カテゴリー「04、佐藤彦五郎・日野宿本陣」の記事

21回新選組まつり、日野宿本陣にて

<パレードの先陣を飾る大きな旗、 当初は何とか行軍が行われたが、雨のため中止>

O05560426141900445731新選組に熱く燃える一日
迎える者、訪れる者、それぞれ期待感を持って臨んだが、天候だけは天に届かず、当日13日は14時頃から生憎の雨となる。それも、時間を追う毎に雨足が激しく、パレードは途中から中止になってしまった。

会場の一角で今年も案内役を仰せつかり、朝、会場に向かうと甲州街道はあちこちに仮設テントや、ビルの玄関口では出店の飾りつけで、本番前の準備で大わらわであった。
こんな祭りの風情が伝わり、気分も自然に祭りモードに自然と染まって行く。

<本陣前の中宿と言われる日野宿の中心に位置する、普段の甲州街道>

Image112しかし、同じ道を我が家に帰る折には激しい降雨に水たまりが生まれ架設の出店も既に撤収を終え、人影も少なかった。
皮肉なことに祭り当日の前後は好天であったことを考えると、今年は戊辰役で最後まで戦った新選組、土方歳三への涙雨の巡り合わせではなかったのであろうか・・・。

<で~んと構え、風格を備える入母屋屋根の式台付き玄関口。屋根の頂部に近い所にある破風の飾り物は鳳凰と言われる瑞鳥、色々な動物の合成物で火事避けの神様のある本陣建屋。、当日ここで多くのフアンを出迎えた>Image411この間、本陣では祭りに併せて、初めて寄る人、この建物の幕末の空気感に魅せられて来るレピータなどさまざまである。
開館間もなくは一人、二人と合間を持って来館されるが、時間と共にドット押し寄せ、館内はたちまち人の渦に埋まってしまう。
人ごみに揉みくちゃにされながら、集団を休み無く時間単位で案内する。

案内の切れ間で、着物姿でひと際目立つ、佐藤資料館の福子館長が一人の若い男性がやってきて挨拶する。
隊士中島登の末裔、本立寺副住職中島岳大様である。旧知の父君大成様から、中島登が当時使われていた袖章を函館市立博物館の協力で忠実に再現作成されたものを頂いてしまった。

            <新選組袖章>

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函館新選組の戦闘時の識別の襟章である。白い布地に赤の目立つもの、兵士遭遇機会に味方同志の銃撃を避けるなど活かされたのであろう。
突然の中島岳大様の来場であったが、貴重な贈り物にお礼をしようと思ったが、人ごみに押し流され、何とも悔やまれることであった。

切れ目ない巡回の繰り返しに、昼時には既に大声を発するために、喉は痛くなり、アクセル踏みっぱなしのエンジン全開で、疲労困憊である。
殺到する来館者に上手く流すには話す内容も普段とは別でかなり簡略化で喋る方も制約がかかる。「こんなこと、あんなことも伝えたい」と思いつつ、語れない辛さは一方ではストレスも溜まる。
そんな愚痴も最後にはまたお会いできる機会に、是非この続きをと、再来をお待ち申し上げると、ついつい吐露してしまう。

<話の展開にこんなことも>
新選組は甲陽鎮撫隊で敗走、佐藤彦五郎一家も、巻き込まれ、新政府軍に追われてしまう展開。
養子に行った彦吉の有山家の上段の間、移築に関わり、千葉佐倉の名医佐藤泰然や息子の、松本良順にも繋がり、彦吉が順天堂の理事にもなる。上段の間が取り持つ縁から生まれる色々な事実。
彦五郎の愛する妻「のぶ」も47歳で先立たれ、すでに亡くなった後に声をかけた形見の木枕に語りかけるものは。

等々を語る

周回を通じて、やはり新選組の期待感に目を輝かせ、一生懸命聞いて頂き、終わった後に、すり寄って頂き、「良かった」なんて言葉に舞い上がってしまう。新しい事実との出会いに喜びの声を掛けてもらい、勇気付けられる。

午後から降り出した雨が本降りになり、皆駆け込んででくる。この日のために晴れ着姿の女性も気の毒で、強い雨足に防備に追われる。
結局当日の入館者は750人余、昨年は850人余、最早かっての1000人越しは叶えず、雨に祟らえる影響もあったとしても、かっての勢いは衰えたのであろうか。

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「百花繚乱」今日の本陣

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全くの気まぐれの天気、酷暑が続いたが、一段落した。朝からどんよりした曇り時より雨が降るという、梅雨に戻ったような錯覚になる。
世の中3連休だそうであるが、この天気に人出はどうだろうか?
掃除も済まし、構えたが、待ち人、やはり来ず、出だしの客足は重かった。
そんな折、6~7人の女の子が群れなしてやってくる。夏休み最前線、夏着姿に中学生と思ったが高校生であった。
中にはメモを手に持つ子、知識欲旺盛で、一言も漏らすまいぞとそんな眼差しは皆真剣であった。
そんな真摯な姿に、どちらの学校と聞いたが、誉れ高き、隣接市の某東高校になるほどと思ってしまう。
団体は別にして、歴史好きの共通認識を持ちながら、友達同志でこれだけの人数が集まり、来館されるのも、珍しく、頼もしくさえ思えてくる。
じじいの語り手と、聞き手が一方通行ではすれ違いに感じるものも薄く、期待外れになってしまい折角来た、のに無為のものになってしまう。
何処に興味をもたれているか一応聞いてみる、「幕末史」「新選組」も好きのようである。
参勤交代として、大名を迎える格式の都内唯一の貴重な本陣。土方歳三の謂わば育ての親としての佐藤家。幕末から維新にかけての建物を訪れた歴史上の要人。など、など語り尽くせぬ話しに、何に心をうったのであろうか・・・。
そんな高校生を切り出しに、切れ目なく来館者が殺到。14時頃に敢えて中断し、昼食もそこそこに
現場復帰し、閉館まで対応に追われた。

<中庭から建屋全景>

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◇青い目の来館者
そんな午後の一時、怒派手なジエスチャを交え、二人のアメリカ人女性が入館した。
青い目、金髪のロングヘアー、肌も露わなタンクトップに口ピアス、ひざの破れたGパン姿のトップファッションに思わず、身を引けてしまった。
受付から、多少の日本語判ると引き継がれる。
「うわ~どうしよう」と、身構える準備もなかったが、勇気を出して

「Where did you co」me from?」と切り出したら「America」と返ってきた。

都心から来た様であるが、全く日本人の介添えなく、此処まで来られるのも、日本語はある程度理解しているようであった。
取り分け、口ピアスのお姉さんの方が日本語堪能で「シンセングミ・ヒジカタトシゾー」など怪しげな言葉が飛び出し、そのトップファッションから、窺い知れない言葉に改めて驚く。
どうやらネット世界からの入れ込みのようで、正に垣根を越えて異国文化の情報が流れ、想像以上に浸透していることに驚く。
ここで、格好よく振舞えたらと思いつつ、既に固化している濃ミソから、殆ど慣習のない英語の世界に単語さえ出てこない。
そんな時代背景にあわせて、和英併記の案内メモが準備され、急遽引っ張り出した。
折しも「役所の答弁書を朗読させていただく」と棒読みする、某国大臣としてあるまじき姿にこれが「仕事人内閣か」と顰蹙をかっている。
しかし、こちらは観光目的の案内メモ、棒読みでも大目に見てくれるだろう

This building was built in 1864(建物は1864年建てられた)
にはじまり、各部屋の案内した。
Toshizo slept in this roomで「わお~と」一番盛り上がり、誰も居なかったので寝姿を二人で撮りあっていた。
異国の地でサムライ文化を体感し、良いお土産になったのであろう。

タイムスリップして嘉永6年(1853)日本の開国を迫った、ペリー来航で

「・・・泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たった四はい(四隻)で夜も眠れず」と開国前後の落首から国内を戦慄させた。このペリー来航から、揺るぎない幕藩体制が崩れ、国内が大きく変わっていくきっかけが生まれた。

あれから160余年、その青い目のアメリカ人が、国のベールが取り払われ、江戸から離れた多摩地域に今正にやってきて、こうして気軽に休む姿に、どんな想いで見ているだろうか。
こうした開放的なアメリカ人が土間から上がり、畳の感触を味わいながら、交える風情に、微笑ましくも、感慨深いシーンであった。
「百花繚乱(りょうらん)」、こうして異質で色々な人を迎い入れ、閉館まで息つく暇無く、対応に追われる一日であった。

敢えて、我が家への帰路は市役所の前の神明の坂越えでの長い道のり、緊張感が解かれ、一気に疲れが、足にもきて、酔っぱらいの如く、ふらふらと横揺れしていた。

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新選組も国際化の渦に

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大河ドラマ新選組放映から早12年、経ってしまった。
歳三役の山本耕史や勇役の香取慎吾、総司役の藤原竜也などの人気キャストが茶の間に新選組を身近な存在に仕立て上げてくれた。
取り分け新選組まつりの時は市役所の前で、あるいは本陣の前で山本耕史の街頭出演で、黒山の人だかりにフアンの物凄い熱気が感じられた。
大河ドラマが終わった後も、山本耕史の姿を見ると、直ぐに歳三となってしまう位にその姿は濃尾に焼きつき消えない位にインパクトがあった。
少なくとも大河ドラマが新選組のフアン層に繋げる役割を果たしたのは間違いない。

そんな熱気も10数年の経過は既に過去のものになっている。

Image新選組に駆け込み日野に訪れる若い人に問いかけても、「へ~そんなことがあったんだ」と全くのすれ違い、大河ドラマを見て居ないのは元よりその存在自体も知らない層が結構増えてきた。

☆本陣にて案内

<Russiaから>
某日、青い目それとなく判る外国人男性に拙い英語でWhere did you come fromと声をかけたらRussiaと返され、思わずびっくりした。
東南アジア系なら未だしも、まさかRussiaからとは思いも寄らなかった。
ご案内は無用、何かものを探しているようで、聞いてみたら上手く聞き取れず、何度も聞き返したら、こともあろうに「豊玉発句集」と判り更に驚いた。

Img429           (石田 散薬のミソソバを押し花にして作って貰った「豊玉発句集」のシール)


歳三フアンでも、此処まで追う、人はかなりコアーな層と思えるが、歳三に抱くイメージを追い求める世界に、最早国境の垣根を越え、凄い世界に居ることに敬服した。

<中国から>

数人の集団を案内し、終わり、一区切り付けた時に、若い女性から声をかけられる。
外見からは全く、外国人とは識別付かないが、喋るイントーネションから、外国人と始めて判ったが、中国人であった。
2013年に案内されたと言われ、再会に、にこにこ笑みを浮かべながらわざわざご挨拶された。
案内する側からは1;Nの関係から、外国人を含め年間1万を越える入館者の中、何人相手したのか判らない。大勢の客から一生懸命、記憶を辿ったが残念ながら失念しており、思い出せなかった。
しかし、滅多にないことだけに、その気持ちが嬉しかった。
国を越えて歳三に心酔し、語りかけるレピーターが居ることが、現実の姿であった。
何を機縁に彼女たちを夢中にさせるかはやはりアニュメーションやDVDなどの媒体の情報からであった。
こうしてアニュメなどが国境の垣根を越え、浸透する世界は相反するものであるが、最早止めることが出来ない。

国同士では尖閣列島の領有圏問題など、紛争の火種をかかげ、一歩も譲らない、姿勢は益々先鋭化し、とげとげしい問題を抱えている。
観光で来る彼らは、概ね、きちっとしたマナーを護る日本の文化の中、そんな枠が緩やかな環境の中に育った彼らの奔放な行動は中国では当たり前で、日本人にひんしゅくを買っている。
一方ではこうした新選組を通じて、触れ合いを持ち、気配りする人も居ることも事実である。

今年、2017年は日本を二分した戊辰役から150年を経過、新選組隊士尊霊、150回忌総供養祭が実施されるなど、節目の年にあたる。
散っていった新選組隊士が眠る中、150年の今日、国境を越えてこうした絆が生まれて居る現実に、戸惑いつつもまんざら悪い気はしないであろう。

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歳三の昼寝の世界は

某日、 本陣の歴史に触れたい人、根強い新選組フアンが、 畳が埋めつくされるほどの人出であった。
その中に10人近い女子高生と思われる集団がやってきた。
「は~いこちらが土方歳三が昼寝した場所です」
「わ~此処が歳さんが寝た場所だ~」と感激、興奮の局地だったのであろうか、一人が畳の上で横になる。 それを追うように、ばたばたと目の前で当たりを憚らず、全員が見事に寝てしまった。
これから競りに懸かるマグロの群れ、まるで魚河岸のマグロが横たわる壮観なシーンを目の前に見るようである。
小心者じいさんも、余り格好よくない姿に、たじたじ、目の置き場に困って しまった。

           <歳三が寝てしまった、本陣、式台のある玄関口>Image5華も恥じらう時代は遠い昔話、奔放な若者は歳さんの世界に身をおいて、遠い幕末の夢想の境地に入って しまった。
振り返って、ふと其のとき歳三の世界はどうであったのであろうか?、
以下、時系列に時代を追って、歳三の世界を追って見る。

◇元治元年(1864)6月『池田屋事変』
30人程の倒幕の浪士との池田屋の死闘、休む間もなく残党浪士狩りで翌日まで寝ずに続けた一日であった。

◇同年7月『蛤御門の変』

        <六斤袍が火を噴いた『蛤御門の変』>

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長州藩はこの池田屋事件で暴発し、御所へ突入、蛤御門で会津、桑名藩と激突六斤袍が火を吹き、洋式銃など登場し、近代戦に突入する。一進一退であったが薩摩藩兵かけつけで長州側は敗退する、所謂、『蛤御門の変』が起きる。
新選組も幕府軍として参加し、永倉新八、原田佐之助など負傷する、
こうして『池田屋事変』から1カ月半に及んだ騒乱の日々は一応の集結をみた。
同年8月新選組は功績では幕府から評価され、500両の報奨金を貰った、

幕府は『蛤御門の変』の勝利の勢いで、長州征伐に転進しようと諸藩に準備させたが、肝心の総督役が中々決まらず、2カ月後の10月になって漸く決まった。
◇同年8月『建白書提出』
近藤は再び「天狗」になり、隊士から家来のように扱うと、永倉新八、斉藤一、原田佐之助、島田魁、尾関雅次郎、葛山武八郎は会津藩に近藤の非を訴え、近藤は会津藩に注意される。

◇同年9月、隊内粛清相次ぐ脱走などを含め、新選組組織維持のため歳三は腐心した。
前述の近藤「天狗」問題は局長批判が謹慎と言う軽い処置では、再発し、組織として機能不善に陥ることが予想されると、判断する。組織維持のため、事件に連座した葛山武八郎を切腹させ、局長批判など不満の根を絶ち、他の隊士にも、見せしめた。
連座した他の古参隊士は重みの違いから、処分も分けたようである

◇同年10月近藤、江戸へ
近藤は会津藩主、松平容保公の内意を受けて、将軍の進発を促すため、永倉他を連れて江戸に向かい、老中と面会する。
新選組は将軍上洛が聞き入れなければ、幕閣暗殺など、会津藩は噂を流し、身分の違いなど、意識せず応分の面会を受け入れさせた。
池田屋事変が長州側に留まらず会津藩など内外とも衝撃的な事実として、影響を与え、新選組の名を高めた。

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◇、慶応元年(1865)2月山南敬助切腹
試衛館以来の仲間が何故亡くなったか、? 発病から、総長と言う看板を付けたが直属の部下もおらず、組織のラインから外れた。病変から池田屋にも参加できず、疎外感から自ら死においおこんだのであろうか、・・・。
しかし、これによって歳三の意向が隊内で通りやすく、なったのであろう

◇同年3月、歳三、伊東甲子太郎、斉藤一と伴って隊士募集で江戸へ
4月歳三、江戸の仕事が一段落、文久3年(1863)の上洛以来、2年振りの里帰り。
数日後、石田村から日野宿へ、佐久間象山の書を土産に佐藤家へ行く。
建物は文久3年完成し、この時が初めてであり、2日間滞在した。
この時に式台に面する部屋で寝てしまった。
同月、新人隊士53人の大集団を連れ、再び上洛する。

☆ほっと、夢の中
2年前、浪士組として上洛、京の治安維持で評価され、組織的な活動で『池田屋』の死闘継いで会津藩の配下で『蛤御門の変』で本格的な戦闘体勢で新選組が幕府軍の第一線に立つている。
その間、不満分子の集団脱走や、隊士の病気などで『池田屋』の戦闘には34名の出動になってしまった。
歳三は新選組の参謀役として、第一線に立ちながら、より強固な組織造りに、新人隊士を積極的に行った。一方では、組織内の体勢維持の為、時には鬼になって、切腹などで維持に勤めた。
新選組の成長過程に忙殺される歳三であったが、江戸で念願の隊士募集に目途が立ち日野へ来た。束の間の安らぎに安堵したのか、5月の爽やかな風に、気付いた時にはふと、昼寝の世界に入ってしまったのであろう。

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案内人Kさんのこと

何年前のことであったか、残暑の厳しい9月であった。
◇歴史遺産の紹介
此処の甲州道に面する本陣の式台で幕末の風が流れている。甲州道に在する高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代で公家、大名が各藩と江戸の間を往復する時の休憩所である。
鳥羽伏見の戦いで破れた新選組が甲陽鎮撫隊として再編成され近藤勇以下が甲府城へ目指し、西から江戸城を攻める新政府軍を阻止で向かう過程で一行が休憩した。
意気に燃えた鎮撫隊の目的は叶えれず、途中の勝沼で破れ、江戸へ散開した。後を追うようにシャグマ姿の陣笠付け、殺気だった官軍が甲州道を東下し、日野宿にも押し入り探索の手が入った。是れを期に幕藩体勢が崩壊した。
幕府瓦解後、民衆からは天を遍く神のような存在の明治天皇が、近代国家に生まれ変わり、国民に親しまれる姿を見て貰う機会を積極的に作り、全国に行幸した。京都まで巡行される明治天皇が休息された。
幕末から維新にかけて、新選組はじめ歴史のうねりを語り告げられ、僅かに残された希少な存在である。

◇当日の案内疫を担うが
当所の開設以来、建物を背景にした歴史の蘊蓄を活かし誰よりも語りを楽しんでいた、案内人の一人であった。
所が声が霞み、振り絞って出す姿が、痛々しかった。
以前から体の変調をきたし、当番、当日から、半月程前から、案内の生命線である、声が掠れて突如出なくなった。
本来なら当日は休むべき状況であったが、恐らく家族の静止を振り切って覚悟の上の無理しての登板であった。
カメラを持参し、建屋を含めた、何時ものフィールドを背景に当人の姿を撮ってくれと頼まれた。この時に此処へ戻れないことを、覚悟の上で、最後の姿を記録に留めたいと、只事ならぬ状況が初めて判った。
言われるままの撮影であったが、此れまでの経験のない重苦しいもので、あったが、何とか納まった。

掠れた声にかなり無理もあり、重い様子にこちらから、何を声をかけていいやら、判らず、休めばと声かけたが、そのまま閉館まで、続けられた。
相応の覚悟の上、めりはりを付けたかったようだ。最後のお客様を送り、一緒に門を潜り建屋の別れを告げ、無事にやり終えた満足感に浸って いたようであった。

◇再会叶わず
それまで酒も嗜み、普段と変わらない生活であったが、体全体が蝕まれ深刻な状態に驚いたこと、近日に家族を伴って今後の処置を聞きに行くことを吐露された。
同じ歴史仲間、再びの再開を祈って、門前でエールを送ったが、叶うことが出来ず、それが最後、何処からとも無く、1年後、訃報を耳にする。

◇解脱を祈り

             <異風堂々の芝増上寺、三解脱門>

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徳川家の菩提寺の一つが芝の増上寺で、14代将軍家茂のほか、歴代将軍や皇女和宮が眠っており、度々出かける。
増上寺の表看板として、入母屋造り朱塗りの豪華な建築洋式の三解脱門が道に面し、「どうだ~」と言わんばかりに道行く人に威風堂々とした姿を見せる。この三解脱門も知恩院の門も日本一と言われるが、同じ浄土宗で此処を通る人は解脱して通ると言われている。

解脱とは「苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること。」・・・広辞苑
「きっと、解脱して、今頃、彦五郎と盃を交わし、歓談に浸っていると、思えるが」

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中国歴女を迎える

            <本陣入り口、中庭にて>

01110012東シナ海での中国軍艦による領海侵犯や、中国軍機が自衛隊機への攻撃、中国はここ数か月間、日本に対して極めて威嚇的な行為を繰り返すようになった。
国内では人権派弁護士の大量拘束や、メディア関係者への締め付け、中国国内の知識人の間には重苦しい空気が垂れこめている。
国のトップ、周金平の席巻欲、傲慢さから、きな臭い背景にある同国の影響が、嫌がおうでも降りかかってくる。

それはさておき、何時もの様に本陣で来館者を迎えていた。
平日、しかも朝からの雨は午前中一杯、続いており、何時もの通り、寂しい午前中であった。

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そんな中、一人の若い女性が入館した。
その出立から、一日本人と思い込んでいたが、日本語は十分判らないと言う話しに初めて中国人と判った。
通常の会話は殆ど違和感なく、進められるが、判らないと額にしわを寄せ、言葉の前後から一生懸命理解しようとする様子が判る。
会話に事欠かないレベルではあるが、異国の地へ女子の一人旅、それがコアーな日野へ土方歳三や近藤勇がの新選組を追う姿に驚いってしまった。ん~ん、歳三も、最早、海を越えて大陸にも伝わっていることに、これも垣根のない情報の文化なのだろうか・・・。

その背景はアニメであろうか、それとも書籍からであろうか、既に植えつけられたイメージを自分の目で確かめ、重ねることで、目に映るものに、感動している様子であった。
他にお客も居なかったこともあって、建物はたちまち、遥々中国から来られた女性ワールドの世界に、なってしまう。

建物を巡りながら、何時ものように、土方歳三や、函館から来た市村鉄之介の話しに、目を輝かし、聞き入る姿は平時の新選組フアンと全く大差ない。
歳三が寝てしまった式台付きの玄関で、彼女自身をスマホに撮ってやったり、色々のお土産が出来たようであった。

日本古来の和室の文化で十分堪能してもらったが、折角だから中国との関わりに何か繋がるものはないか、一生懸命模索してみた。
屋内ではないが式台の天井部分の『火除けの飾り物』が思いついた。

                  <式台の天井部の飾りもの>
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鳳凰(ほうおう)は古来中国で尊ばれれた瑞鳥
竹実を食い、れい泉を飲み現れる。
元々の生まれは一緒だが、後世、日中独自のデザインに変わっている。
現代の中国では一般に、頭はキンケイ、オシドリ、孔雀、など鳥の合成体に対し日本では一般に、容姿は前部が麟、後部が鹿、頸は蛇、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏、尾は魚であるとされる動物の合成体になっている。

このように元々の生まれは一緒であり、、こんな所に繋がっている。かなり風化しているが火除けの守り神として、飾られていることに、頷き、一生懸命、画像に収めていた

上海の大学3年生、中国も学歴偏重の世界、将来は医者に成りたいと、さらりと言って のける当たり、図抜けた才覚の持ち主と思われる。
初めて訪れる異国の地に何とか使いこなす会話を背景に一人で行動できる凄さに驚かされる。、これからモノレールに乗って石田寺へ向かうと言われた。
こちらも調子にのって 、時折、中国語、『没有(meiyou)』(日本語の『無い、無し』)を挟み、連発、何とか親近感を持たしたが、笑って受けてくれた。
また此処で会えれば、嬉しいと、見送った。

新聞、TVなど限られたメデイアから伝わる情報の中、冒頭の中国人に対する、先入観はどうしても偏ってしまい、悪い面ばかりが伝わってくるが、中にはこんな人も居ることを認識させられた。

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スーパー歴女を迎え

04110025 一時は零下5℃の世界に寒い寒いと思っていたが、寒い日、温かい日が目まぐるしく変わり、季節の変わり目を感じる。
列島を襲う荒天の予想、関東地方も午後から大雨と前日から報じられた。
なんと言う巡り合わせの悪さ、こんな日に当番なんていやだな~と思いつつ、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで待機する。

当たって欲しくない天気であったが、案の定、雨が降り出し、一気に雨足が強く激しくなった。静寂な館内、何処となく、一斉に雨音がリズミカルに音を刻み、響きわたる。

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日差しのない館内は薄暗く、開けっ放し式台越しに、中庭の梅が、既にピンク色に染まり、開いているが、雨粒が滴り落ちる。
そんな悪天候の中、一人、二人と回転効率が悪いが、来館される。

館内は寒く、ホットーカーペットで暖を取りながら、歴史好きの女性と向き合い、館内案内前にご挨拶を始める。
和風建築に留まるのか、土方歳三の新選組に関わるものかどんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか?伺って見る。

三重から遥々来られ、『新選組歴、ン十年、単にミーハーですよ』と言いつつ、京に近い場所柄、壬生近辺は庭の如く、新選組の踏み跡を追い、会津、函館を走り回る、スーパー歴女であった。
猪苗代湖に近い、激戦地の母成峠で車で行ったが、深い雪に遭遇、雪中に埋もれながらも追い続ける、敢闘精神。
深い歴史に著名な人から広く愛された東山温泉で足湯に浸かり、治癒に泊まったも歳三の姿を思い浮かべ、直接湯に触れるなどは、正に新選組愛は半端ではなかった。

函館では小生も車で廻った同じコース、幕軍の上陸地点、鷲の木海岸から、開陽丸が眠る、江差、松前城、から函館に戻る函館戦争の軌跡を追って、松前半島を廻った話しや、あの独特な星姿を俯瞰出来るようにな現在の五稜郭タワーなど、背の低い時代では見えなかったなど、目を輝かせ、関西弁が心地良く、響きわたった。

新選組愛に浸透されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、新選組に取りつかれ、筋金入りのスーパー歴女と感じられた。
しかし、歳三の家も馴染みのようであるが、此処本陣は初めての来館であること、三重と日野の間が距離以上に遠かったのであろうか。

<天然理心流と勇の処刑>

そんな詳しい人物にはと思ったが、佐藤彦五郎も門弟の一人である天然理心流の紹介に特に感心事であったようである。
戊辰の戦いで破れ、賊軍と言われる配下にある新選組の武術、天然理心流は新政府からも厳しく、教えず、見せずと言う存在になってしまった。
初代宗家、近藤内蔵之助や二代目近藤三助の墓が並ぶ、八王子の戸吹の桂福寺は言わば天然理心流が流行った拠点でもある。
慶応4年4月勇が捕縛され、板橋で処刑された暁には、事が此処、戸吹に及ぶことを恐れ、墓石を砕いてて地中に埋めてしまったこと。更にその墓石を昭和の暁に掘り起こし、半年がかりで丹念に繋ぎ合わせた生生しい写真には衝撃的に映り、しっかりとメモを取られていた。改めて、事件の大きさを、傷だらけに修復した墓石が今日に伝えている。

そうこうしている内にバスで訪れた茨城からの20数名に及ぶ団体さんが来館された。タイムスケジュールで組まれている集団の一部に加わって頂き、流れに沿った御案内に入って頂いた。突然団体の渦に巻き込まれ、熱く濃い話はそれまでとなってしまった。

幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈りお別れした。

雨足は益々、激しく、以来止むこともなかった。この雨の中、再び来館者を迎えることなく、館内は再び静寂の世界に、益々暗くなる世界に彦五郎、歳三の幻影を追いながら、閉館を迎えた。

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時代を越えて伝える「日野宿本陣のザクロ」

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秋の一日、朝は寒かったのに日中、長袖では暑く、寒暖の差が激しい。
本陣の中庭に真っ赤で大きな実の果実が顔を覗かせるようになった。
普段、廊下伝いにに見える、この幹を指さし、「果たしてこの果実な~んだ」と謎をかけるが、若い人たちの殆どは首を傾げる。
年配者は「ざくろ」と造作もなく答えが返ってくる。
普段、果物として店頭に揃え飾られることも少ないし、街中でもざくろの樹を見ることも少ない。果実豊潤な時期の代表選手の柿などと比べると希少な存在でもある。

Image12サイズは野球のボール程度の大きさで、直径が6~10cmくらいで、重さは100~300g程度である。
果実の中には赤いツブツブがたくさん詰まっていて、この部分を食べる。柿・リンゴのようにがばっと、かじられる物とは違って、種に覆われた層の仮種皮(かしゅひ)のつぶつぶを口に含み、種は吹き出し捨て、僅かな部分を食べる。
さわやかな甘味と酸味があり独特の食感があるが、食べるのにもどかしさが付いて廻るので、直に食べるのは地味な存在で果物の王様になれない理由かも知れない。
中の種はそのまま食べても大丈夫だが、種が気になるようならはき出すか、あらかじめ搾ってジュースにする場合もある。
国産ざくろの流通は殆どなく、店頭で売られている物の多くはカリフォルニア産で、ジュースにはイラン産も使われている。

<ざくろの歴史>
旧約聖書や古代の医学書などにも登場しているザクロは、5000年以上前から栽培されていた。昔から健康や美容によいとされており、好んで食べられていたようで、原産地であるイランからシルクロードを通って中国やヨーロッパに伝わり、日本へは平安時代に渡来したと言われている。

<期待される効能>
最近の健康志向で直ぐに効能を追ってしまうが、ザクロには抗酸化作用のある「デルフィニジン」「シアニジン」などの「アントシアニン」や、「エラグ酸」などのタンニン類が含まれているため、生活習慣病予防に効果があると言われている。
また血流効果から高血圧予防、動脈硬化予防、脳梗塞予防、心筋梗塞予防などにも効能が期待されている。

<ザクロ伝説>
ザクロが沢山の種子を実らせる、性質のため、昔の人は、ザクロを豊かさの象徴とした。日本で有名なのは、鬼子母神(きしもじん)の仏教との接点がある。
鬼子母神は、豊かさを象徴する女神であり、子沢山で、子宝の神なのである。ザクロは、豊かさの女神に捧げられる果物であった。
種子を覆う仮種皮は、まるで宝石のように美しく輝き、昔の人が、「女神に捧げるもの」と神聖視したのが、判る気がする。
<味のある幹>
ザクロには「ねじり幹」と呼ばれる幹がねじれる性質があり 自然にも、ねじれるが、人工的に行ったりもするので、どう形を造っていくか、盆栽家の腕の振るいどころとして、好まれるようである。

<時代を越えて語り伝える>

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老木になると褐色の幹にはコブの様な突起が出来、長い年月の風格が備わってくる。
彦根藩井伊家の出先として彦根藩世田谷領に都内唯一の代官屋敷は、大場代官屋敷とも言われるが立派なザクロの樹があり、幹の部分から老木であった。
此処、佐藤彦五郎邸も根の部分が二股に別れ写真のようなコブの突起が見られ、明らかに老木であることが判る。
年老いた爺ちゃんも婆ちゃんが、如何にも皺(しわ)が一杯で、長い年月、労苦を積み重ね、老成化した姿を見るようである。

この老木も時期になると鮮やかに真っ赤な花が咲き、それが熟成され、大きなザクロに成長する。
果たしてこの老木は如何程の樹齢なのであろうか?勝手な妄想が生まれる。

慶応元年、歳三は京都土産を持参しての文久3年以来の実家帰りである。佐久間象山の書を佐藤家への土産し、二日間泊まり、4月15日ザクロ樹に見送られ日野を去る。成熟したザクロの真っ赤な色は倒幕に揺れる激動の渦に巻き込まれていく新選組姿を表しているようである。

彦五郎とおのぶさんとの間には4男、2女の子宝に恵まれたのも、このザクロからの奇縁から、少なくともご縁があったのであろうか?
その子供たちも、明治、大正、昭和と存命されている方もおられ、貴重な果物としてザクロを食されておられるであろう。
この老木のザクロが時代を越えて、色々語り伝えてくれる。

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「千客万来、日野宿本陣」

       <日野宿本陣、ちょっと古い写真>Image111
今朝も氷点下2、3℃の世界、身を縮めながらの本陣出動である。
開館前に、風に吹かれ、パタパタ揺らぎながらの旗揚げ陣屋で、全国から駆けつける同志を迎える。
熊手で中庭の松の廊下を砂利かきをする頃、駐車場に座高の高いワゴンが止まった。1人、2人と何と総勢7人もの壮年の男性が1台の車から次々と降りてきた。
開館前であるが、入館希望である旨、告げられたが、係りの人達は庭先に落ちた枯れ葉回収でおおわらわであった。
折角、早めの到着に目の前で待機するのも勿体ないし、機転を効かし、入口付近の日溜まりで、普段やらない外回りの案内を行う。

甲州街道を挟んで向かい側に高札場と問屋場の碑があり宿のど真ん中に当たる。
日野宿に参勤交代で大名を迎えた二つの本陣があったこと、両名主は佐藤家であり、上・下佐藤家の京に近い方から上継いで下で識別したこと。マンションに変わった姿に、かっての二つの本陣の姿を描いてもらう。

              <明治天皇行幸の碑>

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維新以降、明治13年に明治天皇が京へ行幸されたおりに休憩されている。
その行幸の記念碑に明記された御善水とは井戸を指す。石壁の近くに選ばれ、場所を宮内庁から何回も調査し、良かろうとお墨付きをもらった。
数年前は井戸枠もあったが、腐り撤去され 現在は鉄の蓋が掛けられいる。

入母屋作りの式台の屋根部に取り付けられた変わった飾り物は火災から護る"懸魚"であること。

                 <式台の天井部の飾りもの>

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その懸魚に使われているのが鳳凰(ほうおう)で古来中国で尊ばれためでたい鳥であること。
頭から尾まで、色々な動物の姿を形どった仮想鳥であること。
こうして火災から護られているが、長い年月、風雨に晒されているため心なしか風化が進んでいるように見える。

建物は嘉永2年(1849)の火事で燃え、文久3年に完成する。長い建築の期間に門脇の長屋で仮住まいしていたが、建屋完成で、長屋から本宅へ移る。
屋敷の東側で佐藤道場を開いたといわれるが、この長屋が空き家になり、改築し慶応2年(1866)に道場を開設している。
その長屋は門と一緒に大正の火事で消失している。
寒い朝、日溜まりを選び、其処で説明する内に結構な時間も経過。
館内前での繋ぎ役の案内序曲は終わり、いよいよ本番の館内案内に移る。
早朝ともあって、他の来館者もなく、たっぷりと建物と同家と歳三の関わりを紹介し、皆さん真剣に耳を傾けてくれた。
説明も終わり、再びワゴンに七人が乗車、気のあった歴史の男旅が日野宿を離れる。
次に向かうのが、相模湖にある小原宿本陣へ、今日中に大月の下花咲に行ければと仰って、満載の車は西へ下った。

同日、やはり車組は大雪の中、新潟から来館された、小さい男の子を連れ立った御夫婦であった。
どうやら、奥さんが主役。じじいの話に3歳の子は、興味なし、車旅の疲れか、ご亭主の腕の中で抱かれ、何とか館内一回り。
最後は新選組の羽織を着て、ピース合図の写真撮影に、ご満足の様子。
別れ際には愛嬌を振りまいて、しっかり手を振り、ご挨拶であった。
これから、千葉の流山へ、勇の軌跡を追っての旅巡り、奥さんのプロデュースかコアーな新選組の旅巡りのようであった。

嵐が来館してからかなり経つが、放映された影響から、訪れる来館者も、未だ後を絶たない。
放映された時に、嵐が色々、建物や置物を取り上げた。
現物を前にこちらから謎かかけすると、曖昧なお母さんより、子供がしっかり答える。
その記憶力の差にお母さんが、恥じらい、してやったりの子供の姿も何とも微笑ましい。

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日野宿の幕末、演劇公演に熱くなる

Img0751幕末、幕府の力も落ち多摩地域でも薩摩浪士の活動や農民の一揆の勃発で治安が悪くなった。日野宿を始め多摩地域を巡る周辺地域で活動する日野宿佐藤彦五郎と日野宿剣士の活躍振りを中心とする、演劇であった。
余りメジャーでもない日野宿剣士や上田修理、伊牟田尚平など、薩摩浪士などローカルな人達にも光を当て、構成するストーリーに真摯に取り組む、作者の思いが込められているようである。
日野宿剣士として紹介される佐藤僖四郎、中村太吉朗、高木吉蔵、馬場市次郎、井上松五郎と新選組に入らず、剣士として彦五郎と共に活躍した人物の名前に記憶を蘇らせる。

多数のお客を呼び、興行収益にも繋がる演劇である以上、客寄せに新選組の人気を使うのは致し方ないが、敢えて多摩の根付いた土の匂いがする素朴なテーマに向き合うことが何か共感さえ覚えてくる。
千人同臣として時の十四代将軍家茂公の警護で上洛するために、宿から出発する井上松五郎(源三郎の兄)と見送る人々の姿はまさに天領として幕府を支える気持ちが自然と伝わってくる。

折しも、清川八郎率いる浪士組に参加するか否か、勇がつねと結婚し、たまの誕生に家庭の幸せを掴む時期に一剣道道場主としてこのまま、終わるか、傾く幕府のために身を注ぐかの選択に大いに悩む。
勇、つね、彦五郎がそれぞれの立場でぶつかり合い、揉み合いそして最後は幕府のため、浪士組の道を選んでいった、勇の決断のプロセスがきちんと描かれていた。

幕藩体制が揺るぎ、江川太郎左衛門からも地方の自衛として農兵隊が誕生し、日野でも育ち、治安維持に力を付けてくる
多摩川の築地川原で農民不満の一向一揆の鎮圧や八王子の壺伊勢屋事件で彦五郎以下、日野宿剣士が活躍する部分をそれぞれ時代を追って、演じられる。
刀から銃への時代にピストルや銃が登場するが、弾の装填にミニエー銃の先込め操作など実に細かい所まで徹底し操作していた。
これなら、平成農兵隊として参加出来るのでは思ってしまう。

幕藩体制の攪乱のため薩摩藩邸から出発し甲府を目指す。江川の密偵に察知されながらも薩摩浪士が八王子に到着すするが、宿泊するを所を幕府側が襲撃する。
双方に多量な犠牲者が生まれるが、参加した日野剣士が2人も犠牲になる、多摩版の池田屋騒動と言われる壺伊勢屋事件は激しい乱闘事件であった。
このストーリの山と思って、その舞台装置と殺陣に期待した。
先陣として馬場市次郎が階段に駆け上がり、ピストルで撃たれ即死する。更に彦五郎宅の長屋に住む山崎兼助も亡くなる。散っていった二人の果敢な姿の妄想を描いていたが、やや具体性が乏しく舞台の立ち回りで終わってしまい、山崎兼助も居なかった。
とりわけ、兼助については、行くえの知れなかった墓石の安置場所が見つかり、佐藤福子館長と山崎の縁者と一緒に墓参が出来たこともあって、密かな期待感もあった。

まあ、まあ、単なる一観客の勝手な期待感で、舞台劇を膨らましてしまったが、予算のやり繰りに、準備出来るのはこの程度であろう。某国営放送の如く、桁違いの予算で作り上げることは難しいことも理解すべきであろう。

2時間、休みなし、終始気合の入った演技に息つく暇なく、世の中が大きく変わっていく歴史を正面から向き合い、多摩地域の幕末に触れ合うことができた。

カーテンコールの鳴りやまぬ、拍手に熱気を受け、思わず熱くなった。
佐藤福子館長の先祖を思う気持ち、この演技にかけた役者さんへの労いの挨拶も、見事であった。

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閉幕後彦五郎さん、おのぶさん、恨み役であった上田修理に個別に挨拶し、興奮覚やらづの七生公会堂を後にし高幡不動へ向かった。
折しも紅葉で真っ赤に色付く高幡山が美しく輝いていた。

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