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『野毛山から港みらいへ』開港、横浜を巡る

       <紅葉坂から左側が神奈川奉行所、右側の先が掃部山公園>Image3_2暑い暑いと思っていたが、朝晩の冷え込みは厳しく、秋を通り越して一気に冬に来たような錯覚さえ覚える、昨今の陽気である。
しかし、この時期、天気さえ良ければ外歩きには格好の季節である。
『野毛山から港みらいへ』、半年前から予定したが、またまた野毛山へ来てしまった。
今回は過去の実績を踏まえ、20数名の山岡鉄舟研究会の皆さんを案内し、横浜開港に関わる、拠点を案内した。
当日の参加者は薩摩や長州の出身の方もおられ、自然と歴史風土の中に育む環境にある方、或いは歴史研究に、鋭い感性を研ぎ澄まし一家言持つ、方々など歴史には取り分け深い精鋭の一集団である。 従って、通り一編のセリフを並べた案内では貴重な時間を潰し、冷やかな目線を浴び、看板の研究会の定例行事に傷をつけ、悲惨な結末になってしまう。
一方では盛り沢山な拠点には分刻みのタイムスケジュールをこなせなければならず、長い説明は法度、予定したコースを廻りきる事であった。
坂、階段ありのアップダウンや幽霊屋敷となってしまった公社脇の道のコース、など、波瀾万丈、変化に飛んだコースであった。
JR桜木町駅から『神奈川奉行所跡』、井伊直弼像の『掃部山公園』、掃部山の南側の沿いの高台から下に『よこはま道の切り通し』を経て益満休の助が亡くなった『野毛山軍陣病院跡』(現老松中学校)。野毛山公園の『佐久間象山之碑』、野毛坂の平沼専造邸宅地跡の『亀甲積の石垣』、人通りの激しい『吉田橋』までが午前中の終着であった。

馬車道で昼食後、みなとみらい線に乗って元町で降車、外国人居留地の『フランス駐屯地跡』、港の見える丘公園から『イギリス駐屯地跡』、今回特別に許可を貰った外人墓地内『リチャードソン』の墓参を最後に当日の拠点巡りは終わった。
巡りの最後の場所だけに、どんな理由があっても時間厳守、ともかく前倒しに、息の詰まる時間優先のコース案内に、何とか余裕を持ってクリア出来た。

野毛の紹介は当ブログで度々紹介しているが、新たな「港みらい」地区を含め、こんな出会いもあった。

◇明治になって彦根藩士の井伊銅像の建立の思いImage5
明治42年(1909)旧彦根藩士らにより、井伊銅像の建立、昭和18年(1943)戦時下、金属回収で撤去、現在の物は昭和29年(1954)開国100年記念で再建されたものである。
建立当時の神奈川県知事周布公平の父は萩藩士周布政之介である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではなく藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、幕府の開国政策には反対していた。
安政の大獄の怨念もあって、除幕式を強行したが、数日後銅像の首が落とされるなど、波瀾の建立であった。
しかし、そんな反対も押し切って銅像建立に何故駆り立てられたのであろうか。
1)『桜田門外の変』の処分
譜代大名の大老を『桜田門外の変』で首を取られたことに対する幕府の厳しい処分から、大名行列の警護の責任を問われ、切腹、斬首など凄惨を極めた。
更に石高が35万石から25万石になった。
2)幕府に急反発
幕府から厳しい処分から急反発し、徳川四天王と称され徳川譜代の代表格の彦根藩は『戊辰戦争』で早々に新政府軍に恭順している。
維新以降は彦根藩は既に新政府に身を換えている。
横浜港を俯瞰する井伊の姿には維新以降も、井伊に纏わる人々の様々な思いが色々込められている。

<掃部山公園から、横浜道を渡って『切り通し』へ、配下の道が横浜道で東海道と居留地を結んでいる。此処が最大の難所共思えるが、3カ月で道が出来てしまった。>Image4
◇外国人居留地と横浜駐屯軍
横浜港を見渡せる素晴らしい炯眼の「みなとの見える公園」は安らぎ与える横浜一の場所とも思える
しかし、幕末時は隣接する、広大な敷地はフランス、イギリスの精鋭部隊が駐屯し、『薩英戦争』や『四カ国連合艦隊の長州攻撃』も此処から出動したきな臭い場所でもあった。
当初は軍艦に乗り込んだ水兵が警備に当たっていたが、文久2年(1862)8月 『生麦事件』から文久3年(1863)3月自ら守るためフランス軍が駐屯、翌年イギリス軍が駐屯する。その規模は
The North Camp  19,000坪(兵舎4,600坪)イギリス陸軍約1200名、海兵隊300名
The Sorth Camp   3,000坪(建坪120坪) フランス海兵隊約300名
高々居留民約300名に対して両軍合せ1800名の駐屯になった。
文久3年8月、交渉で英国軍艦7隻で横浜から鹿児島に向かい、交渉決裂し、薩摩側からの砲火、から英側も反撃、鎮圧する、『薩英戦争』となった。
元治元年(1864)7月、英・米・仏・蘭四カ国連合艦隊で軍艦17隻、砲280門、兵員5014名で下関攻撃に向かい、長州藩の砲台が沈黙する。
明治2年(1869)駐留軍の撤退交渉開始、明治4年(1871)撤退開始~明治8年81875)完全撤退する。

◇双方で離反する英・仏
駐屯地が英国・仏国の駐屯地は隣あわせであるが、それぞれ幕府側と薩長側にそれぞれ傾注していくのは正に同床異夢であった。

1)仏国は日本駐在仏公使の『ロッシエ』の意向で幕府側へ
駐屯地が英国・仏国の駐屯地は隣あわせで当初は英国がイニシアチブによる英仏両国の横浜防衛権の獲得がされたが、日本駐在仏公使のロッシエの意向で『幕府援助政策』が鮮明になる。
・対長戦争に幕府武力強化のため武器購入で仏から600万ドル借款
・幕府陸軍が『仏式陸軍』の調練、『日本最大の西洋式軍事組織』となる
鳥羽伏見の戦いで幕府惨敗後も天皇政府を否定した。明治元年(1868)ロッシュは意にならないまま、『帰国命令』を受ける

2)英国は日本駐在英公使『バークス』の意向で薩長側へ
一方英国は日本駐在英公使「バークス」は同国書記官『アーネストサトウ』などの情報から幕府政権の継続困難を知り、『薩長両藩』に急接近、支持に傾く
・第二次長州戦争では幕府軍の進攻を制止行動
・「下関砲台」の再武装を黙認
バークスの意志で王政復古で列国に先んじ『明治政府』承認する

<フランス軍の駐屯地があった後の領事館跡。領事官は日本に駐在して自国民の保護及び自国の通商の促進にあたった。>Image9
明治29年(1896)フランス領事館と領事官邸が完成したが、大正12年(1923)関東大震災で倒壊する。
昭和5年(1930)領事官邸が、旧領事官邸跡に再建されたが、昭和22年(1947)不審火で焼失し、無残な廃墟だけ残される。風車は、給水の汲み上げようの動力として使われた。

<イギリス軍の駐屯地があった後の領事館。>

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昭和12年(1937)英国総領事公邸として完成
南側には、広々としたテラスは芝生の庭に繋がり、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめる。
シャンデリアやモダンな丸窓を備え、公邸として、気品と豪壮な欧風文化の空気を確かめられる。

両国の領事館の対比で片や廃墟、片や立派な建物の姿に、戊辰後の幕府と新政府の姿を象徴するようであった。

◇リチャードソン墓地へ
外人墓地には何度か来ているが、鉄舟研究会スタッフの熱意で非公開であった、生麦事件の犠牲者リチャ-ドソンが眠る墓地まで、係員に案内して貰った。

Image12巨木を背後に真ん中に水平の墓石がリチャ-ドソン、背後に左側にマーシャル、右側にクラークの墓が並び、一緒に眠っている。
文久2年(1862)薩摩藩主の総勢1000人余りの大行列が東海道を京都へ向かう途中の、生麦で横浜の居領地から馬で遠乗りしたイギリス人、4人が行列に混入してしまい、行列を乱してしまった。
行列を警備する藩士がイギリス人に襲撃、チャ-ドソンが死亡、マーシャル、クラーク、婦人のボロデールが傷を負ったが逃げ帰った。
犯人の引き渡し、賠償を請求するイギリス側と応じぬ薩摩側と鹿児島で薩英戦争まで起きる大事件にまでなってしまった。
幕末を揺るがす『生麦事件』の当事者が目の前に眠る墓前で、居留地住民とイギリスの駐屯部隊も巻き込む事件として、旅の巡り終末に感慨深いものがあった。

外人墓地を最後に予定した巡りは何とか終わった。
元町の商店街を通り、途中の居酒屋で、当日の疲れの癒しと無事に廻り切れた、喜びを祝、反省会を実施。JR石川町駅から、横浜線経由で帰宅した。

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野毛の山からノーエ

野毛山から横浜道を通り、吉田橋に到着し、掃部山含めた野毛三山、巡りも漸く終わった。
その安堵感にホットし、吉田橋の段差部分で足を踏み外し、そのまま鉄柱に頭部を激突、眼鏡が飛んだ。衆目の前での、みっともない事件であった。清水清次か間宮一の、呪いではなかったのであろうか・・・。眼鏡の表面に深い、「吉田橋の傷」が残されてしまった。

昨年(2015年)歴史歩きの一つは横濱の野毛であった己に取っては昨年の病気の災禍の初めに繋がる忌まわしい因縁の吉田橋は野毛歩きの一つであった。
まあ、それはさて置きラジオから流される民謡の一つ、『ノ~エ節』の生まれの一つが、横浜野毛と紹介された驚きであり、当該ホームぺージでも詳しく、紹介した。横浜開国と『ノーエ節』 
今更、民謡なんて、メデイアでも余り、取り上げない素材であるが、断片的な歌詞と短く単純なメロディはしっかり残されており、隠れたヒット曲であると思わざるをえない。
原作者不明ではあるが、乗りの良いメロディに載せられ、覚えやすく、替え歌が自然に派生している。
そんな『ノ~エ節』を唄いながら、歌詞の出てくる意味合いを追って見る。

1番
代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンサイサイ
ここで登場する『代官山』とは野毛山を意味し、野毛山から見る、外国人居留地と眼下の当時の横濱の海の姿を謡っている。
居留地誘致の為、貿易を大きな狙いとして発展するが、居留地には運上所(税関)が設けられ、重要な役割を担っている。一方ではのオランダ公使から外国人接待用として、遊女町開設の要請があり、現在の横濱公園の敷地に広大な遊廓が建てられた。
外国人の接客は長崎の丸山遊郭を手本に、 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などの軒を並べた。 港崎遊郭(みよざきゆうかく)として、安政6年(1859)11月に開かれた。
江戸幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託したのが『ラシャメン』である。
こうした遊廓もオランダからの指導を受けるなど、開国間もない日本の姿が伺える。
その賑わいを見せた遊郭街も豚火事で焼失し、現在の公園になっている。
作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。唄が生まれたのは、 文久年代(1861~3)、一寒村であった横浜が開港によって異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々に大きな衝撃的であった。
特に開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在でありその様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見て いた。その様子を、横浜一の高台野毛山から眺めた様子を歌っている。

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2.番
代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から蒸気船をみれば
太い煙突ノーエ
黒い煙りがノーエ
黒いサイサイ
煙りが 横に出てる
横浜開港を控えた前年、野毛は海に面し、海苔舟が止まっている様子である。野毛の海の向かい側は横浜で魚を漁船の方へ引き寄せる漁火が描かれている。平沼も同様に海に面し、僅かに見える立ち込める煙は製塩の様子が描かれている『ノーヘ節』にも始めてみる蒸気船から上がる黒い煙は衝撃的であったか、そんな姿を描写している。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯(四隻)で夜も眠れず」と詠まれた狂歌を引き合いに出すまでもなく、昔から日本の庶民が即興で世相を切り取って面白おかしくはやし立てる能力は、目を見張るものがある。
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3.番
秋の演習はノーエ
秋の演習はノーエ
秋のサイサイ
演習は白黒二軍
白黒二軍はノーエ
白黒二軍はノーエ
白黒 サイサイ
二軍は 演習が終わる

4番
野毛の山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ
鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ
かついで 小隊進め

(5.唄は5番まで続くが省略)
◇巨大化した駐屯部隊
居留地に居た一般人はわずか309名にすぎなかった。
当初は英仏の軍艦に乗り組んでいた水兵が居留地の警備に当たっていたが、元治元年(1864)四カ国連合軍が下関に出航する頃、横浜に駐屯していた地上部隊の兵力はイギリスが陸軍1200名、海兵隊300名、フランスが海兵隊が300名と併せて1800名にも膨れ上がった。
局部的ではあったが、国土の防衛を外国軍隊に委ねたのは日本の歴史始まって以来とも言われている。
山手の屯所でイギリス軍は今の「港の見る公園」一帯にThe North Campとその隣にThe South Campの陣営が、フランス軍はThe North Campに接する谷戸橋側の断崖上に位置する(現在のフランス山)に設けられた。イギリス軍の使用地は19、189坪、兵舎の建坪は4、593坪。フランス軍の使用地は3042坪、兵舎の建坪は119坪であったと言う。
駐屯部隊は日本の国内の二つの戦いに参加し、鮮烈な結果を残し欧米列強の力の差を見せつけた。
「生麦事件」と言われる外国人殺傷事件は薩摩に賠償を求めイギリスは艦隊を送り込み薩英戦争まで展開、薩摩は近代化されたイギリスの前に破れる。
更に、元治元年(1864)攘夷で外国船に砲撃した長州藩を四カ国連合軍が下関を報復攻撃し完膚なまでに叩き、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
山手の台地に兵舎を設営し居留地界隈で演習を行っていた彼らは、その制服の色にちなんで日本人には「赤隊」「青隊」などと呼ばれた。

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駐屯軍は居留地社会の保護や、その延長上での第一線の強面の戦闘集団であったが、一方では、スポーツやアマチュア演劇、軍楽隊の演奏活動などを地域の文化交流面で活気を与えてくれた。
軍楽隊は妙香寺(中区妙香寺台)でフェントン軍楽長により、薩摩藩軍楽隊の指導をあたる、など、社会・文化面で色々足跡を残しいる。
1800名にも及ぶ巨大な部隊は10数年も此処に根をはやし、いやでも目に付く存在であった。ノーエ節の中も登場し、存在感を表し、開港史を飾っている。
幕末から明治初期にかけて「港の見える丘公園」は、フランスとイギリスの軍事拠点だった。駐屯軍はその後、明治8年(1875)に二カ国同時撤退するまで12年間、山手に留まっていた。
作者不詳のこの唄の節回しが単純で、一度聞いたら忘れられない心に響く 『ノーエ節』である。唄が生まれたのは、 文久年代(1861~3)、一寒村であった横浜が開港によって異国文化を目の当たりにして大きく変わった様子が人々に大きな衝撃的であった。
特に開港間もない居留地は庶民に近寄りがたい華やかな存在でありその様子を好奇心いっぱいに目を凝らして見て いた。その様子を、横浜一の高台野毛山から眺めた様子を歌っている。

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攘夷の渦の中「吉田橋」

Image_2伊勢佐木町のアーケードとJR館内駅の間の吉田橋があり、往復する人の出入の雑踏の中にある、
『あなた知ってる 港ヨコハマ
 街の並木に 潮風吹けば
 花散る夜を 惜しむよに
 伊勢佐木あたりに 灯りがともる
 恋と情けの 灯がともる』♪♪・・・♪ 泥臭い風情をこんな唄いまわしでハスキーな声の青江三奈が伊勢佐木町を謡っている。
その吉田橋が幕末の渦の渦中にあったのである。

□現在の吉田橋
野毛坂をおりてよこはま道を一路、吉田橋に向かう。横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。
吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。

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□内外の襲撃事件

外国人が多数日本に訪れたこの時期に攘夷活動によって多くの外国人が殺傷され、主な事件を下記に整理した。
桜田門外は井伊大老が日米修好条約の調印を強引に押し進め、反対者には弾圧すると言う井伊の強圧を封じるため殺害されたが、開港により生まれた外国人襲撃が次々発生した。
①安政4年(1857)アメリカ総領事ハリス襲撃未遂事件。 下田から江戸に向かう途中で計画、水戸藩首謀者逮捕
②安政6年(1859)横浜のロシア軍艦乗組員殺傷事件。 士官1名、水兵1名即死、賄い夫1名重傷
③安政6年(1859)フランス領事館傭員の中国人殺傷事件。 横浜の居留地で殺害、服装から欧米人と誤認された
④万延元年(1860)アメリカ公使館通弁官ヒュースケン江戸で暗殺。 3人の幕府護衛付きで襲撃される
⑤文久元年(1861)イギリス仮公使館高輪東禅寺襲撃事件(1回目)。イギリス人2名負傷
⑥文久2年(1862)  同上(2回目)  イギリス人2名死傷
⑦文久2年(1862) 生麦事件。 薩州藩の行列に騎馬の英国人が遭遇1人殺傷、2人重傷
⑧元治元年(1864)鎌倉にてイギリス駐屯軍兵士襲撃事件。 1人即死、1人重傷で死亡

◇生麦事件から薩英戦争へ
生麦事件後、英国からの賠償要求に幕府は応じたが、支払いに応じなかった薩摩に対してイギリスは、7隻の軍艦が横浜から鹿児島に向け、交渉するが決裂する。文久3年(1863)7月2日、嵐の中、突如薩摩側から85門の大砲が軍艦向け火を吹き、戦いは2日の正午から、翌日3日まで続いた。薩摩藩側は汽船と全砲台のほか集成館を破壊、工場の生産能力を失う。
イギリス側戦死14名、負傷64名。薩摩側は戦死数人と発表しているが、実質的に1500人以上の犠牲も出ていると言われ、鹿児島の街も約2割弱焼失した。

□鎌倉事件
生麦事件の2年後に鎌倉で再び外国人殺傷する事件起きた。
横浜で相次ぐ外国人殺傷事件に備えイギリス・フランスの軍隊が駐在していた。元治元年(1864)イギリスの駐屯軍兵士二人が鎌倉から江ノ島に遊興で出かけた折、二人の浪人に襲撃され、一人は即死、一人は夜半亡くなった。
他の強盗事件で捕まった犯人の供述から、外国人襲撃の犯人を割り出すことが出来た。
犯人は清水清次で、事件後1カ月で千住の遊廓で捕縛し、戸部の牢屋敷まで護送し、横浜市中を引き回し、処刑され、その首は吉田橋のたもとで晒された。清水は武士の姿を装った25歳の浪人で、横浜開港以来物価が騰貴し、生活が苦しくなったのは夷人と信じこみ、犯行に及んだ。他の1名は清水とたまたま道ずれになった講所出役の中小姓で住み込んでいた、間宮一と言う18歳の若者で事件後10カ月後捕縛され、横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、清水と同様、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。 全権公使ハリーバークスは鎌倉事件の総てが解決したことを本国政府に報告し、激しい攘夷の嵐もようやくおさまったと言われている。このように攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあった。

□警備体制の強化
開港後、外国人があいついで殺傷され、その犯人が捕まえられなかった。イギリス総領事館オールコックを始めとする各国の領事達は幕府を激しく非難した。そこで幕府は横浜周辺の主要拠点に関門や番所を設け、相次ぐ外国人襲撃から守るため警備体制を強化した。

(関門の設置)
1)神奈川台の関門跡

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神奈川宿の東西にも関門が作られ、その一つが西側・神奈川台の関門である。台町のこの周辺には神奈川台の関門があった。東海道の両脇に住居が立ち並び、道を塞ぐ 形で門が建っている。
現在その場所には関門跡碑が立っている。
2)吉田橋関門
安政6年(1859)の開港当時、木の橋がかけられた。
橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。
相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。
攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである居留地と外部をむすぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった
3)維新後の関門
明治維新後の明治4年(1871)開化に目覚めると共に、治安維持され、他の関門・番所と共に廃止された。
明治44年(1911)老朽化により我が国最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に替えられた。現在の橋は「かねのはし」を模して架け替えられた。JRの「関内駅」始め、横浜の代表的な場所の一つ「関内」と言う呼称はこうした外国人襲撃事件から生れているのである。

(後日談)

野毛山から横浜道を通り、吉田橋に到着し、掃部山含めた野毛三山、巡りも漸く終わった。その安堵感にホットし、吉田橋の段差部分で足を踏み外し、そのまま鉄柱に頭部を激突、眼鏡が飛んだ。衆目の前での、みっともない事件であった。清水清次か間宮一の、呪いではなかったのであろうか・・・。眼鏡の表面に深い、「吉田橋の傷」が残されてしまった。

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横浜、野毛に見る「開港の足跡」

徳川太平の時代に突如、黒船が現れ威嚇射撃を背景に幕府に開港を迫った。鎖国か開国か二分する意見に国内が騒然とする中、力の弱まった幕府は国論を統一する力を失っていた。
安政6年(1889)、これまで門戸を閉ざされていた日本が欧米各国と結ばれた修好通商条約で開港地として横浜を選び新しい時代を迎える。
国内の反対を押し切って、開港を押し進めたのは彦根藩の井伊掃部直弼であったが尊皇攘夷の過激派浪士により、討たれる。
その井伊が開港の功績者の一人として、銅像が同地に建っている。
開港当時、外国人要人に対する襲撃テロの多発する中で、居留民保護のため大量の外国人部隊が駐屯した。こうしたテロリストの取締や防衛上の要となる、神奈川奉行所など、横浜の野毛は幕末史を飾る史跡や開港に関わる人物の像や碑など、多数残される。
文明開化で光を浴び、今尚、観光地として人気の港横浜の影で、開港を支えた史跡を追って見る。

神奈川奉行所跡

JR桜木町駅から国道16号沿いを東に向かい、山側方面、もみじ坂を登ると、神奈川奉行所跡の碑に到着する。Kanagawa30403安政6年(1859)横浜開港時江戸幕府の神奈川奉行所が行われたところ。
東海道と居留地間に位置し、防衛上の要であった。周辺には役宅、役人子弟のための学校として修文館、処刑場なども建てられた。処刑場はこの奉行所の背後のくらやみ坂に明治の初めごろまであった。
神奈川奉行所は政治、警察、裁判を司る戸部役所と税関をに当たる運上所に分かれていたが後に運上所は居留地に移った。
明治元年(1868)明治政府は新たに横浜裁判所を置き、後に神奈川裁判所に改め。横浜裁判所・戸部裁判所とし運上所ならびに戸部役所の業務を引き継ぎ神奈川奉行所は廃止された。その後神奈川県庁になった。現在は県の文化センター、図書館、音楽堂などがある。
◇外国人殺傷事件に揺れた奉行所
幕末期、吹き荒れる攘夷の嵐の中での対外国との折衝窓口として、更に外国人居留地を置かれた場所として治安維持などの役割を担った のが神奈川奉行所であった。
幕末を揺るがした生麦事件では惨劇を知った横浜居留地は騒然とし、激昂した居留民が報復を叫び、一触触発状態であったが、イギリス代理行使はこれを抑えて幕府に対する外交折衝で解決を図ることにした。
事の重大さを知った神奈川奉行所阿部正外(まさと)は事件の当事者である薩摩藩の島津久光に下手人の引き渡しや、行列の継続を制止したが、見透かすように全く聞き入れずにそのまま東海道を西下してしまった。幕府の出先機関である神奈川奉行所はイギリスと薩州藩に挟まれ既に雄藩をコントロールする実力を失っていた。
その2年後に鎌倉で起きたイギリス士官殺害事件など相次ぐ外国人殺傷事件に、幕府の奉行所として、犯人逮捕や管轄の戸部刑場で処刑するなど深く関与している。

井伊直弼像
奉行所跡付近の図書館、音楽堂の建物沿い背後に向かうと掃部山公園に出る。公園の中央に巨大な井伊直弼像が横浜港を見下ろしている。

Kanagawa30501
◇2度の首落とし
井伊直弼掃部の開港功績を記念して銅像を建立するため、旧彦根藩の有志が買い取り明治42年(1909)に、掃部山公園と名付けた。
土地は明治5年横浜~新橋間に鉄道が敷かれたおりの機関車用の水池があった鉄道山とも言われた丘であった。
井伊直弼は、横浜開港の功績者の一人でもあったが、銅像建立に当たり新政府、旧幕府の歴史の深い溝は埋まっておらず、除幕に事件が発生した。当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。
周布政之助は、単純に尊王攘夷派ではないが藩政への責任と過激派の暴走のなかで自殺に追い込まれてしまうが、幕府の開国政策には反対していた。
井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。周布公平から除幕式中止が命ぜられたが、旧彦根藩士らは除幕式を強行したが、数日後には銅像の首が切り落されてしまい、井伊は桜田門からここ野毛で2度も首を撥ねられてしまった。安政の大獄の恨みは消されず、長州藩の執拗なる怨念に、未だ幕末は終わっておらず、歴史は引きずっていたのである。
銅像は昭和18年戦時の金属回収によって撤去されてしまったが、昭和29年開国100年の記念に再建された。まさに受難の歴史を背負った銅像なのである。その姿は正四位上左近衛権中将の正装でその重量は4トンと言われ、公園は春は花見で賑わい、夏には虫の音を聞く茶会が催される。

□野毛の切り通し
掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。

Kanagawa30602
幕府は修好通商条約履行のため行政機関である神奈川奉行所を置き英、米 、仏、蘭に公使館の借り住まいとして小寺を割り当てた。  
 一方では横浜村に運上所(税関)など 貿易の諸施設を作った。このため、貿易商人は横浜村に住み、彼らを保護する公館は神奈川にありしかも、保土ヶ谷宿から開港所への道は遠回りで不便であった。このため、居留民は不満が爆発、各国使節が幕府にねじ込んだ。この結果、東海道の芝生村(現浅間町交差点付近)と居留地の間に幅3間(5.4m)の
「よこはま道」を作った。
立地面から道路構築を阻み、戸部坂、野毛の切り通しを開き、工期3ヶ月の突貫工事で完成した。
開港当時、東海道から横浜を目指した人々が文明開化の横浜の景色を最初に見ることができたのはこ の切り通しからであった。生糸の輸送や開港の地に商売のための商人達がったよこはま道は新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり、今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

野毛山軍陣病院跡(官軍病院)
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かうと、老松中学校に出る。
周辺は関東大震災で崩壊したが、老松中学校が、かって、横浜軍陣病院のあった所である。

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◇病院開設の背景
慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年(1869)5月18日の五稜郭の戦いまで討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争が起きた。
鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利を納め、錦の御旗を背景に東征軍として東に戦いの舞台を移し、上野戦争、宇都宮戦争、更に会津若松へと戦線は東へ拡大していった。
この戦いによって、両軍、数多くの死者・負傷者が出ており、その手当てが必要となり、官軍側は時の東征大総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王命で慶応4年4月17日、野毛町林光寺下の修文館に、官軍藩士の負傷者を治療するため横浜軍陣病院を開設し、官軍側の専用病院となる。
刀剣から銃による近代戦に搬送される負傷者は、銃弾が高速で人体を侵襲するだけでなく火薬,ガス等も 関与し独特な成傷銃創(じゅうそう)が多く、 当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であった。
このため、駐日イギリス公使館の医師ウィリアムウイルスは外科病院の責任担当者として赴任し、負傷者の治療にあたった。治療成果はめざましく、その外科技術は日本側の医師団にも伝わり、医学の伝承の橋渡し役としても貢献された。
薩摩藩士で江戸攪乱工作、江戸開城交渉では幕府側で支援、上野戦争で戦死など数奇な運命の益満休の助も此処で入院後亡くなっている。

□横浜開港の先覚者佐久間象山之碑
野毛山公園の一番高い台地に横浜開港の先覚者佐久間象山の碑が昭和29年、開国100年を記念して建てられた。
佐久間象山はペリー来航の一度目は浦賀、二度目は横浜に出張、応接所警衛に当たった。ぺりー一行とは観察や会話を交わしている。
当時、清国の阿片戦争など列強の侵略を背景に海防に心を砕き、列強に劣らぬ洋式軍備による海防 策と国防の面からも適地として横浜開港を主張していた。
野毛山に建つ井伊大老像共併せ、横浜開港に関わる一人として佐久間象山があり、顕彰碑が建てられた。
不幸にも象山はその後京都に遊説中攘夷派刺客の強靱により木屋町三条で客死した。 
国防の近代化を痛感し、幕府の門戸を閉ざした鎖国に対して開国を訴えたが、取り上げることはなかった。
そのうちに黒船が来航し、幕府はもとより国全体が狼狽する衝撃を与えた。
「だから言ったじゃねえか」とでもつぶやいたのであろうか、象山がこの日を予言していた。
威嚇を前に、ようやく幕府も目覚め洋式軍備による海防策を論じるようになった。

吉田橋
野毛坂をおりてよこはま道を一路、吉田橋に向かう。横浜の中心街の一つとして、伊勢佐木町とJR関内や馬車道方面を結ぶ橋で車とも併せ、人通りの激しい場所である。
吉田橋から欄干越しに見下ろすと、網が貼られ、のどかな川に非ず猛烈な勢いで車が走る高速道路であった。
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安政6年(1859)の開港当時、木の橋がかけられた。
橋の袂に浪人と外国人の間に不祥事を防止するために関門が設けられ、それを境に関内、関外と言う呼称が生まれた。
幕府は神奈川宿からこの関内まで関所・番所それぞれ10数カ所設けて警戒した。
この吉田橋を渡るのに鑑札を必要とし、元治元年(1864)にはこれらの警備隊は太田陣屋を本営として、定番(じょうばん)が700人下番(かばん)は1300人という大きな人数で警備していた。
相次ぐ外人殺傷事件に、幕府が向き合う姿勢を内外に示すため、捕縛した犯人を横浜の居留地引き回しの上、戸部の刑場で処刑され、吉田橋のたもとで獄門にかけられた。
攘夷活動が頻繁に行われる、歴史背景の中で吉田橋はこうした凄惨な事件の真っ只中にあったのである
居留地と外部をむすぶ接点が此処「吉田橋」で交通の要路として武士、町人が絶えず行き交う、人並みが絶えなかった。

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