カテゴリー「04、佐藤彦五郎・日野宿本陣」の記事

スタンプラリーで賑わった日野宿本陣

18号台風の影響か、今朝は風を伴う激しい雨、こんな日に運悪く本陣当番であった。
平日、悪天候の中、来館者が何時くるか、判らないのであるなら、時間を有効につかうしかない。
待機覚悟で、普段読めない資料を抱え、待ち時間を有効に使おうと、いざ戦いの場に臨んだ。
その怪しき天候も覆われた雲が徐々に解け、嘘のように青空がどんどん広がった。

本陣前および交流館では平日に関わらず、開館前に集団が集まり、待機する姿は普段とは全く異なる姿に、一瞬何事かと思った

この群れあいはスタンプラリー始まりであった。
何時も出迎えで使われる旗のデザインが、リアルな歳三写真から、アカデミックなイラストの「薄桜鬼」 に変わった。
旗始め、案内用のパンフレットなどの準備にこのラリーにかける、関係先の気合の入れ方は半端ではなかった。
ネットの世界、ネットを通じて呼びかけ、この旗の元へ満を持して駆けつけた集団であった。
 薄桜鬼は新選組を背景とした恋愛ロマン、と聞くが、若い女性フアンをターゲットにと思い、やはり若い人、女性が多かったが、中にはおじさん達も結構多かった。 

時間が来て山門を開けるとフアンがドットと敷地の中へ、流れ込み、玄関前に置かれたスタンプ台に殺到する。
しかし、その群れあいを目の前に、スタンプを押したら、館内に入らず、そそくさと次の拠点に慌ただしく向かって行ってしまった。
開館時はそんなことで、目の前の騒ぎを見ながら、掲げた旗は揺れながら、スタンプラリーの案内役になびいただけに留まった。
人の群れに、係の人が、何とか入ってくれないかと懸命に誘導案内したが、問いかけに頷くものの、心此処に非ずで、ともかく次の拠点へスタンプ集積に、完璧に洗脳されていた。ただ端に歴史とは無関係に日野駅から始まる8カ所の拠点巡りのスタンプ集めにすぎなかった層の集まりでもあった。


ん~ん、人寄せパンダも此処までかと、半ば諦めていた。
しかし、それも時間の経過と共に、寄ってみようとするフアンが現れ、その何割かが入館された。

平日、しかも雨の中、足を運ぶ人も少ないと思っていたが、予想は完全に覆った。
昼を前後に切れ目なく入館され閉館まで来館ラッシュが続き、何時になく対応に追われ,うれしい悲鳴をあげたた。

◇案内思考にその引き出しの中身
さ~て、満足して頂くためには、どう望むかはこれまでと特別変わったことはなかった。
①入館者に注がれるのはやはり歳三であった。
歳三が武士の姿で散って行った男の美学やロマンなどの人格形成に幼少期を過ごし、浪士組と羽ばたいてゆく過程で支えた佐藤彦五郎とその妻のぶの関係など系譜を前に皆、集中していた。

②慶応4年、新選組鳥羽伏見の戦いで破れ、江戸に撤収後、甲陽鎮撫隊で勝沼の戦いで破れ、四散する中、彦五郎も巻き込まれ、五日市への逃避行。匿われて、助命嘆願され晴れて戻れたが、その許可は西郷どんであったことなどなど。

③名刀の康継が何故、歳三から佐藤家に贈られたのか?、上記で彦五郎一家が五日市に逃避するが、息子が八王子に官軍につかまり、持っていた刀を取り上げられた。その話に歳三が可哀想と源之助に譲った。


④慶応3年薩摩藩邸から出没した薩摩御用盗事件で彦五郎以下日野剣士と八王子壺伊勢屋での大乱闘事件


⑤明治13年明治天皇行幸、随伴者はなんと300人近くの大量。その中に新政府を委ねる、伊藤博文、長州系公家の三条実朝など討幕の先頭をきった、連中が旧佐幕であった当地への来訪であった。

とうとう、底の深い引き出しの披露に、熱くなり、語ってしまったが、最後まで耳を傾けて頂き、感謝でしかなかった。

◇国境の垣根を越えて
香港で若者のデモ活動で顔隠しに黒マスク姿が最早定番になっているが、来館者で烏天狗の出で立ちの中国暦女であった。
外見上は同じ東洋人で姿は全く識別出来ない
日本語は判るか、訪ねると、大丈夫となまりのある言葉に日本人ではないことが判った。二人の出身地は上海と北京のかなりの離れた場所で、あるがその知り合いの結びつきは何とネットを通じて「薄桜鬼」であった。
同じ中国人でも、日本のアニメによる結びつきで大変驚いてしまった。
それでもこちらの説明が理解できず一方的になってしまうので、一つ一つ確認しながらの説明であった。
話の説明段階で「やまなみ」の話に、首を傾げていたが「さんなん」さんですねと、返す言葉に、驚いてしまった。
形はどうあれ、「薄桜鬼」を通じて、国を越えて、新選組が浸透している事実に驚いてしまう。
中国共産党の主権で拡張一方、一帯一路の路線で突っ走る中、いろいろ国際的にも問題を起こしている。しかし一方ではこう言う庶民層で日本文化がしっかりと浸透していることを思い知らされた。
微力ながら、ささやかに、交遊が深められたことに感謝する。

気合を入れ、一方では飛び交う蚊と戦いながら、何とか充実した一日が終わった
日の落ちるのが早く、既にうす暗くなった道を家路に付いた。

お客様を相手に緊張感も解かれ、どっと疲れが、足元も多少怪しく、越えねばならない、神明の坂が、重く長いハードルであった。

 

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本陣の梅も芽吹いた

◇歳三、没後150年
歳三が函館一本木関門付近で亡くなったのが明治2年で西暦に換算して1869年である。
今年が2019年であり丁度没後150年目の節目にあたる。
函館で旧幕府軍の幹部の一人として新政府軍と戦い、銃弾に倒れ生涯を閉じた。
旧幕府軍は降伏、日本は新政府の元、新しい時代を迎え、幕府を支えたサムライ文化の終焉でもあった。
平成29年度に、市内を通る中央線、京王線、多摩モノレール沿線24区市を対象として実施した「日野市認知度等調査」では、新選組と聞いて思い浮かべるキーワードの第1位が「土方歳三」であったようである。
 土方歳三の高い認知度を通して、市の認知度向上に繋げるため、歳三没後150年を迎える本年は、通年にない『歳三』にスポットを当てた活動が予定されているようである。
先日、物凄い烈風の中、市役所前の公園で僅か10数人前後でセレモニーを行われ、何事と思ったら、歳三ラッピングタクシーのお披露目であった。

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寒さの中もあって、関係者だけのセレモニーであったが、怒派手な車両が目についた。
タクシー車両として市内に疾走し、いやでも目に入る。
更に市内を縦断する鉄路では中央本線の特急の先頭車両にも歳三の絵姿が飾られ、甲陽鎮撫隊の影を追うように甲州路を疾走するImages1
目につきやすい、タクシー、特急列車が先ずは歳三宣伝の一役を担っている。
そんなこともあって、周囲は緩やかに歳三で燃えている。

農家に生まれながら、武士らしく生き、その統率力から旧幕軍の幹部として上り詰めた歳三は日野が生んだ幕末のヒーロである。
2004年、大河ドラマ新選組として、山本耕史がその役回りを見事に演じ、メデイアを通じて、新選組が再び火がついた。
あれから既に15年余りの時の経過、その大河ドラマを知らない世代もかなり居るぐらいにフアン層が変わってきていることも事実である。
その歳三(山本耕史)が再び日野にやってきた。Img1791
本陣に訪れ、応時を思い出しながら、土方を演じたことは役者人生でも大きな出来事の一つであったこと、一般市民との出会いで声をかけられ、新選組と土方歳三が、しっかり根を降ろしていることに感動しているようであった。丸みを帯びた風貌に10数年の経過も歳三の目がらんらんと輝いていた。

◇本陣の梅が芽吹く
日曜日もあって、木枯らし吹く、寒い日であったが、東京地方は全く雨がなく、からからの陽気。極寒の朝、中庭でホースで水撒き、水回りが凍りつき、思うように出てこず、敬遠されている。

「だから敢えてやってやるぞ」と水撒きに取り組む、漸く出てきた噴射水に、土の部分からもうもうと土埃が舞い上がり、たちまち大地に吸い込まれてしまうが、周辺の木々を含め、恵みの水洗礼に生き生きと蘇った。
中庭、回廊脇のの2本の梅の木、日当たりの良い方が早くも真っ赤なツボミが着実に春の訪れを伝えている。

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1月もあっと言う間に押し迫るこの時期であるが、時代をさかのぼると歳三の姉おのぶさんが佐藤家に嫁ぎ33年間、子育ても果し、明治10年1月、正月を迎えて間もなく47歳で雪の降る日に遺ってしまった。
梅の咲き具合から、彦五郎と生前の、妻おのぶさんと対話していたことを亡き妻との思い出を俳句で飾っている。
「散る雪や柳を見ても、梅見ても」
建物の前の真っ赤なツボミの梅の木に、多趣味の本郷名主佐藤彦五郎の俳号、春日庵盛車の一句に、以下の言葉を併せ残している。
33年の春秋も実に夢の如く、只幻に残りて一個の木枕へと応えず、(おのぶよと言っても応えなく)青木翁の愁情も今更思いやられるばかり(青木翁が亡くなり、寂しがっていたがそのときに余り聞いていなかったが、自分の妻を亡くして、今更思いやられる)
生前夫婦間で交わした対話に出てくる柳、梅を雪を素材に幻想的な世界、残された木枕を前に悔やむ思いを切々と伝えている。

そんな舞台装置を背景に茶間から見える姿が改めてこの俳句を作った彦五郎さんの感性が彷彿される。
日中は切れ目なく全国から来館者を迎え、恐らく新選組フアンが根強く繋がっている。
そんな話に一生懸命聞いて頂いたフアンに何か響くものがあったようで、嬉しかった。

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佐藤彦五郎逃亡先五日市、『羽生家』を訪ねる

慶応4年(1868年)3月、鳥羽伏見の戦いに破れ甲陽鎮撫隊に名を変えた新選組が甲府城を目指した。
この勝沼戦争に日野宿問屋佐藤彦五郎は近藤に協力しようと、日野宿の農兵で組織し、甲陽鎮撫隊の後を追った。

       <新選組祭り、先頭に武装姿の彦五郎役>

Toubou01<日野宿農兵隊が使用した旗>

Yasutugu104しかし甲陽鎮撫隊は甲府城先取に失敗し、板垣退助率いる東征軍と勝沼で戦い破れた。
逃げ戻った彦五郎は「朝敵」とされ東征軍に追われ、親戚や知人を頼って身を隠した。
その約一月後、流山に転陣した近藤は東征軍に降伏し、板橋刑場で斬首された。
そんな背景もあって東征軍の厳しい探索は戦慄が日野宿を走った。 身に迫ってくる、厳しい追求の中に彦五郎始め家族全員がそれぞれ逃げまくった。
彦五郎(42歳) 妻のぶ(38歳) 二女とも(5歳)を下女あさ(18歳)に背負わせ日野宿から西へ下った。
東光寺道より粟の須、多摩川周辺から五日市街道を西下二宮村茂平宅に辿り着く。
途中粟の須で官軍の追求もあったが何とかかわし、逃れた。茂平氏の案内で五日市在大久野村なる、羽生家にすでに夜半の1時頃で着いた。
<果てし無く続く塀の広大な敷地の羽生家>
Image111同家主人始め皆起き出て、茂平氏より委細を聞きかつ同情せられ、奥座敷に招かれて食事万端手厚き待遇を受け、全く安心して床に着いた。
もう此処まで来れば、追っ手は此処まで及ぶことはないだろう、緊張感を解かれ安堵感と長旅の疲れで、深い眠りにつき、一先ず長い長い追送劇の一日はようやく終わった。
彦五郎一同は此処で匿われ、暫く長逗留し、懇切なる待遇を受け、その間茂平氏 からの日野宿はじめ官軍の動向を伺った。
◇助命嘆願の工作
彦五郎は傘を冠りござをまとい、脚絆草鞋のの商人体で潜伏した居た大久野村からただ一人、様子を探りに出た。
粟の須の井上家で捕縛された息子の源之助が釈放され、騒動以来、初めて親子対面、一座嗚咽の声に満ちた。
明方近く彦五郎は出立。砂川街道を廻って江戸に入り、忍びしのんで、向島に潜んでいる近藤、土方を訪ねて、 一族赦免の件を相談した。
近藤は大久保一翁に、土 方は海舟勝安房守に、密使を立て懇々書き送るところあって、朝廷寛典(かんてん)の御処置を希願した。
数旬の後、日野佐藤彦五郎一家差構(さしかまい)なしと、大本営詰め西郷候より達しがあり、漸く離散潜伏していた家族一同が、帰宅することが出来た。
こうした、近藤、土方らの働きかけとは別に地元日野宿から帰村嘆願が官軍に提出され嘆願叶い、彦五郎は帰宅が出来た。

◇そんな羽生家を訪ねて見た。
、小田原から、兄弟で当地に移り、農林業に従事する。兄弟がそれぞれ後を継ぎ、、現在は上羽生、中羽生、下羽生含め、年一度、中羽生家に集まり、山に登って住職が、お経を上げた後、、先祖様の感謝の念をこめて、宴がもたれる。

五日市街道の幸神、(地図上では大久野中学校)から分岐した道が『羽生通り』と言われ、この道沿いに誉れ高い名家 『羽生家』の一族が住まわれている屋敷がある。
この『羽生通り』の先がこんもりした森に繋がるが、羽生家がある

◇羽生家
(敷地と建物)
1)広大な敷地
敷地面積は大凡25、000坪と言われ、羽生通り沿いに、羽生家の屋敷の一角に到達する。数少ない巨大な3階建ての倉が、更にその脇に巨大な薬居門が、でんと構え、地域の歴史を今日に伝えるシンボル的な役割を担っている。
周りに建物がなく、板塀越しの倉、切妻屋根の風格を備えた門を前に重厚な格式と歴史にタイムスリップ出来る。
その倉に沿える様にある巨木は昭和18年頃植えられ、小字落合の雑山にあった4~5尺の欅で、幹周320cm、推定 高さは31mと言われ、日の出町の名木の一つと言われている。

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①番小屋付き通用門)
広大な敷地は黒い板塀が敷かれ、南都方向には石垣など築かれている。奥が番小屋付きの『通用門』で通常の敷地の出入り口利用される。出番所が付いており、立派な詰め所を供え門番を配置する 。

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② 薬居門

Toubou504明治15年製の薬居門は随所に装飾金具を付け、重厚な構えは表門として格式を備えている。
門は木目が揃い吟味された材料を使い、高さ5~6mの壮大な構造の門である。構造的に少し重心が後ろの方に行くように、塀の奥側に屋根の中心になるような構造になっている。
屋敷の出入りは通用門で薬居門は何時も閉まっており、冠婚葬祭や年に何回かの祭りの時の限定利用に、門の重さ、風格を感じられる

*薬居門:本柱の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門

③ 中庭
表門を潜って、正面の主屋に結ばれる花道は石畳が敷かれ両側は庭石と植木が植えられ風情を備えた日本庭園風に綺麗に整備されている。
主屋の前は性格の異なる2つの庭園が板塀によって仕切られ、手の込んだ庭作りに、持ち主の思い入れに格別のも のを感じられる

④ 主屋

主屋は、数年がかりで建築し、明治24年(1891)に完成した。当初の平面構成は東西2列、8間(14.5m)に並んでいる。
表門は南側に格式を重んじた入母屋造りの屋根に式台付きの玄関口で出迎えられ、繋がる部屋には欄間や床の間 棚、付書院が設けられ、高い格式が備えられている。

春夏秋冬の絵は大政奉還図を描いた立川に住んでいた『邨田丹陵(むらたたんりょう)』の一級品の作品が飾られてある。
等々、羽生家にある書・絵からも、当時の高位な人脈にも繋がっている。

⑤)6棟の土蔵
敷地内は6棟の土蔵があり、白漆喰で比較的小振りな穀蔵と味噌蔵の3棟は江戸後期に建築され、大火事で屋根が焼け落ち修復したと言われている。
残りの3棟は火事の後、明治中期に建築されたものと言われている。これ程多くの蔵が建てられた のも『大久野焼け』の甚大な被害の反省から地域共通の傾向と言われている

◇お宝発見
昭和63年(1988)頃、同家の土蔵から、近藤勇の手紙が発見された。佐藤彦五郎が同家に匿われた時に近藤の書簡を預かっていた彦五郎が置いていったと言われている。
彦五郎来所以来であれば土蔵の中に約120年眠っていた『三浦休太郎宛近藤勇書簡』が白日の元に晒された

Toubou602慶応3年(1867)11月18日付けの近藤勇から『三浦休太郎』宛であるが、未提出のままである。
紀州藩士の三浦休太郎は坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
この手紙では三浦の元に潜伏していた「二郎」という者を必要とする事件が出来たので無断で引き取ったことをわ びている。
手紙が書かれた翌12月には三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊が襲撃、新選組と斬り合いになった。三浦は軽症であったが、近藤勇の従弟で新選組の宮川新吉が戦死している。
油小路事件の当日に書かれた。その直前に『斉藤一』が御陵衛士 から脱走して新選組へ戻るが、その間 三浦休 太郎の元で斉藤一を使っていたが、近藤勇が戻した詫び状でここにある「二郎」は 斉藤一である。
近藤と御陵衛士 との約束で一端御陵衛士 に行った者は戻さないと言う約束であったので、斉藤一では帰れず「山口二郎」と言う名前を使っている

御陵衛士が新選組から離脱する渦中の生生しい話である。三浦休太郎への近藤勇のわびの手紙が此処五日市 大久野村、羽生家眠っていたのであった。
そんな記録を直に接する機会を頂き、身の引き締まる思いで拝見することが出来た。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

彦五郎逃亡記 

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21回新選組まつり、日野宿本陣にて

<パレードの先陣を飾る大きな旗、 当初は何とか行軍が行われたが、雨のため中止>

O05560426141900445731新選組に熱く燃える一日
迎える者、訪れる者、それぞれ期待感を持って臨んだが、天候だけは天に届かず、当日13日は14時頃から生憎の雨となる。それも、時間を追う毎に雨足が激しく、パレードは途中から中止になってしまった。

会場の一角で今年も案内役を仰せつかり、朝、会場に向かうと甲州街道はあちこちに仮設テントや、ビルの玄関口では出店の飾りつけで、本番前の準備で大わらわであった。
こんな祭りの風情が伝わり、気分も自然に祭りモードに自然と染まって行く。

<本陣前の中宿と言われる日野宿の中心に位置する、普段の甲州街道>

Image112しかし、同じ道を我が家に帰る折には激しい降雨に水たまりが生まれ架設の出店も既に撤収を終え、人影も少なかった。
皮肉なことに祭り当日の前後は好天であったことを考えると、今年は戊辰役で最後まで戦った新選組、土方歳三への涙雨の巡り合わせではなかったのであろうか・・・。

<で~んと構え、風格を備える入母屋屋根の式台付き玄関口。屋根の頂部に近い所にある破風の飾り物は鳳凰と言われる瑞鳥、色々な動物の合成物で火事避けの神様のある本陣建屋。、当日ここで多くのフアンを出迎えた>Image411この間、本陣では祭りに併せて、初めて寄る人、この建物の幕末の空気感に魅せられて来るレピータなどさまざまである。
開館間もなくは一人、二人と合間を持って来館されるが、時間と共にドット押し寄せ、館内はたちまち人の渦に埋まってしまう。
人ごみに揉みくちゃにされながら、集団を休み無く時間単位で案内する。

案内の切れ間で、着物姿でひと際目立つ、佐藤資料館の福子館長が一人の若い男性がやってきて挨拶する。
隊士中島登の末裔、本立寺副住職中島岳大様である。旧知の父君大成様から、中島登が当時使われていた袖章を函館市立博物館の協力で忠実に再現作成されたものを頂いてしまった。

            <新選組袖章>

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函館新選組の戦闘時の識別の襟章である。白い布地に赤の目立つもの、兵士遭遇機会に味方同志の銃撃を避けるなど活かされたのであろう。
突然の中島岳大様の来場であったが、貴重な贈り物にお礼をしようと思ったが、人ごみに押し流され、何とも悔やまれることであった。

切れ目ない巡回の繰り返しに、昼時には既に大声を発するために、喉は痛くなり、アクセル踏みっぱなしのエンジン全開で、疲労困憊である。
殺到する来館者に上手く流すには話す内容も普段とは別でかなり簡略化で喋る方も制約がかかる。「こんなこと、あんなことも伝えたい」と思いつつ、語れない辛さは一方ではストレスも溜まる。
そんな愚痴も最後にはまたお会いできる機会に、是非この続きをと、再来をお待ち申し上げると、ついつい吐露してしまう。

<話の展開にこんなことも>
新選組は甲陽鎮撫隊で敗走、佐藤彦五郎一家も、巻き込まれ、新政府軍に追われてしまう展開。
養子に行った彦吉の有山家の上段の間、移築に関わり、千葉佐倉の名医佐藤泰然や息子の、松本良順にも繋がり、彦吉が順天堂の理事にもなる。上段の間が取り持つ縁から生まれる色々な事実。
彦五郎の愛する妻「のぶ」も47歳で先立たれ、すでに亡くなった後に声をかけた形見の木枕に語りかけるものは。

等々を語る

周回を通じて、やはり新選組の期待感に目を輝かせ、一生懸命聞いて頂き、終わった後に、すり寄って頂き、「良かった」なんて言葉に舞い上がってしまう。新しい事実との出会いに喜びの声を掛けてもらい、勇気付けられる。

午後から降り出した雨が本降りになり、皆駆け込んででくる。この日のために晴れ着姿の女性も気の毒で、強い雨足に防備に追われる。
結局当日の入館者は750人余、昨年は850人余、最早かっての1000人越しは叶えず、雨に祟らえる影響もあったとしても、かっての勢いは衰えたのであろうか。

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「百花繚乱」今日の本陣

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全くの気まぐれの天気、酷暑が続いたが、一段落した。朝からどんよりした曇り時より雨が降るという、梅雨に戻ったような錯覚になる。
世の中3連休だそうであるが、この天気に人出はどうだろうか?
掃除も済まし、構えたが、待ち人、やはり来ず、出だしの客足は重かった。
そんな折、6~7人の女の子が群れなしてやってくる。夏休み最前線、夏着姿に中学生と思ったが高校生であった。
中にはメモを手に持つ子、知識欲旺盛で、一言も漏らすまいぞとそんな眼差しは皆真剣であった。
そんな真摯な姿に、どちらの学校と聞いたが、誉れ高き、隣接市の某東高校になるほどと思ってしまう。
団体は別にして、歴史好きの共通認識を持ちながら、友達同志でこれだけの人数が集まり、来館されるのも、珍しく、頼もしくさえ思えてくる。
じじいの語り手と、聞き手が一方通行ではすれ違いに感じるものも薄く、期待外れになってしまい折角来た、のに無為のものになってしまう。
何処に興味をもたれているか一応聞いてみる、「幕末史」「新選組」も好きのようである。
参勤交代として、大名を迎える格式の都内唯一の貴重な本陣。土方歳三の謂わば育ての親としての佐藤家。幕末から維新にかけての建物を訪れた歴史上の要人。など、など語り尽くせぬ話しに、何に心をうったのであろうか・・・。
そんな高校生を切り出しに、切れ目なく来館者が殺到。14時頃に敢えて中断し、昼食もそこそこに
現場復帰し、閉館まで対応に追われた。

<中庭から建屋全景>

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◇青い目の来館者
そんな午後の一時、怒派手なジエスチャを交え、二人のアメリカ人女性が入館した。
青い目、金髪のロングヘアー、肌も露わなタンクトップに口ピアス、ひざの破れたGパン姿のトップファッションに思わず、身を引けてしまった。
受付から、多少の日本語判ると引き継がれる。
「うわ~どうしよう」と、身構える準備もなかったが、勇気を出して

「Where did you co」me from?」と切り出したら「America」と返ってきた。

都心から来た様であるが、全く日本人の介添えなく、此処まで来られるのも、日本語はある程度理解しているようであった。
取り分け、口ピアスのお姉さんの方が日本語堪能で「シンセングミ・ヒジカタトシゾー」など怪しげな言葉が飛び出し、そのトップファッションから、窺い知れない言葉に改めて驚く。
どうやらネット世界からの入れ込みのようで、正に垣根を越えて異国文化の情報が流れ、想像以上に浸透していることに驚く。
ここで、格好よく振舞えたらと思いつつ、既に固化している濃ミソから、殆ど慣習のない英語の世界に単語さえ出てこない。
そんな時代背景にあわせて、和英併記の案内メモが準備され、急遽引っ張り出した。
折しも「役所の答弁書を朗読させていただく」と棒読みする、某国大臣としてあるまじき姿にこれが「仕事人内閣か」と顰蹙をかっている。
しかし、こちらは観光目的の案内メモ、棒読みでも大目に見てくれるだろう

This building was built in 1864(建物は1864年建てられた)
にはじまり、各部屋の案内した。
Toshizo slept in this roomで「わお~と」一番盛り上がり、誰も居なかったので寝姿を二人で撮りあっていた。
異国の地でサムライ文化を体感し、良いお土産になったのであろう。

タイムスリップして嘉永6年(1853)日本の開国を迫った、ペリー来航で

「・・・泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(四隻)で夜も眠れず」と開国前後の落首から国内を戦慄させた。このペリー来航から、揺るぎない幕藩体制が崩れ、国内が大きく変わっていくきっかけが生まれた。

あれから160余年、その青い目のアメリカ人が、国のベールが取り払われ、江戸から離れた多摩地域に今正にやってきて、こうして気軽に休む姿に、どんな想いで見ているだろうか。
こうした開放的なアメリカ人が土間から上がり、畳の感触を味わいながら、交える風情に、微笑ましくも、感慨深いシーンであった。
「百花繚乱(りょうらん)」、こうして異質で色々な人を迎い入れ、閉館まで息つく暇無く、対応に追われる一日であった。

敢えて、我が家への帰路は市役所の前の神明の坂越えでの長い道のり、緊張感が解かれ、一気に疲れが、足にもきて、酔っぱらいの如く、ふらふらと横揺れしていた。

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新選組も国際化の渦に

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大河ドラマ新選組放映から早12年、経ってしまった。
歳三役の山本耕史や勇役の香取慎吾、総司役の藤原竜也などの人気キャストが茶の間に新選組を身近な存在に仕立て上げてくれた。
取り分け新選組まつりの時は市役所の前で、あるいは本陣の前で山本耕史の街頭出演で、黒山の人だかりにフアンの物凄い熱気が感じられた。
大河ドラマが終わった後も、山本耕史の姿を見ると、直ぐに歳三となってしまう位にその姿は濃尾に焼きつき消えない位にインパクトがあった。
少なくとも大河ドラマが新選組のフアン層に繋げる役割を果たしたのは間違いない。

そんな熱気も10数年の経過は既に過去のものになっている。

Image新選組に駆け込み日野に訪れる若い人に問いかけても、「へ~そんなことがあったんだ」と全くのすれ違い、大河ドラマを見て居ないのは元よりその存在自体も知らない層が結構増えてきた。

☆本陣にて案内

<Russiaから>
某日、青い目それとなく判る外国人男性に拙い英語でWhere did you come fromと声をかけたらRussiaと返され、思わずびっくりした。
東南アジア系なら未だしも、まさかRussiaからとは思いも寄らなかった。
ご案内は無用、何かものを探しているようで、聞いてみたら上手く聞き取れず、何度も聞き返したら、こともあろうに「豊玉発句集」と判り更に驚いた。

Img429           (石田 散薬のミソソバを押し花にして作って貰った「豊玉発句集」のシール)


歳三フアンでも、此処まで追う、人はかなりコアーな層と思えるが、歳三に抱くイメージを追い求める世界に、最早国境の垣根を越え、凄い世界に居ることに敬服した。

<中国から>

数人の集団を案内し、終わり、一区切り付けた時に、若い女性から声をかけられる。
外見からは全く、外国人とは識別付かないが、喋るイントーネションから、外国人と始めて判ったが、中国人であった。
2013年に案内されたと言われ、再会に、にこにこ笑みを浮かべながらわざわざご挨拶された。
案内する側からは1;Nの関係から、外国人を含め年間1万を越える入館者の中、何人相手したのか判らない。大勢の客から一生懸命、記憶を辿ったが残念ながら失念しており、思い出せなかった。
しかし、滅多にないことだけに、その気持ちが嬉しかった。
国を越えて歳三に心酔し、語りかけるレピーターが居ることが、現実の姿であった。
何を機縁に彼女たちを夢中にさせるかはやはりアニュメーションやDVDなどの媒体の情報からであった。
こうしてアニュメなどが国境の垣根を越え、浸透する世界は相反するものであるが、最早止めることが出来ない。

国同士では尖閣列島の領有圏問題など、紛争の火種をかかげ、一歩も譲らない、姿勢は益々先鋭化し、とげとげしい問題を抱えている。
観光で来る彼らは、概ね、きちっとしたマナーを護る日本の文化の中、そんな枠が緩やかな環境の中に育った彼らの奔放な行動は中国では当たり前で、日本人にひんしゅくを買っている。
一方ではこうした新選組を通じて、触れ合いを持ち、気配りする人も居ることも事実である。

今年、2017年は日本を二分した戊辰役から150年を経過、新選組隊士尊霊、150回忌総供養祭が実施されるなど、節目の年にあたる。
散っていった新選組隊士が眠る中、150年の今日、国境を越えてこうした絆が生まれて居る現実に、戸惑いつつもまんざら悪い気はしないであろう。

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歳三の昼寝の世界は

某日、 本陣の歴史に触れたい人、根強い新選組フアンが、 畳が埋めつくされるほどの人出であった。
その中に10人近い女子高生と思われる集団がやってきた。
「は~いこちらが土方歳三が昼寝した場所です」
「わ~此処が歳さんが寝た場所だ~」と感激、興奮の局地だったのであろうか、一人が畳の上で横になる。 それを追うように、ばたばたと目の前で当たりを憚らず、全員が見事に寝てしまった。
これから競りに懸かるマグロの群れ、まるで魚河岸のマグロが横たわる壮観なシーンを目の前に見るようである。
小心者じいさんも、余り格好よくない姿に、たじたじ、目の置き場に困って しまった。

           <歳三が寝てしまった、本陣、式台のある玄関口>Image5華も恥じらう時代は遠い昔話、奔放な若者は歳さんの世界に身をおいて、遠い幕末の夢想の境地に入って しまった。
振り返って、ふと其のとき歳三の世界はどうであったのであろうか?、
以下、時系列に時代を追って、歳三の世界を追って見る。

◇元治元年(1864)6月『池田屋事変』
30人程の倒幕の浪士との池田屋の死闘、休む間もなく残党浪士狩りで翌日まで寝ずに続けた一日であった。

◇同年7月『蛤御門の変』

        <六斤袍が火を噴いた『蛤御門の変』>

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長州藩はこの池田屋事件で暴発し、御所へ突入、蛤御門で会津、桑名藩と激突六斤袍が火を吹き、洋式銃など登場し、近代戦に突入する。一進一退であったが薩摩藩兵かけつけで長州側は敗退する、所謂、『蛤御門の変』が起きる。
新選組も幕府軍として参加し、永倉新八、原田佐之助など負傷する、
こうして『池田屋事変』から1カ月半に及んだ騒乱の日々は一応の集結をみた。
同年8月新選組は功績では幕府から評価され、500両の報奨金を貰った、

幕府は『蛤御門の変』の勝利の勢いで、長州征伐に転進しようと諸藩に準備させたが、肝心の総督役が中々決まらず、2カ月後の10月になって漸く決まった。
◇同年8月『建白書提出』
近藤は再び「天狗」になり、隊士から家来のように扱うと、永倉新八、斉藤一、原田佐之助、島田魁、尾関雅次郎、葛山武八郎は会津藩に近藤の非を訴え、近藤は会津藩に注意される。

◇同年9月、隊内粛清相次ぐ脱走などを含め、新選組組織維持のため歳三は腐心した。
前述の近藤「天狗」問題は局長批判が謹慎と言う軽い処置では、再発し、組織として機能不善に陥ることが予想されると、判断する。組織維持のため、事件に連座した葛山武八郎を切腹させ、局長批判など不満の根を絶ち、他の隊士にも、見せしめた。
連座した他の古参隊士は重みの違いから、処分も分けたようである

◇同年10月近藤、江戸へ
近藤は会津藩主、松平容保公の内意を受けて、将軍の進発を促すため、永倉他を連れて江戸に向かい、老中と面会する。
新選組は将軍上洛が聞き入れなければ、幕閣暗殺など、会津藩は噂を流し、身分の違いなど、意識せず応分の面会を受け入れさせた。
池田屋事変が長州側に留まらず会津藩など内外とも衝撃的な事実として、影響を与え、新選組の名を高めた。

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◇、慶応元年(1865)2月山南敬助切腹
試衛館以来の仲間が何故亡くなったか、? 発病から、総長と言う看板を付けたが直属の部下もおらず、組織のラインから外れた。病変から池田屋にも参加できず、疎外感から自ら死においおこんだのであろうか、・・・。
しかし、これによって歳三の意向が隊内で通りやすく、なったのであろう

◇同年3月、歳三、伊東甲子太郎、斉藤一と伴って隊士募集で江戸へ
4月歳三、江戸の仕事が一段落、文久3年(1863)の上洛以来、2年振りの里帰り。
数日後、石田村から日野宿へ、佐久間象山の書を土産に佐藤家へ行く。
建物は文久3年完成し、この時が初めてであり、2日間滞在した。
この時に式台に面する部屋で寝てしまった。
同月、新人隊士53人の大集団を連れ、再び上洛する。

☆ほっと、夢の中
2年前、浪士組として上洛、京の治安維持で評価され、組織的な活動で『池田屋』の死闘継いで会津藩の配下で『蛤御門の変』で本格的な戦闘体勢で新選組が幕府軍の第一線に立つている。
その間、不満分子の集団脱走や、隊士の病気などで『池田屋』の戦闘には34名の出動になってしまった。
歳三は新選組の参謀役として、第一線に立ちながら、より強固な組織造りに、新人隊士を積極的に行った。一方では、組織内の体勢維持の為、時には鬼になって、切腹などで維持に勤めた。
新選組の成長過程に忙殺される歳三であったが、江戸で念願の隊士募集に目途が立ち日野へ来た。束の間の安らぎに安堵したのか、5月の爽やかな風に、気付いた時にはふと、昼寝の世界に入ってしまったのであろう。

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案内人Kさんのこと

何年前のことであったか、残暑の厳しい9月であった。
◇歴史遺産の紹介
此処の甲州道に面する本陣の式台で幕末の風が流れている。甲州道に在する高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代で公家、大名が各藩と江戸の間を往復する時の休憩所である。
鳥羽伏見の戦いで破れた新選組が甲陽鎮撫隊として再編成され近藤勇以下が甲府城へ目指し、西から江戸城を攻める新政府軍を阻止で向かう過程で一行が休憩した。
意気に燃えた鎮撫隊の目的は叶えれず、途中の勝沼で破れ、江戸へ散開した。後を追うようにシャグマ姿の陣笠付け、殺気だった官軍が甲州道を東下し、日野宿にも押し入り探索の手が入った。是れを期に幕藩体勢が崩壊した。
幕府瓦解後、民衆からは天を遍く神のような存在の明治天皇が、近代国家に生まれ変わり、国民に親しまれる姿を見て貰う機会を積極的に作り、全国に行幸した。京都まで巡行される明治天皇が休息された。
幕末から維新にかけて、新選組はじめ歴史のうねりを語り告げられ、僅かに残された希少な存在である。

◇当日の案内疫を担うが
当所の開設以来、建物を背景にした歴史の蘊蓄を活かし誰よりも語りを楽しんでいた、案内人の一人であった。
所が声が霞み、振り絞って出す姿が、痛々しかった。
以前から体の変調をきたし、当番、当日から、半月程前から、案内の生命線である、声が掠れて突如出なくなった。
本来なら当日は休むべき状況であったが、恐らく家族の静止を振り切って覚悟の上の無理しての登板であった。
カメラを持参し、建屋を含めた、何時ものフィールドを背景に当人の姿を撮ってくれと頼まれた。この時に此処へ戻れないことを、覚悟の上で、最後の姿を記録に留めたいと、只事ならぬ状況が初めて判った。
言われるままの撮影であったが、此れまでの経験のない重苦しいもので、あったが、何とか納まった。

掠れた声にかなり無理もあり、重い様子にこちらから、何を声をかけていいやら、判らず、休めばと声かけたが、そのまま閉館まで、続けられた。
相応の覚悟の上、めりはりを付けたかったようだ。最後のお客様を送り、一緒に門を潜り建屋の別れを告げ、無事にやり終えた満足感に浸って いたようであった。

◇再会叶わず
それまで酒も嗜み、普段と変わらない生活であったが、体全体が蝕まれ深刻な状態に驚いたこと、近日に家族を伴って今後の処置を聞きに行くことを吐露された。
同じ歴史仲間、再びの再開を祈って、門前でエールを送ったが、叶うことが出来ず、それが最後、何処からとも無く、1年後、訃報を耳にする。

◇解脱を祈り

             <異風堂々の芝増上寺、三解脱門>

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徳川家の菩提寺の一つが芝の増上寺で、14代将軍家茂のほか、歴代将軍や皇女和宮が眠っており、度々出かける。
増上寺の表看板として、入母屋造り朱塗りの豪華な建築洋式の三解脱門が道に面し、「どうだ~」と言わんばかりに道行く人に威風堂々とした姿を見せる。この三解脱門も知恩院の門も日本一と言われるが、同じ浄土宗で此処を通る人は解脱して通ると言われている。

解脱とは「苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること。」・・・広辞苑
「きっと、解脱して、今頃、彦五郎と盃を交わし、歓談に浸っていると、思えるが」

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中国歴女を迎える

            <本陣入り口、中庭にて>

01110012東シナ海での中国軍艦による領海侵犯や、中国軍機が自衛隊機への攻撃、中国はここ数か月間、日本に対して極めて威嚇的な行為を繰り返すようになった。
国内では人権派弁護士の大量拘束や、メディア関係者への締め付け、中国国内の知識人の間には重苦しい空気が垂れこめている。
国のトップ、周金平の席巻欲、傲慢さから、きな臭い背景にある同国の影響が、嫌がおうでも降りかかってくる。

それはさておき、何時もの様に本陣で来館者を迎えていた。
平日、しかも朝からの雨は午前中一杯、続いており、何時もの通り、寂しい午前中であった。

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そんな中、一人の若い女性が入館した。
その出立から、一日本人と思い込んでいたが、日本語は十分判らないと言う話しに初めて中国人と判った。
通常の会話は殆ど違和感なく、進められるが、判らないと額にしわを寄せ、言葉の前後から一生懸命理解しようとする様子が判る。
会話に事欠かないレベルではあるが、異国の地へ女子の一人旅、それがコアーな日野へ土方歳三や近藤勇がの新選組を追う姿に驚いってしまった。ん~ん、歳三も、最早、海を越えて大陸にも伝わっていることに、これも垣根のない情報の文化なのだろうか・・・。

その背景はアニメであろうか、それとも書籍からであろうか、既に植えつけられたイメージを自分の目で確かめ、重ねることで、目に映るものに、感動している様子であった。
他にお客も居なかったこともあって、建物はたちまち、遥々中国から来られた女性ワールドの世界に、なってしまう。

建物を巡りながら、何時ものように、土方歳三や、函館から来た市村鉄之介の話しに、目を輝かし、聞き入る姿は平時の新選組フアンと全く大差ない。
歳三が寝てしまった式台付きの玄関で、彼女自身をスマホに撮ってやったり、色々のお土産が出来たようであった。

日本古来の和室の文化で十分堪能してもらったが、折角だから中国との関わりに何か繋がるものはないか、一生懸命模索してみた。
屋内ではないが式台の天井部分の『火除けの飾り物』が思いついた。

                  <式台の天井部の飾りもの>
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鳳凰(ほうおう)は古来中国で尊ばれれた瑞鳥
竹実を食い、れい泉を飲み現れる。
元々の生まれは一緒だが、後世、日中独自のデザインに変わっている。
現代の中国では一般に、頭はキンケイ、オシドリ、孔雀、など鳥の合成体に対し日本では一般に、容姿は前部が麟、後部が鹿、頸は蛇、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏、尾は魚であるとされる動物の合成体になっている。

このように元々の生まれは一緒であり、、こんな所に繋がっている。かなり風化しているが火除けの守り神として、飾られていることに、頷き、一生懸命、画像に収めていた

上海の大学3年生、中国も学歴偏重の世界、将来は医者に成りたいと、さらりと言って のける当たり、図抜けた才覚の持ち主と思われる。
初めて訪れる異国の地に何とか使いこなす会話を背景に一人で行動できる凄さに驚かされる。、これからモノレールに乗って石田寺へ向かうと言われた。
こちらも調子にのって 、時折、中国語、『没有(meiyou)』(日本語の『無い、無し』)を挟み、連発、何とか親近感を持たしたが、笑って受けてくれた。
また此処で会えれば、嬉しいと、見送った。

新聞、TVなど限られたメデイアから伝わる情報の中、冒頭の中国人に対する、先入観はどうしても偏ってしまい、悪い面ばかりが伝わってくるが、中にはこんな人も居ることを認識させられた。

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スーパー歴女を迎え

04110025 一時は零下5℃の世界に寒い寒いと思っていたが、寒い日、温かい日が目まぐるしく変わり、季節の変わり目を感じる。
列島を襲う荒天の予想、関東地方も午後から大雨と前日から報じられた。
なんと言う巡り合わせの悪さ、こんな日に当番なんていやだな~と思いつつ、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで待機する。

当たって欲しくない天気であったが、案の定、雨が降り出し、一気に雨足が強く激しくなった。静寂な館内、何処となく、一斉に雨音がリズミカルに音を刻み、響きわたる。

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日差しのない館内は薄暗く、開けっ放し式台越しに、中庭の梅が、既にピンク色に染まり、開いているが、雨粒が滴り落ちる。
そんな悪天候の中、一人、二人と回転効率が悪いが、来館される。

館内は寒く、ホットーカーペットで暖を取りながら、歴史好きの女性と向き合い、館内案内前にご挨拶を始める。
和風建築に留まるのか、土方歳三の新選組に関わるものかどんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか?伺って見る。

三重から遥々来られ、『新選組歴、ン十年、単にミーハーですよ』と言いつつ、京に近い場所柄、壬生近辺は庭の如く、新選組の踏み跡を追い、会津、函館を走り回る、スーパー歴女であった。
猪苗代湖に近い、激戦地の母成峠で車で行ったが、深い雪に遭遇、雪中に埋もれながらも追い続ける、敢闘精神。
深い歴史に著名な人から広く愛された東山温泉で足湯に浸かり、治癒に泊まったも歳三の姿を思い浮かべ、直接湯に触れるなどは、正に新選組愛は半端ではなかった。

函館では小生も車で廻った同じコース、幕軍の上陸地点、鷲の木海岸から、開陽丸が眠る、江差、松前城、から函館に戻る函館戦争の軌跡を追って、松前半島を廻った話しや、あの独特な星姿を俯瞰出来るようにな現在の五稜郭タワーなど、背の低い時代では見えなかったなど、目を輝かせ、関西弁が心地良く、響きわたった。

新選組愛に浸透されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、新選組に取りつかれ、筋金入りのスーパー歴女と感じられた。
しかし、歳三の家も馴染みのようであるが、此処本陣は初めての来館であること、三重と日野の間が距離以上に遠かったのであろうか。

<天然理心流と勇の処刑>

そんな詳しい人物にはと思ったが、佐藤彦五郎も門弟の一人である天然理心流の紹介に特に感心事であったようである。
戊辰の戦いで破れ、賊軍と言われる配下にある新選組の武術、天然理心流は新政府からも厳しく、教えず、見せずと言う存在になってしまった。
初代宗家、近藤内蔵之助や二代目近藤三助の墓が並ぶ、八王子の戸吹の桂福寺は言わば天然理心流が流行った拠点でもある。
慶応4年4月勇が捕縛され、板橋で処刑された暁には、事が此処、戸吹に及ぶことを恐れ、墓石を砕いてて地中に埋めてしまったこと。更にその墓石を昭和の暁に掘り起こし、半年がかりで丹念に繋ぎ合わせた生生しい写真には衝撃的に映り、しっかりとメモを取られていた。改めて、事件の大きさを、傷だらけに修復した墓石が今日に伝えている。

そうこうしている内にバスで訪れた茨城からの20数名に及ぶ団体さんが来館された。タイムスケジュールで組まれている集団の一部に加わって頂き、流れに沿った御案内に入って頂いた。突然団体の渦に巻き込まれ、熱く濃い話はそれまでとなってしまった。

幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈りお別れした。

雨足は益々、激しく、以来止むこともなかった。この雨の中、再び来館者を迎えることなく、館内は再び静寂の世界に、益々暗くなる世界に彦五郎、歳三の幻影を追いながら、閉館を迎えた。

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