カテゴリー「07、蝦夷地」の記事

新選組の踏み跡その3

◇旧幕府軍,蝦夷地へ
慶応4年(1868)8月、品川沖を出発した榎本艦隊は旗艦開陽丸以下回天、蟠龍(はんりゅう)、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江、七隻の大艦隊で仙台に寄り、旧幕府軍の敗残兵を乗船させ、蝦夷に向かう。
上陸地点は箱館は既に国際開港場で、外国船が係留され中でのトラブルを避けるため、噴火湾中央部の鷲の木海岸が選ばれた。明治元年(1868)10月20日、榎本武揚、大鳥圭介、土方他2000人以上と言われ陸兵が上陸した。
21日人見勝太郎以下32人は峠下村(現七飯町)で待ち構えた 新政府軍と戦い、函館戦争の火蓋が切られた

<榎本軍の鷲の木海岸の上陸を示す記念碑が建っているが、海岸側は函館本線が走り、噴火湾の姿は遮られている>Img_91241

◇五稜郭、無血入城
上陸後は、本隊と二つの先行隊で編成し、函館へ向かった。
土方が率いた衝鋒(しょうほう)隊、額兵隊他と島田魁の新選組は海岸線沿いに進む。一方、大鳥圭介が率いる伝習隊他と安富才助の新選組は内陸部の七重を経て南下する。峠下(とうげした)で、蝦夷地での初めての戊辰の火蓋が開かれた。松前軍、津軽軍とも実戦経験のない函館府の兵は旧幕府軍の攻撃を受けて大野、七重へ退却する。

夜が明け雪降る中で函館府側は、抵抗を諦め五稜郭、更に青森へ撤退した。10月25日こうして旧幕府軍は抵抗もないまま五稜郭へ無血入城した。11月1日、旗艦開陽丸、祝砲を上げ、意気揚々と函館港へ入港する。

◇ 140年振りに姿を表した奉行所
元々函館山麓にあった奉行所は元治元年(1864)五稜郭内に完成し、蝦夷地の統治や開拓、諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠点でもあった。戊辰戦争で、旧幕府軍により約半年間占拠されたが、新政府軍の奪還により五稜郭は開城され、戊辰戦争も終焉を迎えた。函館戦争後の明治4年(1871)に開拓使により奉行所庁舎は解体されてしまった。140年経過した2010年に復元され、当時の奉行所の姿を再び見る事が出来た。

◇松前城奪取
10月28日、歳三率いる隊は五稜郭を出発し、松前に目指すが宿営地に松前藩兵の夜襲など会い苦戦する。
松前城の手前福島村本村で日旧幕府軍は松前城の守備兵400名と銃撃戦となるが、回天他軍艦が砲撃、敵前上陸を敢行して福島村は旧幕府軍に制圧される。
旧幕府群は松前城攻撃前には沖合の軍艦を寄せつけなかった城下の筑島砲台を鎮圧し、海上からの砲撃を可能とした。
松前城では藩兵400名、上磯、青森からの兵155を加え、旧幕府軍の対決に備えた。門内には野砲を並べ、門を開け閉めして砲火を浴びせる奇策に旧幕府軍も苦戦した。旧幕府軍は激しい白兵戦の上、城内に進入、天守閣にも殺到し松前藩兵を駆逐した。
松前城を占拠した旧幕府軍は遊撃隊長人見勝太郎が松前奉行になって占領行政を担当する。
土方は川原町の済衆館と言う医学校を宿舎に白馬に跨がる颯爽とした姿で松前城へ登城したと言われている。

緒戦の松前の戦いは終わった。松前城は6カ月間、旧幕府軍の手に落ちる占領される。
新政府軍反抗に旧幕府軍は総動員され松前城を砲台で固め、台地上に胸壁銃座を縦横に設け襲来に備えた。
新政府軍は甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、飛龍の5艦が松前城と海岸砲台を砲撃し援護される中、松前藩は城中に突撃し、松前城は奪還された。

松前城は幕府から北辺警備の命令を受け安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成した。北海道唯一の城郭である。城内に砲台を備え、天守閣は強固な構造で既に西洋式の重火器を用いた近代戦に備えていた。
天守閣は本丸御門を残して焼失したが、本丸御門は重要文化財に指定された。

   <天守閣は昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート作りで再建された>

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◇「開陽丸」江差で沈没
旧幕府軍は館を陥落させ更に、大滝山を突破し江差に達する。榎本武揚は函館から開陽丸に搭乗、江差を海上から砲撃し陸兵を支援する。江差弁天島愛宕山の台場に向けて砲撃を加えたがなんの反応もなく、上陸させ江差を占領した。
開陽丸は江差港外に投錨したが夜になって風波激しく、押し流され暗礁に乗り上げ、沈船する。。
旧幕府軍の旗艦とし2500トンのて[開陽丸]が沈船によって艦隊としての海軍機能は半減したことを榎本武揚や土方歳三が悔しがった。

   <「開陽丸」の発掘調査は継続的に行われ、平成2年(1990)、復元された。>

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メインマスト高さは45メートルノッポ姿は江差町の町中から見られ、シンボリックな存在になっている。
近代的な艦船としてオランダから運ばれ、殆ど偉力を発揮すること無く消えて行ったのは、後の戦艦大和と同じような運命の先駆けでもあった。
「歳三嘆きの松」という古木が江差の高台に建つ檜山奉行所跡の前にある。此処で榎本とともに沈没する開陽を眺めながら歳三が幹を叩いて悔しがったのだと言われている。恐らく榎本、歳三が奉行所を歳三と榎本が奉行所を宿舎としたために生まれた伝説とも言われている。

◇新政府軍反撃開始
4月9日新政府軍1200人が日本海側の乙部海岸からから新政府軍は上陸した。上陸後、乙部に参謀本部を設置し臨戦態勢を整えた。新政府軍の一隊は内陸部を二股口、中山峠を経て函館に向かう部隊と一隊は江差を奪回後、兵を更に二分し稲穂峠から古内に向かう山道を進む部隊と海岸線を松前城に向かう部隊に別れ、それぞれ進軍した。

迎撃態勢のない江差は海から艦砲射撃が加えられ、新政府軍に簡単に抜かれ全軍が松前に退却した。新政府軍上陸の報が五稜郭に届き、歳三は伝習歩兵隊、衝鋒隊230を率いて二股口に出陣し、半日以上の銃撃戦で新政府軍は撤収する。

乙部沖に「甲鉄」「春日」など黒船来襲を思わせる光景となった。村民は大挙して漁船を出し、軍艦に対して情報を伝え新政府側に加担し、上陸支援した。<乙部海岸には新政府軍の上陸地点に軍装で使われた帽子がかけられた 碑が建っている。

◇湾岸中央部へ進撃
江差から五稜郭へ目指す新政府軍は山越えも一つのルートとして進軍した。二股口では旧幕府軍が死守、消耗した弾薬は3万5千発共言われ、激しい連射に過熱し銃身を、桶に水で冷やしながらの消耗戦であった。
16時間の戦闘も決着付かず新政府軍軍は一端引き返したが、旧幕府軍も司令部からの撤退命令から、橋頭堡を引き揚げた。

松前は陥落し、一進一退を繰り広げていたが戦線も、湾岸中央部へ移って行くが、旧幕府軍の「千代田形」は弁天台場沖で座礁し新政府軍の手に落ち、旧幕府軍の軍艦は「回天」と「幡龍」のみになってしまう。

旧幕府軍は圧倒的な数と軍艦など近代装備の新政府軍の前に崩れていく。
新政府軍の先陣は一気に湾岸中央部へ進撃している一方、旧幕府軍は五稜郭への撤退命令が下された。

   <松前、茂辺方面から函館湾を奥深く、函館市街地に戦線は変っていく。鋭角な山容の駒ヶ岳がはっきり見える>Img_9384111

◇新政府軍総攻撃
旧幕府軍は五稜郭北、西の大川方面、函館市街に守備陣を配置する。
一方では、弁天台場に新政府側のスパイが潜入し砲7門のうち6門の発火口にクギを打ち、砲を不能とし、新政府軍軍艦の進入を容易にした。実行した斉藤順三郎は捕まり3日間砲門に縛りつけられた後に斬首される。

総攻撃を察知した10日の夜、武蔵野という妓楼で、旧幕府軍の幹部が集まり、別れの杯を交わした。11日、夜明けをもってそれぞれの部署に戻ろうとすると艦砲射撃の音が鳴り響いた。
砲撃を合図のように新政府軍の奇襲部隊が函館山背後と弁天台場側の山瀬泊(現入船町)から上陸し戦闘になる。

市中は分断され台場は孤立するなど、敵兵を迎えた旧幕府軍は混乱し、新選組を含めた旧幕府軍は函館山で弁天台場で多数戦死する
函館山は市街地を俯瞰出来る、自然立地から軍事戦略上の要所である。

◇土方歳三(以下歳三)の最後
一本木を挟んで旧幕府軍と新政府軍は数次にわたる戦闘が繰り広げられる。千代ケ岡陣屋で額兵隊二小隊を率いた歳三は大野右中と一緒に一本木関門に向かう。一本木関門では市中戦で敗れ伝習士官隊が引き揚げたてくる。歳三は彼らを立て直し、額兵隊と共に反撃を試みようとする。
折しも、海戦中の旧幕府軍、幡龍の放った一弾が、敵艦朝陽の弾薬庫に命中し、朝陽は轟音をあげて沈没する。
歳三は「この機を失するべからず」歳三は大野に額兵隊、伝習士官隊を率いて反撃することを命じる。敵兵も朝陽の爆発に虚をつかれたのか異国橋方面に退却する。
歳三は関門を離れ一本木浜に向かった。弁天台場近くの浜に乗り上げて回天から脱出しようとした乗員の援護を行い五稜郭方面に退避させた。再び歳三が関門に戻った時に、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫いた。

歳三戦死の報は五稜郭に届けられ、使者が一本木に駆けつけ、隊士の立川主税、沢忠助とともに遺体は五稜郭に運ばれ、その一角に埋葬された。

◇一本木関門
旧幕府軍は函館山と五稜郭を繋がる半島の一角を柵を設け、この間の出入りに制限をかける関門を作った。一本の柏の大木から「一本木」と呼ばれている。歳三の最期の地は諸説あるが、一本木関門とするのは新選組隊士の立川主税(ちから)の戦争日記である。「七が浜へ敵後ヨリ攻来ル故ニ、土方是ヲ指図ス・故ニ敵退ク。亦一本木ヲ襲ニ敵丸腰間貫キ墜ニ戦死シタモウ」と記されている

◇称名寺
弁天台場のあった函館ドックから山側に登った所に称名寺がある。戊辰戦争が蝦夷地に展開され、新選組も戦線を北に移動するが新選組の最後の屯所となってしまった。歳三の供養碑がある。

◇函館山山中の碧血碑へ
     <立待岬側から、奥深い山道に入り鬱蒼とした樹林の中に碧血碑がある>

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碧血碑は歳三や新選組隊士を含め約800人の戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために榎本ら生き残った幹部たちが明治8年(1875)に建立した。碑石は東京から船で運ばれたもので、碑の題字は大鳥圭介とされている。

碧血とは
「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものである。

□終わりに
「新選組の足跡」として、自ら歩き彼らの残したものを追ってみた。
新選組の生い立ちから、戊辰戦役の終焉迄、幕末の意志を貫き、南北に長い列島の縦断を駆け抜けたエネルギーに改めて感服する。上洛から戦死まで、武士よりも武士らしく生き抜き、散って行った歳三に代表される新選組の5年間であった。

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榎本武揚と小樽の街

                      <小樽運河と倉庫街>

Img_07531毎年の恒例行事となってしまった北海道旅行。
旧多摩の郡部に身を置き、歴史史跡案内など、多少土方歳三の関わりを持つ者として歳三の終焉地へは行ったことが無いのは、何とも肩身の狭いものとも思っていた。
親戚縁者で何時も行くメンバーは北海道は好きである。
しかし、歴史、しかも新選組に特化した歴史旅ともなると、寺や墓石、形のない碑どをターゲットの特殊世界である。
その観光巡りとは異質な歴史旅を廻るのは心苦しかったが我が儘を許してもらい、戊辰戦争の終焉となった函館戦争の戦跡巡る歴史旅が何とか実現した。
今年は歴史限定の枠を外し、再び風景・名跡などの観光巡りで道南に隣接する道央の積丹半島を主体に廻ってみた。
その一つ小樽は明治維新から国内が新しい息吹きの芽は此処港町小樽で、物流の拠点として育ち、海産商、米雑穀商、海運業など発展し「北のウオール街」と呼ばれる程、隆盛を究めた。1次・2次世界大戦による国交や国政の変化により、その役割を終えた。
その繁栄の象徴である、欧米の文化や街並みがそっくり残された素敵な街並みである。

                           <榎本武揚の夢>

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幕末から明治にかけて榎本武揚は小樽の発展に名を留めている。幕末に旧幕府軍として戊辰戦争で官軍と戦い、北に新天地を求め函館で蝦夷共和国を樹立し、選挙により総裁となる。
しかし、旧幕府艦隊の旗艦「開陽」を江差で座礁沈没で失い、戦費の枯渇、新政府軍の弁天台場砲台の攻撃、箱館湾海戦の全艦喪失で戦いは追い詰められた。
明治2年(1869)敵将黒田清隆の説得により五稜郭を開城・捕虜となる。
黒田は彼の人柄と博識を惜しんで助命に尽力、明治5年(1872)榎本は釈放され、北海道開拓使に任官し北海道開拓に尽力する。
明治5年(1872)小樽の稲穂町の土地の払い下げを受け、同僚の北垣国道とともに管理会社「北辰社」を設立する。この一帯は町外れの沼地で、山側の丘はアイヌ民族の神聖な場所であった。数多くの神へ供物「イナウ」が立ち並び、これが「稲穂」の語源と言われている。
北辰社は明治37年(1905)頃から大規模な開墾を行い、現在の街並みの基礎を造った。
稲穂町にある「梁川通り」は榎本の雅号に「静屋通り」は北垣の雅号にちなんで命名された。
稲穂町の龍宮神社は明治9年(1876)榎本が創建している。
明治政府官僚となってからも、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、藩閥政治の明治政府内においては肩身の狭い思いもしばしばであった。

一方、福澤諭吉が榎本を評して言うには、「江戸城が無血開城された後も降参せず、必敗決死の忠勇で函館に篭もり最後まで戦った天晴れの振る舞いは大和魂の手本とすべきであり、新政府側も罪を憎んでこの人を憎まず、死罪を免じたことは一美談である。
勝敗は兵家の常で先述のことから元より咎めるべきではないが、ただ一つ榎本に事故的瑕疵があるとすれば、ただただ榎本を慕って戦い榎本のために死んでいった武士たちの人情に照らせば、その榎本が生き残って敵に仕官したとなれば、もし死者たちに霊があれば必ず地下に大不平を鳴らすだろう」と「瘠我慢の説」にて述べている。
榎本武揚や勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」(日和見主義)と徹底的に批判する一面もある。

小樽の商店街の一角に掲げられた大きな垂れ幕の榎本武揚の写真がたなびき、ふと調べてみた。
垂れ幕の影に戊辰の戦いで蝦夷で消えていった霊も忘れてはならないことを改めて思い知らされた。

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函館戦役を巡る旅、最終回「歳三の最後、函館山山中の碧血碑」

<歳三の最後>Hakodate601

一本木を挟んで旧幕府軍と新政府軍は数次にわたる戦闘が繰り広げられる。
歳三は関門を離れ一本木浜に向かった。弁天台場近く浜に乗り上げて浮き砲台となった回天から乗員がボートで脱出しようとしたところ、七重浜方面からの敵が発見し攻撃に向かってきた。少数の兵を率いた歳三は回天乗員の援護を行い、彼らを五稜 郭方面にへ退避させた。再び歳三が関門に戻った時に、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫いた。
歳三戦死の報は五稜郭に届けられ、使者が一本木に駆けつけ、隊士の立川主税、沢忠助とともに遺体は五稜郭に運ばれ、そ の一角に埋葬された。
散る場所を求めとうとう蝦夷地にまで来てしまった。流山で別れ、地下で眠る近藤勇昌宣との再会が叶えられたのであろうか・・・。
木柵を背後に「土方歳三之最期の之地」碑が建っている。一本木浜からここの関門に戻り、一発の銃声が35年の生涯が閉じられた。
何処でも見かけるビル街の一角に小さな池と僅かな植え込みに、夫婦連れと修学旅行で訪れた女子高校生の二人組が熱心に、見入っている。五稜郭で群れなす単なる観光ツアー集団と明らかに違っている新選組フアンだと言うことが判る。こういう人達に支えられている歳三もさぞ満足にしているに違いない。碑の前に沢山の花が飾ってあった。

<称名寺>

Hakodate603歳三が戦死した4日後の15日「孤立して応援もなく、進退既にきわまりし上は、降伏して天裁を待つにしかず」(孤立して応援もなく、進退もすでに極まったからには、降伏して運を天に任せるしかない)
この言葉の通り、孤立した弁天台場では、すでに食糧が底を尽き、弾丸は撃ち尽くし、砲撃で井戸を破壊されたために飲み水すらなかった。

弁天台場のあった函館ドックから山側に登った所に称名寺がある。戊辰戦争が蝦夷地に展開され、新選組も戦線を北に移動するが新選組の最後の屯所となってしまった。歳三の供養碑やエトロフ開発など殖産興業で多大な業績を残した高田屋嘉兵衛一族の墓がある。
歳三は榎本軍に加わり函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、一本木鶴岡町、異国橋など諸説があるが、土方家の檀家寺の高幡不動金剛寺の過去帳には函館称名寺に供養塔を建てたと記録されている。称名寺は明治期の大火で3回も焼けて碑は存在しないので昭和46年に有志が現在の碑を建立した。墓碑には昭和29年台風で壊された新選組隊士の名も入っている。正面に「歳進院殿 誠山 義豊大居士」と野村義時(利三郎)・栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎の4人の隊士名が入っている

<碧血碑>

Hakodate803立待岬側から、案内に沿って狭い山道を碧血碑に目指すが、殆ど車の影は見られないが、碧血碑の案内看板のスペースで車を乗り捨て、奥深い山道に入って行く。
んな樹林の中、僅かな空間に碧血碑にたどり着く。碧血碑は歳三や新選組隊士を含め約800人の戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために榎本ら生き残った幹部たちが明治8年に建立したものである。碑石は7回忌にあたる明治8年(1875)大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て東京から船で運ばれたもので、碑の題字は大鳥圭介とされている。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものである。
背面には、以下の16文字が刻まれている。
明治辰巳実有此事
立石山上以表厥志
「明治辰巳に実にこのことあり。山上に石を立て以ってその志を表す」
明治7年に新政府の「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」を得ても賊軍の懲罰は中々溶けず、墓石の建立もままならなかった。そんな時代背景からから表現は旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが、充分伺える。
詳細はこちらで載せてます    函館戦争を辿って

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函館戦役を巡る旅、4「五稜郭、奉行所、千代ケ岡台場」

Img_93371函館戦役を巡る旅もいよいよ五稜郭へ
函館で泊まったホテルが、ビル郡を押し退け市内を俯瞰する函館のシンボリックな五稜郭タワーが目の前であった。タワーの右側の緑は五稜郭の五稜郭公園である。あの星型の変わった城郭は近寄っても、何も判らない。高いところから全体を俯瞰し、始めてその美しさが伝わってくる。函館戦争の最後の総力戦も、新政府軍がどのように上陸し、両軍相まみえる姿はやはり此処からである。
タワーから五稜郭は繋がっており、新装復元した奉行所とも合わせ、観光のメッカか、一般客とも合わせ女子高校生の大量の群れ、タワーに上がると、何やら中国語、韓国語が飛び交い、国際化の真直中であった。
五稜郭はヨーロッパの城都市を参考に設計された西洋式土塁である。城堡と呼ばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と言われている。郭内には最近(2010年)に復元された函館奉行所庁舎とその付属建物20数棟あったが、写真の通り僅か、3棟が復元されているのみである。写真の手前側の三角形状土塁は半月堡で郭内の出入り口を防御するためのものである。元々星形の五角形状に合わせて5箇所ある筈であるが、工事規模の縮小により、1箇所だけになっている。

             < 復元された函館奉行所>

Img_93721では、140年振りに姿を表したその奉行所に行って見る。
元々函館山麓にあった奉行所は元治元年(1864)五稜郭内に完成し業務が開始され、蝦夷地の統治や開拓、諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠点でもあった。戊辰戦争の最後の戦いとなる函館戦争の舞台となり、屋根の太鼓櫓は新政府軍軍艦からの砲撃目標となり多数被弾した。旧幕府軍により約半年間占拠されたが、新政府軍の奪還により五稜郭は開城され、国内を内戦状態となった戊辰戦争も終焉を迎えた。明治4年(1871)に開拓使により奉行所庁舎は解体されてしまい目の前から消えてしまった。

140年経過した2010年、全国から集められた宮大工など、日本の伝統建築が受け継げられた匠の技が4年の歳月をかけて丹念に作られた美しい姿が再び表した。その一つの広間は精巧で繊細な欄間と言い、和室の奥の深い伝統技術に日本間のすばらしさをたっぷり堪能した。復元されたのは当時の1/3,1000㎡と言われるから当時の計り知れない大きさに蝦夷地を統括した奉行所の重さを感じさせられる。
奉行所の案内人に愚問とお思いつつ、「五稜郭内での歳三の亡骸はどの辺か」と聞いてしまったが、元より判るはずもなかった。
諸説紛々としている中で恐らく、この五稜郭内で埋葬されているとの発表が盛んにあるが、未だ判っていない。

再びタワーから目を転じると立待岬から函館山の姿手に取るように見える。函館山を挟んで弁天台場の反対側に立待岬が台場の死角となり上陸地点にしている。この函館山は市街地を俯瞰できる場所にあり、戦略上の重要な拠点となるであろう。
夜明けをもって新政府軍の艦砲射撃の音が鳴り響いた。
砲撃を合図のように新政府軍の奇襲部隊が函館山背後と弁天台場側の山瀬泊(現入船町)から上陸し戦闘になり、市中は分断され台場は孤立する。
敵兵を迎えた旧幕府軍は混乱し、函館山、寒川、弁天台場で多数戦死する
その立待岬はご覧の通り、切り立つ岸壁が海岸に取りつき人おも寄りつかない、自然の立地が要塞化している。敢えて険しい崖に取り付き山頂へ目指した。半島の突端に位置する事から、幕府が蝦夷地を直轄する時に警備のために台場が築かれたことがあった。第二次世界大戦中は要塞地帯法で市民の出入りは立ち入りを禁じられていた。近代においても、津軽海峡からの外来に対する防衛上の拠点でもあったのである。

                  <中島三郎之助父子最後の地碑;

Img_93121千代ケ岡台場の最後は悲壮だった。
千代ケ岡台場を守っていたのは、元浦賀奉行・中島三郎助率いる中島隊12名の他砲士20名と陸軍1小隊の50数名であった。
中島三郎助は浦賀奉行所の一与力の身分にありながら日本の直面した国際危機の中で国の将来を憂い、幕府のとるべき、重要な方策、先見性を評価され 国防上必要な軍艦の建造や砲台の築造を命じられ、幕府の枢要な国務に携わった。
大政奉還して幕府崩壊し与力・同心も解散するなか、幕臣として主家徳川に殉ぜんと決意し、長男恒太郎(22歳)と次男英次郎(19歳)および腹心の同心らと榎本武揚と行動を共にして江戸を脱出し、函館五稜郭に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に此処千代ケ岡に散下した。
「ほととぎす、われ地を吐く 思い哉」と言う辞世の句を残した。明治2年(1869)5月16日 49歳没。
大鳥圭介らに五稜郭へ退却するようにと勧告されても、中島は、「この郭は我が墳墓の地なり」と言って相手にしなかった。
新政府軍は、降伏した旧幕府軍兵士を先鋒とし、抜刀して攻め込んで来た。中島三郎助と2人の息子は大砲でこれを迎え撃つ。1時間の戦闘で半数以上が死に、中島父子も戦死した。
亡くなる前に2歳の与曽八に短刀と、家族への訣別の遺書を贈っている。中島父子を記念して千代ケ岡陣屋にあった縁の場所は「中島町」と名付けられた。幕臣として主家徳川に殉ぜんとする、最後まで武士魂を貫くところは歳三ともあい通じるが、親の後を追う二人の息子も、凄い中島町と命名される由縁で、末永く語り告げられるだろう。
この頃になると、旧幕府軍では一兵卒から士官クラスが次々と戦線を離脱し、五稜郭を抜け出し、その足で官軍に投降し降伏者の数は340余名にのぼった。
詳細はこちらで載せてます

 函館戦争を辿って 

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函館戦役を巡る旅、3「「松前城攻防戦、函館へ」

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函館戦役を巡る旅は前回の江差から南北海道の航行ルートを鯨の尾っぽの一番南側の突端、松前(福山)城にきてしまった。

Hkdtd601福山城(松前城)は鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代に和人政権の拠点となった北海道唯一の城郭である。
北辺警備の命令を受け安政元年(1854)に日本最後の旧式築城として完成し城内に砲台を備え、天守閣は強固な構造で既に西洋式の重火器を用いた近代戦に備えていた。幕末期にはロシアの南下、外国船の日本侵略に備え、松前城の北辺警備は重大な役割を担っていたのである。
明治維新の戦乱により廃墟になり明治8年(1875)天守(三重桶)、本丸御門、同東塀を残して取り壊された。本丸御門を残して焼失天守は昭和36年(1961)に鉄筋コンクリート作りで再建された。
松前藩が蝦夷地を統治する拠点として、古くから支え、維新を迎え、新政府に付くか旧幕府に付くか、もめ結局新政府側に付き、旧幕府軍を迎え撃ったことになった。
歳三率いる約750と言われる隊は五稜郭を出発したが、夜襲をかけた白兵戦など松前藩兵の激しい抵抗にあう。
性能が良い筑島砲台は軍艦幡龍に砲丸が命中するなど旧幕府軍の軍艦が沖合から近づくことを許さなかったが、砲台は土方軍に鎮圧されると、回天他軍艦が砲撃、松前藩は沖合からの回天の砲撃に浮足だし松前城に逃げ込んだ。

                                    <写真は松前の城下町>Img_9294111土方軍は城に殺到したが、門内に野砲を並べ肉薄してくる土方軍に砲火を浴びせるなど苦戦したが、城中に突入した。城内では各所で斬りあいが行われ、天守閣にも刀傷が残されていたと言われている。本丸御殿の玄関で割腹自刃するなど武士道に背かぬ働きをしたが町や寺社などに火を放し江差に向け後退した。この時、松前城下は全民家の7500戸のうち5000戸を焼失。寺院20箇所のうち15箇所を焼失した。
この御用火事によって、蝦夷地第一の城下町は四分の三を焼き尽くし、町民の非難した山奥へ飛び火し折からの降雪に晒され寒さと食料不足で悲惨を究めたと言われる。
旧幕府軍は意気軒昂で「松前リヤンコ(兵隊)はカラスのしょう(衆)だよ、鉄砲ドンと撃ちゃ皆逃げる」と歌いながら行進したと言われている。
松前城を占拠した旧幕府軍は遊撃隊長人見勝太郎が松前奉行になって6カ月間、占領行政を担当する。
歳三は川原町の済衆館と言う医学校を宿舎に白馬に跨がる颯爽とした姿で松前城へ登城したと言われているが、蝦夷地上陸後、激しい抵抗もあったが五稜郭に継いで松前城占領で一番輝いていた時期ではなかろうか。
しかし、それも長続きしなかった。半年後 4月9日新政府軍1200人が乙部に上陸、江差を奪回後、海岸線を松前城に向かう部隊が進軍した。
予知していた人見勝太郎の旧幕府軍は松前城を砲台で固め、台地上に胸壁銃座を縦横に設け、新政府側を待ち受ける。
新政府軍は甲鉄、朝陽、丁卯、陽春、飛龍の5艦が松前城と海岸砲台を砲撃し援護したが決着が付かなかった。松前藩は中の岳を経て立石野背後の山から城中に突撃し、旧幕府軍は一気に崩れ松前城は奪回され、函館に向かって逃れていった。松前城の攻防戦は両軍各々60余名に及ぶ多数の戦死者を出している。
このようにして、旧幕府軍、新政府軍が城をめぐって激しい戦いがあり、新政府軍の手に落ちた松前城を契機に一気に五稜郭包囲に繋がっていく。
高台の要地に建つ松前城、北海道で唯一の城郭は美しく絵になるが、建物は堅牢なコンクリート作りで機能本位。一新された建物に内部から戊辰の戦いの姿を求めるのは無理であった。
城に訪れる来館者も少なく、土産物屋も手持ち無沙汰のようであり、そこそこ駆け足で周り、函館へ向かう。

海岸線を走る過程で日も落ち、車のライトのみが浮かび上がる闇の世界に、遠目にイカ釣りの漁火が群れなしている姿が鮮やかに飛び込んできた。
湯川温泉で車と荷物を預け、タクシーで函館山へ向かったが、ロープウエイは何と休み、バス、タクシーが殺到する中、そのまま山頂へ目指す
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函館戦役を巡る旅、2「官軍上陸地~開陽丸沈没の江差」

Image111 前回、南北海道の行程ルートを鯨の尾っぽに例えたが、その尾っぽを輪切りに東西に縦断する。かなり深い森林地帯を越え噴火湾側から日本海側に出るが、地図を見ると冬季閉鎖とされており、豪雪地帯から、この山越えは容易ならざるものであるようだ。
このルートは何時もの北海道のようで、車の姿は殆ど見受けられず、独り占めしてしまい、贅沢な気分で爆走した。
函館戦争では江差から函館へ新政府軍が向かうが、それを迎え討つ幕府軍の戦う山岳ルートはこの道より南側のルートである。
山道を越え乙部海岸に出る。写真の垂直に切り立つ白亜の絶壁はグランドキャニオンとも呼ばれ「舘の岬」である。
奪還の機会を狙っていた新政府軍は青森からこの乙部海岸に上陸し、旧幕府軍に奪われた函館を奪還の一歩を踏み出した。

乙部沖に「甲鉄」「春日」など黒船来襲を思わせる光景となり、村民は大挙して漁船を出し、軍艦に対して情報を伝えた。これが契機に当地の「津花の浜」および相泊(館浦)に兵士が上陸している。村民は新政府側に加担している。
旧幕府軍の手にあったが、無防備であった乙部から蝦夷地、奪回のため無血上陸した。

Img_91391<果て上陸地点は何処に>
広い海岸に果たして新政府軍の上陸地点は何処にあるかと、乙部町役場に飛び込み教えて頂いた。出来たばかりの上陸碑であったがそばに立てかけられた柱の防蝕用に帽子が被されてあったが、官軍が被る傘の拘りに思わず笑ってしまった。
東京からの珍しい歴史史跡の訪問客に、町上げての歴史通、乙部町の米田出納室長が、忙しい業務の傍ら、ご挨拶頂いた。
明治政府軍の乙部上陸を乙部観光の一つに尽力されておられことを伺った。上陸の碑もそのひとつで、更に乙部に残された言い伝えなど地元目線で、捉えた函館戦争を作った 「新北海道の夜明け」のマンガ紹介された。
未だ在庫されているよであり、地元だけしか手に入らぬ労作を早速購入した。元より歴史好き、米田室長はもっと語りたかったようであるが、別役の用事に悔しがっておられた。

Img_92751海岸線を乙部から江差へ移動する。この辺りは北海道の南西部に位置し、にしん漁場として栄え、道内でも早くから開けた場所の一つである。
一方では土方率いる旧幕府軍と最後の防衛戦として必死の抵抗を示した松前藩が戦った要衝江差港である。強固な敵陣に榎本の乗船する「開陽丸」が海上支援で江差沖に到着、江差弁天や愛宕山の台場に砲撃し、陸兵を上陸させたが、松前藩は敗走し無血上陸であった。
しかしこれが「開陽丸」の最後の勤めで、暴風激浪の自然の猛威に最新鋭の軍艦も叶わず海中深く没してしまう。
榎本や歳三が宿舎として使われていた檜山奉行所跡は江差港が一望出来るこの高台にあり、榎本と歳三はこの場で「開陽丸」沈没の姿を見て、この松を拳で叩き嘆き、松が曲がってしまった伝説がある。その松は大きく傾きながらも、尚懸命に生きている。
函館戦争の主要要路と町は殆ど海岸線にあり、制海権を握ることがこの戦いの鍵を握っている。
710トンの「回天」クラスが構成する艦隊の中で規模が一回り大きい2590トンの「開陽丸」を失った事実が如何に大きかったか良く判る。
そんな背景から「回天」他で宮古湾に停泊の「甲鉄」奪還作戦を行ったが、、犠牲者を伴っただけで失敗した。
江差に入り平成2年(1990)、復元したノッポ姿の「開陽丸」は直ぐ判り江差町のシンボリックな存在になっている。
早速、甲板にあがり目の前の巨大なマストに大きな歴史事実を想い浮かべ、とても感慨深いものであった。
大阪から品川へ遁走し失意の将軍徳川慶喜を。江戸城開城後大量の脱走兵を運び新天地、蝦夷で再起を図ったこと。榎本艦隊の旗艦として、さっそうとこの艦上から全艦への指揮を取る、その華々しい姿と海中に消えていった歴史ロマンをこの艦が後世に伝えている。

Img_9280111艦内の陳列品は大量な引き揚げ品であるが、中でもこの砲弾の種類と数に圧倒される。
古典的な大砲の弾は、単なる金属球如きの物から、着弾時に弾殻が破砕され、破片が広範囲に飛び散り、周囲の物質に突き刺さる、破壊能力は飛躍的に上がった榴弾など、函館戦争ではこんなものまで既に使われていたのかと驚いてしまう。
江差はこの「開陽丸」を始めにしんや廻船問屋で一旗上げた豪商など当時の姿を伝える家屋など歴史遺産が多数残され、時間かけて見たいところであるが、先を急ぎ松前に目指す。未だ先の長い函館へ、明るいうちたどり着きたいが、道乗りが心配にもなってくる。

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函館戦役を巡る旅「榎本艦隊上陸地」

Img0241111毎年の恒例行事となってしまった北海道旅行。でも何時も道南は飛ばして何時も行くのは道東、道央、時には道北、利尻、礼文まで足を延ばしているが、道南は行った事がないのである。旧南多摩郡部に身を置き、多少歳三の関わりを持つ者として終焉地へは行ったことが無いのは、肩身の狭いものとも思っていた。
家族を含め何時も行くメンバーは北海道は好きであるが、歴史、しかも新選組に特化した旅ともなると、中々難しいが、我が儘を許してもらい、歴史旅が何とか実現した。
但し、そう度々出かけられるところでもないので、どうせ行くなら、戊辰戦争の終焉となった函館戦争の戦跡を可能な限り、廻ってみたいと言う途方も無いものとなってしまった。
函館戦争の戦跡は地図でなぞって見ると、南北海道の鯨の尾っぽのような渡島半島をぐるりと周回するのである。
北海道のごく一部、地図から見るとわけないと思うが、いやあ~実際に走って見て、遠く果てし無く420㎞もあったのである。勿論道探しに迷走もあったが、そんな無駄走りがあっても、新選組を含めた旧幕府軍と対座した新政府軍は400㎞に及ぶこの鯨の尾っぽを駆けめぐったのである。
その戦記を改めて追いながら、ごく上っ面ではあるが、4日間で廻った部分の紀行文をかなり時間をかけて書いてみた。
一応、サイトアップ出来、一段落したので、その記事の紹介を含めて、旅主体の別視点で小分けしながら書いてみる。
早朝出発した羽田から、ズ~ンという制動を体に感じながら函館に到着する。

Img_910711テカテカの慣れない新車のハンドルを握りで空港から大沼湖の大沼公園に向かう。噴火で稜線が片折れした駒ヶ岳を方角を替えながら、周回しその雄姿を楽しむ。鷲の木で上陸した旧幕府軍もこの姿を見ながら、敗走する松前藩を追いながら函館に向かっている筈である。
駒ヶ岳を見ながら国道5号線を北下、噴火湾の森町を目指す。
国道5号線は函館と札幌方面を結ぶ幹線なのか、結構車が多い、鷲の木は何処だと探しながら走り、チラリと見た鳥居の姿に動物的勘で、道脇に車を止め駆け足で鷲の木史跡公園を見つける。車に戻り公園に車をいれようと、ふと見上げたら、国道沿いに「榎本武揚上陸の地」の看板が間近にあったのに笑ってしまった。

Img_91201歳三達を載せ、満載の榎本艦隊は噴火湾沖に投錨して鷲の木村に2300の兵士が蝦夷地最初の足を踏み入れる場所である。
上陸地点の鷲の木村は150軒の民家、人口800で茅部街道の要所でがあり、函館への交通は開けていた。何れかの1軒で歳三は此処で宿泊している。
此処から、降り積もった雪の中を行軍し、海岸線と山越え組の二手に分け、五稜郭を目指している。
函館港があるのに、何故遠巻きに、噴火湾まで来て、南下したのかだろうか、既に国開き外国船が係留される中でドンパチ砲門を開く訳にはいかなかったのである。それに内側に囲まれた噴火湾は波静かで、自然の囲いが上陸するには格好な場所と思われる。
江戸城が開城される中、新政府に意に沿わぬ抗戦派を多数載せ品川沖から脱出した榎本艦隊は一路、北に向かったが途中で暴風に遭遇し銚子沖で美嘉保丸、咸臨丸と多数の僚友を失い、此処迄の到達は波瀾に満ちての上陸であった。
上陸地点は何処までも広がる砂浜の海岸線に駒ヶ岳とイメージしていたが、時の経過が開発の手が入り海岸線に家が建ち、函館本線の鉄道線路が走り、炯眼を阻み、その姿は全然違っていた。
鷲の木史跡公園は線路と国道の間にあるが、海岸線は建物、線路に遮られ、僅かな隙間に海が認められる空き地で人影もなく寂しい場所であった。空 き地の一角に無造作に立っている「史跡「函館戦争榎本軍鷲の木上陸地」の碑が唯一の上陸地点を示すもので、あるが函館戦争の記念すべき出発点にしては寂しい存在であった。それでも碑の前に立ち歳三達が最初に踏んだ蝦夷の地を捜し当てたのは感慨深いものであった。

Img_912211111111 当日は国道5号から、内陸部に入り、上の湯の銀婚温泉に泊まり、ゆっくり湯にうたれ、未明に近い出発で寝不足でボロボロになった体を癒し、明日に備える。

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江差で念願の「開陽丸」と対面

                                                      < 江差港>

Img_91791 毎年の北海道旅行、豊かな大地、その魅力にとりつかれもう何回続けたろうか、恒例行事になってしまった。
同乗者の意向もあって、ごく一般的な旅に道央か道東で、偏った新選組絡みの道南は封印していた。
まあ、そんな折り、拝の特別な思い込みから、同乗者の理解もあって今年は道南ということにしてしまった。
道南と言うと定番の如く五稜郭と函館山周辺であるが、どうしても、幻の「開陽丸」ガ見たかった。
そこで鯨の尾っぽもような渡島半島を旧幕府軍が上陸した鷲の木の内浦湾(噴火湾)から縦断し、日本海側に出て、新政府軍が上陸した乙部から江差にきてしまった。

Img_92751

江差の町並みに高い建物の合間から、あの超高い3本マストがちらちら見えるころ、あれが目標の「開陽丸」だと興奮冷めやらなかった。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍はやぶれ、未だ戦闘体制のある中で徳川慶喜は、大阪から「開陽丸」で密かに逃げ、品川沖から上陸し江戸城へ向かった。江戸開城後、今度は榎本武揚が抗戦の意志を持つ、脱走兵を集め、旗艦「開陽丸」として艦隊を組み品川から蝦夷へ目指す。
榎本艦隊は品川沖を就航間もなく、銚子沖で暴風雨に遭遇し、乗船者共併せ、「咸臨丸」、「美賀保丸」を失ってしまう。
「美賀保丸」は銚子沖で座礁し沈没溺死する者、捕縛され処刑されるなど犠牲者が生れた。「咸臨丸」は相模湾を漂い、清水港で追討の軍艦を差し向けた新政府軍が白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、乗組員を惨殺し36の遺体が清水港に投げ捨てられる悲劇も生まれた。
品川から逃走した「開陽丸」は途中で仙台に寄りその後加わった「大江」「「鳳凰(ほうおう)」2隻と仙台に結集した奥州諸藩やその他の旧幕府軍を収容し大鳥圭介や、土方歳三など幹部と彰義隊、伝習士官隊、砲兵隊、新選組など中小所隊を加え、総員およそ2300余りと言われている大部隊を蝦夷の地へ送り込んだ。
旧幕府軍は函館を落とし、榎本は「開陽丸」に搭乗し、函館に入港する。21発の祝砲とどろく中を上陸し、五稜郭に入った。
函館戦争で榎本が一番の得意とした場面であった。榎本の乗船する「開陽丸」は江差沖に到着、江差弁天や愛宕山の台場に砲撃し、陸兵を上陸させ、殆ど抵抗もないまま占領する。
所が夜になり、風雪猛烈をきわめ、ついにいかりが引かれ、どんどん岸辺に押し流され、暗礁に乗り上げ自由を失い数日後沈没する。
明治元年(1868)殆ど函館戦争で戦えず此処江差港で没してしまう。
最初の太平洋横断など華々しくデビュした「咸臨丸」は明治新政府の配下となり北海道開拓の一用船として北海道開拓使用達(ようたし)の運送業者に払い下げになり、物資・人員の輸送に当たる。しかし、同船も「開陽丸」の後を追うように明治4年(1871)函館港外で座礁、全壊し海中に没している。
荒れ狂う海にその姿を消してしまい、品川沖で手を携えた両船とも北の海で、没したのも何故か因縁めいている。
その姿を追って此処江差まで着てようやくその雄姿を前に感動した。

Img_92761 幕末の戦争遺稿として江戸湾にあるいは横須賀に台場跡を見てきたが、何れもだけで、殆ど何も残っていなかった。
そんな意味で、目の前の「開陽丸」と引き揚げられた大量な砲と砲弾の生の姿にようやっと出会い、戊辰戦争の終幕を活字からの想像の世界から当時の世界に巻き戻してくれた。

奉行所の復元で賑わう五稜郭に引き換え、江差の「開陽丸」は初年度12万に達した入館者も年を追って減少、最近は年間2万人ということで平日でもあったが、入館者は少なく寂しかった。
陸路伝いに江差の町に入り、遠目の雄姿から、いざ甲板に上がってみると、復元後の長い年月に、海風にさらされ、かなり木部の痛みが目についた。しかしそれも今年(2010)11月から改修するようで、化粧された姿で再びフアンの前にデビュウするようである。
そんな暴れ回る海難を引き起こした江差の海は、風もなく、波もなく全く静かな海であった。
江戸からはるばる蝦夷の江差へ、そして後ろ髪引かれる思いで「開陽丸」に別れを告げた。詳細は以下でご案内

開陽丸

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