カテゴリー「08、江戸城とその周辺」の記事

築地の軍艦操練所跡

ペリー 来航に驚愕した幕閣はようやく国防意識に目覚め、江川太郎左衛門(担庵)の提案が認められ品川台場の築造と相まって海軍創設を始めた。
この「軍艦操練所」が基盤となって、日本の海軍の近代化が進められ着々と育って行った。
一方、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦いで追い詰められた幕軍の将軍職徳川慶喜は大阪城から抜け出し 幕府軍艦開陽で品川沖に停泊、失意の出迎え先は隣接の「浜御殿」であった。
これら歴史の拠点について、事実を辿りながら、追ってみた
◇水上から確かめる

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隅田川との合流点近くの築地川の水上バスの船上からの風景である。左側のこんもりした緑は浜御殿で現在の浜離宮 恩賜(おんし)庭園である。開陽丸で大阪から江戸へ引き揚げ、上陸した将軍慶喜公もこの浜御殿からである。歴代将軍が品川沖からはしけを使い陸に上がった 将軍の「お上がり場」はこの近くである。
船が係留される対岸一帯は軍艦操練所で、現在は築地卸売市場になっている。
当時は「御軍艦操練所」は江戸湾(東京湾)に面しているが、現在は隅田川を隔て東側は埋め立てられている。
◇練習船の一つが「咸臨丸」

<写真の「咸臨丸」は長崎県オランダ村から発注された復元船。3本マストなど忠実に再現されている。2003年特別公開で浦賀港で撮影した>
Image6操練所の練習船は観光丸、昌平丸、君沢形、等あったが、そのうちに咸臨丸も加わった。操練所の訓練船の一つとして、使われた「咸臨丸」であった。
□軍艦操練所
安政4年(1857)7月、長崎の海軍伝習所を廃止して江戸築地南小田原町の講武所内に軍艦操練所が創設された。
永井尚志を総督に矢田堀景蔵を教授方頭取に次の者が教授方に挙げられた。

1)御軍艦操練所稽古規則
測量並算術、造 船、蒸気機関、船具 ・運用、帆前、訓練、海上砲術、大小砲船打調練稽古の儀は朝四つ時(午前八時)より九つ時迄(午後3時)途中昼休みも含めびっしりと学習に励んだ。
稽古は、正月十九日より相始め十二月十九日相納め候事とされている。
2)伝習所~操練所と学び、出世の道へ
(1)伝習生時代の生活
伝習生は個人の家来、従僕更に職人もあり、種々雑多な庶民も加わっているので、伝習所内は極めて厳格であった。
しかし、慣れないヨーロッパ風の教育を受けている毎日の生活に相当応えたのか、幕臣であり、担庵(江川 英龍)門下の優等生と目されるものの中にも夜隠密かに買春宿に行くものも居たと言われている。
しかし、職人と言っても、既に伊豆戸田港において露艦の建造(地震の大津波で難破)に従事した洋式造船の経験であったから、伝習所内では造船の実務に関する限り常に優秀な成績を挙げる事が出来た。
(2)面目躍如たる伝習生
それぞれ伝習生として留学。.抜群の成績と手腕を認められ、一介の職人が、苗字帯刀を許され、出世し破格の栄誉を得た。
伝習生からこんなsucces storyが生まれた。
伊豆加茂郡河津村出身の船大工、伊豆田方郡戸田村出身の徴用工、江戸築地飯田町出身の鍛冶工等の伝習姓は咸臨丸で桑港乗船、長崎に留学、石川島造船所にて千代田方の造船などの経験を踏まえ、それぞれ横須賀製鉄所の技師長、造船工長、煉鉄工場長などの日本の造船を一線の技術者として出世している。
以上は江川担庵伝(海防と農兵制)から引用した。

<「咸臨丸」太平洋横断>
万延元年(1860)「咸臨丸」太平洋横断の偉業を達成するが、軍艦奉行木村摂津守、以下船長勝海舟、福沢諭吉、通訳の中浜万次郎と一緒に上述の伝習生が多数乗船している。操練所の日頃の訓練の成果がこの快挙に繋がった 。

Image12<甲板の装備品にまみれて、おや!!その姿は勝さんではあるまいか?太平洋に乗り出し、連日嵐に翻弄され、苦しんだ航海を思い出しているようであった。静かな内海の咸臨丸に、突如 time capsuleを破って、登場したが、再び消えていった。

出航の翌日、荒れた天気、日本人全員が船酔いで倒れ、航海一切をブルック船長以下米人に頼っての暗黒の船出であった。船に多少強い福沢に対して、日本海軍生みの親と言われる勝麟太郎は船に全く弱く、航海中は病人同様船室から殆ど出なかった。
満身創痍でサンフランシスコに辿り就き、歓待を受けたが、船・乗組員もボロボロ。
咸臨丸の修理を終え、帰国の時に真冬の日本出国から急な暑さに病人が続出、3人死亡、付き添い含め10人を残して、気の重い帰国であった。
太平洋横断の快挙の陰に3人は異国の地サン・マテェイオの日本人墓地に眠る。>

□「浴恩園」跡
構内を激しく行き交うフォークリフトや冷凍車と雑踏の中、此処が築地の中央卸市場であるが、かっては此処が「御軍艦操練所」であった。
◇同地の沿革
陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって、天明7年(1787)に寛政の改革で幕藩体制の危機を乗り切り、その恩賞として、老後に将軍からこの地を与えられた。当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉に富み、 「浴恩園」と名付けて好んだという。
明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して、著しく園池の風景を変えた。
さらに大正12年12月に日本橋にあった魚市場がこの地に移転し、現在は東京都中央卸市場となり、首都圏の食料品の商いで活況を帯びている。

◇魚河岸水神社
「浴恩園」始め海軍省の面影は殆ど無くなってしまっているが、当時を物語るものが、魚河岸内の魚河岸水神社に僅かに残されている。

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明治5年(1872)に海軍本省が旧尾張藩邸に置かれると賜山(たまものやま)という築山の上に「海軍卿旗」が掲揚された
「海軍卿」とは明治18年官制改革前の海軍省の長官を言い、初代海軍卿は勝海舟をはじめ、榎本武揚(中将 海軍 卿)など馴染みの人が居る。この旗を見て人々はこの山を旗山と呼び、旗山を記念して石碑が設置されたが、この場所は関東大震災の復興工事により築地市場の入り口の交差点となり交通の障害になつたので築地市場内の魚河岸水神社に移転された。Img_1480

                        <魚河岸水神社の石塔同神社にある旗山>
◇浴恩園を語り伝える
現在、都民の食を賄い、大量な魚が集積され、せりにかけられ、それを運ぶ車両や仲買人で賑わう魚河岸である。
その原点が浴恩園であったことを語り伝えるのが、石垣の側面金属プレートであるが、殆ど、フォクリフトや車両の陰に埋もれてしまっている。
浴恩園は池があり、松や梅林他樹木が植えられ、池の畔にはお茶屋が数カ所ある。池には橋が掛けられ対岸が結ばれる、最高の慧眼の散策路が生れている。 白河の城主松平定信の心ゆきから生れた造園により、春風池・秋風池をめぐって四季おりおりの草花その研を競い、鳥獣も遊ぶ風流の池であった。
当時の水路部 が昭和5年(1930)に新庁舎を完成して からこの築地を記念して同園写図を描いている金属のプレートが用意された。

操練所開設から約160年、築地の移転地を巡る、ゴタゴタ騒ぎ、「何、やってやんだ!!」と海舟も草葉の陰で、歎いているに違いない。

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『築地本願寺』

築地と言えば、豊洲への移転が見えないまま、泥沼状態で全 の先が見えず深刻な問題である。その築地のことはじめは海上 に寺の再建をはかる築地本願寺であったのである。

◇明暦の大火と震災を乗り越え
築地本願寺は江戸時代に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町、東日本橋)にあった。
しかし江戸の三大火事と言われ、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失したる明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失する。
焼失地での復興を図ろうとしたが、幕府の区画整理のため許されず、現在の築地、海の真っ只、中八丁堀沖の海上が下付された。
延宝7年(1679)に佃島の門徒が中心に、海を埋め立て土地を築き地名の由来である『築地』となって、再建された。
「築地御坊」と呼ばれ、当時は本堂は西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた。
大正12年(1923)関東大震災では、地震による倒壊は免れたが、火災により再び伽藍を焼失した。

昭和9年(1934) 帝国(東京)大学工学部教授で建築家の伊藤忠太氏の設計により、現在の本堂が落成した。          
平成23年(2011) 築地本願寺の「本堂」「三門門柱(正門・北門・南門)」・「石塀」 が国の重要文化財に指定された。

◇早速、西本願寺へ
設計者伊藤忠太がインド・イスラム意識したいという設計者の思いから仏教の原点を求め仏教の発祥の地であるインド・イスラムの世界へ、赴き見識を深めた。
こうして、日本では希有な古代インド ・イスラム仏教様式の寺院として具体化された。

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屋根は突起物と菩提樹の葉の形の装飾があり、中央には蓮の花がデザインされ
ている。贅を尽くした装飾品の数々が印象的である。
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イスラム教はキリスト教に次いで世界で2番目に多くの信者を持つ宗教と言われるが日本では余り馴染みがない。
イスラム国の問題が、紛争の火種になっているのも事実であるが、軽々に語れない。

建物を前に普段見かけない、建物の洋式が独特のものを持っており、目にするもの、全く、外国へ来た感じである。

1610dsc052491正面の階段の両脇には「カルラ」」と言われる狛犬さんが迎えてくれる。よく見ると鎧を付け居丈高に上を向き、儀仗兵のような玄関番であった。

◇内部へ
内部は一転して仏教の世界。贅を尽くした天井と柱。いたるところに動物の世界、妖怪のも設計者の趣向とも言われている。

500_156201551これも獅子と言われるが、顔はユーモラスな妖怪であった。

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高い天井と広い空間が壮大で厳格な構えであるが開放的、誰でも拒ばず中に入れ、焼香が出来る。
立派なガランの元で気分も高揚する。入口に説明スタッフがおられ、館内にこらされた装飾具など丁寧に案内してくれる。

建物を支える巨大な柱、根元の鉄の部分はパイプが走り強大暖房機であったようだ。
住職がお経を高らかに唱える前で、お焼香をする。既に一昨年になってしまったが、連続続いた病魔の災禍からの再出発を祈って、健康祈願にかけた。

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ホールの背後は信者団体が寄贈した2000本のパイプから成る、パイプオルガンは月の最終金曜日に、昼頃演奏する。近隣のサラリーマンが休み時間を使って会場へ、何時も満員で立ち見も出る。演奏はバッハの作品と聞いたが、お経の世界から、一気に洋楽の世界の粋な音楽会と思える。
大きなお堂の中で響きわたるダイナミック音の世界に心酔し、冥土のみやげに一度、聞いておきたい。

江戸の伝承 文化「築地御坊」はこんな斬新な姿で今日に伝えている。

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玉川上水の偉業を伝えた「殉節両雄之碑」

先人が残した偉大な遺産の一つ玉川上水を小平監視所から上流に向かって、多摩都市モノレールの玉川上水駅まで歩いてしまった。元々目標もない気ままな散策、豊かな水流と川沿いに残された木立の自然に魅せられ約2時間歩いてしまった。

周りは閑静な住宅、学校、所々に、散策に、休憩で訪れる客用に飾りのない自然に同化した喫茶店が、散在する。都市開発が進む中、首都圏に繋がる、この長い巨大な水路が、自然が護られているのも、特異な場所である。

     <周りは鬱蒼とした樹木の中、満々とした水量が勢い良く流れる。これが約400年の生きた遺産に触れる事ができる>

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   <荒々しい、土壁の開水路、階段を降りると玉川用水の深部まで降りることもできる。自然の冷気がなんとも心地良い>

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上水沿いには桜の木が多く植えられ、江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わう「小金井の桜」は大正13年に国の名勝に指定されている。花見客に堤を踏み固めてもらうのも、あったようである。
玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた、江戸の六上水の一つである。多摩川の羽村から四谷までの全長43kmが翌承応2年(1653)に築かれた。一部区間は、未だ現役として東京都水道局で活用されているところが凄い。

◇こんな遺産は誰の手から生まれたのであろうか
                          <保科 正之像>

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江戸時代初期の大名、陸奥会津藩初代藩主『保科 正之』である。「会津藩たるは将軍家を守護すべきと」遺訓を残し忠実に守ったのが、幕末で馴染みの藩主・松平容保であり、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。

正之は藩政にも力を注ぎ、産業の育成と飢饉時の貧農・窮民の救済、藩士の子弟教育などに尽力、同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。
4代将軍家綱の輔佐役として支え、玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献している。
当時、江戸開府で人口増加に水不足が深刻であった。
当時の作事奉行が武州羽村から水路を堀り、多摩川の水を引くと提案した。この提案に幕閣、井伊直孝が防衛上の理由から反対したが、正之は「江戸城は天下の府城、その天下は民あってのこと・・・」と説いて玉川上水を開削させたのである。
其処に住む民の立場で問題を吸い上げ、今日の大都市となる、インフラを整備する先見性と手腕にこんな所でも、改めて名君と言われる由縁と納得する。

◇「殉節両雄之碑」にも、こんなことが書かれている
                        <高幡不動にある「殉節両雄之碑」>

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高幡不動にある「殉節両雄之碑」は元より幕府のために戦い散っていった近藤勇と土方歳三の両雄を讃える碑であるが、碑文の冒頭に玉川上水により、両雄が、産れ、育ったと紹介されている。
「殉節両雄之碑」と玉川上水との意外な結びつきに驚きを隠し得ない。
碑文は小野路村の小島為政が詩した「両雄士伝」をもとに仙台藩の儒者大槻盤渓が撰文し、篆額はは会津の松平容保、書は幕府典医の松本順の筆である。

(本文意訳)
冒頭からこんな話から始まる
「多摩川はその源を武州と甲州の境に発して東へ流れ、青梅郷のいくつかの村を過ぎて、川の勢いは次第に速く水は清らかで美味である。
その昔幕府が羽村に上水用の堰(せき)を設け、その水をはるか江戸まで引いて百万の人々の生活に役立たせたが、それは大変立派な事業であった。
そして人並み優れた素晴らしい男である近藤昌宣と土方義豊は、またその多摩川の両岸の生まれである。・・・」

玉川上水の偉業、碑文を撰文した仙台藩の儒者大槻盤渓が、書き伝えたかった大事なことなのであろう。

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隅田川沿いの幕末の史蹟を行く

隅田川を挟んで幕末の史蹟を歩んでみた。
将軍家鷹狩りから、甲斐甲府藩主松平綱重(つなしげ)の別邸となり、江戸時代の代表的な大名庭園の浜御殿を一回りする。
庭園内を離発着する水上バスに乗って隅田川を上り、浅草へむかう。
折しもスカイツリーの喧騒の中の浅草であったが、ここを潜り閑静な今戸に戊辰の戦いで傷を負い旧幕府軍の将兵を治癒した陸軍病院跡など、見てくる。
両箇所とも、幕府の繁栄から崩壊へを辿る道を今日に語り伝えるようであった。
庭園、江戸湾、隅田川と目の前の情景が変化に富んだ楽しい1日コースであった。

<浜御殿>(現浜離宮恩賜庭園)
◇中島に茶屋

Img_25201111 都内では唯一の海水の池でボラ、セイゴ、ハゼ、うなぎなど海水魚が棲息する珍しい池である。
中島の茶屋は宝永4年(1707)造られ以来、将軍公家が眺望を堪能した場所である。
14代将軍家茂、和宮、天璋院の三人が束の間の幸せをこの中島の茶屋で甘受した場所であった。
皇室の殻を崩さない和宮が武家出身の天璋院から指図を受けることを嫌いトラブルは耐えなかった。
そんな背景の中、和宮が足袋のまま庭に飛び下り、敷石に家茂の草履を取ると言う予想外の行動に篤姫はそれを見て、ようやく、宮も徳川家の人になられたという熱い思いがこみあげてきた。
その家茂も朝廷の威力が増大し、幕権の衰退を背景に京へ上洛し、政変に巻き込まれ、京で病死する。

◇将軍お上がり場

Img_2525111 江戸湾に繋がる海上の出入り口として機能し、幕府200数十年の繁栄と崩壊の歴史のドラマがこの「将軍お上がり場」の石階段を駆け抜けている。
文久3年(1863)を皮切りに家茂が度々、此処から上洛するが、病死し慶応2年(1866)亡骸で帰ってくる。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで破れ、突如、大阪を逃れ品川に幕府軍艦開陽丸に何の前触れもなく戻ってきた徳川慶喜の姿があった。肩を落とし、悄然とこの「お上がり場」の階段を登る、慶喜に最早、徳川の将軍に相応しい威厳も何も無かった。

隣接する場所から水上バスに乗船する。船上から歴史を思い起こす。

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<軍艦操練所>

浜離宮の隣、現在の築地市場のあたりに長崎海軍伝習所から軍艦操練所が創設維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院など武術の訓練施設を造った。
<品川沖から艦隊の悲劇>
慶応4年(1868)8月榎本武揚が抗戦の意志を持つ、脱走兵を集め、旗艦「開陽丸」として艦隊を組み品川から蝦夷へ目指す。
榎本艦隊は品川沖を就航間もなく、銚子沖で暴風雨に遭遇し、「美賀保丸」は銚子沖で座礁し沈没溺死する者、捕縛され処刑される。「咸臨丸」は相模湾を漂い、清水港での新政府軍艦から、追討され乗組員を惨殺し36の遺体が清水港に投げ捨てられる悲劇も生まれた。

水上バスは浅草で下船し、隅田川沿いを上流に向かい今戸方面へ向かうと、静かな住宅地になる。
◇稍福寺
慶応4年鳥羽伏見の戦いで破れた新選組は富士山丸で江戸へ引揚げ、品川の釜屋から、神田和泉橋御徒町の医学所、更に稍福寺の野戦病院に運ばれ 、近藤勇と沖田総司は松本良順の手当てを受けたと思われる。病舎を作って急遽幕府側陸軍病院(野戦病院)と成った所である。

◇今戸神社

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今戸の神社の境内の隅に自分の宿舎を建て良順は住み稍福寺に病舎を作って陸軍病院(野戦病院)として、自分の所に居る患者達も一緒に連れて其処に移し、良順は病舎と宿舎間を往復した。
沖田終息の地の碑が立っているが、永倉新八の「同志連名記」から「浅草今戸の松本良順先生宿にて病死」が一つの拠り所になっている。但し、沖田総司は5月に亡くなっているが、肝心の松本良順は4月から9月迄の5カ月間は今戸には不在であり、当地の死亡説は疑問とされている。

今戸神社から再び、浅草方面へ向かう。
戊辰戦争など幕府を支えた浅草弾左衛門の居住地跡付近に皮革加工屋など見ることができる。檀家寺の本龍寺で弾左衛門(矢野家)の墓をご住職の家族に教えて貰い、墓前で手を合わせる。
言問橋を渡り、アサヒビールの建屋近くに勝海舟の銅像前に到着する。
タフなコースであったが、たっぷり楽しむ事が出来た。
詳細は以下でご案内

浜御殿と江戸湾

今戸に総司を追って

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龍馬・岩崎弥太郎と岩崎邸

Img_38861_2来年(2010年)は大河ドラマでいよいよ坂本龍馬の出番である。
同じ土佐藩出身で幕末から維新にかけ、海運で時流に乗り、財をなし此処旧岩崎邸を建てたのは岩崎弥太郎であった。大河を意識にするには未だ早いが、4月の休日に館内は大変な混みようであった。

岩崎弥太郎は、土佐藩の貧しいゆえに郷士の身分を他人に売り渡して、浪人となった地下浪人である。
幼い頃から文才を発揮し、漢詩を披露し才を認められる。
吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、弥太郎の生涯に大きな影響を持つ後藤象二郎らと知り合う。東洋が土佐藩に参政するが、この機会に弥太郎も土佐藩に仕える。
慶応3年(1867年)後藤象二郎により起こした藩の商務組織「土佐商会」に席を置き貿易業務を従事する。土佐商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事し、更に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立する。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った。
維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時に、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。後藤を通じて新貨幣制度を事前に知る立場を巧みに利用した現代のインサイダー取引を行うなど、持ち前の才覚と一方では政商として暗躍したドロドロとした面も持ち合わせる。
こうした資金を背景に海運業は上手く廻り、至近国家の近代化、共併せ大型蒸気船による海運事業に新時代の物流を支え、航路は国内に留まらず朝鮮半島や中国大陸にも広げ、三菱の基盤を築きあげた。Img00006

同じ土佐藩出身で保守的な土佐藩の殻を破り、藩を海運から貿易に目覚ますきっかけを生んだのは坂本龍馬であろう。龍馬は長崎で海援隊を組織し物産・武器の貿易を行い、長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。一方では薩長連合を生み、討幕のうねりを起こし、倒幕後は貿易と海運による立国の夢にかけたが、龍馬は志半ばで凶刃に倒れる。
「貿易と産業の振興が、これからの時代を担うものだ」という龍馬の遺志は弥太郎が継ぎ、成功したのでは無かろうか・・・。
しかし、司馬遼太郎の「龍馬がいく」の中で、龍馬は、弥太郎を「好かなかった」と書いている。
海運はひたすら国のためとする龍馬には、上述の商才に走り資産を成す弥太郎の姿は、受け入れ難いものではと思える。西南の役に伴う物資輸送や明治政府の国策に、いち早く対応し、さまざまな事業を展開して財閥を形成していった。それによって得た財の象徴が、この大きな屋敷と、コンドルの建てた邸宅である。
弥太郎が用意したこの広大な屋敷は明治29(1896)年に完成したが、弥太郎は完成を見る前に明治18(1985)年に亡くなっており、当主は長男久弥の代となっていた。
三菱の事業は、弟の弥之助、そして久弥と継承され、発展していった。
日本政府の招聘により来日した英国人ジョサイア・コンドルの設計によりもので、木造2階建て・地下室の洋館で、本格的な洋風建築。明治期の上層階級の邸宅を代表する西洋木造建築である。
装飾品等々素晴らしい建物ではあり、取り分け2階のピンク色の洋室は豪華なカバー和紙(金唐革紙(きんくらかわし))を使い、時価1億2千万円と言われ、度肝を抜く。地下の多数の柱は耐震構造(非公開)で、大半の構造物が崩れた去った関東大震災もくぐり抜け、今日まで生き残った所にジョサイア・コンドルの心ゆきが感じられる。

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南側に用意されたテラスには3ッの押しボタンが用意され、それを押すとビールが届けられると言う、庭先を眺めながら、自然の冷気を感じ、リッチな気分でビールの味も格別と思われる。

その豪華な建物とそこで住んだ末裔達の暮らしぶり。そこを舞台に戦後に起きた謎めいた事件など興味は尽きないが此処で紹介する。

旧岩崎邸

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歩け歩け湯島・本郷

Yusima104 写真は湯島聖堂

風香り、草花が咲き乱れ歩くのは気持ちの良い季節を迎えた。
お茶の水を起点に北側を神田~本郷方面を歩いてみた。江戸下町の文化が息づいており、起伏に富んだ地形から、清水坂、無縁坂、暗闇坂とかそれぞれ歴史を背負った背景から生れている。
そもそも、此処を行きたいと思ったのは司馬遼太郎作品の「街道を行く」から「本所深川散歩、 神田界隈」「本郷界隈」で歩んだ所を、司馬遼の独特の豊かな表現力で紹介しており其処をつまみ食いしながら、歩ける範囲で歩いてみた。
聖橋から、かっては風光明媚な神田川沿いも汚染され、川面をモータボートで川上に向かう姿にしばし目を奪われた。

学問に縁の地として孔子の教えを原点とした湯島聖堂や文道の祖と仰ぐ菅原道真公の湯島天満宮、更に巨大な壁画を掲げ医学を志す医科歯科大学など何故か、教育の歴史が集中するような場所としており、東京大学の広大な敷地を近くにあるのも、成るほどと思われる。

お茶の水から湯島天満宮まで、かなりの距離を真っ直ぐ繋いでいるのも、後で開発されたようで、方向音痴の拝にも迷わず道案内してくれる。
学問の神があれば、江戸っ子下町の気風がそのまま残される神田明神が近くにある。飾られた神輿を見ただけで何とも三社祭の熱気が伝わってくる。
湯島天満宮の高台を起点に下ると池之端の旧岩崎邸に出る。三菱財閥を生んだ岩崎弥太郎が残した広大な敷地と其処に残った和館・洋館の明治の息吹きをたっぷり、味わえる。戦後の混乱時期に米ソの冷戦がスパイ事件を繰り広げられたキャノン機関などミステリアスな事件が生生しく、残され話題に事欠かない。

Yusima702 写真は赤門

その岩崎邸の外周部の無縁坂を辿り、東大の赤門に目指す。無縁坂はご承知の通り、森鴎外の作品「雁(がん)」のモデルに成った場所であり、壁は変わるも、その雰囲気をたっぷり確かめる事が出来る。
広い東大の敷地のステータス赤門に辿り着く、もと加賀金沢前田家の朱塗りの門は重要文化財にするだけあって、見応えのある薬医門である。
東大の敷地を北に突っ切って、改めてそのバカでかさに驚き、ようやく外部に出られる。敷地の外周部の暗闇坂を下って、不忍池へ目指す、タフなコースである。

地図とそれぞれの写真は此処で紹介している。湯島、本郷界隈

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もう一つの「江戸開城西郷・勝の会見の地」

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<池上本門寺松涛園>

時の将軍慶喜は鳥羽伏見の戦いで破れ、幕府軍を大阪に置いて京都守護職松平容保ら僅かな幹部を密かに連れて開陽丸でさっさと江戸に逃げ帰ってしまう謂わば"敵前逃亡"である。
慶喜は既に朝敵と名を付けられ、「これはかなわぬ」と上野寛永寺で恭順、謹慎の意志を表している。
「慶喜、大逆無道、罪死に当たる~」と気負い立ち、薩長連合とした東征軍が江戸に迫ってくる。
江戸を戦場の場として火の海になりかかる所をまさに水際で戦争を回避したのは東征軍総参謀西郷隆盛と幕府の陸軍参謀の勝海舟の会見である。
江戸開城西郷・勝の会見の地が田町の薩摩藩蔵屋敷で行われたと言われ記念碑が建っている。
ところがもう一つ江戸開城西郷・勝の会見の地の記念碑が池上本門寺松涛園別の所にある。
池上本門寺は東征軍の本陣として使われた所で、その境内の一角に松涛園という広い庭があり、慶応4年(1868)4月に其処で会見されたと言われいる。
松涛園は年を通じて特別な日だけに公開されるが普段は公開されておらず、その会見の碑は余り人目に触れられず遠い存在である。
しかし松涛園は完全に門戸を閉ざしているわけではなく、特別に入場する方法がある。
それは本門寺が発行する試験問題が11問あり、それを答えれば晴れて入場を許される。
はてさて、どんな問題であろうか?
・此経難持坂は何段か
・総門の額を書いた江戸時代の文化人で誰か
と言う類の問題が出てくるが、いきなり問題集を貰っても、何も見ないで答えられる人は殆ど居ないと思われ、始めてくる人には難問である。
しかし、車の免許の問題とは違って、何を見ても構わないので、質問された内容を追って境内を廻れば案内板に出ているので、それを転記すれば良いのである。
要は境内をじっくり廻り、案内板を読み理解し、散策した暁には、本門寺の理解を深め、初めて名誉ある、入門の許可が得られるのである。ヒントは何をどう見るかが、鍵を握る。
お寺でパンフレットを貰い、解答を書き、朗峰会館フロントに提出し、チエックを受け入門許可を貰う。  Image111_2

<四阿の一つ、松月邸>

松涛園は小堀遠州の造園による池泉回遊式の名園である。池を中心に囲むように四阿(あずまや)があり、今は無くなってしまった四阿の一つで西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城の会見をしたと言われており。会見の碑が立ってあり、東京都史跡に指定されている。会見がどう行われたか、田町の薩摩藩蔵屋敷との関係が不明。
池を見下ろす小高い一角に四阿があったところで、鬱蒼とした樹木に覆われ会見の碑が建っている。
この石碑は昭和16年西郷隆盛の甥に当たる西郷従徳の揮毫になる。人気は全くなく、手入れの行き届いた庭園の風情を独り占めし、贅沢な気分で回遊出来る。都会の喧騒から離れ、聞こえるのは鳥のさえずりと、池の水音が、幕末の舞台を再現している錯覚に落ちいる 。
こうしたハードルを乗り越え園内に入り、身を浸す喜びはひとしおである。

会見の碑はここで掲載されている池上本門寺松涛園 

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急げ、江戸城平川御門へ

Kosiire702恵比寿駅から篤姫輿入れの出発点に当たる渋谷の松平薩摩屋敷のあった「常磐松の碑」から六本木、飯倉、虎ノ門、内幸町、日比谷、そして大奥の通路に当たる皇居の平川門の終着点まで歩いてみた。
恵比寿駅大凡9時半出発、総延長8.7㎞と言われるが、冬の短い日差しではあるが、日没前には時間的には充分余裕の有る平川門入りを狙い、切絵図・現代図を何度も読み返し、周到な準備を進めていた。
所が、今や最開発が進み、六本木ヒルズなど近代的な顔を持つビルの林立などのビルの谷間に埋設した道に、想定した切絵図コースの道や分岐点が見つからないなど、予想以上の迷走があった。

そこを持って、天璋院が江戸城を追われ、夫だった13代将軍家定の生母・本寿院、14代将軍家茂の生母・実成院(じつじょういん)も一緒に暮らした赤坂福吉町・旧相良邸など普段来られない所だけに、ドラマの進展とも併せどうしても見ておきたかった場所など、あそこもここもと、際限なく寄り道したため、皇居の堀についた時は既に、うす暗くなってしまい、思わず、皇居の周回ランナーと並走してしまった。
殆ど歩き詰め、昼飯時間も惜しむ程で、途中で一番時間の掛からない吉野屋牛丼で、早食いで収め、再び走路についた。
最後の奥女中の通用門であった「御局門」の名の「平川門」では、春日局が閉門時間に遅れて締め出されたと同様に、既にあたりはうす暗く、城門を厳重に、大番所の警備する、徒士・足軽に行く手を阻まれ入城は出来なかった。御門への強行突破は堀に投げ込まれる恐れあり、ここは引き下がるしかなかった。(笑い)

高層ビルの渦の中での一方、日赤医療センター脇から広尾北公園や広尾ガーデンヒルズの敷地脇をこんもりしたケヤキ並木の樹林帯に、薄暗い姿は自然の真っ只中、石垣の姿は堀田家下屋敷跡をたっぷり連想出来る。

また日比谷見附から始まる外堀の世界から、内堀に接する馬場先門、和田倉門、大手門などと幾つかの門と橋を眺め、近づく、篤姫輿入れの世界をたっぷり味わうことが出来、念願の旧相良邸跡など確認でき収穫のある旅巡りであった。
既に薄くらい行幸通りを足を引きずる様に東京駅を目指し、17時頃の始発電車の座席に倒れるように座り、温もりの世界にようやっと安堵の休息につき、我が家に運んでくれた。

構想から始まって、約半月余りようやっと当サイト 篤姫輿入れを追って(渋谷から江戸城まで をアップすることが出来た。

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赤坂周辺の坂道に歴史を見る

赤坂周辺にはまさに坂道が多数多く、木製の案内碑が立ち、独特の雰囲気を作っている。簡単な説明が書かれており、この坂道を目安に幕末の歴史を見るのも面白い。代表的なものを紹介してみる

Img_11631 檜坂
坂の向かい側に見えるのが檜町公園で松平大膳大夫、つまり長門藩毛利家中屋敷でもともとは下屋敷で「麻布屋敷」と呼ばれた。初代藩主秀就は秀吉五大老の一人輝元の子。幕末の藩主敬親は、薩摩藩と共に倒幕運動を推進した。中屋敷跡には戦前、歩兵第1連隊の営舎が建ち、通りを隔てて歩兵第3連隊の営舎が存在。昭和11年の2.26事件とき、この2つの部隊は叛乱軍の基幹部隊となり、倒幕のエネルギーがそのまま、引き継がれて いるようだ。

Img_117311 氷川坂
隣接する氷川神社の南側を北西へ下る坂道である
8代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂である。この坂の降りた所に維新まで住んでいた勝海舟邸跡がある。
海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の十年間が咸臨丸で太平洋横断したり最も華々しく活躍した時期に当たる。
江戸城無血開城をなし終えた後、明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、悄然とここから静岡市に移っていった。
戊辰戦争は引き続き東へ移って行ったが、幕府は崩壊し、幕将は追われるように、この江戸を離れていく

Img_0954111南部坂
石垣と植え込みの壁に囲まれた坂、この石垣の上がベールに包まれたアメリカ大使館宿舎、一等地に広大な敷地の中、別天地のような世界が献上されている。
もとは江戸初期の盛岡藩の屋敷があったことから名付いた坂
江戸前期・中期から柳沢吉保(よしやす)松平美濃守の屋敷
赤穂浪士などドラマでも良く扱われる

Img_0975111 薬研坂
坂の上部から見下ろすとすり鉢状の薬研そっくりである。
この急さかを登り切ると国道246 青山通りに出る。通り越しの広大な敷地は現赤坂御用地で徳川御三家の一つ、紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷。
恐らく篤姫でも登場するであろう14代将軍家茂も此処紀伊家の出身である。この坂を登り切ったところ青山通りに出て左折すると、先程の2.26の青年将校の凶弾に倒れた高橋是清邸に出る。

坂を中心に佐幕も倒幕も近隣に屋敷を持ち住みこの街を現代に伝えているのが、中々面白い、以下で詳しく紹介している。

赤坂散歩

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華のお江戸を歩け歩け

Img_12061 ぎらぎら焼き付けるような太陽のもとで歩くにはそろそろ限界と思いつつ、赤坂周辺を再び徘徊した。六本木は勝海舟の3番目の居住跡を探し求めたが都市開発に埋もれ、見付けられなかった。赤坂からR246を東上し紀尾井町から平川町へご覧の平河天満宮のてるかん坊さんに迎えられる。

この地籍から平河町に幕府の処刑人、首切り浅右衛門の邸宅をどうしても探し当てたかったが、ここも小さなビルが乱立し、その碑ぐらいもと思ったが、此処も外れてしまった。折しも、丁度昼時であった為、昼飯にビルから吐き出されたサラリーマンでごった返し、街中をウロウロする雰囲気でもなかったので、早めに諦め、次の探索地皇居へ向かう。尚浅右衛門の墓は当サイトで紹介している。四ツ谷の勝興寺

Img_12971 あの篤姫ツアーは時間に追われ、じっくり時間を取り、確かめたかったので、再度のリベンジであった。半蔵門から皇居を挟んで反対側の九段下に回り、田安門側から北の丸公園を通って、北詰橋門側から天守閣攻めを果たす。と言っても、朝から歩きづめ、前かがりに倒れそうな状態に、天守閣への急坂は厳しく、矢、銃の前に討ち死に果てる所であった。何も無い天守閣に青い目の欧州系や中華系の外人が、何故か半分以上を占め、外国語が飛び交う国際色豊かな観光スポットになっている。天守閣跡の高台に真北は武道館の特徴ある建物が、先程通った軌跡を追える。一方反対の南は一面の広大な芝生に僅かな松の木が僅かに植わっている。この辺があの篤姫の舞台になった大奥や松の廊下が会ったはずであるが、その位置を示す案内もかけらもない。昨年行った、seoulの景福宮は遺産の復元に物凄いパワーをかけ、修復するエネルギーに、歴史に対する思い入れの違いかなあと思ったりする。外国人にどう映るのか、何れにしてもこの人気スポットに世界遺産として、文化と観光開発すればと安易に考えてしまった。

大きな石垣と幾重にも立ちはだかる門とそれを護衛する番所が僅かに確かめられる歴史の姿、21万㎡の巨大な皇居東御苑をたっぷり回り、徳川200年の歴史をじっくり確かめ、平河門から足を引きずるように帰路についた。堀越しに見える、石垣と門、絵になる風景に、しばし足を止め、その姿に改めて感動する。篤姫のドラマ進行に併せ、徐々に解凍していくかなと、確かな手応えのある一日であった。

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