と言われ場所で、篤姫が晩年ここで暮らしていた。
篤姫没後、道を挟んで反対側の体育館側には手狭な旧邸から新邸が建てられ、一度焼たが再建され、建物は戦後まであったが、一掃され、体育館が建っている。
徳川宗家は維新後慶喜から家達に変り、天璋院は嫁となる公家の泰子(ひろこ)とも併せ養育するなど、徳川家の武家のしきたりを守った。
薩摩女の血流を持ちながら、徳川家として和宮と共に戦い抜いた。豪華絢爛の大奥の世界から、質素な世界へ。
宗家として漸く落ち着き先が見つかったものの、篤姫は明治16年(1883)幕末時の波瀾に満ちた生涯を48歳で此処で閉じる。
「家達の跡取りが生れたら、島津家から嫁をもらうように」と遺言を残しているが、家正の誕生を見る前に亡くなっている。(家正の誕生は明治17年)
徳川宗家は新邸に移り家達の時代に一般家庭から離れた、華族としての特殊世界が戦中まで続けられた。

◇試衛館道場跡
目の前の都営地下鉄大江戸線・牛込柳町に向かい試衛館道場跡へ
柳町病院と住宅地の一画に碑が立ち、僅かにその跡が確かめられる。
天保10年(1839) 市谷(柳町)に天然理心流の試衛館道場を作った。
文久元年(1861)近藤勇、府中六所宮で天然理心流四代目襲名披露試合宗家四代目を継ぐ。
試衛館道場を拠点に入門者が生れ、多摩郡の富裕な豪農層に出稽古で門弟を増やし、基盤が生れる。
浪士組として幕府の、将軍援護のため上洛し 会津藩の配下で壬生浪士組から新選組の組織が誕生し治安維持に活躍し、天然理心流の名を天下に広める。
戊辰戦役ではラスト侍とまで言われ、旧幕府軍として戦い散っていった。
勇始め沖田総司、山南敬介、永倉新八、藤堂平助、等々試衛館道場の門弟らが激しく稽古に励む、音、息づかいがこの辺りで、響きわたったのであろうか・・・。
新選組はテロが横行する京の街に、治安維持で池田屋事件で、華々しい成果があった、
時代が変わり、薩長主体の新政府が生れると、それが逆恨みとなり賊軍とされた。
維新を迎え、明治政府から、天然理心流は賊軍の武術として、見せない、教えないの、しばりが付けられ、一時水面下に潜ったが、最近、あちこちで復活の声が上がった。

◇明治大学博物館・昌平坂学問所

Yusima101都営地下鉄大江戸線からJR中央線に乗換お茶の水へ
お茶の水は学問所が生れ、そのまま学生の街に繋がっている。参加されたお二人が某M大、某中大のOBで多感な青春をここで過ごし、庭先の様な場所で、道案内には事欠かなかった。
博物館では「江戸の捕者」「牢間と捌き」「江戸の捕者具」、日本や諸外国の拷問・処刑具など、書物で想像する世界が、目の前に陳列され、見るもの総てが際立った。
よくぞ此処まで集められたか、怖い、恐ろしい暗い展示場に不気味さが漂う世界であった。
館内の一画から流される「白雲靡く、駿河台♪♪・・・♪」当然体にしみ込んでいるだろうからと、そのOB氏に斉唱をお願いしたが、場違いと、尻込みされてしまった。

神田川を越え、昌平坂へ向かう。
寛政9年(1797)幕府は「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。
江戸時代の武家は、近世社会の支配者であり、指導者としての地位を保つため文武の教養をつむ。
藩士の中から俊秀を選んでここに留学させた藩も多かった。昨年、行った会津の日新館も藩校の一つで、此処に留学させている。
その意味で、昌平坂学問所は最高学府であるとともに、藩校の教員養成の機能。
孔子はその教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。その教え「儒学」に維新まで70年間続き、江戸時代の官立の大学として役割を果たした。
庄内藩郷士清川八郎、長州藩高杉晋作など著名な人物も此処が教育のステータスとして憧れの場所であった。
昌平黌から更に三社祭の熱気が残る、神田明神に寄り、広い境内の一画で散会した。
たっぷりと見どころ満載の江戸の旅は其処で無事に終わり、道案内人の重い役回りは解けた。

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四谷・千駄ヶ谷に取りつかれ

千駄ヶ谷駅でティッシュペーパに吊られて不動産の広告紙を受け取った。
「外苑ビュウー、美しき社との響きあう、最愛の都心へ」とまあ、購買意欲をかき立てられる綺麗な言葉が書き並べられている。
都市開発がどんどん進められる中で、神宮外苑、新宿御苑、明治神宮と緑の濃い、自然に覆われた環境が守られている。
そんな環境の中、幕末を飾る歴史が多数あり、それを繋ぎ合わせると、格別なコースメニュウが生れ、大好きなコースの一つである。
その幅広い歴史遺稿は当ブログやホームパージでも既に紹介しているが、その関わる人物が剣客榊原鍵吉、新選組の沖田総司あり、天璋院篤姫あり、話題に事欠かない。最後は大政奉還など幕末から維新にかけての国の行く末を決める80枚の歴史的な有名な絵画の絵巻物を絵画館で堪能し歴史旅を締めくくることが出来る。

ひょんなご縁から、わざわざこの日の為に京や、首都圏から来られた幕末に造詣の深い暦女達とこの歴史の遺稿を確かめ会い、何度目かの町巡りを楽しむことが出来た。

□寺町の左門町
信濃町駅から左門町へ、路地に入ると車が来ると人が道脇に避け、漸く通り抜けられる狭い道にぎっちりと寺が密集している。

           <かっては寺町として賑わい見せた道>

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◆何故寺町が生れたのだろうか
この夥しい寺群は江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に移転し、須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀は堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日、JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。
寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えたようである。

◇コースでの一番の人気は
幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の西應寺。「鬼平犯科帳」の「鬼平」で世に知られる長谷川 宣以、通称長谷川平蔵は「戒行寺」等がある。何と言っても刀の切れ味を試す「御佩刀(ごはいとう)御様(おためし)御用」を代々勤めていたが、その後斬罪人の処刑を行う「打ち首 同心」の山田浅右衛門「勝興寺」が一番印象的であったようである。

日野宿佐藤源之助(彦五郎の長男)が東征軍に捕まり、刀を奪われただろうと、歳三から贈った「越前康継」は名刀の一つである。中子に書かれている裏名に「山田浅右衛門」が試し斬りされた、日付と場所が書かれている、そんな身近な所に浅右衛門が居る。

◇お岩さんで願掛けて
路地から分岐して、住宅地の一画に旗がはためくはめくお岩稲荷神社へ向かう。お岩さんの美徳から福を招き、お岩の幸運にあやかろうと、心願成授の石にそれぞれ願を掛ける。皆さん、叶玉を買い、石に入れるが、はてさて、何を掛けたのであろうか?

□左門町から内藤神社へ
左門町から離れて内藤町に向かい、外苑東通り渡ると「習成館道場」がある。
勝海舟が命名した「鞍馬流」「習成館道場」が今なお健在であり、大きなお面のモニュメントに思わず歓声があがる。剣術の名残が未だしっかり、継承され、武家世界が漂っている。

◇多武峰(とうのみね)神社(内藤神社)
内藤清成は白馬に跨がり、現在の新宿御苑内の榎を中心に駆けだし、家康との約束で、その土地を与えられ、その縁の白馬堂がある。
内藤家を受け継ぐ17代の当主である内藤頼誼氏が今でも内藤町にお住まいになっている。
当主たりとも下屋敷(御苑)に入るにはしっかりと入園料を払っていると、ブラタモリで紹介されていた。

◇沖田終焉の地を語り告げる乏しい物証

                <外苑西通りと渋谷川跡>

0310009311沖田終焉の地は当ブログでも紹介しており、細かい説明は割愛する。
終焉の地の縁の渋谷川の川沿いに、かっては水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、川は外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。
その渋谷川は埋設されており、池尻橋も外苑西通りを挟んで両側に欄干が残され、僅かにその跡を確かめる事が出来る程度で、その場所探しは初めて来る方には中々、難しい。
そんな背景の中、内藤神社の近くで石垣を背に「鉛筆の碑」が立っている。黒鉛を突いた水車小屋の存在を示す案内板もあり、川に残される痕跡が乏しい中で貴重な存在と言える。

□旧徳川邸跡
千駄ヶ谷駅前に出る。
千駄ヶ谷駅から向かって正面に津田塾がありその背後に徳川の旧邸があった。明治16年(1883)天璋院は49歳で此処で逝去する。
新邸は旧邸の東側(現在の体育館側)に大正6年建てられた。
江戸市内を数多く「お移り」をしており、芝の薩摩藩邸、に始まり渋谷の別邸、大手町の一橋邸、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山の尾州邸、赤坂の相良(さがら)邸、最後は千駄ヶ谷の紀伊邸等々十指に余る。
明治10年(1887)に13代将軍御台所の「天璋院」、14代将軍家茂の生母「実成院」らが移ってくる。
旧邸、新邸併せてその影さえ総て消え去って居る中で、旧邸の母屋付近と言われる場所に明治20年明治天皇が行幸された碑が立っている。

            <明治天皇行幸の碑>

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書籍等では紹介されているが、塀越しに僅かにその姿を発見した時は鳥肌ものであった。
「ああ、ここに「天璋院」が」その姿を認めた。
「家達の跡取りが生れたら、島津家から嫁をもらうように」と遺言を残していった。17代将軍を継ぐ家正は明治17年誕生し、成人後薩摩藩主の娘「正子」を迎え「天璋院」の遺志は継がれた。

□聖徳記念絵画館
明治14年(1881)2月、兎狩りで日野にも訪れ、明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」の剥製も展示されている。その幻の存在であったが、胴回りも太めでごっつい感じの「金華山」との対面に皆、感動していた。
大政奉還、鳥羽伏見戦、江戸開城談判、大阪行幸、諸藩軍艦御覧、西南役熊本籠城、馴染みの深い絵物語に時代を追って、一巡し幕引きを飾った。
蒸し暑い館内に来館者も多く、賑わっていた。
目一杯汗をかき、喉が乾き、信濃町で反省会。喉を潤し、幕末談義に花を咲かせた。

四谷大番町・千駄ヶ谷 で紹介してます

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念願の「金華山」と逢えた

明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで、馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、日野の旧佐藤邸で小休止された後に、連行寺村へ向かったことは既に当ブログの「明治天皇行幸と山岡鉄舟」で書いている。
明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」を携え、幕末から維新に駆けめぐった山岡鉄舟を従者として、従え、連行寺村、周辺多摩の山野を駆けめぐった。
四囲が住宅地で開発される中で、都立桜ヶ丘公園として、自然の森がそっくり残されている。
天皇の狩猟天覧は、郊外の狩猟地の一つとして、ここ連行寺村が選ばれ、御前山、大岳山、雲取山など素晴らしい眺望のきく高台にある

天皇が愛馬「金華山」に跨がり、この眺望を楽しみ、兎狩りの一時を此処で過ごされた。
馬を携えた明治天皇も山岡鉄舟も此処に来て、同じ姿を眺めていたのであろう。

Meiten303 旧多摩聖蹟記念館の中央に飾られた明治天皇のご寵愛深く『金華山号』とそれに跨がる明治天皇の姿を拝顔する事が出来た。
明治13年から16年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。
陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。
長寿といえる26歳で死亡し、明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の聖徳記念絵画館(以下絵画館)に安置されている。

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絵画館には何度も訪れている。長い武家政治から、維新に向かう歴史的な事実を背景に明治天皇・昭憲皇太后の主な業績が80枚の絵画で描かれている。画廊としても世界第一級の折り紙がつけられと言われ、歴史の紹介記事で何度か目にする絵の原点は此処から生れている。「大政奉還」や「江戸城開城談判」などなど生き生きとした歴史事実を今日に伝える、巨大な絵の前に思わず、吸いよせられてしまう。

そんな80枚の絵のインパクトが大変強く、「金華山」の存在は拝の中では薄かった。
しかし、色々調べるうちに、「金華山」の存在が大きくなり、どうしても、その姿を見たかった
絵画館中央の吹き抜けのホール一角にガラスケース越しに「金華山」の現姿を見ることができた。剥製と隣には骨格がそれぞれ陳列されている。
ああこれが「金華山か~」と剥製を前に、漸くたどり着いた、感慨も一入であった。旧多摩聖蹟記念館の銅像はやはり美術品で如何にも馬体が逞しく、美しく仕上がっているが、絵画館の物は馬脚も太く、短く、全体的にずんぐりしていた。

「クセなきは得がたかりけり 牧場より進めし駒の数はあれども」 
「乗る人の心をはやく知る駒は ものいうよりもあわれなりけり」 
「久しくもわが飼う駒の老いゆくが 惜しきは人に変わらざりけり」 
金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。明治天皇が上記の評句がある。
 

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風雨にうたれた沖田総司終焉の地

大凡2カ月前から、四谷地区を中心に歴史旅を計画した。
所が日にちが近づいてくるに従って、どうも週末の天候が怪しくなってきた。
当日の予報は東京地方、昼前後から雨、しかも風雨とも激しくなる。
公募もしたので、日程変更は出来ない。
祈るようにJR中央線信濃町駅から出発。
殆どが創価学会の建物になってしまったが、かっては17代将軍家正公(亀之助)が学んだ2000坪の学問所の紹介から始まる。外苑東通りを西側に旧寺町(左門町)に向かった。

寺町では剣豪榊原鍵吉や「鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川 宣以、通称長谷川平蔵。
打ち首同心こと首切り浅右衛門こと山田浅右衛門などの墓参までは祈りが通じたのか、天与の神が救ってくれたのか、傘をさすほどでもなく、歴史旅も順調に済んだ。
しかし、途中で軽く昼食を取り、外苑西通りを越え多武峰神社(内藤神社)辺りからこれ迄の穏やかな曇り空から一変し、雨風が激しく強くなった。
さす傘も吹き飛ばされ、おちょこになったり、風の止む間を見計らって建物の軒先に退避しながら、新宿御苑の柵付近の旧渋谷川の跡を追う。

風雨も激しい中、橋の欄干やかって流れていた川跡を示す、塞がれたトンネルに渋谷川の跡を確かめる。
この渋谷川にかっては川沿いには水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、エコエネルギーの先駆け、として、この水流を貴重な動力源として使っていた。
外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。

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沖田総司が匿われていた植木屋平五郎の納屋はこの付近と言われている。
付近はマンションとかって渋谷川の外壁に囲まれ、昼尚暗き、谷間にある。
だんだん強くなる雨、沖田総司が、もうこれ以上近寄るなとの悲痛な叫びとも思えたが、全員の意志は崩れることはなかった。

         <旧渋谷川跡>

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渋谷川の先はマンションの裏手になり、柵が設けられ、鍵がかかっている。
予め見学の主旨を手紙で伝え、許可を頂きこの雨風の中、ご出馬頂き、特別に開けて頂いた。

谷間に風は若干収まり、往事の姿を思い浮かべながら見る事が出来た。
普段、通りから離れた場所だけに、こうした見学機会の巡り合わせに特別な想いでの見学であった。

戊辰戦役に倒幕に勢いを得た薩長軍に対して、幕府も崩れ、最前戦に居た新選組も西から引き揚げる。
慶応4年(1868)1月大坂城から退去した新選組は富士山丸で品川に入港する。近藤と沖田は介護役の隊士と神田和泉橋の医学所に入り、その後、稍福寺の野戦病院に運ばれ 、松本良順の手当てを受けたと思われる。
沖田の謎めいた史実に、終焉の地も、浅草の今戸節とここ千駄ヶ谷(明治の半ば迄は南豊島郡大字千駄ヶ谷村、現新宿区大京町)節がある。
千駄ヶ谷の当地は雑木林に覆われた「御焔焇(えんしょう)蔵」といって幕府の火薬庫、西側には内藤駿河の守の広大な屋敷、南側は雑木林、新政府軍から探索を受けても、隠れ場所はいくらでもあった。

そんな節に行政も動きだし、「総司終焉の地も碑」の建立も噂されたが、沙汰止みとなり、新宿ミュージアムの一環で案内板が建てられるようである。
そんな長い先の話しでも無い様で、果たしてどんな物が用意されるか、改めて見届けたい。

現地の様子はこちらで紹介してます。沖田終息の地

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信濃町から市ヶ谷へ「岩崎弥太郎」「鮫河橋」などを見る。

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市ヶ谷の帝国データバンク史料館に館長さんを勤める知り合いがおり、特別企画「輝業家」が催しされ見学に出かけた。
近代日本を形作る実業家として渋沢栄一や大河ドラマで話題を呼ぶ岩崎弥太郎など幕末史を飾る人物も含まれ、大変興味のあるテーマであった。
一方では昨年の11月に信濃町歴史散策を当ブログで書いたが、この一角が大好きな幕末史の歴史の宝庫である。
どうせ行くならと、欲張りの小職は余り気負わず散歩気分で信濃町から、四谷を通り市ヶ谷に向かった。
信濃町と言えば今日隆盛を誇る創価学会のビルに席巻されてしまった、街中を通り、「坂の上の雲」で登場する「秋山真之」が住んでいた邸宅跡を辿りながら、路地に迷走し中央線のガードに出てしまった。
鉄橋を潜ると「鮫河橋」の命名碑が建っており、この坂を登れば迎賓館に出ることが判った。その「鮫河橋」は貧民窟として、余り触れられたくない曰く因縁場所である。
明治維新の激動から東京への人口流入は明治政府の手厚い保護の地主制は自作農の生活を追い込み、職を求めて大都市に流れ込んできた。職も無いまま、不安定な賃労働でスラム化し、没落士族もその仲間になることも少なくなかった。明治20年代半ばに東京に70ヶ所に及ぶスラム街が会ったと言われている。
その代表の一つが、谷あいの低湿地「鮫ガ橋」で人口5000人と言う住民がひしめきあって住んでいた。
市ヶ谷台にあった士官学校(現在の防衛庁)青山南町の歩兵第1連隊の兵営、病院、砲兵工廠などの施設から放出される大量の残飯は残飯屋を介して貧民窟の住民にとってかけがいのないのない食料に給された。
米や菜を買う金のない貧民は、この残飯に群がって買い求めたらしい。
そんな過去は忌まわしいものとして語り継がれておらず、元よりその面影はなく、地名の「鮫河橋」の存在も消え去ろうとしている。
昭和18年(1943)住民の強い意志から、町名変更を求め、「鮫河橋」から「若葉町」という名前に変わり、貧民窟のイメージから生れた「鮫河橋」は完全に払拭された。
右手にかっての紀州徳川のお屋敷で赤坂御用地の迎賓館があるが、要人警護の新徴組ではないが、道の要所に異常なほど警官が周辺に多数立っており、ここを歩くだけで、何か監視されているようで、小心者の小職は足早に谷底から抜け出した。
学習院初等科の前を通り、徳川御三家、紀伊殿の広大な中屋敷で維新後に天皇家の東宮御所で現代は迎賓館の前に出る。日露戦争などを経て近代国家になった、国威を示すために、たっぷりお金をかけ、作っただけに一般庶民とはかけ離れた存在である。近寄り難い存在として石畳の道の向こうのはるか彼方に重厚な迎賓館の建物がはるか先にが見え、谷底の「鮫河橋」とは好対照である。

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外堀沿いを四谷駅を過ぎ靖国通りに、手入れの行き届いた植え込みの防衛省の正門に出る。その向かい側が帝国データバンク史料館(TDB)に到着する。
帝国と言う時代を象徴する名前とデータバンクと言う近未来にかける名前を繋ぎ併せ、創業者「後藤武夫」以来古き時代からの生い立ちから2010年に創業110年を迎え、信用調査を提供し、社会的役割や経済発展に貢献されてきた会社なのである。
現在、全国各地に拠点を持ち約3000人からなる社員で蓄積された膨大な企業のデータを収集し、情報サービス業として国内に深く浸透している。
そんな情報収集力を背景に「"輝"業家」の詳細が史料館に設置されたパソコンで見ることができる。
現在の経営者300人からアンケート調査され、明治から昭和にかけて貢献した企業家/実業家ランクアップされている。1位は松下幸之助に、折しも大河ドラマ、「龍馬伝」で話題になった「岩崎弥太郎」や維新で登場する「渋沢栄一」などがベストテンに入り、それぞれフォーカスされ、企業家/実業家の面から更に深く、知ることが出来る。

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「岩崎」は以下のように紹介されている。
土佐藩の郷士出身。「坂本龍馬」率いる海援隊で経理を担当。維新後「九十九商会」の経営に携わり、強烈なリーダーシップで本業の海運業以外にも炭鉱、綱山、金融、倉庫などさまざまな分野に事業を拡大し会社を急成長させる。
明治8年(1873)に三菱商会と改称する。
軍事輸送を手がけ、明治政府からの助成金で国内海運を独占、更に利益を鉱山に投資するなど事業を拡大した。
三菱商船学、三菱商業学校を開校。人材育成にも力を注いだ。

「今日も疲労困憊、明日も疲労困憊」・・・弥太郎の晩年の日記から
仕事が大きくなるのを一人で纏めようとするので疲労困憊してしまった。流石のスーパーマンも膨らんでしまった事業に一人でやるのも限界を感じたのが、人間らしく逸話ざるところ。弥太郎は早くから病床につき、三菱の岩崎フアミリイでやる気満々の大物の小弥太ら4人がしっかりと支えて事業を経襲している。
とまあこんな具合に「輝業家」として選ばれ評価され、面白く紹介されている。
一方常設館では色々、展示に工夫が凝らされているが、とりわけ最先端の情報技術を駆使した画面のタッチ操作でバーチャルリアルテイで同社の深部にまで案内して貰え、見学に華を添えた1日であった。

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念願かなった迎賓館見学

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温かい陽気に後押しされ、赤坂の迎賓館へ向かう。
何時も門前から、遥か遠い幻の建物を見てきたが、何時も門は閉ざされ、一般庶民には遠い存在であった。今回、天皇在位20年をお祝いして、前庭の特別公開が日にち限定であり、これを逃しては見る機会は無いと、何はともかく行かねばと駆り立てられた。新聞紙上にも大きく取り上げられた前宣伝効果もあってか、平日にも関わらず四谷駅から迎賓館へ向かう群れ衆が一杯で、特に見物欲旺盛な群れを組む、おばさん族が取り分け多い様に感じられた。
門の前ではガードマンが群れなし、行列を作り、間引きしながら入場させていたが、園内を前に瞬く間に入場待ちの行列が生れ、改めて関心の深さ、見ておきたいと言う衆で一杯になってしまった。
門を潜ると、持ち物検査、金属探知機のボデイー検査と目の前の迎賓館の中庭に入るだけで、厳しい検査の洗礼受けて晴れて門を通過して、初めて中に通される厳重な警戒振りであった。
中庭にはロープが張られ、要所に動員された係員が立っており、会場内は数人のガイドが説明しているが人垣の渦が出来、中々聞き取りにくい。
ロープ際に立つ女性の係員に、渡されたパンフレットの表記された部屋と実際の位置関係を訪ねたら、口ごもり、挙げ句の果てセキュリテイの関係からお答え出来ませんとのことであった。
会場に説明するガイドはしっかり説明しているがと、問いかけるといやな親父にからまれたとばかり、渋々と応える始末に、何とも見下したお上の姿を見るようであった。

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元々徳川御三家の一つ、紀伊殿(紀伊和歌山藩)の広大な中屋敷で、紀州徳川家の江戸中屋敷、天璋院篤姫江戸城から移り住んだ屋敷の一つ。
中屋敷は、明治維新後に天皇家に献上され、都心の中で数少ない自然が残された一つである。
丁度日露戦争の最中、明治32年から42年、10年間の工事もかかって完成した東宮御所である。
大正天皇の皇太子の時の住まいである東宮御所であったが結局、使われなかったと言われるが何とも勿体ないことである。
片山東熊(とうぐま)の総指揮にのもとに、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設したものである。
片山がベルサイユ宮殿、ルーブル宮殿、バッキンガム宮殿、ウイーンのシエンブルグ宮殿などヨーロッパの様々な宮殿を見て、その要素を取り入れている。正面が玄関であるが、左側が皇太子殿下のプライベートな入り口で右側が妃殿下の入り口である。

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玄関の天井部は日本のデザインと伝統文化を表した鎧兜(よろいかぶと)。左右の天球儀はアメリカ的デザインと、一つ一つが微に入り、細に渡り、精巧に作り上げたモニュメントをふんだんに組み上げ、まさに豪華絢爛な世界であった。昭和になって迎賓館として使われるようになった。
手入れの行き届いた庭園と贅を尽くした壮麗なネオバロックの建物の前に夢物語の世界に漸く近づき興奮した1日でもあった。

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信濃町歴史散策

JR中央線信濃町駅から外苑東通から東側の路地に入ると、完全に創価学会の町になっている。
創価学会、創価文化会館、創価女子会館とそれに類する外郭団体が続き学会のメッカである。
今尚、周辺は創価学会施設の建設ラッシュが続き、創価学会の隆盛を誇っているが、本部の東側の一画が約2000坪の旧徳川家の学問所のあったと言われるが、街の大きな変容振りに、その面影を辿るのは難しくなってしまった。

Img00006211111 <左から家英、家達、家正の徳川宗家3代。実に良く似ている>

天璋院や徳川宗家16代徳川家達ら一族が住んでいたのが千駄ヶ谷の徳川邸であった。明治16年に天璋院が亡くなり、翌明治17年家正が誕生し、徳川宗家17代となる。
当時の武家華族の習慣として、男子は7歳になると親元を離れ、学問所「学寮」を呼ばれる家に移り、此処を本拠として学生生活を送る。
廻りは殆ど野菜畑で南東の隅にはテニスコートがあり、宗家17代の家正公がラケットを持ち、走り廻ったと言われている。学習院から東京帝国大学法学部、同大学院を経て外交官として華麗なエリートコース歩まれる。天璋院の遺言で「家達の跡取りが生れたら島津から嫁をもらうように」と言われ薩摩藩29代藩主島津忠義の9女正子を花嫁として迎える。
因みにこの結婚は姑の徳川家と嫁の薩摩に対する感情的なしこりは残され、嫁姑、親子関係にも溝が生れるなど必ずしも上手くいかなかった。徳川と薩摩の深い溝が、埋まらず天璋院の意のままに成らなかったことを天の上で恐らく悔やんだ事であろう。

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<聖教新聞社本社が面する路地>

北側、四谷三丁目側に向かうと聖教新聞社本社が面する路地に出る。
此の路地の一画が明治・大正・昭和にかけて文筆活動を続けた「長田幹彦」の邸宅であった。
石壁に囲まれた邸宅で、この辺りは戦災にあわず、周辺は戦前からの建物がそのまま残されていた。
その長田邸の先住者は、バルチック艦隊を日本海で迎え撃つ歴史的な日本海海戦の旗艦三笠で活躍した軍人「秋山真之」である。
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<秋山真之>

日本海海戦の折り旗艦三笠から高々と掲げたZ旗は「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の起草者、名軍令部長と言われた「秋山真之」中将であった。
無骨、冷徹な軍人のイメージから、海軍切っての名文家と知られる逸材であった。
日清、日露戦争の戦役前後には兵站基地として青山の練兵所共合わせ信濃町駅が役割を担ったのであろう。
そんな背景から高級軍人の邸宅が多数在ったと言われている。
幕末中心の司馬遼太郎作品が次々と大河ドラマ化される中にあって、現代史の「坂の上の雲」は問題をはらみ実現しなかったが、スペシャル番で遂に放映されることになった。
当ブログで「四谷の寺町に幕末を追う」を書いたが、その左門町は直ぐ隣接している。信濃町から左門町へ手短な歴史散策として楽しめる。

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四谷の寺町に幕末を追う

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<四谷、左門町付近>

JR中央線信濃町から、外苑東通りを北の方向に向かうと左門町交差点に出る。進行方向右側に、車が1台やっと通れる路地にお寺がぎっしりと詰まり、並んで居るのには驚かされる。
正覚寺、顕性寺、本性寺、報恩寺、松巌寺、西應寺・・・勝興寺、ETC未だ未だこの通りに面している。
この夥しい寺群は江戸城西北に外堀が設置され、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に一斉に集団移転した幕府の江戸城構築の名残である。
左門町、須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはそんな理由による。
寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えた。
そんな奥まった寺町に、都会の喧騒を離れ、幕末の面影が追うのも楽しい。路地の一番奥まったところに勝興寺があり、向かい合わせに西應寺がある。

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<勝興寺>

勝興寺は山田浅右衛門の墓がある。浅右衛門は徳川の御様御用(おためしごよう)と言う、刀剣試し斬り役で俗に"首切り浅右衛門"を代々続けてきた。形式的な世襲ではなく、技術を伴い、当主が役目を果たすかたわら、弟子を育て跡継ぎを選び、継いでゆくもので、その役割から気の重い役回りを明治の始め迄、何と八代まで続いた。

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<西應寺>

西應寺には 幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の墓がある。鍵吉は、幕府講武所剣師範役直心影流の男谷下総守信友門下となり、免許皆伝、更に師範に昇進、元治元年(1864)下谷車坂に道場を開いている。男谷下総守信友は勝海舟と従兄弟にあたり、海舟も男谷の直心影流の門弟の一人である。
鍵吉は、旧幕府軍として上野戦争にも参加している。明治維新では徳川に従い静岡に移ったが上京、撃剣会を発足、衰退した剣術の再興普及に努めた。

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<習成館道場>

左門町の交差点に戻り、外苑東通りを渡ると、ビルになった鞍馬流剣術の「習成間道場」がある。道場には柴田章雄(しばたあきお)氏がお住まいになり、鞍馬流十八代宗家を伝承している。
習成館道場は昭和二十年の戦災で焼失しが、十七代宗家鐵雄が平成元年に同地に再興し、近代的施設設備のもとで歴史ある武芸、鞍馬流の形稽古、研究が盛んに行われ、現代に繋いでいる。
明治時代の初期に習成館道場を開き多くの門人を育てたがその名前は勝海舟が命名したと言われており、此処にも海舟の姿が色濃く残しているのも、意外な発見であった。

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