カテゴリー「15、佐倉・佐原」の記事

天皇陛下の心臓手術と順天堂

                <佐倉の順天堂>

Jyunten01 天皇陛下の心臓大手術が行われ、無事に終わり術後の養生されておられることは喜ばしいことである。
この大手術に東大と順天堂大学との合同チームと言う異例の治癒態勢であったことが報じられている。
陛下の心臓の病気を診てきた東大が、非常に良い成績を残されている実績から、敢えて順天堂大学の天野篤教授に協力要請し、ベストの治療を目指した選択であったと、評価されている。
天野教授は心臓を動かしたまま、血管を縫い合わせるオフポンプの手術のリーダー的存在で、これまで約5500件の心臓手術実績が裏打ちされている。
TVでも模型を使って、天眼鏡もどきで拡大し、心臓を動かしたまま血管を針と糸で縫い合わせる微細で高度な手作業であった。
高度医学が進んだ現代でも、経験に培われた、その手腕による「匠の技」そのものである。

順天堂と言えば佐藤 泰然(さとう たいぜん)の名前が浮かんでくる。
泰然は天保14年(1843年)江戸から佐倉に移住した「佐倉順天堂」を開設し、現在の「順天堂」に繋がっている。
「順天堂」は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。

「泰然」は、文化元年(1804年)公事師の佐藤藤佐(さとうとうすけ)を父に現在の神奈川県川崎市生まれる。
名は信圭(のぶかど)泰然は通称である。
蘭方医を志し、長崎に留学し、蘭学の見識を深める。
天保9年(1838年)、江戸へ戻り、両国薬研堀に「和田塾」を開く。外科の優秀性を認められ、患者や塾に生徒が集まってくる

◇「泰然」が残したもの
「泰然」は順天堂の塾生がオランダ語の習得と書物だけの勉強に偏ることなく、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、教育した。その結果、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。
ウイルス感染により起こる天然痘は当時大変恐れられていた病気であったが、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ策から、安全で進歩した牛痘法を佐倉藩内にいち早く導入し、高く評価されている。

◇多くの人材が羽ばたく
「泰然」は実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物は選んだ進歩的な選択は代々受け継がれ、「順天堂」の発展を支えている。実子の「良順」も松本家に養子に出し、「松本良順」として幕府の頭取になり、戊辰戦役では幕府典医として活躍し、新選組とも関わりを持っている。
一方、優秀な弟子であった「尚中」を養子にし、「順天堂」の後継者としている。これも「泰然」の拘りが貫かれている。
幕末期の戊辰戦役では、幕府軍、新政府軍の軍医として主要な要職をはじめ、軍の要職や外務大臣な始め、榎本武揚の妻など内外の主要ポストに繋がる系譜が生まれている。
「泰然」の後を継ぐ、人物は養子であり、4代まで続いている。姉妹はそれぞれ各界の要職の妻として嫁がしている。

「泰然」のこうした「順天堂」の発足思想である有能な人材の育成が今日まで、実践され、代々受け継がれている。
一昨年、その 「泰然」を追い佐倉順天堂に行って見た。

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被災にあった佐原、佐倉の街

Sawara304江戸時代、佐原は 利根水運を利用し江戸との交流が隆盛をきわめ、醸造業や商業が大いに発達した。江戸から文人墨客が往来し、佐原の文化形成を成している。佐原を代表する商家の一つ伊能家は佐原支えていた。全国を測量して地図を作った伊能忠敬も養子に来て伊能家を支えた一人である。
利根川に分流する小野川と香取神宮に通じる香取街道には江戸時代の建物が多数残り、文化財として保護され、街ぐるみ江戸の街並みをそっくり残している。
香取神宮の重厚な本殿や、伊能忠敬が残した遺産、それを包み込んだ小江戸と言われる歴史の佐原を一回りした。
更に佐原から南西方向で約30㎞で結ぶ佐倉も歴史を残す大事な場所である。
佐原から佐倉へ廻ったのが昨年(2011)の11月のことであった。

佐原は江戸風情が残る小野川沿岸の風景を観光遊覧船から眺め、のんびり時を過すのもまた楽しい。
周りを憚らず、ほぼ、横になっても、咎められる事は無い。短い足を思い切り延ばして勝手きままな姿で、位置取りして、軽いエンジン音で船は走り出す。風もなく、真っ青の空、ゆっくり動く空気が何とも心地よく、石垣を超え、見上げる古い街並みにすっぱり、時を戻す、タイムカプセルに入った感じがする。

小江戸と言われる歴史の佐原を一回りした。
舟を操る、深い笠を被り、頬っ被りで隠した着物姿のお姉さんは真っ白い素肌の乙女姿を勝手に想像してしまった。素顔がどうしても気になる。ドギマギしながら下から見上げると、タオルの内側は日焼けし、かなり風化した何十年前の素朴なお姉さんであった。

小野川を散策中、同行者が「正斎貞亮書」の宝物の石碑を街角で発見した。「正斎」は佐原中宿の人、江戸の昌平黌で漢学を学び、書の大家として有名であった。剣術に長じ、千葉周作とも親交があった。
日野宿本陣の玄関の間の扁額「乃武乃文」「正斎」の作品として、馴染みがあるが、佐原で代表する、著名人の一人であった。
「佐藤彦五郎」と「正斎」とが文化人としての接点から、日野にも作品が残されたと想像するが、そのルーツをこの碑が語りかけてくれた。

佐倉は城下町であるが、その佐倉を代表する一つは、「佐藤泰然」が幕末に西洋医学を取り入れ優秀な人材を育てた場所が佐倉順天堂である。幕府軍医「松本良順」は息子であり、「佐藤彦五郎」の息子の養子先の有山家からも優秀な人材の一人として順天堂の歴代理事を務めている。
そんな医学のルーツと日野との関わりを確かめることができた。佐原と佐倉、何れも日野との繋がりがあることが、この旅の大きな収穫でもあった。

そんな佐原の街並み、佐倉を楽しんだのが昨日のことのようであった。それが、あの3.11で夢が吹っ飛んだ。

佐倉の順天堂記念館から、生々しい情報を手紙で頂いた。それによると

『3.11は震度6近い大地震に見舞われた。激しく、且つ長く揺れる地震に建物が倒れるのではと心配されたようであった。幸いに漆喰など一部が損傷しただけで大事に至らず、それでも数日間の臨時休館の後、通常通りの開館をしている。』とのことで、経験のない大きな地震であったことが伝えられている。

<佐原の街の姿を震災前後で対比してみた>・・・震災後はネットから引用

福新呉服店(明治28年)震災前

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震災後の姿 、左は福新呉服店で右隣はそば屋の小堀屋本店、梯子が架けられ復旧工事にかかっている。当時、毎員盛況で時間をかけての手打ち蕎麦を食べたのが此処、小堀屋本店であった。Fukusin11111 

正文堂書店(明治13年)震災前

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震災後、一・二階の瓦が殆ど落ち、下地がむき出しである。 看板も落下物で覆われ、道路は大量な落下物で積まれている。激しかった震災の模様が伝わってくる。

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観光船が走った、小野川震災前風景

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震災後、小野川の護岸の石積み部分が崩壊、道路も一部陥没している。

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街のいたるところで激しく屋根瓦は崩れ落ち、土蔵は土を剥き出しになった。道もいたるところ、損壊しているようである。大震災により、町並み景観はかなり崩れた。しかし倒壊が無かったのはせめてもの救いだったのであろうか。かなりの激しい深手を追ったが、再び往事の街の姿に恐らく復元しているのであろう。唯一、江戸を語り継げる、風情ある街並み。再びの賑わいを見守りたい。

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幕末の風を求め「佐倉」へ

Sakura107佐倉市は千葉県北部、北総台地の中央部に位置し、都心から40㎞の距離にある。千葉には南西20㎞、北部には印旛沼がひろがる
面積は約104k㎡ある。佐倉の市域は印旛沼の南に広がる、低地、台地、傾斜地と変化に富んだ地形にあり、その間を鹿島川、高崎川、小竹川が流れ印旛沼に注いでいる。佐倉城址周辺、印旛沼周辺や東部、南部の農村地帯など豊かな自然が残っている。
その佐倉で吹いた歴史の風を辿ってみた。
佐倉は戦国時代から大名千葉氏の居城として、栄え豊臣に滅びるまでの歴史を持ち、更に幕府配下で佐倉城の築城もあった。
そんな背景から下総国(現千葉・茨城)の中心地ととして、歴史的な基盤を備え、明治維新後、そのまま千葉県の県庁所在地になってもおかしくない都市であった。
維新後、徳川親藩の堀田家で官軍に素直に従わなかったからか、県庁所在地は千葉市に取って代わられた。同じような運命をたどった都市は、滋賀県の彦根市(井伊大老の彦根藩)、山形県の米沢市、新潟県の長岡市なども同様の扱いと考えられる。地方の大きな都市として歴史と文化を持ちながら、その時の主(あるじ)の考え方が、幕府側についたと言ういうことで、何れも県庁所在地になりえなかったのである。


廃藩置県後、佐倉城は取り壊され、城跡は鎮台が置かれ、今は国立歴史民俗博物館が建っている。
かっての栄華を誇った佐倉城も、積み上げられた土塁が僅かな城跡を留める程度であった。
宮小路町はその佐倉城に出仕した武士たちの屋敷が建ち並び、今でも一部残っている町なのである

<武家屋敷>

Sakura509佐倉城から西へ「ひよどり坂」を下って武家屋敷のある、鏑木小路に向かう。坂の名前の由来は判らないが「ヒヨドリの鳴き声が聞こえた」ということなのであろうか、名の通り幻想的な世界を生み出すロマンチックな、急坂である。現在は真竹から孟宗竹に種類が変わったものの、深い竹林に囲まれた坂道の形状は、昼尚暗く、江戸時代と、ほとんど変わっていないという。土の地面と言い、自然の中の世界は江戸の世界をそっくり、残した異境の世界である。
鏑木小路は、土手・生垣で整備され、花道として武家屋敷の世界を演出している。
江戸時代の武家屋敷の大半は藩の所有で、藩士は貸しあたえられた。大名屋敷などと比べ、規模は小さく質素であった。

屋敷の規模や様式は居住する藩士も身分によっても変わってくる。天保改革によってぜいたくは諫めることを目的に、身分によって、住宅の規模や門の形式、玄関の間口と構造、畳の種類まで細かく規定している。
佐倉に保存公開されているものも、それぞれ3種の等級を持ち、旧河原家住宅は「大屋敷」、旧丹馬家は「中屋敷」、旧武井家は「小屋敷」に当たる。
これらの3種の身分の違いから、作られた屋敷が移築され、同じ場所で比較しながら見られるのも面白い。

共通していることは限られたスペースに自分の住まいを削っても招く客人の部屋は比較的広く、持てなしの心ゆきが感じられる。

<佐倉順天堂記念館>

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佐倉藩主「堀田正睦」は、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派で蘭学を奨励した。

天保14年(1843年)、佐藤 泰然(さとう たいぜん)は佐倉藩主「堀田正睦」の招きで江戸から佐倉に移住し、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設する。
「泰然」は、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。
ウイルス感染により起こる当時大変恐れられていた天然痘は、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ内外に、高く評価されている。
外科の手術に自信があったが、華岡青洲によって開発された麻酔薬は、副作用がひどかったので、「副作用で死ぬ人が居る、生きたいのなら少々我慢しろ」佐藤泰然は手術に麻酔薬を用いず、患者の生命力を頼って手術したといわれている。
のこぎり他当時、使われた手術道具である。麻酔を使わず、生身の体に加えられる執刀の道具に想像しただけでも、身の毛のよだつものであったか、伝わってくる。 しかし、かかったら諦められた不治の病にメスを入れ、根治に繋げられる一縷の道にかけ、患者を救っていったのである。
安政5年(1858)蘭医塾・診療所となった建物は千葉県指定史跡になり、「佐倉順天堂記念館」として公開されている。

折しも某民放局の「JIN-仁」が華々しい前宣伝で4月17日に放映された。 脳外科医の「南方仁」が幕末の江戸時代にタイムスリップして色々な事件に巻き込まれていく。

仁は阪本龍馬の要請で京に向かい、医者の立場で要人を救う。中でも虫垂炎で瀕死の「西郷隆盛」を自ら、メスを入れ内蔵を抉る生々しいシーンが重々しく、蘇る。西洋医学の概念も無い時代に、腹切りの手術は切腹そのものであり、周囲の驚愕をよそに粛々と進められた。

一方、泰然は麻酔を使わず、敢然と病に立ち向かっているのである。生身の体に加えられる執刀の道具、麻酔もなしで手術に耐えた患者も偉かった。そんな事が思い起こされる「佐倉順天堂記念館」であった。

江戸の風が残る佐倉の詳細は以下による。

下総の国「佐倉」

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幕末の佐倉順天堂

                        <本郷キャンパスにある順天堂大学>220pxjuntendouniv1

文京区本郷キャンパスにある順天堂大学は医学部を中心とした名門である。お正月恒例の箱根駅伝では優勝11回を数える常連校として茶の間の話題に賑わしていたが、最近は各大学の宣伝効果を狙って、群雄割拠の時代を迎え、中々出幕も少なくなってしまったが、順天の名前でトップランナーを多く輩出し続けている。
その順天堂は天保9年(1838)佐藤泰然が江戸薬研堀(現東日本橋)に蘭方医学塾(和田塾)を開学し、多くの医者を輩出した現在の順天堂の起源である。
戊辰戦争では幕府方の医者として活躍する「松本良順(後に順と改める)」は「泰然」の実子であり、日野宿の名主佐藤彦五郎の4男有山家に養子に行った「彦吉」の実子も順天堂の要職に就いている。
戊辰戦争の荒波から維新の時代の流れの中に順天堂の医術ががどう関わってきたか、当時の医術の最前線ともあわせ調べてみた。

                              <佐倉順天堂>Img_97661 天保14年(1843年)、「泰然」は佐倉藩主「堀田正睦」の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設する。「正篤」は、、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
藩主としては蘭学を奨励し、「泰然」を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどから「蘭癖」とまで呼ばれた。
一方では蘭学を認め難いと言う,幕臣もおり蘭学者にくわえた「蛮社の獄」と言われる弾圧事件があるが、「泰然」は蘭学者「高野長英」を匿った首謀者として幕府の目付役「鳥居耀蔵」に睨まれて江戸を出なければと言う諸説もある。
「高野長英は」入牢6年後脱獄したが,その後自殺する。
「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極め、蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育てる。
順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。
嘉永6年(1853年)「泰然」は功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。
安政6年(1859年)、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居する。
◇「泰然」の息子「順」が何故「松本順」に
「泰然」は実子を後継者にこだわらず優秀な人材を受け継がれ佐藤家は4代まで養子に継がせた。
里見の一介の医者に過ぎなかった「泰然」は息子の「順」を友人の「松本良甫(りょうぼ)」に養子に出し、松本家として幕医の地位の道を選んだのも、その一つと考えられる。
「順」は幕府軍医の責任者となり徳川家茂・慶喜、篤姫などの主治医となり、戊辰戦争では幕府方の負傷者の治療
を勤める。重傷を負った新選組の局長「近藤勇」や 、新選組隊士の診療も行った。

                              <戊辰戦争>Img_93401◇戊辰戦争では敵味方に
戊辰戦争で国内が旧幕府か新政府か揺れ動く中、時の佐倉藩主「堀田正倫」が徳川の存続を京で嘆願中、幽閉され藩主不在の中、新政府側に付く。そんな背景から佐藤家に養子で迎え入れた「進」は戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで負傷した会津藩兵を江戸で治療したが、東北転戦に新政府軍の医者として送り出される。幕府方は「泰然」の息子の「順」が付き、新政府側は養子「進」がそれぞれを敵味方相まみえる両軍の医者のトップとして功績を上げる皮肉な結果が生まれる。
「順」は会津戦争後、仙台にて降伏し、戦後一時投獄されるが赦免され、出獄後に山縣有朋などの薦めで軍医総監となる。
◇維新以降
明治維新後、養子として向かい入れた「尚中」は順天堂第二代堂主となり、明治新政府の要請を受け、佐倉より門下生を率いて上京し、大学東校(東京大学医学部の前身)の初代校長として近代医学教育確立に尽力した。
今日に至る以降も「泰然」の意志は継がれ、医者として有能な人物を選んだ進歩的選択は代々受け継がれているが、その一人が日野の「有山登」である。「登」は「彦吉」の次男で佐藤達次郎次女「寛」と結婚し、1955年~1984年にかけて5代目の順天堂の堂主となり、二代目の順天堂理事長を勤めている。親戚として新選組と関わりの深い「松本順」との繋がりをもっているのである。高幡不動の近藤・土方が幕府の忠節を讃える「殉節両雄之碑」の建立推進役の一人は佐藤彦五郎で書は「松本順」である。
◇生死をかけた手術手法
「泰然」が手がけた時期の手術は麻酔薬は、副作用がひどかったので、「副作用で死ぬ人が居る、生きたいのなら少々我慢しろ」と手術に麻酔薬を用いず、患者の生命力を頼って手術したといわれている。
手術をする場合は、「手術承諾書」と手術により死亡した場合、佐倉に埋葬するために必要な書類を患者に提出させていた。
当時の外科手術はそれだけ、リスクも多く、生命に関わる事だけに、実施にあたっては、当事者のみならず、藩まで巻き込んでの医療行為であった。
手術道具としての"のこぎり"も、使われたのである。麻酔を使わず、生身の体に加えられる執刀の道具に想像しただけでも、身の毛のよだつものであったか、伝わってくる。 しかし、かかったら諦められた不治の病にメスを入れ、根治に繋げられる一縷の道にかけ、患者を救っていったのである。
当時の外科手術の最先端の患者は、麻酔なしで体を切り開かれ、とても残酷なようであったが、「泰然」は、痛みより病人の命を大切に敢然と立ち向かったのであった。
安政5年(1858)蘭医塾・診療所となった建物は千葉県指定史跡になり、佐倉順天堂記念館として公開されている。

系譜を含め、詳細はこちらで紹介してます

佐倉順天堂
 

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