カテゴリー「10、八王子」の記事

武田の遺稿を残す八王子を巡る

八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
八王子の歴史を飾る代表的な千人同心、松姫、大久保長安、などなど武田遺稿から誕生していることに改めて思い知らされた。
戦国時代から幕末にかけて、今日の八王子に繋がる遺跡を訪ねて、JR八王子駅の南側からJR西八王子駅に至る周辺を歩いてみた。
◇八王子郷土資料館にて
<倒幕の先頭を走った浪士落合直亮像>

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八王子の土地柄、佐幕地帯でありながら幕末期に倒幕の先頭を走る人物が居たことに驚いてしまう。何故そこまで掻き立てしまったのであろうか?
落合家は関東防衛の軍事拠点の一つ小仏の関守に徳川代官配下の最前線の要職を代々続けられていた。
直亮は、江戸中期に興った国学の流れに染まって行く。
20才で後を継ぎ関守になるが、家督を弟の直澄に譲り、関所番をやめてしまい国学と兵学で名声あげた国学者で尊皇譲位の挙兵で同志を募った相楽総三の元へ走る。
西郷隆盛は王政復古の契機を掴み、倒幕を画策する。薩摩屋敷へ、続々と浪人が集まり、直亮も門人五人を率いてに入る。浪士隊を組織、 総裁は相楽総三、直亮は副総裁となる。
「御用党」と称し、関東周辺の放火など錯乱計画を次々に実行する
テロ活動で、江戸市中を混乱させた。 激怒した幕府側は薩摩屋敷を焼き打ちする
藩邸から脱出する浪士たちを指揮し、翔凰丸に乗って江戸を出港、幕府海軍の回天丸らと砲撃戦を繰り広げながらも逃げ切った
これが引き金となって幕府と薩・長が鳥羽 伏見で戦うの戊辰戦争へと入る。
京に入り、西郷隆盛と面会し、薩摩藩邸焼打ちから、今日の戦争となり、愉快な時が来たと、功をねぎらわれる。
 相楽総三は赤報隊を編成し、官軍の東海道鎮撫総督の指揮下に入り建白した「年貢、 半減令」で民心に応えた。しかしが太政官はこれを実施すると財政に欠陥を生じ、一度許可した布告令を取り止めた。一方では設楽らが力をつけることを封じるため相楽以下は偽官軍と称され下諏訪で総督府に捕縛、処刑される。
 相楽総三の死を知った直亮は、それを操った岩倉具視を殺害しようとしたが、失 敗し、岩倉に諭され、帰順してしまう。
 明治期には西郷隆盛に関東の事情を伝えたり岩倉具視にも協力し、新政府の要人に絆を深め、岩倉の政治力で地方の政治に携わるように世話を受ける。
 明治元年(1868)落合直亮は陸前志波塩釜神社宮司、伊那県判事、3年後に伊那県大 参事(副知事)に昇進した。しかし、翌4年に冤罪で失脚、多くの国学者と同様に閉職に甘んじ、不遇のうちに明治27年没する。

◇信松院

<階段の頂部に荘厳な本堂が構える、信松院>

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松姫は武田家に縁のある多くの人達の精神的支柱となっている。

さらに養蚕と絹織物の普及に努め、今日の八王子の養蚕業に継がれるなど八王子の看板のお姫様である。
松姫は永禄3年(1560)武田信玄の4女として誕生する。7歳で織田信長の嫡男「信忠」と婚約するが両家が三方が原の戦いで婚約は破棄する。
信玄没後、織田勢が甲州征伐を開始、これに抗戦した髙遠城主の実兄(信玄5男)の仁科盛信は信忠の降伏勧告を拒否し自刃する。
松姫は姪たちを連れて従者とともに山中を逃避行し恩方村全照庵に逃れる。


<松姫は心源院をを訪ね、入道し信松尼と名乗る。>

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代官頭大久保長安や同心の庇護の元、現在の台町付近に信松院を営み、3人の遺児を養育する傍ら、近隣の子供たちに読み書きを教えた。
栄えある武田の娘でありながら、結婚の夢叶えず、身内の不幸など重ね追われ身。仏門に入り、遺児や子供たちの養育に生涯を八王子にかけた。

◇信松尼と会津松平家の始祖「保科正之」の奇縁
信松尼の晩年、二代将軍徳川秀忠の愛妾のお静の方が身ごもり、正妻の嫉妬を避けて身を隠した時に、それを守ったのが姉の見性院と信松尼と言われている。この子供が高遠の領主保科正光に養子として入り、後の会津松平家の始祖となる保科正之である。
髙遠の落城と兄の戦死から、始まった信松尼の逃避行は最後に守った子供を城主として返すことで叶えられたのでは無かろうか。


(松平家14代藩主の新選組パレード参加)

<信松院の加護に育った松平家の始祖と繋がりから時代を超えて14代目松平保久氏が日野に晴れやかな姿で登場された。>

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幕末動乱時期に会津松平藩は京都守護職として治安維持に一役を担い、その配下に新選組が活躍し、全国にその名を留める。義を信じ貫く心は会津も新選組も同じ、となびくものがあり、会津松平家第14代当主も自ら新選組パレードに参加された。日野と背中合わせの八王子の信松尼の手招きか、時代を超えて縁を感じる。


◇金丸四郎兵衛
金丸氏は甲州武田家の旧臣で後に徳川氏に仕え、四郎兵衛は各地の代官を勤めている。
 正徳4年(1714)7代将軍家継の生母月光院は自分の仕えている年寄り絵島を増上寺へ、代参させたが絵島は寺の接待を断り、山村座の芝居見物に行ってしまった。
 芝居が終わると茶屋に役者の生島新五郎を招いて大酒宴が寺の訴えから発覚し「絵島は遠島、生島新五郎は流罪」となる「絵島生島事件」であった。
代官・金丸四郎兵衛が関与し、「絵島生島事件」に連座して浪人となった。他の事件に巻き込まれため八王子の姉に頼ってきたものの、自首を勧められ、江戸へ帰る途中日野宝泉寺で切腹した。
 寺では四郎兵衛の遺骨を寺内に葬り、墓石を建て弔った。いつの頃かこの「金丸の墓」の墓石を撫でると病気が直ると言われ詣でる人も多かったと伝えられる。
墓石の脇に案内板が僅かにその記録を留めていたが、案内板もなくなり、知る人ぞ知るで忘れられた存在になってしまった。
そんな金丸四郎兵衛の名前が載っている金丸家の墓碑を信松院の募域近くで見つけることが出来た

◇八王子作りの原点はここから
1)大久保長安の誕生
天文14年(1545)大久保長安は甲州武田領の出身で猿楽師大蔵太夫十郎信安の次男として誕生する。兄の新之丞と一緒に武田信玄に取り立てられ、後に武士となる。
 天正10年(1582)武田氏滅亡後、駿河に移り、大久保姓を与えられ、推挙で家康へ出仕した。
 石見銀山・佐渡金山奉行となり やがては、日本全体の金銀山の総奉行となってしまう。
その才覚と英知がビッグな役回りに幕府の頂点に登りつめ鉱山の開発や増産で、徳川政権の財政基盤を確立させた人物と伝えられている。

2)八王子の原点はこうして誕生
大久保長安は徳川奉行の重臣として活躍する一方の英知から、浅川の害から守る治水計画、千人同心を配置し外敵から守る警備機能、江戸に繋がる街道に接続させ,・物の流れから文化交易を図る。
江戸から10里、甲州に繋がる幕府の一大拠点として、幕政を支えた代表的な宿の姿がこの絵に凝縮されている今日の八王子旧市街の原形は完成した。
行政の中心である大久保石見守長安陣屋跡は石見屋敷は東西に二分されていた。

<大久保石見守長安陣屋跡>

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東西併せて、14,000㎡ 規模の大きさは時の統率指揮した大久保長安の力を象徴するものであった。

3)長安没後の大悲劇
慶長18年(1613)四月に没した。享年、69歳。
立場上金銀を扱う役割から、武州八王子で国奉行として晩年迄、羽振りを利かせていた。
 長安の没後にその生前の振る舞いに怪しむ者がおり、訴えられた。
 家康は調査を開始すると、金銀5千貫、無数の金銀細工の道具類を私蔵していた事が発覚した。
 家康は、遺族七人を処刑し、一族は滅亡させられると言う厳しく凄惨な処分を行った。
この厳しい処分に後難を恐れ関係縁者が長安の関連するものは一切処分してしまったと言われている。

 

◇血梅の話
1)血梅の命名
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現 在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという
2)千人頭「石坂」と新選組「近藤勇」が交わした約束
この血梅は、もと八王子千人町の千人頭「石坂弥次右衛門」の屋敷内に植えられてい た梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
近藤勇が浪士組に入る前、石坂家を訪れ、庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞し,後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束が果たせないまま、二人は時代の波に呑まれてしまう。 
 慶応4年(1868)新選組は甲陽鎮撫隊として勝沼で破れ「近藤勇」は板橋刑場の露と消えてしまう。
一方、「弥次右衛門」は日光勤番、官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、抗戦派から日光で東征軍に恭順を示した責任を問われ、切腹する。
当時、介錯するはずの息子が不在で老父であったが、老齢で上手く行かず、のたうち回り、苦しんでの悲劇的な最期であった。
3)「弥次右衛門」の墓
甲州街道の喧騒から離れた住宅氏の一角に「興岳寺」がある。墓域は住宅地の中、周囲の高層住宅から見下ろされている。
多数の墓石群のほぼ中央に小屋にある「弥次右衛門」の墓石がある。墓石の手前左右に、2基の灯籠と水盤が並んでいる。死を悼む石坂組の隊士達が寄進し、灯籠台座には「弥次右衛門」に従って、帰国した「松崎和多伍郎」を始めとする日光勤番隊士45名の名が刻まれ ている。
 日光市から送られた香台には「日光市」が刻まれ、熱い絆を読み取れる。

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日光の社寺は国の誇れる遺産として国を越えて世界文化遺産に登録されている。
 墓石・灯籠共かなり風化しており、崩れている姿が年の経過を物語る。
4)残った梅
時は経ち石坂家も八王子を離れてしまい、梅の木も絶えてしまった。
 両士が愛し、また激賞したというこの血梅は千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。
日野宿本陣の裏側に谷さんが育て、その枝を石坂家の末裔の方が菩提寺にそっと植えられた。

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「弥次右衛門」の墓に植えられ、形の上で先祖帰り出来た。「弥次右衛門」の傍で、慎ましく、咲き、血梅を語り伝えてくれるだろう


◇旅巡りも無事に
八王子郷土資料館を皮切りに、最後は宋格院で、この旅は何とか終わった。
 八王子史跡は戦国時代から始まって、幕末まで、あそこも此処も、地域に残された文化として武田遺臣が深く関わってくる。
武田信玄の影響力の大きさを八王子史跡を通して思い知らされた。

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「新選組縁の八王子駆けめぐる、その2」

前回の記事「新選組縁の八王子駆けめぐる、その1、」から続く

③追分、同心碑

Hatioji43 甲州街道と陣馬街道が重なる交通の要路の追分交差点は八王子千人同心屋敷があった跡を示す千人同心碑が立っている。
この一帯が「千人町」と言われる地名が付いている。
天正10年(1582)甲斐武田氏は織田信長・徳川家康の連合軍の攻撃を受け滅亡した。
甲斐は徳川の支配下となり、武田旧臣を徳川家臣団に組み入れられる。武田時代の小人組の警備体制が徳川時代に引き継がれ、後の千人同心になる。
日光東照宮の警備、蝦夷地の開拓などを行い、幕末には一次、二次の長州征伐や横浜の外人警備、品川のお台場警備など幅広く行い、江戸幕府を支えた。
八王子千人同心の中から医師、文人、思想家などの多くの学識者を輩出し、地域に文化的な影響も与えた。
天然理心流の普及を果たした近藤三助の有力門人8名中、増田蔵六、宮岡三八、松崎正作の3名が千人同心である。
指南役として千人町にも道場を持ち多くの千人同心を門人とし天然理心流が千人同心に広まった武術である。

④大法寺
柚木街道、国道16号、八王子バイパスが交差し、首都圏を囲む環状路の要所として、激しく行き交う交通の要路に
遣水がある。その遣水に横倉甚五郎の墓があり、横倉家の菩提寺である大法寺がある。

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横倉甚五郎は武蔵国八王子堀之内出身で土方歳三、土方勇太郎と同じ時期に天然理心流に入門している。
元治元年(1864)10月新選組に入り、竹田観柳斎の配下六番隊に配属し、伊東甲子太郎暗殺事件。紀州藩士三浦林太郎を挟んで襲撃する、土佐陸援隊・海援隊と保護する新選組と激闘する天満屋事件。高台寺党残党から襲撃を受けた近藤勇を護衛など、大きな事件に加わっていた。

戊辰戦争の幕府軍の移動と共に勝沼~流山~会津~蝦夷へと各地に転戦。弁天台場で降伏するまで戦い抜いたが、京時代の油小路事件や坂本竜馬暗殺事件などを追求され、哀れ獄舎で37年の短い生涯を閉じる。

弁天台場で旧幕府軍降伏弘前~青森移動しながら謹慎生活を送る。文才、画才のあった甚五郎は筆を取り慶応3年~箱館戦争終結までの隊士動向を付記した名簿を残している。自画像や近藤、土方も絵描き数々の墨絵を残し、中島登の戦友姿絵を残す強力な動機付けとなった。
中島登とは天然理心流を納めた同じ武州人で、戊辰戦争で共に戦い、箱館降伏後の謹慎中も同道した。
中島登、横倉甚五郎とも、絵心を持ち、通じ合うが、箱館降伏後、片や放免され自由の身になるのに対して、片や獄舎で処刑で象徴的な運命の違いであった。

「義のためにつくせしことも水の泡打ちよす浪に消えて流る々」
義のために一生懸命尽くすも、その意志が通じなかったのか、打ち寄せる波に泡のように消えてしまうのであろうか、獄中で果てる運命を前に諦めとも思える、辞世の句を残し、亡くなっている。

元治元年(1865)志を持って江戸で隊士募集に応じ、函館で 降伏を迎える明治2年(1869)までの約5年間、精一杯、義のために尽くしたが、意に添えず時代の変化に消されてしまった。そんな悔しい思いをせめて辞世で後世に伝えた。

⑤保井寺
日野の南側の小高い丘陵に多摩動物園があるが更にその南側に法井寺がある。日野に比較的近い位置にあり、里の雰囲気を残す場所である。
この法井寺に新選組隊士、斉藤一諾斎が眠る。
同じ新選組でも白河で歳三に変って隊長役を勤めた斉藤一とは別人物である。

Hatioji54 斉藤一諾斎は住職として全国行脚した後に各地に歴任する。慶応4年(1868)新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ目指す折に甲州全福寺の住職であった一諾斎は甲府を目指す新選組に参加する。当時、55歳と言う高齢での異例な新選組参加であった。
甲州路を西下する甲陽鎮撫隊には土地勘のある一諾斎は道案内役に役立ったと思われる。
甲陽鎮撫隊は勝沼戦争で破れ、一諾斎は土方と共に東北へ転戦する。一諾斎は、仙台で降伏後、放免される。

当地に戻った後、地元の教育に尽力。後に自由民権運動に参加する教え子達などを輩出し地元教育に注がれた熱意が地元の人達にも讃えられている。
保井寺の東隣に大塚観音に一諾斎の碑がある。建碑の寄付者は教え子で育った由木地域の自由民権活動家が中心であるが土方歳三の兄喜六の長男「隼人」、佐藤彦五郎の長男「俊宣」、近藤勇の義子「勇五郎」など新選組関連の末裔達の名前もある。

一諾斎の教え子など、新選組が育った多摩地域のエネルギーは民権運動として時代を越えて繋がってゆく。

その1、その2で日野市を抱え込む広大な八王子市を駆け回った。多摩地域として誕生した新選組隊士や、天然理心流など関わりの深いことが判る。

旅の詳細はこちらで紹介しています。ご参照下さい
ようこそ幕末の世界へ

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「新選組縁の八王子駆けめぐる、その1」

新選組は土方歳三・井上源三郎の誕生した日野市で、毎年祭りまで行われ、新選組ふるさととして、フアンの熱い目が注がれている。
しかし、新選組は、日野市に隣接する八王子市は日野より遥か面積が広く、此処から生まれ散っていった隊士達が多数いる。
一方では浪士組から新選組 としてテロリストで荒れる京の街に、活躍した背景は、天然理心流彼等の剣術であった。
開祖は薬研堀であるが、出稽古により門弟を増やした実質的な拠点は此処八王子の戸吹からである。

新選組の縁の地としてフアンなら一度は訪れたい場所を追ってみた。
①戸吹町桂福寺

Keifukuji02 八王子icの左入からサーマーランドに抜ける滝山街道と、高尾からの高尾街道が交差する場所が戸吹の交差点で、その近くに桂福寺がある。
豊臣に落ちた武田の落ち武者が、多数移り住み、武田の武士集団を祖としている家が多い。
幕府はこの熱き武田の集団を八王子千人同心として徳川の扶持を与え、八王子宿の防衛や徳川の菩提寺の日光勤番など、幕府崩壊まで幕府を支えた。

戸吹からも千人同心になったものも多く、名主の家でも、稽古場が生れ、天然理心流が同地で流行ったのも頷ける。
天然理心流の始祖は近藤内蔵之助であるが、江戸の薬研堀の道場から、出稽古で戸吹に門下を増やした。
武田の血を引く、代々名主の坂本家の三助は、近藤三助を名乗り、天然理心流宗家の二代目を継いでいる。
桂福寺には「剣聖光武神」と大書された看板のある祠があり、天然理心流開祖の近藤内蔵之助と二代目宗家の近藤三助の墓が仲良く並んでいる。

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天然理心流宗家四代目の近藤勇は、新選組として京の街に治安維持での活躍で、天然理心流の名をあれだけ広めた。

戊辰役では幕府配下ので戦ったが、勇は捕まり板橋で処刑され、三条河原で首が晒された。それを知った戸吹の坂本家は官軍からの追求を避ける為に開祖と二代目の墓石も砕き隠してしまった。
時が経ち、昭和を迎え掘り起こされ、繋ぎ合わせた墓石が再び、表に出た。痛々しい墓石に歴史の重みをみることが出来る。

②観栖寺

Hatioji34陣馬街道をどんどん西へ下り、家並みも疎らな西寺方町に行き、中島登が誕生の地碑を見る。
八王子が生んだ新選組隊士の、中島登は土方歳三らと一緒に函館まで戦い、生き残った一人である。
絵心を持ち、函館戦争で虜囚の身となり、拘留中に仲間の一人一人の功績や戦死者に対する慰霊のため武者絵姿に描き、当事者が新選組を今日に伝える異色の隊士である。戊辰戦争の最前線で修羅場を潜り抜け、故郷で錦を飾るはずであるが、千人同心時代に人を斬り、出奔し、妻子とも別れ新選組に入った。
そんな背景から、故郷の武州多摩郡小田野(現八王子市西寺方町)に帰らず、浜松で銃砲店を開き第二の人生を送っている。
近くの観栖寺には中島の実家の墓である

千人同心から離れて暫く、身を隠すことに注がれ、新選組に入り、行方知れずの登は、妻子や故郷からも離れ、覚悟の上で当地には戻って来なかった。登は函館戦争で虜囚の身となり、釈放後は,戦友の勧めもあって、浜松に生活の場を求め、没後の亡骸も浜松に葬られ故郷に帰らなかった。
浜松に行き、銃砲火薬店で、登の遺志を継いだ末裔の方にお会いし、色々話を伺ったが、後を継ぐ方が、居ないのか、残念ながらそのお店も閉じられてしまった。

以下、このあと、追分、千人同心へ、記事は一端、ここで中終いとする。次回「新選組縁の八王子駆けめぐる、その2」に続く

旅の詳細はこちらで紹介しています。ご参照下さい
ようこそ幕末の世界へ

 


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お十夜

Image1国時代末期小田原城主北条氏康の子氏照が関東の西の守として八王子城を築いた。
大善寺は、天正13年八王子城主北条氏照の命により自身の菩提寺として讃誉牛秀上人を開山として滝山城下に創建された。

その後、城を元八王子に移し、八王子城とし、大善寺も一緒に移る。
城は山頂に本丸、ふもとで政務を行い、客を迎える御主殿、城山川を堀とした自然立地を活かした山城であった。
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐で猛攻にあい、わずか1日で落城、北条方3~4000とも言われる兵が殲滅した。
八王子城が落ち、北条氏政、氏照兄弟は切腹する。
血で染まったと言われる滝壺、八王子城で討ち死にした武士の供養塔と言い、戦場の痕跡が残されている。

Img_3362 亡くなった方に対してあるいは非業の死をされた方に対して敬意を払いながら祀っていき、近郊近在の参拝者と共に八王子城落城の戦死者を弔う「お十夜」が市内の名物行事として、三百年余の歴史と伝統をもつ行事が大横町時代まで続けられた。
現在地の大谷に移ってから、50年振りと言われる「大善寺十夜大法会」が10月20日に開かれ、早速行ってみた。
大善寺は八王子駅から北に真っ直ぐ、市街地を抜け浅川大橋を渡り、緩斜面を登り緑の濃い小宮公園の一画にある。
大人も子供も家族連れで、この道で続々と詰めかける。駅から一直線、日和も良かったので3、40分程で付いてしまった。
道の途中に係員がお十夜の行きの誘導をしており、大変心強かった。

◇葵の御紋
屋根瓦始め、本堂には葵の御紋が飾られてるのは江戸時代に徳川家康公以来の幕府の保護による御朱印(領地)を承っている。大善寺は徳川家の檀家寺である増上寺をトップにした壇林(僧侶養成の場、学問所)住職の法系図に繋がっており、浄土宗の関東十八の一つとして、僧侶のみならず政財界に幾多の人材を輩出している。
このように葵の御紋が密接な繋がりを表している。

◇仁王像
仁王像は江戸時代中期に製作されたと言われている。
特に張り出した腹、胸部は力感に溢れ、鋭い眼光とも合わせ逞しく、外部からの魔物を追い払い門前役を務めていた。
昭和37年の大横町時代は山門の両脇にはこの金剛力士像が300年近く、お寺を守って居た。
色々仁王像は見たが、外部に晒されていることもあって、埃を被り金網越しに、色つやを失い、かなり風化している。
手入れもされたか、つやつやした輝いた姿を目の前で見るのは初めてで迫力があった。

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本堂前の広場ではお十夜にちなんで賑やかにライブが開かれていた。

お十夜太鼓、講和、嘉門達夫のトークライブに大人も子供も大善寺に集まり、物凄い賑わいを見せていた。

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荘重なお十夜の儀式をイメージしたが、まあともかく祭りの復活というところなのであろうか・・・。

講和では第三代住職を務めた呑龍(どんりゅう)上人が江戸初期に、飢餓に喘ぐ中で国の禁を犯してまでも恵まれない子供を育成し、「子育て呑龍」の住職の話しに心をうった。

大変爽やかな季節、小宮公園の深い緑、八王子の繁華街から、歩いて行ける所に豊かな自然の中の大善寺であった。

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大捕り物騒動、「壺伊勢屋事件」(一部修正)

<現在、呉服屋の壺伊勢屋>

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大政奉還後、益々勢いを得た薩長はその矛先を倒幕に向けて動き出す。
西郷隆盛は「江戸の薩摩屋敷を根城に薩摩浪士隊は江戸の周辺地で騒動を起こして幕府勢力の分散化を図り、京都方面での討幕派の計画を支援し援護する。幕府を挑発して討幕の口実を得る」と言う事であった。
慶応3年(1867)10月頃江戸を新徴組や親藩藩士が必死で警備体制をして警戒していたが、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、同年12月23日遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう。
そんな背景の中でで薩摩藩の挑発行為により多摩地方で起きたのが壺伊勢屋事件である。

薩摩藩江戸屋敷で益満休之助を中心に、各地から脱藩浪士を集め幕府の関東地を動乱に陥れるべく画策していた。
幕府側から薩摩屋敷に密偵を入れ、浪士達の行動を内偵していた会津藩士「甘利宗四郎」が代官江川太郎左衛門英武の手代「増山健次郎」に、「薩摩藩井上真一郎」こと、上田務以下同志4人が甲府城を乗っ取る心つもりで三田の薩摩藩邸を出立し、甲州街道を甲府に向かうが、私も同道する」との報告があった。
その「上田務」は幕末、宣徳隊を組織し蛤御門の変に参加、後に高杉晋作の挙兵に応じ、四境戦では芸州口の最前線で戦った歴戦の人物である。
報告に驚いた「増山健次郎」は江川家手代「根本慎蔵」と共に上田一行の計画を阻止するため途中の討取り計画を練り江戸城の、勘定奉行「小栗上野介」の指示を仰ぎ了解を取り付ける。「増山」は「鯨井俊司」を指名し同日夕方、芝新錢座の江川屋敷を出立した。

<捕縛作戦に参加した日野勢、新選組まつりから>

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「増山」と「鯨井」の二人は内藤新宿から宿駕籠で乗り継ぎ途中上田一行を追い越し、日野宿の名主「佐藤彦五郎」宅にたどり着く。
「増山」と「彦五郎」は武州一揆打ち払いの折も共に働いた間柄で今回上田等討ち取り計画の支援を依頼し、「彦五郎」も了解した。
当初、日野の多摩河原で討ち取る準備を進めたが、密偵の通報から上田等3人は上布田の旅旅籠で剣術師範他が者が加わり、浪士集団が段々膨れ上がってくることが知らされ、急遽八王子宿の旅宿で夜討に変わった。
「増山」は八王子へ先行し、応援要請は千人隊にも告げられ、近隣の駒木野の農兵隊頭領「鈴木金兵」にも及ぶ大捕り物作戦に広がった。

「上田務」を隊長とする浪士一隊は薩摩屋敷を出発し上布田で宿泊後、一行浪人が八王子宿に入り、妓楼「柳瀬屋」と「壺伊勢屋」に入宿する。
一行は酒宴を開き、宴で酔ったふりをした「甘利宗四郎」は剣術師範他を向かい側の「柳瀬屋」連れ出し酔わせ寝込んだすきに座敷を抜け出し、「増山」に上田等一行は浪士や博徒と合流し100人近い集団で甲府に向かう仔細を報告、是非とも、今夜中に討ち取ってしまいたいと進言した。
「甘利」の進言を受けた、「増山」は人数を二手に分け、「柳瀬屋」は「増山」「鈴木金兵」「甘利」の3人、壺伊勢屋は日野勢がそれぞれ担当する手筈を決めた。
深夜2時頃、「増山」等は「柳瀬屋」の二階に上り「甘利」が寝ていた剣術師範をピストルを発射し、「増山」が切りつける大乱闘が始まる。
一方「壺伊勢屋」の浪士等は「柳瀬屋」での銃砲音の夜討に気づき、壁際に身を潜め身構えた。日野勢は「山崎兼助」「馬場市次郎」を先頭に立ち、階段を駆け上がるところ、6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「馬場市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。
日野剣士の「山崎兼助」は背中を討たれる重傷を負い、事件の翌々日亡くなってしまう。
上田等浪士たちはその場で斬り倒されたり、傷を負いながら逃走し、浅川河原にたどり付いたところを惨殺されたが、上田他は逃げ延びた。

事件で負傷し、幕府の負っての手から逃れた「上田務」は慶応4年(1868)3月頃、京都滞在中の江川太郎左衛門手付「柏木総蔵」に申し入れ、事件を指揮した「増山健次郎」と「鯨井俊司」両人の首級と当日八王子に残した武器・金子などの返却を迫った。
武器等は小栗家へ渡されており東征軍の侵攻時期でもあり、処置に困った江川家では、増山と鯨井を改名させて所在を隠し「上田務」に増山と鯨井の首級および物品の代償として金1000円を支払い事件解決の至談書を提出し受け取っている。

◇「上田務」は京都で処刑、さらし首

「上田務」は慶応4年(1868)6月薩摩藩の「伊牟田尚平(いむたしょうへい)」の金策に加担し、近江国長浜の今津屋で押込み強盗を働き捕らえられる。明治2年(1869)7月、「上田」は「伊牟田」と一緒に加担した一人として、京都粟田口でさらし首の刑に処せられた 。事件の口述書が「京都府史料」に残されている。

従来、「上田」は後の神奈川県令「内海正勝」であると、大正13年(1924)に出版された『三多摩政戦史料』に書かれており、これが半ば信じられ流布されていたが、「上田」は処刑されており、「内海正勝」と同一人物であることは誤りであることが、この度、明らかにされた。
・・・広報ひの平成23年4月15日

<事件のあった八王子横山町付近>

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詳細は以下でまとめた。

壺伊勢屋事件

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「どうだんつつじ」と「壺伊勢屋事件」

Img_72461111 <日野宿本陣の中庭>

本陣の植木の一つで玄関口の植え込みの満天星(どうだん)つつじは秋口の紅葉時期にご覧のような真っ赤な色合いとなり、丸で垂れ幕を掲げたようで、目を奪われるそんな輝いてる期間は限定されているが、普段、近くに居るが、見事な紅葉の色模様は正に感動ものであった。
もう後、半月で今年も終わってしまう。

押し迫った慶応3年(1867)12月15日此処、日野宿問屋兼帯名主の「佐藤彦五郎」に討手方手配命令が江川代官から下り、日野宿から「彦五郎」以下6人の天然理心流の門弟が隣の八王子宿の旅籠へ踏込み「壺伊勢屋事件」が発生する。
当時、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう。そんな折りに浪人12人が組み、関東諸村を徘徊し、押仮り軍用金と称して脅迫していることを察知し、代官「江川太郎左衛門」が、その浪人の徒に間諜(かんちょう)を入れ捕縛の機会を狙っていた。
その日野宿からの一行が八王子宿に廻り、「壺伊勢屋」に踏込み、泊まった浪士達と激しい戦いが繰り広げられる。
浪士側は2人死亡、1人重傷を負い、残りは窓から逃げるが、千人同心らに寄って取り押さえられる。
一方日野宿側は「馬場市次郎」が先頭に立ち、階段を駆け上がるところ壁際に身を潜めた浪士が6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。彦五郎の本陣長屋に住む岡引「山崎兼助」が背中を討たれ、重傷を負うが翌々日亡くなる。
浪士として捕らえられた浪士の一人は後の新政府の内務大臣となる要人の一人となった「内海忠勝」である。

亡くなった一人「山崎兼助」はこのつつじの植え込み近くの長屋に住み、「馬場市次郎」とも一緒に「大昌寺」に埋葬された。
「市次郎」は馬場家の墓にあり、墓誌に生々しい事件当日の日にちが、読みと取れる。一方「兼助」の墓石は梅の樹の近くに埋葬されたと言われているが、その所在は判らなかった。一緒に住んでいた家族は居なくなってしまい、無縁になってしまったのであろうか・・・。

攪乱戦術に幕府は遂に治外法権であった三田薩摩藩邸の焼討を敢行する。形だけでも天皇を抱え込んでいた薩摩藩に向かって幕府が発砲したことから薩摩藩は「朝敵幕府を追討せよ」と討幕の口実を手中にし、これが戊辰戦争の口火になってしまった。

詳細は壺伊勢屋事件

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風雲「八王子城」

Image111 <城代、横地監物が使われた兜>

「天地人」も佳境に入り、家康率いる東軍は大坂を目指して進軍、三成率いる西軍はこれを阻止しようと陣を敷き、両軍は「関ヶ原」で向き合う形となる。大砲など重火機を使い大量な騎馬と兵士の総力戦がダイナミックに繰り広げられた。
当サイトも「天地人」に関わる限定された地域の情報記事を書いたが、関心の高さがサイト訪問のヒット数に繋がり、改めて大河ドラマの影響の大きさを感じさせられる。

そんな背景から八王子城の攻め落としをもう少し追ってみる。
豊臣秀吉と徳川家康による小田原城攻めが始まり、北条氏照は主力の精鋭数千を小田原城に向ける。このため八王子城は横地監物、中山家範などの僅かな老将と戦場経験の浅い雑兵だけが残された。
八王子城は天正18年(1590)豊臣方、上杉景勝、前田利家の圧倒的な数の前に半日あまりで一気にのみ込まれてしまう。
八王子城が落城し、中山家範は30人余りを斬り倒し自刃する。横地監物は山伝いに檜原城に向かい、再起を図ったが城が落ち、小河内で切腹にしたと伝えられている。

八王子城は自然立地を活かした山城であるが、その城下の一角に自宅の一室を開放して、当時の戦いの武具が並べられた私設の「八王子城址歴史資料館」がある。周辺には当時の家来団も住んで居られるようで、当時の家臣団の先祖に持つ山口家が個人的に運営している資料館である。
資料館として案内パンフレットが有るわけではなく、その存在は知る人ぞ知る、コアーな場所の一つである。
八王子城の戦いを物語る歴史的な遺品の数々が一室に所狭しと置かれ、戦いに散っていった往時の武将の姿を確かめられる。
その一つが豊臣方を迎え撃ち、中心となった横地監物が着用した兜が目を引いている。

Img_15071 <「千人同心」の槍隊、鉄砲隊の武具>

徳川家康が関東に入国し、織田・徳川連合軍に破れた武田の落ち武者や八王子城の落城で豊臣側に落とされた
小田原北条氏の浪人が集められ徳川幕府に忠誠を誓った「千人同心」が生れた。
「天地人」で放映された「関ヶ原」の戦いではこの「千人同心」が徳川の中核として出陣し、活躍している。
以来、「千人同心」は徳川幕府への忠誠心が極めて高い集団としてあり続け、幕府瓦解まで命運を共にした。

誉れ高き「千人同心」の武具が所狭しと並べられ、戦国武将の戦いの息づかいが身近に感じられる。こんな姿で身を固め「関が原」で戦ったのか、手の届くところの武具を前にわくわくしてくる。

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八王子城落城と「お十夜」

大河ドラマ「天地人」八王子城落城で大きな節目を迎え、いよいよ天下分け目の関が原に移ってゆく。
北条氏照が当初滝山城を築城し、併せて大善寺を開基する。その後、城を元八王子に移し、八王子城とし、大善寺も一緒に移る。
秀吉の小田原城攻めの時に八王子城は落城し、大善寺は横町(現大横町)に移る。
その八王子城落城の戦死者を弔う「お十夜」が市内の名物行事として、戦中迄で続けられた。

Image211<日野の大昌寺>

落城以降に大善寺の讃誉上人を日野の大昌寺に迎え開山した。
讃誉上人は数年後亡くなるが、日野の大昌寺はご承知の通り、日野宿名主、佐藤彦五郎の佐藤家の檀家寺でもあるが、そのルーツが大善寺と繋がって居る。
そんな背景から八王子の大善寺に併せて大昌寺も毎年10月境内に露店が出るなど賑やかな「お十夜」が行われた。
10数人の僧侶と檀家、信者が集まる中、鉦と太鼓に合わせ「南無阿弥陀仏」を唱え「ウーハイ」という合いの手で鉦を叩き本堂いっぱいに響きわたる荘厳なものであったようである。
僧侶の読経、僧侶の*「華籠(けご)」の散華に集まった人が争って拾うなどの儀式で9時近くまで盛大な「十夜法要」が行われていた。その行事は大昌寺も大善寺と同じように淘汰されてしまった。
*華籠(けご):散華の時に用いる花を入れる器。葬式の時にお棺に入れてやるものとも言われている。

大善寺は昭和38年大谷町へ移っている。
戦国時代、1日で起きた戦いは秀吉の天下統一が加速されるが、八王子城の悲劇は戦中まで、「お十夜」で弔い、市民に語り告げられた行事であったのである。
八王子が落城して10年後が関が原の戦いである。

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天地人「八王子城落城」

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戦国武士の右側が鉄砲隊で左側が槍隊の装束、(八王子城址歴史資料館にて)

天地人も佳境に入り、北条氏攻め落としに舞台はいよいよ関東地区に戦場は移り、豊臣勢の八王子城の攻め落としに、ドラマの展開を期待したが、僅かな取り上げで、終わってしまった。
せめてもと「天地人紀行」でも紹介されるかなと思ったが、それもなかったので、此処で紀行してみたい。

八王子城址は戦国時代末期小田原城主北条氏康の子氏照が関東の西の守として八王子城を築いた。
城は山頂に本丸、ふもとで政務を行い、客を迎える御主殿、城山川を堀とした自然立地を活かした山城であった。
しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐で猛攻にあい、わずか1日で落城した。北条方3~4000に対し、豊臣側はその3倍の15、000と圧倒的な数で殲滅させたと言われている。
豊臣側の連合軍には上杉景勝と配下の武将達も城の攻め落としに参加している。
八王子城が落とされ、捕虜は小田原へ連行され、難攻不落であった、小田原城も戦いは無理と降伏し、開城、北条氏政、氏照兄弟は切腹する。
そのあちこちに遺構を残し、400年以上立った今、一部の復元が行われている。 その一部が御主殿に渡るため城山川にかけられた曳橋である。当時の橋の台部が残されているだけで、どのような橋であったか解らないが、戦国時代風にデザインし、復元されている。

血で染まったと言われる滝壺、八王子城で討ち死にした武士の供養塔と言い、戦場の痕跡が残されている。

Img_15681 本丸付近の稜線から、かっての北条の領地であった、南関東の一円を眺める

昨年の今頃、八王子城址を訪れ、400年前の戦国武将の落ち武者の化身か、山全体が湿気を帯び、蛇の巣窟のようで、"まむし"と二度も遭遇する不気味な戦跡歩きであったことは、本ブログでも書き留めた。
その草深く、恐ろしい"まむし"との出会いを覚悟して、登ってゆくと約1時間程でかっては北条が納めた南関東の一円を見渡せる。

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八王子城を目指せ

車の免許証の更新で八王子警察に向かい手続きは簡単に済む。高尾と西八王子の中間にあり、その背後に多摩御陵と八王子城址が控える。こんな時にしか行けないと、八王子城址に向かう。城址に向かう前に北条氏照の墓へ寄り、その道すがら北条家の家来の末裔が住んでおられる「八王子城址歴史資料館」に寄る。

Img_15071 居室の一部を資料館に当てられ、氏照が使われた鎧、弓隊の鎧、果ては千人同心の鎧から、戦闘道具から装備品がそれこそ、所狭しとぎっしり陳列されている。先祖伝来からの物、先祖が集めたものなど、先代から個人的な資料館として維持運営されている。これ程の歴史的な遺品が身の丈の高さで見られるとは思ってもよらず、一級品的な宝物の前で思わず絶句してしまった。因みに入館料350円、お一人で維持されており、当日もお出かけになるところ、時間を割いて頂き、見学させていただいた。

八王子城址は戦国時代末期小田原城主北条氏康の子氏照が関東の西の守として八王子城を築いた。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐で猛攻にあい、わずか1日で落城した。北条方3~4000に対し、豊臣側はその3倍の15、000と圧倒的な数で殲滅させたと言われている。そのあちこちに遺構を残し、400年以上立った今、一部の復元が行われている。Img_15311 その一部が御主殿に渡るため城山川にかけられた曳橋である。当時の橋の台部が残されているだけで、どのような橋であったか解らないが、戦国時代風にデザインし掛けられている。血で染まったと言われる滝壺と言い、戦国ロマンをたっぷり味わうことができる。

但し、季節柄もう、"まむし"の出没時期であるようで、あちこちに注意看板が張り出されてあった。案の定、この曳橋の土台部分で1m近くのものに遭遇、敵はあわてて、大石の隙間に逃げてしまった。

平坦部だけで引き揚げれば良かったが、此処まで来てはと、恐る恐る445mの八王子城山まで登り、途中の戦場跡を辿り神社までいった。草深い獣道に再び 、"まむし"と2度目の遭遇、肝を冷やしたが敵も鎌首をもたげながらも、直ぐに草むらに忍びこんでしまった。「おのれ!!妖怪め~と思ったが、内心早く逃げろよ」と草深い山道で足すくみ貼りついてしまった。400年前の戦国武将の落ち武者の化身か、山全体が湿気を帯び、蛇の巣窟のようで、不気味な戦跡歩きであった。

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