カテゴリー「12、甲州街道」の記事

多摩川越えの歴史と「石田大橋」

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都心と甲州結ぶ甲州道を西へ下り、多摩川を越えがあり、近年幾つかの橋が架けられ、一番新しいのが石田大橋である。
多摩川を渡河し国立市と日野市を結ぶ 「石田大橋」が約10年がかりで2003年完成した。「石田大橋」は中央高速、国立ICに直結し、慢性的な渋滞を起こしている甲州街道(国道20号線)の、バイパス路として、大きな役割を担っている。
多摩川の架橋は明治になってからで、それまで、大雨など出船出来ず、天候に支配される渡し船による多摩川越えは大きな障壁でもあった。
多数な橋が架けられ、近代文明の象徴である、モーターりーゼーションの渦に載り、数分で渡ってしまう多摩川越えは覚醒の感がある。多摩川越えの、歴史を踏まえ、周辺辿ってみる。
多摩川の渡河を中心に歴史の遺構を残す石田地区と周辺の地域を地図で集約してみた。
◇渡し舟時代
1)万願寺の渡し
江戸日本橋から約10里、甲州道を西へ下り、多摩川を越えた所に日野宿がある。この多摩川越えは渡船で行われ自然の変化に晒され、下流の六郷の渡しと共に道中の一つの節目でもあった。
度々の洪水や川筋の変化に伴って、渡船の場所は適宜変化していた。
その一つが『万願寺の渡し』である。
慶長10年(1605)五街道の整備により、日野は甲州街道の宿駅に指定され、渡船は従来通り、万願寺に置かれた。
しかし多摩川がたびたび洪水をおこしたため、街道は移され、貞亨元年(1684)段丘の上の常安寺(現立日橋付近)の『日野渡船場』に移され、架橋まで続いた。

<草深い土手の一角に「万願寺の渡し場跡」の木柱が確かな案内役を担っている。
右側は高速道路でこの脇を万願寺の渡しがあった>。

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普段は静かで穏やかな流れではあるが、これが一旦怒りだすと、護岸の決壊 浸水が繰り返される歴史が近年迄続いている。
2)どんな渡船
渡船場は歩行船(6.4×1.2M)1艘、そう馬船(11.8×2.7M) 2艘により運行され、江戸時代の荷物運搬は人間より馬の背で行われていた事がわかる。 特に甲州の物産は明治20年代の甲武鉄道の開通まで笹子峠や小仏峠の天険も馬の背で運ばれた。甲州ブドウの荷を振り分けで積み馬5、6頭を繋いで一人の馬子が引いていったとか、馬糞街道とさえ呼ばれたそうである。
3)転覆事件
多摩川は通常、川幅109m、水深1.5mであったが、増水時は255m、水深3m余りになった。 水深を越えると渡船は川留めし、水深が下がると解除され川明けとなる。この決まりは遵守された。
弘化3年(1840)天候不順で大雨が続き、6月24日以来、日野の渡しは川止めとなり、川明けを待つ人々が両岸で満ちあふれていた。
7月2日、川明けとなり、待ちかねた人々が渡船場に押し寄せ、船頭は抑止出来ず、船は平常の2~3倍の34人を載せ危険であったが、渡船になった。
川中で突風が吹き、高波が船に入ったことに驚いた客が片側に寄ッたため転覆した。船頭2人以外は急流ではなすすべもなく、溺死し、その死骸は遠く下流に流れ、遠くは川 崎まで流れていった。満員で乗れず、両岸の人々が居る前での惨事であった。

4)土方歳三の生家、水没
転覆事件と同じ、弘化3年6月30日、降り続いた雨のため多摩川が増水し、現在の日野橋辺りから溢れた水によって、満願寺、下田の低地一帯が押し流された。
石田寺北にあった土方家でも、物置、土蔵が押し流され更に母屋まで危うく成り掛けた時、石田村や急を聞いた近村の人々が駆けつけ、母屋や土蔵を解体し、西方の現在地へ移築した。
歳三が12歳の時であった。
5)石田周辺は出水の歴史
歳三生家跡周辺は多摩川、浅川の合流点に近く、度々出水を起こしている。
現在、住宅地にあり、屋敷の合間を縫うように道が張りめぐらされ、土地開発が進められている。
とうかんの森、歳三生家跡、石田寺など旧跡巡りに、一歩当地に入ると、迷走する場所である。
特に目立つ建物がない場所だけに、聳え立つ、とうかんの森のむくや石田寺のかやの巨木が道案内してくれる。「ともかく、道迷ったら、見上げて、巨木を見よう」

       <一際目立つ、とうかんの森の巨木>

Image1◇石田大橋
石田大橋は一般国道20号線日野バイパス(国立市谷保~八王子市高倉町8.1㎞)のうち国立市と日野市を結び、多摩川に懸かる長さ385mの橋である。
巾員 :車道8m(2車線)歩道3.5m
工事期間:平成6年11月着工、平成15年3月完成

        <多摩川にかかる、石田大橋>
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<その名に相応しく長さ385m、壮大な石田大橋>Image2
橋名の選定に当たっては広く両市民に公募して名称を募り、その中で票数が多く両市つなぐ橋名に相応しい名称として「石田大橋」が選定された。
「石田」この地が江戸時代にあった「石田の渡し」に近いこと、また江戸時代の多摩川の洪水により日野市側にあった、石田村の人々が国立市側に移住し、その地に「石田 」と名付けたことなど、両市にとって歴史的由来のある名称である
因みに公募結果は
応募総数:193件
応募名称:万願寺橋(39件)、石田大橋(28件)、日の国橋(17件)、国立泉大橋(10件)、国日橋(4件)他、土方橋、歳三橋、タマちゃん橋など76名称がエントリされた。
こうして、難渋した多摩川越えの歴史を踏まえ、多摩地域と都心を結ぶ幹線の一役を担っている。大小の車両が爆走し、騒音を生む一方、道沿いに店舗も生まれ、周辺を一変させる影響を与えている。

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甲州古道「小原宿」そぞろ歩き

2016年は、あっと言う間に明けてしまった。
年末から年始にかけて、行事が重なったが一段落したが、酒とご馳走が身についてしまう不健康な毎日であった。体の重さの負い目もあって、歩きにかけ、甲州古道、小原宿行きに駆り立てられた。
普段、日野宿から、同じ甲州街道沿いの、残された本陣として、関わりを持ち、特別な意味合いもあって、既に何回か来ている。
JR中央線は高尾止まりであるが、そこから先は地形的にも山岳地帯に入り、乗降客も少なく、電車の本数も少なくなってしまう、風土の違いを感じる。
高尾からたったの一駅が潜るトンネルも併せて、距離以上に遠い存在になってしまう。

◇早速、旅人になる。
JR中央線が5分以上遅れていたが、高尾駅では同一のホームで向かい側の甲府方面行きはしっかり待っており、乗り換え客を収容し、瞬く間に発車する。
車窓から山深い周辺の様子を認める間もなく相模湖駅に到着する。それらしき車内案内があったようであるが、普段当たり前に開くドアーが開かず、初めて手動式に気づき、大きな押しボタンを押してドアーを開け、車外に出る。車内から出られず、そのまま載せられることもないが、ローカール運用に戸惑う、お上りさん状態である。
平日の午前中でもあってか、広い駅前ロータリーには列車が到着して間もないにも関わらず客の姿が、極僅かである。
地図で確かめ、甲州街道の旧道から、新道に合流し、舗装化された20号を江戸方面に向かう。路面の右側の欄干には眼下に切り立つ崖、満々と水を蓄えた相模ダムが一際目立つ。

◇ああ~小原宿
道中全然なかった家並みが、徐々に見えはじめ、案内標識にある小原宿に到着する。道の正面には小仏峠の姿が見え、徐々に記憶の中の数年前の姿が蘇ってくる。

         <甲州街道の先には小仏峠が覆い被さる、難所>

Image121江戸から西下する旅人は眼の前の小仏を越えての小原宿入りである。慶応4年、西から江戸へ攻める新政府軍阻止に甲府行きを目指した甲陽鎮撫隊一行も、旅装を解き、此処で一休みしたのではなかろうか・・・。
道を挟んで、両側に格子で飾られた和風建築の家並みが並び、かっての小原宿の様子を伝えている。
往時は2町半(273M)の宿に本陣、脇本陣、9軒の旅籠があり、29軒が軒を並べていた。
しかし、明治28年の大火で本陣を含む東端の4軒を除き、燃えてしまった。現在の家並みは以降に再建されたものである。それぞれ屋号を持ち宿駅を偲ばせる風情を今日に伝えている。
甲州街道で、再建とはいえ、これだけの家並みが揃っているのも貴重な存在である。
甲州街道、20号の要路として、猛烈な勢いで車が走り抜け、人の姿も見えず、何処もャッター化しているのも、寂しい限りであった。

□小原宿本陣

  <格調の高い、裾を兜にした入母屋作りの本陣建屋>

Image211当主の清水家は後北条の家来、清水隼人介で、甲州街道、小原宿が設けてからは代々、問屋と庄屋をかねていた。
建屋の北側は背面に山を抱えており急斜面になっているが、その広大な敷地を保有し、地域を代表する資産家と想像する。
近年になって、周辺が一変し、現在高い位置に走る中央高速や、JR中央本線が敷かれた。軌道等の敷地は元々清水家の敷地であったが手放された。
代々名声を誇っていた清水家も継ぐ方が居られず、熟思たる想いで、先祖が残された資産は手放され、当地から離れていった。
◇本陣建屋
建屋は県指定重要文化財であり、土間妻(建物の長手方向の端)側の裾を兜にした入母屋造りである。
              <屋根の内側は荒縄でたばねられた 茅の世界>Image311
屋根はきちんと整形された鉄板葺きであるが、内側は茅を束ね、荒縄で締めている、茅葺きであることに驚かされる。二階の天井部分に上がって見ると、その姿が確かめられる。
正面の式台が玄関口で入って左側(西側)は手入れの行き届いた築山のある庭に面する、入側を挟んで「控えの間」「中の間」次いで大名が泊まった「上段の間」に繋がる。
それぞれの客室が庭に面する開放的な造りで、季節によっては吹き抜ける風が心地よい。
建物は江戸時代の後期、18世紀末から19世紀初期の建築と言われ、200年以上の風雪に耐えてきており、かなり綻びも見受けられる。
天井と鴨居の間には通風機能を兼ねた部屋を飾る大事な欄間があるべきと考えるが、飾りもない板で仕切られていた。当時の記録もないので、推測に過ぎないが、欄間が落ちてしまったのであろうか。
北側の廊下部分の周辺の柱、骨組みは虫食い状態であった。
付近の屋根が2、3年前の大雪で抜け、1カ月位の修復に休館したようである。
建物を解体し、再建すると恐らく億以上はかかると思われるが、解体の時点で文化財の扱いからも外されるようで、末永く維持することの難しさを想い知らされる。

◇大名専用の厠(トイレ)
普段、何気なく行われている排便は健康のバロメータである。
小生が胃の手術を行い、退院後、合併症から黒色便が排泄し、1週間続いた。便に血が混じると酸化、発酵し、黒色となり、猛烈な異臭を発するショッキングな出来事を体感した。
これは術後、胃から発生した特異事例であるが、普段、摂取した食物の種類、体調などにより、便の色調の濃淡に変化を起こすことが明らかであった。
こうした医学的な考察所見は江戸時代でも、既に実践されていた一つが、小原宿本陣の大名用の厠であったのである。

    <畳敷きの空間で、沈思考の世界へ>、

Image411厠は畳二畳の広さであるが、厠の外壁下部には小窓風の開き戸がある。其処を開けると箪笥の引き出しがあって、大名の排泄物を引き出して家来が健康状態を診察していた。

             <厠の最下部に引き出しがついている>
Canvas11これは小原宿に限ったものではなく、文久元年(1861)皇女和宮が降嫁した折に宿泊している中山道の和田宿本陣に畳で敷きつめられた厠が敢えて 公開されてあった。大名行列の中にご典医が居て、検便を行い厳しく大名の健康の管理に怠りなく行われていた。こうして排泄物からの健康管理は江戸時代から何処も実施していたことが判る。
今回自らの苦い体験から、厠に纏わる事実を追ってしまい、小原宿行きに駆り立てられた変な 動機付けの一つでもあった。
◇さらば小原宿
この、寒い時期、流石、訪れる物好きも居らず、掛かりの人を独占してしまい、要所を案内していただき、じっくり和風建築の懐の深さに触れることが出来た。
帰路は再び、激しく行き交う車両の通る甲州街道を西下した。勢いのまま、古道マップを頼りに相模湖駅を通過し、行けるところまで行こうと、無計画な歩きが続いた。

         <関宿付近の秋葉神社から相模湖の眺望を楽しむ>
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山沿いをのどかな自然の中、風化した地蔵さんや碑の発見に沿道の風情やら、遥か眼下の相模湖の眺望を楽しんだ古道歩きであった。一方ではその古道も、併設する新道に重なったり、離れたりするが、新道しか選択の余地の無いところでは、ダンプの爆風を浴びながらの身の危険に、のどかな雰囲気も一変する。
小原宿を出発、与瀬宿、吉野宿を通過、JRの藤野駅までの距離は7、8㎞に及び、日は落ち込み引きずる足に最早、これ以上の歩きの気力は失せていた。

☆日野宿で休息した甲陽鎮撫隊は八王子宿で昼食、小仏越えを実施し此処、与瀬で宿泊している 。
凄い馬力、だなあと思い知らされた。

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甲州街道に残る本田家屋敷

               <甲州街道沿いにある本田家屋敷>Img_48991

甲州街道を江戸を起点に西に下り、府中宿、多摩川越えで日野宿に達する。
この多摩川を挟んで西側が日野宿、東側が谷保天満宮があり、近くの甲州街道沿いに本田家の屋敷がある。
現代では多摩地域と東京を通じる物流を担う輸送路の一つとして、激しく車両が行き交い
激しい粉塵や排気ガスに晒されながら、、時代が変わっても、尚、健気に屋敷が残っている。
□本田家
誉れ高い本田家は戦国時代からルーツが繋がるが、川越時代は四代将軍の馬の先生であったが、谷保に移ってから4代将軍には書を教えているなど、医者と書家で名を残している。

11代目本田覚庵は江戸に遊学、江戸の文化を吸収している。本業は医者であるが、書の作品を多数残し、とりわけ関東一と言われている砂川十番組の巨大な大幟は有名である。
覚庵は土方歳三の父親であるの義諄(よしあつ)の妹、「チカ」を嫁として迎えている。同じく姉妹の「マサ」は佐藤家へ嫁ぎ、本田家、土方家、佐藤家は親戚関係にある。
13代目本田定年は覚庵の2男で青春時代に幕末の乱世を迎えたことが定年の生涯を決定したと言われている。
そんな背景から本田家は11代目から縁者との繋がりから、江戸周辺の要人など、人脈が広がっていく。
日野の佐藤彦五郎、小野路の小島鹿之助らと交友があり、土方歳三と糟谷良順兄弟とは親戚関係にあり、天然理心流の近藤周助、勇とは剣術の仲間である。
広い交遊関係から勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟など幕末の要人も同家に訪れている。

           <同家を迎い入れた山門>

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◇本田覚庵日記
本田家に残る文書で万延元年(1860)2月~文久3年(1863)12月まで連続するものである。医者であり、更に書家として有名な『覚庵』で広い人脈と交遊関係をもっている。同記録から、土方歳三は25歳から登場し、14回通い、内2回宿泊している。近藤勇は26歳から登場し、7回通い、内2回宿泊している。
その他、佐藤家から彦五郎、源之助、土方家から喜六や近藤周助、井上松五郎など通っており、几帳面に記録が残されて居る

◇日記から伝えるもの
1)剣術
土方歳三は書の手習いと同時に、近藤勇等共に谷保天神辺りでの剣術稽古で立ち寄ったものと思われる。
文久元年8月27日に勇の襲名試合である府中六社宮試合で覚庵は勇へ祝儀一分を贈っている覚庵は府中六社宮の神主である『猿渡』氏と大変深い付き合いがあり勇の襲名試合の開催を尽力された一人である。覚庵は六処宮での巨大な奉納額の書の作成に谷保村のが10日間六処宮に通って書いたが、完成間際では六処宮で徹夜になったと言われる位に、大変な作業であった。
2)医者として
医者としての姿土方歳三の兄である喜六は病気のため通い、覚庵も3日間連続往診に石田へ往診に着ており、その手厚い看護も叶わず万延元年(1860)9月4日亡くなっている。
覚庵は佐藤家にも度々訪れているが、文久元年(1861)11月8日石田の歳三病気に付き、日野佐藤家へ行くと記録されている。
歳三が大変な患いの身にありながら看護してもらえるのは既に喜六が亡くなった実家よりノブさんが頼りだったのか、歳三が佐藤家に寄りつく事実が明らかに判る

◇東山道軍通過の様子
勝沼の戦いで勝利した西軍の先鋒は信州高嶋諏訪因幡守で慶応4年(1869)3月12日通過、13日土州一行、14日因州勢が通行。15日には新宿に到着、大木戸に入った。
12日の通行の際、一行は高札場の棒杭を抜き取り高札を外し、後日、新たに書き換えたものに変えるから、是を懸けることはならないと厳重に言い置いていった。
抜き取り外された高札に代って「天朝御料 江川太郎左衛門 支配所」と大書されたものが掲示された。
その脇に「徳川慶喜の天下之形勢不徳止ヲ察し大政返上将軍職辞退」と記され、続けて朝廷が幕府にとって代わったと言う内容のことが書かれていた。4月4日その意を西の内紙に認め、高札場に張り出すようにとの江川役所から触れられた。

◇建物を前に
歳三や勇が足しげく通った本田家であった。
この本田家の前を意気揚々と東山道軍通過してゆく。時代の移り変わりを告げていくようで、その姿を建物は黙々と眺めていたのであろう。

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「甲州街道歩き」真っ盛り

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江戸日本橋から下諏訪に至る「甲州街道」は昨今のウオーキングブームもあって、各地の観光協会や国土交通省が支援している。
「甲州街道」は江戸と甲州結ぶ物流の大動脈でもあり、幕府の力を象徴する参勤交代、甲州勤番の旗本の往来、将軍家用の宇治茶を運ぶお茶壺道中など幕府の大事な要路であった。
慶応4年には倒幕に勢いを得た東征軍が江戸城を目指し、迎え撃つ甲陽鎮撫隊が江戸から向かい勝沼で戦い、破れた往復の要路であった。
明治13年明治天皇の京都行幸では貞愛(さだあい)親王・太政大臣三条実朝以下供奉した騎兵・馬丁300人以上の大部隊が巡行されている。

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その原点たる「甲州古道」を自らの足で歩き、往時の世界を確かめてみた。
「甲州古道」はJR中央線や国道、更に中央自動車道などの建設でずたずたに寸断され廃道になったり、現在の国道に重なったり、一言に「甲州古道」と言っても、地図にフォローされているわけではないので、それを見付けながら辿るのは中々難しかった。
「甲陽鎮撫隊」の近藤勇や土方歳三ら幹部の馬上姿、大砲2門・武器弾薬の長持ちを抱えた隊列を追って、この甲州古道を下って見た。
ゴロゴロとした足場の悪く、急峻で厳しい小仏峠は想像以上にきつかった。景信山や高尾へ向かうハイカーの群れから離れ熊、いのしし、へびの類が何時現れてもおかしくない、甲州古道の小原宿へ向かう淋しい山道は己一人であった。

そんな「甲州街道」歩きが今や日の目を浴びている。TV等でも「甲州街道」を三田村邦彦、舞の海らが甲府まで約140㎞の道程を4人で街道沿いには電車や
車では見られない、名所旧蹟、美しい風景、隠れ名店などの光が当てられ、追い風にもなっている。

梅雨真っ盛り、うっとうしい毎日が続いている中、本陣のご案内であった。
午後の一時、雨傘はもとより雨合羽で完全武装した、初老の男女軍団が到着した。
雨の中、府中からの行軍で、土間の上がり縁にどっかりと座り込み、疲労困憊で中々上え上がって これなかった。
今日は日野宿まで、時間はたっぷりあると伺う。こちらから指示するまでもなく、皆さんゆっくりと畳の上で座り込んだ。
当初の説明に初めは頷き、しっかりと反応があったが、暫くして「文久3年、1863年・・・」の説明は徐々に核心に触れて言ったが、静になり中には明らかに(-.-)Zzzzz‥モードになっている方も居られた。お疲れの所、睡魔がピークに、説明が子守歌になったようであった。
考えてみれば此処は参勤交代の御休息所、歳三も京の疲れに昼寝。旅の疲れにじっくり休むのも、現代でもしっかり役割を果たし先人の残した伝承を継いでいる場所と改めて確認した。

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「甲州街道を行く」を見て

普段馴染みの深い甲州古道を江戸から甲府の武田神社までの140㎞を一つの万歩計をバトン代わりに4人の俳優さん女優さんで走破する。4人の共通ノルマはこの140㎞を完走するだけで、バトン渡しの中継点は宿泊する場所を探しながらの、気まま旅である。西に向かえば向かうほど、宿泊場所が少なくなるので、積み上げた距離の過不足は最終走者、舞の海にかっかってくる。

Img_5633111 府中で交替した三田村邦彦は排気ガスの凄い、20号を多摩川を越え日野宿に入ってくる。本陣を僅かに、立ち寄り、近くの農家でトマトの取り立てを美味そうに食べ、のんびりした農園風景が捉えられる。

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高尾から出発し、甲州古道の最初の難関、ガスで立ち込める小仏峠を1時間、喘ぎながら560mの山頂に出る。
相模湖辺りから三田村が軽いフットワークで走るのを追いかけるスタッフの「ゼーゼー」と言う息づかいがマイクを通して伝わり、笑ってしまう。
上野原で澤田亜矢子にバトンタッチ。此処までくるともう旧道は舗装も途絶え、雑草の生い茂る山道、食堂もままならぬまま、談合坂サービスエリア付近に食事場所求め、迷走する。
犬目宿の名ばかりの君恋温泉にようやく当宿場所とする。風呂につかり、しみじみと「はっきりいって辛かった」は 艱難辛苦の旅の姿を物語っているようである。
翌日、昼前に鳥沢宿で、昼食。桂川沿いの猿橋を経て、大月で宿屋探しに、苦労するが1泊4720円の質素な木賃宿を漸くみつけ舞の海にバトンタッチする。

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翌日、下花咲宿本陣に到着、星野家当主から、どっしりした本柱や明治天皇行幸の時の休憩された上段の間など直々に案内して貰う。真木稲荷神社から当コース最大の難所笹子峠が控える。笹子トンネルを通れ
ば5㎞の道は専用歩道無く極めて危険、14~5㎞の旧道をひたすら歩くが、歩いても歩いても登坂道の連続に標高1096mは厳しくのしかかる。
笹子墜道を潜り、廻りは海抜1000mの天空の世界、ここから駒飼宿へ下って4時間かかって甲州街道に合流する。

Img_564111 苦しい時にも笑顔を絶やさず、堪える姿にスポーツマンとして鍛えた根性が弱音を見せなかったが、山越えを果たし舞の海もさすが疲労も限界、如何に凄かったかを物語っている。勝沼での宿探し、TV取材は断られ、もう一軒は満室、バーベキュウの匂いをかぐだけで、神も仏も無く、石垣に向かって号泣する。
駒飼宿から、近藤勇達ら甲陽鎮撫隊が官軍と戦った大善寺についたが、時間が無いためパスであった。
勝沼宿で宿もなく、既に落ちかけた夜道をひたすら石和温泉へ目指し、出発後13時間で漸く石和に到着する。
その間、大月を出て舞の海以下の撮影隊の歩いた山坂道の距離は42㎞と凄い道のりであった。

Img_56431 石和温泉で投宿後、翌日、最後の武田神社へ。腰を落とし、クシャミもままならない、疲労は翌日も背負っていたが、最終ゴールの武田神社では笑顔が蘇っていた。
4人がかりで街道を140㎞、寄り道含めた走行距離は188㎞、甲州古道歩きは感動を与えてくれた。

同じ道を1年前(2008ー6、7)上野原まで歩いみた。懐かしく思い出される。

甲州古道を行く(八王子宿~小原宿)     甲州古道を行く(与瀬宿~上野原宿)

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甲陽鎮撫隊を追う

Kousyuukodou407 Kousyuukodou407a 徳川慶喜が大政奉還し、慶応4年東海道を抵抗らしい抵抗もなく、一気に江戸城開城をせまる官軍に、まさに火ぶたを切ろうとしていた。陸軍総裁となった勝海舟に幕府と江戸市民の運命がかかっていた。海舟は旧知の西郷吉之助を訪れ、江戸城総攻撃は何とか免れた。

新選組はその勝海舟から密命を受け、甲州百万石は徳川の直轄領で甲府に少数の甲府勤番をする旧幕臣が甲府城を守っている。官軍が甲府に入る前にいち早く此処を抑えれば百万石の大名になれると口説いたと言われている。
近藤・土方に処遇を与え、甲府行きに格式を持たせ、鳥羽伏見の戦いで生き残った新選組隊士を中心に、浅草弾左衞門の協力で新たに募った兵を加え、甲陽鎮撫隊を編成した 。
作戦に賛成する 会津藩 から1200両、幕府 から3000両大砲2門 、小銃500挺を受領し、近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名乗り鍛冶橋の屋敷を出陣し、甲府へ目指した 。

彼等が行軍した甲州古道をバスツアーや 中央本線などを利用して、何度も往復し、歩んで見た。総てを廻りきれた訳ではないが、主たる拠点は大凡確かめる事が出来た。既に作成した甲陽鎮撫隊の記事に、自ら歩いた記録を重ね併せてみた。

甲州古道で最初に待ち受けていたのが難所の一つと言われる小仏峠が待ち受けていたが、装備もない身軽な己が厳しい山道に難渋したが、大砲や銃で装備する彼等がこの道を踏破することに甲府への道のりの遠さを改めて思い知らされた。

史実が徐々に明らかにされるが、従来言われた官軍に遅れを取り破れたと言われていあたが、自ら歩き、いやいや反対に、重い装備に山岳路を含めた甲州古道を歩いた彼等の足回りの速さを実感した。

結局、甲府城迄行けず、勝沼で戦ったが圧倒的な数の東征軍(官軍)の前に、折角持ち寄った大砲も使えず、破れてしまった。甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走し、流山で近藤勇は捕まり板橋で処刑されてしまい、晴れて大名格はこの行軍だけで夢と消えてしまった。

その編成の生い立ちから勝沼まで破れ、官軍に追われる姿を以下で追ってみた。

甲陽鎮撫隊

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甲州古道を行く

Img000081 江戸日本橋から下諏訪に至る「甲州街道」は昨今のウオーキングブームもあって、八王子観光協会や国土交通省が支援している。

「甲州街道」と言っても車用として開発された国道よりも、その原点たる昔の道である所謂「甲州古道」を自らの足で歩き、往時の世界を確かめたくなる。
その甲州古道はJR中央線や国道、更に中央自動車道などの建設でずたずたに寸断され廃道になったり、現在の国道に重なったり、一言に「甲州古道」と言っても、地図にフォローされているわけではないので、それを見付けながら辿るのは中々難しい。
そんな甲州古道は慶応4年、鳥羽伏見の戦いで破れ、既に敗色濃い新選組の生き残りを掛けて再編成した「甲陽鎮撫隊」が急ぎ足で駆け抜けている。
当時の記録から、府中で宿泊した後、朝発ち、日野宿で休憩。八王子宿で昼食、駒木野宿を通過し、小仏峠を越え、小原宿を通過、与瀬宿で泊まっている。
大久保大和こと近藤勇や内藤隼人こと土方歳三ら幹部は馬上で、荷役方は大砲2門、武器弾薬の長持ちを抱え、この甲州古道を下っている。
彼等の通った姿を思い浮かべながら、取り敢えず高尾から同じ道を辿り、与瀬宿まで、更に日にちを変えて、上野原まで歩いて見た。
ゴロゴロとした足場の悪く、急峻で厳しい小仏峠は予想通りきつかった。息を切らして登切り、小仏峠から色々分岐されているが、景信山や高尾へ向かうハイカーの群れから離れ甲州古道の小原宿へ向かうのは己一人であった。
熊、いのしし、へびの出会いはなかったが、何時現れてもおかしくない、淋しい山道であった。
一方では、どうしても国道を通らねばならぬ所があり、西へ下るに連れて道幅が狭く、歩道と車道の殆ど区別のない脇を大型のダンプが轟音を立て、爆風に煽られ、走り抜ける危険な場所も、克服するなど結構厳しい古道歩きでもあった。
そんな中で小原宿での古い建物に、囲まれた甲州古道をじっくり味わいながら与瀬の町で引き返した。結局、「甲陽鎮撫隊」の宿泊地の本陣まで辿り着けず、最初の1日は終わった。荷物を背負いながら、彼等の急ぎ足には追いつけなかった。

その旅巡りは以下でアップした

甲州古道を行く(八王子宿~小原宿)

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厳しい小仏越え

Img_0752111 宮川さんの話に触発され、早速、小仏越えを試みる。「単純だなあ~」

彦五郎日記から 慶応4年3月甲陽鎮撫隊は勝沼に向かう過程で、その日の朝府中宿を出て、日野宿で休憩し、八王子宿で食事、駒木野宿の関所を通り、小仏越えを行い、小原宿を降りて、隣の与瀬宿で宿泊している。ならばと高尾の駅を10時頃降りて、甲州古道を辿って彼等の後を追ってみた。

高尾から小仏の麓までバスが出ているが、此処は鎮撫隊になりきり、彼等の踏み後を忠実に追ってみるため、ひたすら歩け歩けであった。バス道は比較的緩やかな勾配、チョット見上げると無粋な中央高速の高架橋が、うっとうしく付いて廻る。こんな緩やかな道なら楽勝と思ったが、バス停を過ぎた辺りから、ガラガラ道になり、写真のような急坂が待ち構えている。行けでも、行けでも杉木立の急坂が続き、視界の晴れる場所も無く、ただただ急な登坂に息は切れ、「ぜいぜい」と呼吸が苦しくなる。荷物もない身軽な旅姿でも、此れ程の難渋登坂であった。

ただでさえ苦しい、こんな急坂に大砲2門の鎮撫隊は喘ぎながらも、どう登ったのであろうか?。更に戊辰戦争も終わって、明治13年に京都巡幸でこの急坂道を明治天皇を載せた馬がどうやって登ったか?、別に侮った訳ではないが、ともかく凄い凄い。

喘ぎながらようやく小仏峠に到着、此処から尾根道を高尾山に抜ける道に大勢のハイカー殆どなのに古道の小原宿目指すは完璧に己一人、唯でさえ淋しい山道を杉木立の中をひたすら降りるだけ、途中でイノシシ、天狗に遭遇せず、何とか国道20号に出る。

Img_08211 静寂な世界から急に文明の世界に、車がバンバン走る抜ける歩道を遠慮深く、ひたすら歩き、ようやっと写真の小原宿本陣に辿り着く。こんな贅沢な本陣に誰も来客もなく、畳の上で思い切り足を伸ばし、しばしの疲れを癒した。上段の間付近では庭先が開け、開放的な空間が柔らかい空気が覆い、これまで歩き続けた疲れに、大の字になって寝たかったが、控えた。

係の人と話し込む。此処の持ち主の清水家は北条家の末裔で、小原宿の旧家の建物の表札に清水家が多く、親戚縁者が住んでいる。因みに係の人は武田の末裔とも言われていたが、まさしく幕末がそのまま残されている素敵な街であった。結局鎮撫隊が泊まった与瀬まで行けなかったが、彼等はタフな道のりを、懸命に歩き続けたのであった。 宮川さん何とか、歩けましたよ~

甲陽鎮撫隊

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