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千人同心「石坂弥次右衛門」が近藤勇と交わした血梅の約束

千人同心の「石坂弥次右衛門」は幕末期に新選組の「近藤勇」と出会い、梅の枝分けを約束したが、激変する時代の渦に巻き込まれ、果せず、二人とも亡くなってしまう。「石坂弥次右衛門」とはどんな人物であったか、その生まれた事実を辿ってみる。 

□祖は甲斐、武田信玄軍団の小人頭

登場する「石坂弥次右衛門」の石坂家は八王子千人同心の原型となる甲斐武田氏が率いる軍事集団の9人の小人頭の一人として他国に繋がる国境警備を任に当たり世襲される名門である。天下にその名を留めた誉れ高い「武田軍団」に繋がってくる。
天正10年(1582)武田が滅び徳川家康の配下になり、家康が関東の領主になると甲武 国境を警備する目的で八王子に移ってきた。
天正18年(1590)家康の前に北条氏が滅び、小人頭(千人頭)は八王子城下に移り、治安維持に当たる。八王子千人町に移り、「八王子千人同心の幕開けとなる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いや、それに継ぐ大阪夏の陣など、幕府の一軍団として千人同心の名前で活躍する。以来278年間、明治維新で解体されるまで八王子で任を勤めた。
八王子千人同心は幕府配下で治安の維持や警備を主に、組織を維持していたが、戦乱がおさまると「日光火の番」を主な仕事としていた。

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旧武田集団の九人集の頭である、「萩原家」や「石坂家」巨大な敷地を抱え、千人町、追分近くに住んでいた。
そもそも、最期の日光勤番の悲劇を生まれる、物語は此処から始まる。
萩原家四代の頼母が日光勤番で急死し、交代で派遣されたのが、、「石坂弥次右衛門であった。
寛政元年(1789)の千人町の地図が残される。追分近くの甲州街道に面し、路地の一角に興拓寺がある。西側に八幡宿新田百姓屋敷を挟んで隣が「石坂家の屋敷」となっている。地図上では一千坪と表記されているが、入植 当時は三千~四千坪の広大な土地であったようである。
追分側に興岳寺に一軒の屋敷を挟んで、同じく同心の「萩原頼母屋敷」は五千坪坪がでんと構える。
拝領屋敷が立ち並ぶ屋敷町であっtが、明治維新と共に明け渡され、往時の景観を失いその面影さえ失い、「千人町」の名前だけに留める。

<甲州街道、追分の歩道橋から西側。左側の植え込みの背後が萩原家、石坂家の同心の屋敷があった場所であったが、痕跡はない>Img_8941□第2次長州征伐
慶応元年(1865)幕府は第2次長州征伐を発令した。千人同心は400余名の大阪に布陣し「弥次右衛門」も参加している
一人であった。
写真は慶応元年(1865)5月、第二次長州征伐の大阪表にてと書いてあり、大阪の警備中のものである。左から2番目が石坂弥次右衛門である。右側に立っているのが弥次右衛門の息子で最後の千人頭をやった12代目で15歳の石坂 鈴之助である。千人頭として、威厳を持つ弥次右衛門に対して 若くうきうきした鈴之助の姿が好対照である。
石坂家にはガラス乾板で、手許に残されている。千人同心を今日に伝える貴重な記録である。
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□血梅に語られる千人同心と新選組の結びつき
「弥次右衛門」の悲劇の死とも、合わせて「血梅(ちばい)」と言う、話が伝えられている。
1)血梅について
新選組研究家の故「谷春雄」さんは2003年に地元の日野広報「血梅」でこんな文を残しており、引用してみた。
私の家の庭に、1本の紅梅が植えられている。20年ほど前、(昭和58年(1983)頃)八王子市に住む友人、佐宗(さそう)文雄氏が息子さんと運んで植えていってくれた梅である。
 この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現 在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという

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2)千人頭「石坂」と新選組「近藤勇」が交わした約束
佐宗氏の語るところによると、この血梅は、もと八王子千人町の千人頭「石坂弥次右衛門」の屋敷内に植えられてい た梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
文久1年(1861)、2年のころの早春の一日、この石坂家を、「井上松五郎」の案内で「近藤勇」が訪れた。「井上松五 郎」は新選組6番隊隊長の「井上源三郎」の兄であり、千人同心であることから、「弥次右衛門」宅に「近藤勇」を案内し た。「弥次右衛門」も快く迎え入れ、種々談笑したが、「近藤勇」は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。
「弥次右衛門」も、「それほどお気に入りならば」と後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
 しかし、この約束は、実現しないまま激動する時代を迎える。
3)板橋で露に消えた「近藤勇」
文久三年近藤勇が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締りに当たり、過激化する攘夷派の捕縛
など池田屋事件などの活躍で、新選組の評価が上がり、多忙をきわめる。
その間、薩長同盟、大政奉還、などを経て王政復古の大号令で 薩長を中心にした新政権が樹立される。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが勃発。新選組が属する旧幕府側は破れ大阪から江戸へ退却する。新選組は甲陽
鎮撫隊として、東征軍を迎え撃ちに甲府に向かうが、勝沼で破れ江戸に敗走する。新選組は東北へ向かうが流山で
包囲され、「近藤勇」は捕縛され、慶応4年(1868)4月25日、板橋刑場の露と消えてしまう。
4)最期の日光勤番で自害した「石坂弥次右衛門」
(1)東征軍八王子進駐
3月11日東征軍参謀「板垣」ら2000人は、甲州道中を八王子に進駐し止宿する。当時、日光火の番の「萩原頼母」
や八王子に居た「石坂弥次右衛門」も威儀をただし、鄭重に東征軍を出迎えた。
千人頭は鉄砲を差し出した上、朝廷に対して二心無きことを認めた血判書を数日かけて作成し、恭順の意を表明した。
(2)「弥次右衛門」「日光火の番」の代番になる
慶応4年(1868)3月15日「萩原頼母」は日光で亡くなり、その代番として急遽「弥次右衛門」が抜擢される。「弥次
右衛門」は「頼母」の日光での葬式など、前任者の急死の後始末含め、公務として急遽日光に着任する
(3)「日光火の番」を東征軍に恭順を示し帰卿
「弥次右衛門」が赴任中、八王子で千人隊は一旦、東征軍に恭順を示したが、恭順に反対する勢いは時間の経過と
共に増大し、 千人隊の大勢を占め、最早覆すことは困難になってしまった。
「弥次右衛門」は大勢変化を、知らされないまま、東征軍に譲り日光火の番を解かれた八王子に帰ってきた。
(4)抗戦派「恭順反対」の前に責任を取り自刃
「弥次右衛門」が帰郷すると、千人隊内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に
引き渡した責任を問う声が高まり、この声に「弥次右衛門」もたまらず、同日深夜に切腹した。
 更にこの切腹に悲劇は重なる。この時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳に なる父が介錯(かいしゃく)したが、
老齢のために首が落とせず、「弥次右衛門」は、 明け方までうめき苦しんで息を引きとったと伝えられる。

5)石坂家、静岡へ移住後、残った梅
明治元年(1868)10月明治天皇が初めて東京に到着され、江戸城を皇居とし東京城と命名した。石坂家も他の千人頭
同様に徳川家達について静岡に行った。
両士が愛し、また激賞したというこの血梅は千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。
昭和20年の八王子 空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂(つ
ぎほ)を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈された。
日野宿本陣の裏側に谷さんのお住まいがあり、そば処「日野宿 ちばい」という手打ち蕎麦屋さんをやっており、庭先に梅が見事に成育した。枝分けされた梅が石坂家、近藤勇の末裔の手で直接渡されれば晴れて、約150年前の美談が成就する。準備された枝は石坂家の菩提寺、「興岳寺]に届けられ、「弥次右衛門」の墓に植えられ、形の上で先祖帰り出来た。
「弥次右衛門」の傍で、慎ましく、咲き、血梅を語り伝えてくれるだろう。
紅梅より、小振りで地味な血梅であるが、一度焼けた血梅の木がフエニックスの様に蘇り、芽吹き「弥次右衛門」と「近藤勇」二人の遺志を継いで、空高く咲き乱れていた。

6)「弥次右衛門の墓

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小屋にある「弥次右衛門」の墓石がある。墓石の手前左右に、2基の灯籠と水盤が並んでいる。死を悼む石坂組の隊士達が寄進し、灯籠台座には「弥次右衛門」に従って、帰国した「松崎和多伍郎」を始めとする日光勤番隊士45名の名が刻まれ ている。
詳しくは此方にも載せています。ご覧ください

石坂弥次右衛門と「血梅」

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身近な所に千人同心

<兜から胴着、手、足まで武具で固めた鎧姿に臨とした戦う兵士の姿が今にも立ち上がり、軽妙に動き回るような錯覚を覚える。千人同心の姿である>

Img340_2 隣の八王子市街は東西に甲州街道が走り、その一角に「千人町」がある。江戸時代は幕府家来団の一組織である
「千人同心」が住んでいた武家屋敷が立ち並んでいたが、明治維新で明け渡され、その面影さえ無くなってしまった。
元々武田の軍事集団であったが、戦いで破れ、幕府の配下で甲武国境の警備を目的に本拠地を八王子とした「八王子千人同心」として明治維新まで約280年間続いた警備集団である。
幕府からの公務以外は農民として生活していた特異な集団である。日光の火の番を主な仕事とし、幕末の激動期は近代兵制を取り入れ、洋式軍隊化された幕府の一精鋭部隊であった。
10組、100人の組織で、総員約900~1000人が構成されていた。
千人隊は幕府の旗本身分として、年貢収入を得る知行地を与えられ、武蔵(八王子・調布・世田谷・神奈川県横浜)上総(千葉君津・木更津・袖ヶ浦)などに分散していた。
寛政の改革によって文武が奨励され、剣術を中心とする修業が活発化し、天然理心流など門弟も多かった。

◇千人同心の末裔、
知友のI さんは八王子の千人町にお住まいである。
奥様はバリバリの千人同心の末裔であり、千人同心と関わりを持つ家柄である。
現役時代は某電力会社のサラリーマンであったが、退職後は千人同心の深い関わりを背景に、先祖起こしを兼ねて、幕末史を追っかけていた。
千人同心の末裔を主体とする人々が集まり、千人同心の事蹟研究や霊を慰める「八王子千人同心旧交会」の会員として、千人同心の意志を継いでいる。

◇千人同心の姿を重ねる
約280年の伝統基盤を持つ集団で、遠くは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに出陣した戦国時代から、始まる。
文久2年(1862)将軍家茂に属縦し、上洛している。慶応2年(1866)の第二次長州征伐に加わったが、家茂公の逝去の報に指揮官の老中小笠原が小倉から逸走、征長軍も総崩れ、征長軍引き上げ令が下り、千人同心も引き上げる。
その後日光勤番、横浜の警衛に加わっている。
第一線で活躍した同心だけに、ひょっとしたら、高杉晋作あたりと一戦交えたのであろうか、同家に色々資料があったそうだが、当時の歴史研究家に渡した資料がそのまま散逸してしまったり、市内は空襲で焼け尽きており、殆ど残っていないようである。

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同心「石坂弥次右衛門」と「血梅」

Img_025621111 もう梅の時期は終わってしまったが、新選組研究家の故「谷春雄」さんは2003年に地元の日野広報「血梅」でこんな文を残している。
『私の家の庭に、1本の紅梅が植えられている。20年ほど前、八王子市に住む友人、佐宗【さそう】文雄氏が、息子さんと運んで植えていってくれた梅である。
 この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。

 佐宗氏の語るところによると、この血梅は、もと八王子千人町の千人頭石坂弥次右衛門の屋敷内に植えられていた梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この石坂弥次右衛門組の世話役を勤めていた。
 文久一(1861)、二年のころの早春の一日、この石坂家を、井上松五郎の案内で近藤勇が訪れた。弥次右衛門も快く迎え入れ、種々談笑したが、近藤勇は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。弥次右衛門も、「それほどお気に入りならば」と後日接木【つぎき】か取木【とりき】をして贈ることを約束した。

 しかし、この約束は、文久三年近藤勇が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締りに当たったが、激動する時代に抗しきれず、慶応4年(1868)4月25日、板橋刑場の露と消えたことにより果たされることはなかった。
 一方、石坂弥次右衛門も、幕末期は多忙で、将軍上洛の先供【さきとも】、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。慶応3年暮れから日光勤番を勤めていた千人頭萩原頼母【たのも】の病死により、急きょ後任として赴任した弥次右衛門は、着任早々日光に進攻した官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、井上松五郎や、土方勇太郎等勤務していた同心を引き連れて閏【うるう】4月10日に帰郷した。
 弥次右衛門が帰郷すると、千人同心内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に引き渡した責任を問う声が高まり、この声に弥次右衛門もたまらず、同日深夜に切腹した。
 しかしこの時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯【かいしゃく】したが、老齢のために首が落とせず、弥次右衛門は、明け方までうめき苦しんで息を引きとったと伝えられる。

 明治維新という激動の中に、その姿を没していった近藤勇、石坂弥次右衛門両士が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂【つぎほ】を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
 この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。』

そんな血梅の姿をどうしても見たかった。日野宿本陣の裏側に谷さんのお住まいがあり、最近そば処「日野宿 ちばい」という手打ち蕎麦屋さんを始められた。

梅の時期に、わくわくしながら、同家に赴き、蕎麦を食べながら漸くその血梅を見る事が出来た。住宅地の中、通りから奥まったお住まいに、庭先に掲げられた「日野宿 ちばい」の看板が、目印である。
「ああ、これが近藤勇、石坂弥次右衛門両士が激賞した血梅なのか」
紅梅より、小振りで地味な血梅であるが、一度焼けた血梅の木がフエニックスの様に蘇り、芽吹き「弥次右衛門」と「近藤勇」二人の遺志を継いで、空高く咲き乱れていた。直に見る事が出来、漸く念願叶え嬉しかった。

二人が陥った時代背景は以下による。

  「石坂弥次右衛門」と「血梅」

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梅の花のように散った「近藤勇」と「千人同心」

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       <高尾の紅梅>

厳しい寒さの中で冷たい雨が続いたが梅も終わり、そろそろ桜の時期になり、確実に春がやってきた。
この可憐な梅の木に、散っていった「近藤勇」と千人頭「石坂弥次右衛門」の二人が果たせなかった話が残される。
日野宿北原に住んでいた千人同心「井上松五郎」は、八王子千人町この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
文久1年(1861)、2年のころの早春の一日この石坂家を、「井上松五郎」の案内で「近藤勇」が訪れた。「弥次右衛門」も快く迎え入れ、種々談笑したが、「近藤勇」は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。「弥次右衛門」も、「それほどお気に入りならば」と後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束は、文久3年「勇」が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締り、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争の渦に入っていく。
一方、「弥次右衛門」も、幕末期は、将軍上洛の先供(さきとも)、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。
鳥羽伏見の戦いで勝利した東征軍が討幕で江戸に迫ってきた。
慶応4年(1868)3月、戊辰戦争で参謀「板垣退助」幕僚「谷千城」ら東征軍が東下するなかで、甲府で阻止するために「近藤勇」以下の甲陽鎮撫隊一行が甲州街道を西下した。しかし、勝沼で東征軍を迎え戦ったが僅か2時間余りで甲陽鎮撫隊が破れ、「勇」は江戸へ遁走し、流山で捕まり4月25日板橋で処刑された。「勇」の首は閏4月8日~10日三条河原で晒された。
一方、「板垣」ら東征軍は八王子へ進駐し、千人隊は恭順し、更に日光で進出した。八王子で東征軍を出迎え恭順を示した千人頭「弥次右衛門」が、日光勤番で急死した代番で急遽日光へ派遣される。日光で再び東征軍を出迎え、日光勤番も恭順する。
しかし、一旦恭順した筈の八王子の千人隊が抗戦になびき、八王子に帰った 「弥次右衛門」は責任を問われ、切腹したのが翌閏4月11日と「勇」の後を追うように亡くなった。この時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯(かいしゃく)したが、老齢のために首が落とせず、「弥次右衛門」は、明け方までうめき苦しんで息を引きとる凄惨な死であったと伝えられる。
結局、二人が取り交わした梅の木の譲り渡しが果たせぬまま、散ってしまった。

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       <日野 宿本陣の梅>

この梅の木を新選組愛好家、故「谷春雄」さんが、譲り受け、自らの手で育て偲んだとことが「血梅」と言う記事で以下のように残されている。
明治維新という激動の中に、その姿を没していった「勇」「弥次右衛門」が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂(つぎほ)を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。毎年この花の咲くころに、140年前、折角の約束を守れず、激動の時代に流されていった両士を偲んでいる。
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。

散っていった千人頭「石坂弥次右衛門」は以下で纏めてみた。

石坂弥次右衛門

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海に消えた千人隊「新藤左右助」

0512006021「根は武田信玄の末裔達」
天正10年(1582)甲州武田家が織田信長に滅ぼされ、八王子城も墜ちた。
徳川家康は信長の命に背き武田家遺臣を多数召し抱えた。
家康が武田信玄の領土経営や軍法に注目し、利用したと言われている。小人頭及その配下240人を元八王子び其の他に移駐 八王子城落城後の治安警備に当たる。
慶長4年(1599)奉行大久保長安により 500人を増員し、八王子千人同心と組織される。
召し抱えられた武田家遺臣は武蔵と甲州との国境警備、治安維持や江戸防衛の任にあたり、後には将軍の日光社参始め、蝦夷地開拓の先駆まで行い、幕府への忠誠世に名高い「八王子千人同心」となる。
彼等は平時は農耕に従事しながら、軍事訓練し、幕末には将軍上洛の供奉長州征伐 への出兵にあたる。
江戸幕府が安定すると,八王子千人同心の中から 医師,文人,思想家などの多くの学識者を輩出し 地域に文化的な影響を与えてきた。
新選組副長、土方歳三と同時期に天然理心流に入門した剣術の同期生、"土方勇太郎"が八王子千人同心として日光勤番であり、勇太郎と歳三と最後の面会するなど関わり深い。

0511014311111  江戸城無血開城がされる中、血気に流行る一部の千人同心は彰義隊などに呼応して江戸に集結するが、「新藤左右助」もその一人であった。
千人隊士と旧幕府歩兵など臥竜隊員ついて間もなく、激しい雨の中、上野戦争の火蓋が切られた。
大村益次郎の命令で大砲が威力を発揮し、黒門が破れ、彰義隊は崩れ、間宮金八朗は戦死、左右助らは飯能に逃れて、新政府軍を迎え撃った。
やがて榎本武揚から指令が伝えられると、左右助は密かに家に立ち寄り、品川へ行くと23歳、3カ月の身重の妻コトに伝え、立ち去った。
榎本武揚は開陽丸など軍艦4隻、咸臨丸など運送船4隻の合計8隻と伝習所以来の優秀な仲間、荒井郁之助など集め、全艦隊の総師となり脱走軍を組織化した。
政府軍の監視の目を潜り、脱走兵を各所に集め、総勢約2000余名を集合し乗船させ品川沖を脱出、新天地蝦夷へ向かった。
しかし、江戸湾を出た後、台風に遭遇し、艦隊の一つ、「咸臨丸」は相模湾に漂い、清水港で停泊中に無抵抗の乗組員が36名が官軍に惨殺され、遺体は清水港に投げ捨てられ放置される。
一方では運送船「美賀保丸」は房総沖で暴風雨に遭遇、銚子で難破沈没し、溺死する者、捕縛され処刑されるなど犠牲者が生れた。
「新藤左右助」も品川で、美賀保艦に乗船し、左右助27歳は消息を絶った。
両艦共、勇躍奥州から蝦夷へ着かんとする過程での大惨事で各地に死者を祭る顕彰碑や墓石が残されている。
八王子元横山町の大義寺の弔魂碑もその一つである。伊庭八郎も乗船した一人であり、その記事を以下でアップした。

美嘉保丸の悲劇

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