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戦艦「三笠」と「龍馬」

              戦艦「三笠」Mikasa1横須賀を語るに欠かせないのは何と言っても、軍艦「三笠」である。
この「三笠」を代表とする海軍と「龍馬」は唐突に思えるが、意外と繋がりがを持っている。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
この横須賀に「龍馬」の妻「お龍」は晩年、此処で過ごし、静かに眠っているが、少なからず影響した人物が居る。

「龍馬」と一緒に行動した「菅野覚兵衛」と言う人物が、「龍馬」の没後もその遺志を継ぎ繋ぎ役を担っている。
「菅野覚兵衛」は土佐藩の庄屋の三男として生まれる。土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)、山内容堂を警護する五十人組に参加し上京し、龍馬らともに勝海舟の弟子となる。神戸に設置した神戸海軍操練所にも参加し、長崎で亀山社中(のちの海援隊)を結成し、物産・武器貿易を行う。第二次長州征討(四境(しきょう)戦争)では社中の船・乙(いっ)丑(ちゅう)丸(まる)(ユニオン号)の艦長と海援隊隊士として活躍する。
慶応3年(1867年)11月15日の「竜馬」は暗殺されるが、翌・慶応4年(1868年)3月、生前の「龍馬」の希望もあり長崎で「お龍」の妹・起美(三女)と結婚する。「竜馬」とは土佐勤皇党以来の同志で、生前既に義妹を嫁に推挙するぐらいに「覚兵衛」と言う人物を信頼していたものと思われ「龍馬」とは義兄弟となる。
「覚兵衛」は戊辰戦争に従軍し奥羽地方を転戦する。維新後アメリカに留学し、帰国後は勝海舟の紹介で海軍省に入省し、艦政局運輸課長、横須賀鎮守府建築部長などを歴任して海軍の要職を担う少佐となる。
「お龍」は「竜馬」没後、自立の道を模索し、明治7年(1874年) 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いたのも「覚兵衛」の紹介とも言われている。
明治8年(1875年)「お龍」は「西村松兵衛」と再婚し、西村ツルとなり、「松兵衛」の住む横須賀で暮らした。
西村松兵衛は呉服商として、寺田屋時代の「お龍」と旧知の中であったが、維新の動乱時に家業が傾き横須賀に移り住み横須賀造船所建設用の資材の回漕(かいそう)業を行い、後に露天商などで生計を立てていた。
再婚は「松兵衛」が「覚兵衛」の家に出入りし、「覚兵衛」の紹介されたと言う説もあり、何れにしても「お龍」の晩年はこの「覚兵衛」が深く関わりを持っていたことが判る。
こうしてみると晩年の「お龍」が横須賀の地で暮らすことは「覚兵衛」の存在が大きく、少なからず海軍との繋がりが見えてくる。

さて、その三笠であるが、「坂の上の雲」が司馬遼太郎が亡くなり、スペシアルドラマとして漸く取り上げられた。
これまで、司馬遼太郎の多くの作品が国営放送の大河ドラマで放映されるが、「坂の上の雲」だけは何度かエントリされながら、中々実現しなかった。
大国ロシアのバルチック艦隊を破り、東洋のちっぽけな国の黄色人種が晴れて評価されたのが、この三笠率いる、日本艦隊であった。
尖閣諸島の領海侵犯、クナシリ・エトロフの領土権の主張など国を取り巻く環境は憂慮すべき事態に陥ってしまっている。
誇大妄想かもしれないが、忘れかけた歴史遺産と関わった先人達が、弱腰の外交に、なにも言えない国に成り下がってしまった現状に、きっと歯がゆい想いで見ているに違いない。

         戦艦「三笠」の艦橋から、俯瞰するImg_05561

当サイトでも紹介したが、台風影響下の雨の中、三笠に再開した。滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
睨みを効かす大きな砲門が火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役はこの砲門と、射撃能力の高い訓練された砲手達であった。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
今にも洋上に走りそうな艦上で、高揚した感覚は雨をも吹き飛ばす世界に暫く心酔した。
時代は遡り、慶応2年6月、第二次長州征討の四境戦争で、「高杉晋作」率いる5隻の軍艦に「龍馬」の乙丑丸も含まれていた。
朝もやで視界の悪い、関門海峡を静かに進み、長州艦隊は、数百にのぼる軍艦が集結していた幕軍目掛けて一斉に艦砲射撃を開始し、幕軍を大混乱に陥れた。その勝因も長州艦隊の連動した操船と長州軍の砲弾の命中率は高さであった。
こうしてみると、近代戦争の走りは既に四境戦争で始まっていたのではとさえ思えてくるのである。
この艦橋に立つと、失ってしまったナショナリズムがフツフツと自然と沸いてくる。
何故、三笠がバルチック艦隊を破ったか、そんな視点で書いてみた。

軍艦 三笠 

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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ、そして決行

「JR横浜西口から台町へ向かう、一行」

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前日からの雨、当日は台風に刺激され大雨の予報に、一部欠席の声もあり、当日行くのは己のみではと思えたが、幸いにして雨は小振りとなり決行した。
八王子を起点に、2次集合場所の横浜駅西口で一部の参加者をピックアップし、神奈川宿、台町の田中屋を目指す。
ビルの雑踏を抜け国道1号線沿いを神奈川駅側に向かうと、ビルの谷間の急階段に田中屋を見つける。
この階段を登り切った旧東海道の田中屋に出る。
安藤広重の東海道五十三次「神奈川宿台之景」から、坂の途中に「田中家」の前身「さくらや」の看板が見とれる。海に浮かぶ大きな船あたりが現在の横浜駅当たりと言われている。
従って、我々が歩いてきた当時は海中の中にあったのである。
全盛期では58軒の料亭が立ち並んだが、当時を語れるのはここ1軒だけで、看板を死守する姿に感服する。

            「旧東海道、神奈川宿台(現、台町)付近」

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お龍は明治7年(1874年)に自立の道を模索し、「菅野(かんの)覚兵衛」の紹介で 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いている。
覚兵衛は土佐勤王党に加盟し、龍馬らともに神戸海軍操練所に参加し、長崎で亀山社中(のちの海援隊>を結成し、第二次長州征討の乙(いっ)丑(ちゅう)丸の艦長と海援隊隊士として活躍している。
慶応4年(1868年)3月、生前の龍馬の希望もあり長崎でお龍の妹・起美(三女)と結婚しており、龍馬、お龍との関わりが深い。
お龍は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて目立つ存在だった。
一方では土佐藩士からお龍のことを「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」
と言われたり、龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねて来たお龍を冷たく追い返したり、自ら持った気性から、回りから支援も余りなかったようだ。

□神奈川台の関門跡
田中屋から西に下り、神奈川台の関門跡がある。
開港後、外国人があいついで殺傷され、その捕縛がままならず、各国の領事から「幕府は何をやっているんだと」非難され
横浜周辺の主要拠点に関門や番所を設け、相次ぐ外国人襲撃から守るため警備体制を強化した。
その番所が此処に立ち、番兵がにらみを効かせていた。さしずめ怪しげな成相の己も、行く手を阻み、これ以上の西下を許さなかったのであろう。

□アメリカ領事館の本覚寺
関門跡から東海道を戻り、アメリカ領事館の本覚寺につく。
生麦事件で遭遇した4人の外国人の一人リチャ-ドソンは絶命、遺体は余りにも切り傷が凄いので途中の宗興寺で縫い合わせ、雨戸に乗せてここ本覚寺に運ばれる。苦しんでいるのでこのまま助からないと、「武士の情け」と喉を一突きし止めを刺したのが、薩摩藩の海江田武次である。

海江田武次は有村俊斎を名乗り、俊斎を頭に雄助、治左衛門の三兄弟であった。桜田門外の変で治左衛門は実行者の一人で自害、雄助は推進役として事件後切腹しており、維新以降生き残ったのが武次一人である。
薩摩の一行400人の行列はイギリス軍が来る前に、此処神奈川宿から保土ヶ谷へさっさと逃げてしまう。当然イギリスから下手人の始末を要請されたが、黙殺してしまう。
台町周辺はびっしりとビルが立つ、一等地にあるが、一歩離れ、ここ東海道はお龍あり、攘夷あり、生麦事件あり、幕末・維新史が埋もれた一角のようである。

京急に乗って横須賀中央へ
□おりょう会館

「寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが、「西村松兵衛」と再婚し横須賀で暮らす。「松兵衛」が「菅野覚兵衛」の家に出入りし、「覚兵衛」の紹介された、と言う説と料亭田中家で仲居をしていた時に松兵衛と知り合ったという説もある。
夫に先立たれた妹・光枝がお龍を頼るようになり、3人で暮らすようになったが、やがて「松兵衛」と「光枝」の二人がお龍の元を離れて別居してしまい、一人暮らしになり、明治39年(1906)長屋の一角でひっそりと亡くなる。
晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と「松兵衛」に絡んでいたというが、僅か2年に満たない龍馬との生活を胸に約30年の横須賀暮らしであった。

会館には立派なおりょうの胸像と建物の裏側に終焉の地の碑が立っている。
ふと回りを見ると、何れお迎えが来る世代が多かった。会館でお世話になったら、お龍と一緒に夢想の世界へ案内してくれると、紹介したが、笑って流されてしまった。

□軍艦三笠へ
                   「軍艦三笠の雄姿」

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「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
そう考えると、三笠の見学はこの旅ではで唐突無縁ではないことを、説明しようとした。しかし目の前の重装備の軍艦に、既に心を奪われ、つまらない説明は無用と、それぞれ赴くまま、三々五々飛んでいってしまった。(笑い)

圧巻は何と言っても、東郷平八郎と秋山真之らが指揮取った艦橋であった。降りしきる雨の中、片手に資料、片手に雨傘、手が塞がっている状態で足元も滑る急階段登り降りは厳しかった。砲弾飛び交う中で艦橋は殆ど無防備、こんな所で体を晒、指揮を取った幹部の姿が凄かった。
時間も無く足早に駆け抜けた三笠で、際立ったのが旅順口閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の写真がそれを演じた俳優で元オリンピックの水泳選手「藤本隆宏」とそっくりであった。ロシア娘を虜にしただけあった男前の姿がそのまま、生き生きと輝いていた。

親父たちの世代が小学唱歌で唄っていた、広瀬中佐の唄が、微かに浮かんで来る。
「轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。荒波洗ふ デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」>♪♪・・・♪。

□信楽寺
                   「山深い場所を背後にお龍が眠る信楽寺」

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京急京浜大津の信楽寺へ
墓碑は「贈正四位(ぞうしょうしい)阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている大きな墓石である。『*贈正四位阪とは死後に贈られた正四位の位。
明治時代以降は、幕末の尊皇攘夷や明治維新において亡くなった功労者であった。』
ひっそりと、孤立無援のお龍には亡くなった時には墓らしいものもなかった。
「松兵衛」の知友「鈴木清治郎」と戊辰で東山道軍総督府大軍監、維新後宮内省の宮内官僚となった「香川 敬三」らの尽力によって、大正3年(1914)に立派な墓が建立された。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、衝動的に買い求め、お龍に贈ったのが清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」であった。
二人の木像、供併せ「月琴」(作り物)を拝見し、信楽寺を後にした。
横須賀の山深い信楽寺にこの雨の中、訪れ人も、我々以外に誰もおらず、お龍旅の最後を飾る、お寺であった。
この後、「龍馬」も警備陣に加わった、立会川の土佐藩浜川砲台跡へ向かう予定をしたが、雨中行軍で余力も失せ、多摩郡へ帰路についた。
本日は台風の余波で終日、凄い雨であった。こんな天気であったら、とても史跡巡りどころで無かったのが、せめてもの慰めであった。

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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ

横須賀大津の商店街

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草木が芽吹く時期を迎え、街中を歩くの良いのかなと「お龍の旅」を企画した。
しかし3.11の大地震により、予想も付かなかった足回りの混乱から旅、どころでは無く、中止になった。
そんな制限が解消され、改めて再チャレンジする。

今度の週末は台風の影響で雨模様であるが、2011ー5ー28、決行する。

□お龍の後半生を振り返ると
「龍馬」が凶刃に倒れる迄の僅か1年10カ月の「龍馬」との生活。未亡人となった後、下関、土佐、京都と転々するが、坂本家とも折り合いが悪く、新天地を求めて、東京に出て横須賀に暮らす。
横須賀で寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが「西村松兵衛」と再婚し30年近く暮らすが、凋落しひっそりと66歳で亡くなる。
「龍馬」の遺志は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
その華々しい戦果を見届け、お龍は天国の竜馬の元に走り報告に向かう。

折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となった。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方
につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
贈正4位のお龍の立派な墓が建立される。

□そんな背景から横浜、横須賀の縁の地を追ってみる。
仲居時代の横浜の田中屋。晩年暮らした横須賀。バルチック艦隊を破った三笠。静かに眠る大津信楽寺。

<ちょっと欲張って>

龍馬が剣術修行で江戸に来たときに、ペリー来航で、動員された品川の浜川砲台跡

などなど、たっぷりと彼らの跡を辿ってみたい。

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竜馬・おりょうが奏でる唄

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後何カ月、後何日、終わるぞ~終わるぞ~
前宣伝もあったが、最後のシーンでポテンシアルを上げていく制作意図に載せられ、しっかり見てしまった。
亡くなる寸前まで陽気で明るく振る舞う竜馬が近江屋で竜馬と中岡が暗殺される凄惨なシーンはどんな形ででドラマは終わってしまったのか、甚だ興味があったが、"明"から一気に"暗"にその落差が自然に涙腺を緩め、"うるうる"させる所なのであろうか、福山雅治のもって生まれたキャラクターと見事な演技であった。

「よう来てくれた。会いたかったぜよ。今この時を大切に生きとおせ。頼んだぜ 日本の未来 おんしに。龍馬」
というメッセージが書かれ、二人が温かく迎えてくれるのが横須賀大津の信楽寺である。

台の上に繊細な木彫りの「龍馬」と「おりょう」の二人が座敷の上に仲良く並んで 座っている。
二人の前には楽譜台と脇には見慣れぬ楽器が据えられ、今にも二人の唄がかなでられるように、生き生きとした姿が目に映る。
見慣れぬ楽器は何であろう?。その姿は琵琶に似ているが、清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」である。
弦をはじくと、琵琶に似ているが、やや高く甘い音色がすると言われている。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、正に衝動的に買い求めた。長崎から「おりょう」のもとへ、「龍馬」が最初に贈ったのが、この「月琴(再現品」である。

東奔西走する「竜馬」は「おりょう」の前に居るのは束の間であり、せめてこの「月琴」が「竜馬」の身代わりと思って抱き、唄って欲しい。しかし、そんな願いも叶わぬまま、 「おりょう」の前から消えてしまった。

そんな二人の絆、「月琴」の音に併せて高らかに唄う「おりょう」の姿に心打たれ、此処信楽寺から立ち去り難かった。
以来、その音はどんな音か、またそれに併せて「おりょう」がどう歌うのか、気になった。
果せるかなドラマの最終回でその演じる姿が歌の響きが、ああ~これなのかと、テレビの前で聞き耳を立てた。

信楽寺で手招きされるまま、近くに寄ってみる。幽玄な世界、二人の前に一緒に座り、仲睦まじい二人に当てられながらも、その姿を一人じめしてしまった。長崎、下関以来の再会が此処、二人の念願が叶い、ここ信楽寺で実現したのである。

「龍馬」の駆けめぐる姿を追っかけ、最後は「おりょう」との隣あわせる姿に終着点までたどり着くことが出来た

その信楽寺はこんな所にあります。竜馬の妻おりょう

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晩年の「おりょう」を追って

「おりょう」は寺田屋で深手をおった「龍馬」と手を携え、 九州での新婚旅行など蜜月の時代を送った。
「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、「おりょう」は長崎から下関へと移り住み、ひたすら「龍馬」の帰りを待った。慶応3年(1867)11月、京の近江屋で「龍馬」と「中岡慎太郎」は刺客団に襲撃され凶刃に倒れ、「おりょう」のもとに知らされ、再び「龍馬」の姿を見ることはなかった。
一時土佐の坂本家で暮らしたが、龍馬が海援隊に残した金をめぐり折り合いが悪く、土佐を出る。出身地の京都で「龍馬」の墓を守って暫くいたが明治5年(1869)、弟を連れ東京に出たと言われている。

◇横浜割烹料亭で再出発

現存する割烹料亭「田中家」

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明治に入って「おりょう」は神奈川の田中家という高級料亭の仲居としても働き、美貌、回転の良さからフアンも多かったが、惜しまれつつ辞めた。
「おりょう」は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、勉強家で英語を喋り海外事情にも詳しかったと言われている。
旧東海道の一角にビルに挟まれ、横浜台町に割烹料亭「田中家」が見える。海に接する高台に位置し、この辺は風光明媚な場所に料亭が並び、賑わいを見せていたが、海が埋め立てられた現在、横浜駅の周辺の街並みを見下ろす風情に大きく変わり、尚続けているのは「田中家」のみになってしまった。
田中家の創業は江戸時代後期の文久三年(1863年)。 当店の前身「さくらや」が、安藤(歌川)広重の神奈川宿台之景に二階建ての旅篭(はたご)として描写されている。 現在では神奈川宿ゆかりの店舗として唯一の存在となり、古き良き時代を留めながら、料理を楽しめる場所として食通客が訪れている様である。

◇「西村松兵衛」と再婚、横須賀に住む

「おりょう会館」の隣に住んでいた。

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明治8年、「おりょう」が働いていた寺田屋で宿泊した旧知の「西村松兵衛」がこの料亭に遊びに来るようになる。
彼は横須賀造船所建設用の資材の回漕業をしていて、度々来るうちにおりょうさんと意気投合し、「松兵衛」と再婚し彼の住んでいる横須賀の地で世帯を持つことになった。以来横須賀に住み、「西村ツル」と名前を変える。
回漕業は長続きせず、露天商までやっているが、雨の日は商売ならず、無収入の日もあったようである。貧しいだけならまだしも、プライドの高い「おりょう」はテキ屋に類する大道商人の妻であることがみじめでたまらなくなった。誉れ多き「龍馬」の妻として、この凋落に酒で憂さを晴らすしかなかったのであろう。
明治39年(1906)1月、「松平衛」の結婚生活は30年以上に及んだが、「おりょう」は66歳でひっそりと死去した。「おりょう」と「龍馬」が連れ添ったのは、わずか3年ほど、そんなドラマを温めながら、30年近くを此処で過ごしたのである。
おりょうの終焉の地は京浜急行横須賀中央駅から「米が浜通り」に出て「おりょう会館」にあり、語りかけるような等身大、着物の姿の胸像の「おりょう」さんにあえる。
おりょう会館の裏側の路地が回漕業を営んでいたと言われる「西村松平衛」と暮らした場所で「坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地」の碑も建ってある。

◇信楽寺には立派な「おりょう」の墓

巨大な「おりょう」の墓

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京浜急行大津の信楽寺には立派な「おりょう」の墓があるが、「鈴木清治郎」の尽力によって建てられた。「清治郎」は大道易者であり、「松兵衛」も露天商を営んでいたことから知り合い「おりょう」の存在を認めた。
 横須賀の裏長屋のその家に「松兵衛」の妻「西村ツル」が「自分は坂本龍馬の妻・おりょうだ」を自ら名乗り、酒好きの鉄火婆さんだったと「おりょう」を評している。
折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となりおりょうの存在が世に知られる事にもなる。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
「清冶郎」は「松兵衛」の家を訪ねたが、既に「おりょう」が亡くなったことを知る。(明治39年)。
 しかし、夫・「松兵衛」は零落しており、墓もないとのことなので、自分がおりょうのためお墓を建ててやろうと思いたち、大正3年(1914)皇室の要職にある水戸藩出身の香川敬三や横須賀鎮守府長官などからの支援により改めて建てたのが、現在の横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。
「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。敢えて「西村」を名のらず姓を阪本の名を使うのは「龍馬」とのよい思い出が語り継がれることが供養になる」と住職は解釈している。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。「龍馬」はもとより支えた「おりょう」にも正四位が贈られた。    詳細は下記で纏めている。

龍馬の妻「おりょう」

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「坂の上の雲」と榴弾砲(りゅうだんほう)

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何れ、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でもこの榴弾砲が光を当てられるだろう。
観音崎へ行った折りに、砲門をやや上向きに構えるこの巨大で異様な28サンチ榴弾砲に出会いびっくりした。
東京湾につき出した岬であるため東京湾防備の拠点として明治13、28年の間、観音﨑各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が築かれる。これらの砲台は日清、日露戦争に活躍したもので、関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されている。この場所は「南門砲台跡」で残念ながら当時を忍ぶ物は残されていない。
外国の軍艦の襲撃を守るため、主要な海岸にはこの28サンチ榴弾砲が据えられた。砲弾の直径が28cm.長さ75cmで飛距離は7800mで、およその目安は対岸の房総半島の富津岬まで飛ぶ実力をもっている。観音崎には当時東京湾を守るためにこの榴弾砲を備えた砲台がいくつもあった。

明治37年、日露戦争の旅順要塞を攻撃するも、難攻不落に第1回の総攻撃で約1万6千人の大量な犠牲者を生み、ながらも落せず消耗戦となった。
築城攻撃だけで要塞は落ちずやはり砲兵火力は絶対必要であると、第1線の前線から大本営に繰り返し弾薬の補給を要求していたが、既に底を付き送れないのが当時の国力であった。但し、要塞砲の28サンチ榴弾砲の弾薬ならあると、言うことで急遽使われたのがこの砲であった。
再度の総攻撃に 28サンチ榴弾砲を、日本内地の要塞にあったものを取り外し、短期間で陣地に据付た。
戦時下の緊急事態ではあったが、元より建築機械重機のない時代だけに、人海戦術でこの大きな砲を据えつけたと言われている。
早速実戦で撃ち込んだ威力が大変大きく、難攻不落に膠着状態であった要塞に攻略の糸口が生れ、旅順要塞の陥落の大きな役割を果たしたと言われている。
旅順攻略に若し28サンチ榴弾砲が無かったら旅順の攻略は更に長引いたとさえ言われている。

展示される28サンチ榴弾砲は模型である。平和を甘受する世の中、昔はこのような時代があったことを思い起こしてもらうために、観音崎公園のボランテイアさんの労作である。
周辺は要塞地帯として明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上、立ち入りなどを厳しく制限した。
そんな機密の世界が戦後ベールを脱ぎ、軍事施設は埋設・撤去されるなど、公園として手を加えられたが、戦争遺構として未だ当時の姿を留める。観音崎公園として蘇った一帯は観音崎の海岸線の風光明媚な姿とも併せ、鴨居側から観音崎、走水と戦争遺構をたっぷり確かめることが出来る。以下で纏めてみた。参考までにご案内します。

東京湾要塞地帯

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海運史を飾る浦賀

Image1       <浦賀の燈明堂の浜付近で船舶を見る>

ドラマの進捗が2回目のペリー来航に併せ、「龍馬」が再び土佐藩の下屋敷の警護のために動員される。
日本中に夷人(外国人)をしりぞける攘夷活動が活発になる中、桂小五郎は「龍馬」を呼び出し、「吉田松陰」を探しに出る。
ストリーは「龍馬」と「松陰」の出会いが生れるが、果たして出会えたのだろうか?
「龍馬」が生涯を通じて大変大きな出来事として、姉の乙女さんに宛てた手紙の中にあると思う筈であるが、判然としてない。
まあ、それはともかくとして、人一倍、好奇心旺盛な「松陰」や「佐久間象山」が最初に見た黒船が大きく心揺るがし、純粋で一縷な気持ちを、海の向こうの世界に駆り立てられたのであろう。
最初の黒船来航時は浦賀の割烹旅館「徳田屋」へ江戸を始め各地から駆けつけた見物客で、ごった返し満室となり廊下にまで溢れたと言われているが、神田お玉ケ池の「象山書院」から駆けつけた早耳の「象山」が一番乗りだったようである。
後から駆けつけた「松陰」も「徳田屋」で合流し、「象山」らと膝を交えて、未だ見ぬ黒船を前に、未知の文明世界に耳を傾け語りあったのであろう。
浦賀港は深い入江にあり、それを挟んで東西の浦賀町があるが、それを結ぶ小さな渡し船 「横須賀市道2073号線」がある。
その船着場近くに、「徳田屋」があった。幕末から明治、大正まで在ったが、関東大震災で潰れてしまい、徳田屋跡碑だけが、当時の姿を僅かに語り継いでいる。前述の「松陰」や「象山」も此処を利用したが、桂小五郎などなど武士や文人などが必ず訪れた由緒ある旅館である。

その入江の先が平根山でトンネルを通じて海岸沿いに燈明堂の浜に出ると、外海に出る。天気がよければ向かい側の房総半島が確かめられる。その沿岸部に数隻の黒船が現れ、砲声を轟かせ、「松陰」や「象山」も身体を震わせながら、目の前の姿と音に衝撃的な対面をする。

04290056>       <大勢の幕末の志士達で賑わう咸臨丸祭り>

浦賀にはせんさく好きで、最初に黒船に乗り込んだ男として「中島三郎助」がいる。根掘り葉掘り聞きまくり、アメリカ人には煙ったかれたが、その旺盛な探究心から日本で最初の洋式帆船「鳳凰丸」が生れ、建造の主任技師として活躍した。
「三郎助」は「勝海舟」・「榎本武揚等」と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。
「三郎助」は幕臣として意志を貫き戊辰戦争で旧幕府軍として参加、函館で子供達と三人一緒に戦死しており、浦賀港を見渡せる東林寺に眠る。

華やいだデビューを飾った、最初に太平洋を横断した咸臨丸はこの浦賀から出航している。この咸臨丸の渡航を前に「勝海舟」は此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る「叶神社」に航海の安全祈願をしたその碑が建っている。

幕末の海運史はまさに浦賀から起きており、沢山の人物が此処で関わっている。浦賀ドックを含めた街ぐるみ、海運の歴史にたっぷり浸る事が出来る、大好きな街である。

そんな姿を三浦紀行で纏めてみた 。

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惹きつける「おりょう」さん

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<30才頃の新たに発見された写真、井桜直美氏所有>

2001年新たな「おりょう」写真が発見と言う衝撃的な新聞記事が発表され話題を呼んだ。「そんな写真が今頃と?」半信半疑の感想がよせられたが、京都国立博物館で特別展示した時には1カ月で3万人弱という、入場者を迎え、その反響は大きかった。

写真の出所は京都国立博物館の宮川楨一氏が従来の「おりょう」写真を調べていたところ京都河原町の大型書店で井桜直美著「セピア色の肖像」の中にこの新たな写真が見つかり、仰天した。井桜氏に確認したが、出所は不明であった。しかし、従来有る井口家アルバムの写真と、新たな発見写真は着物の柄、髪形から、同日、内田九一撮影と同じ日に撮られていることが明白である。更に写真の裏面に「たつ」と記されている。

撮影背景を以下のように推定している。
慶応3年(1867)「竜馬」の死を下関で聞き、土佐、そして京都で暮らし、「龍馬」の墓を守った。明治5年(1872)弟を連れて東京に出た時に「内田九一」写真館で撮影した。

唯一、「おりょう」の容姿を中条仲子が以下のように伝えた。
「明治元年頃、「おりょう」は28才の女盛り、どちらからと言えば小形の身体に渋好みの衣服がぴったり似合って、細面、瓜実(うりざね)顔、色はあくまで白く、典型的な京美人であった。
正に左の写真とそっくりである。しかし、出所不明で研究者やファンの間でひろく議論を呼んだが、この写真を否定することもあっても肯定することは難しかった 。

2008年5月に警察庁の科学警察研究所が信楽寺にある、おりょう本人と確認されている晩年の写真とこの写真を比較し科学的な面からメスが入れられ。 「同一人物の可能性が高い」との鑑定結果を発表した。

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<;信楽寺にある、おりょう本人と確認されている晩年の写真>

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鑑定を依頼した高知県立坂本龍馬記念館では、森健志郎館長が「科学的な鑑定で、あいまいな推測から一歩進んだ。おりょうの可能性が高まった貴重な結果だ」と喜んでいる.。
以上のことから、ようやっと新しい写真も市民権を得た。

先日、横須賀に行き信楽寺に御参りに行ってみた。信楽寺の案内板にも.人を惹きつける、新しい写真が飾られてあった。

「おりょう」さん自身が、どう感じられたであろうか?、両方の写真を比較し、素人目にも、二重まぶた、耳、あごの部分がそっくりに見える。

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幕末海軍史を飾る三浦半島

Img_21471 三浦半島は日本の海軍の街として、幕末史を飾る船や人物が登場し、半島全体がワクワクするような大好きな場所である。整理すると以下に代表される。
1)ペリー来航
日本を震撼させた黒船来航 「ペリー上陸記念碑」の建つ久里浜港。
好奇心旺盛な象山、松陰が黒船見学で宿泊した「徳田屋跡」
2)中島三郎助
勝海舟、榎本武揚らと共に、長崎の海軍伝習所で、海軍士官として身につけ、江戸の海軍操練所教授方として後身の指導した中島三郎助。
その三郎助親子は戊辰戦争で函館で戦死する。その墓は「東林寺」遺品は「浦賀文化センタ」にある。地元で慕われ、浦賀の有志で建てられた「中島三郎助招魂碑」のある「愛宕山公園」
3)咸臨丸
最新式蒸気船で華々しくデビュウした咸臨丸は太平洋横断へ、その出航を記念した碑のある「愛宕山公園」
決死の覚悟の太平洋横断に安全祈願を唱え勝海舟が断食をした「東東叶神社」
榎本武揚とともに、咸臨丸副長の職で函館へ向かったが、台風に遭い、清水港で遭難し官軍に惨殺された一人の春山弁蔵の墓がある「顕正寺」
その咸臨丸も末期は忘れ去られるように函館港外で座礁全壊してしまう。
4)海軍の遺構
明治初期水兵養成の「屯営跡」や明治時代の歴史を誇る乾式ドックとして残される「浦賀ドック」などなど
その半島の根っこに位置する横須賀に足を運び、軍艦奉行小栗上野介の残した横須賀製鉄所とその遺志から生まれた海軍基地の姿を見てきた。写真はヴェルニー公園にある小栗の胸像である。
その小栗も大政奉還後の江戸開城の折に抗戦を唱えた一人あったが、職を奪われ斬首される。
その小栗の遺志が近年評価され、小栗ご子孫が作った「オグリン」のイメージキャラクターが生まれるなど横須賀では大事な人物として慕われている。
その姿を捉えてきた。お勧めしたい場所の一つである。
小栗上野介

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