カテゴリー「04、佐藤彦五郎・日野宿本陣」の記事

新選組も国際化の渦に

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大河ドラマ新選組放映から早12年、経ってしまった。
歳三役の山本耕史や勇役の香取慎吾、総司役の藤原竜也などの人気キャストが茶の間に新選組を身近な存在に仕立て上げてくれた。
取り分け新選組まつりの時は市役所の前で、あるいは本陣の前で山本耕史の街頭出演で、黒山の人だかりにフアンの物凄い熱気が感じられた。
大河ドラマが終わった後も、山本耕史の姿を見ると、直ぐに歳三となってしまう位にその姿は濃尾に焼きつき消えない位にインパクトがあった。
少なくとも大河ドラマが新選組のフアン層に繋げる役割を果たしたのは間違いない。

そんな熱気も10数年の経過は既に過去のものになっている。

Image新選組に駆け込み日野に訪れる若い人に問いかけても、「へ~そんなことがあったんだ」と全くのすれ違い、大河ドラマを見て居ないのは元よりその存在自体も知らない層が結構増えてきた。

☆本陣にて案内

<Russiaから>
某日、青い目それとなく判る外国人男性に拙い英語でWhere did you come fromと声をかけたらRussiaと返され、思わずびっくりした。
東南アジア系なら未だしも、まさかRussiaからとは思いも寄らなかった。
ご案内は無用、何かものを探しているようで、聞いてみたら上手く聞き取れず、何度も聞き返したら、こともあろうに「豊玉発句集」と判り更に驚いた。

Img429           (石田 散薬のミソソバを押し花にして作って貰った「豊玉発句集」のシール)


歳三フアンでも、此処まで追う、人はかなりコアーな層と思えるが、歳三に抱くイメージを追い求める世界に、最早国境の垣根を越え、凄い世界に居ることに敬服した。

<中国から>

数人の集団を案内し、終わり、一区切り付けた時に、若い女性から声をかけられる。
外見からは全く、外国人とは識別付かないが、喋るイントーネションから、外国人と始めて判ったが、中国人であった。
2013年に案内されたと言われ、再会に、にこにこ笑みを浮かべながらわざわざご挨拶された。
案内する側からは1;Nの関係から、外国人を含め年間1万を越える入館者の中、何人相手したのか判らない。大勢の客から一生懸命、記憶を辿ったが残念ながら失念しており、思い出せなかった。
しかし、滅多にないことだけに、その気持ちが嬉しかった。
国を越えて歳三に心酔し、語りかけるレピーターが居ることが、現実の姿であった。
何を機縁に彼女たちを夢中にさせるかはやはりアニュメーションやDVDなどの媒体の情報からであった。
こうしてアニュメなどが国境の垣根を越え、浸透する世界は相反するものであるが、最早止めることが出来ない。

国同士では尖閣列島の領有圏問題など、紛争の火種をかかげ、一歩も譲らない、姿勢は益々先鋭化し、とげとげしい問題を抱えている。
観光で来る彼らは、概ね、きちっとしたマナーを護る日本の文化の中、そんな枠が緩やかな環境の中に育った彼らの奔放な行動は中国では当たり前で、日本人にひんしゅくを買っている。
一方ではこうした新選組を通じて、触れ合いを持ち、気配りする人も居ることも事実である。

今年、2017年は日本を二分した戊辰役から150年を経過、新選組隊士尊霊、150回忌総供養祭が実施されるなど、節目の年にあたる。
散っていった新選組隊士が眠る中、150年の今日、国境を越えてこうした絆が生まれて居る現実に、戸惑いつつもまんざら悪い気はしないであろう。

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歳三の昼寝の世界は

某日、 本陣の歴史に触れたい人、根強い新選組フアンが、 畳が埋めつくされるほどの人出であった。
その中に10人近い女子高生と思われる集団がやってきた。
「は~いこちらが土方歳三が昼寝した場所です」
「わ~此処が歳さんが寝た場所だ~」と感激、興奮の局地だったのであろうか、一人が畳の上で横になる。 それを追うように、ばたばたと目の前で当たりを憚らず、全員が見事に寝てしまった。
これから競りに懸かるマグロの群れ、まるで魚河岸のマグロが横たわる壮観なシーンを目の前に見るようである。
小心者じいさんも、余り格好よくない姿に、たじたじ、目の置き場に困って しまった。

           <歳三が寝てしまった、本陣、式台のある玄関口>Image5華も恥じらう時代は遠い昔話、奔放な若者は歳さんの世界に身をおいて、遠い幕末の夢想の境地に入って しまった。
振り返って、ふと其のとき歳三の世界はどうであったのであろうか?、
以下、時系列に時代を追って、歳三の世界を追って見る。

◇元治元年(1864)6月『池田屋事変』
30人程の倒幕の浪士との池田屋の死闘、休む間もなく残党浪士狩りで翌日まで寝ずに続けた一日であった。

◇同年7月『蛤御門の変』

        <六斤袍が火を噴いた『蛤御門の変』>

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長州藩はこの池田屋事件で暴発し、御所へ突入、蛤御門で会津、桑名藩と激突六斤袍が火を吹き、洋式銃など登場し、近代戦に突入する。一進一退であったが薩摩藩兵かけつけで長州側は敗退する、所謂、『蛤御門の変』が起きる。
新選組も幕府軍として参加し、永倉新八、原田佐之助など負傷する、
こうして『池田屋事変』から1カ月半に及んだ騒乱の日々は一応の集結をみた。
同年8月新選組は功績では幕府から評価され、500両の報奨金を貰った、

幕府は『蛤御門の変』の勝利の勢いで、長州征伐に転進しようと諸藩に準備させたが、肝心の総督役が中々決まらず、2カ月後の10月になって漸く決まった。
◇同年8月『建白書提出』
近藤は再び「天狗」になり、隊士から家来のように扱うと、永倉新八、斉藤一、原田佐之助、島田魁、尾関雅次郎、葛山武八郎は会津藩に近藤の非を訴え、近藤は会津藩に注意される。

◇同年9月、隊内粛清相次ぐ脱走などを含め、新選組組織維持のため歳三は腐心した。
前述の近藤「天狗」問題は局長批判が謹慎と言う軽い処置では、再発し、組織として機能不善に陥ることが予想されると、判断する。組織維持のため、事件に連座した葛山武八郎を切腹させ、局長批判など不満の根を絶ち、他の隊士にも、見せしめた。
連座した他の古参隊士は重みの違いから、処分も分けたようである

◇同年10月近藤、江戸へ
近藤は会津藩主、松平容保公の内意を受けて、将軍の進発を促すため、永倉他を連れて江戸に向かい、老中と面会する。
新選組は将軍上洛が聞き入れなければ、幕閣暗殺など、会津藩は噂を流し、身分の違いなど、意識せず応分の面会を受け入れさせた。
池田屋事変が長州側に留まらず会津藩など内外とも衝撃的な事実として、影響を与え、新選組の名を高めた。

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◇、慶応元年(1865)2月山南敬助切腹
試衛館以来の仲間が何故亡くなったか、? 発病から、総長と言う看板を付けたが直属の部下もおらず、組織のラインから外れた。病変から池田屋にも参加できず、疎外感から自ら死においおこんだのであろうか、・・・。
しかし、これによって歳三の意向が隊内で通りやすく、なったのであろう

◇同年3月、歳三、伊東甲子太郎、斉藤一と伴って隊士募集で江戸へ
4月歳三、江戸の仕事が一段落、文久3年(1863)の上洛以来、2年振りの里帰り。
数日後、石田村から日野宿へ、佐久間象山の書を土産に佐藤家へ行く。
建物は文久3年完成し、この時が初めてであり、2日間滞在した。
この時に式台に面する部屋で寝てしまった。
同月、新人隊士53人の大集団を連れ、再び上洛する。

☆ほっと、夢の中
2年前、浪士組として上洛、京の治安維持で評価され、組織的な活動で『池田屋』の死闘継いで会津藩の配下で『蛤御門の変』で本格的な戦闘体勢で新選組が幕府軍の第一線に立つている。
その間、不満分子の集団脱走や、隊士の病気などで『池田屋』の戦闘には34名の出動になってしまった。
歳三は新選組の参謀役として、第一線に立ちながら、より強固な組織造りに、新人隊士を積極的に行った。一方では、組織内の体勢維持の為、時には鬼になって、切腹などで維持に勤めた。
新選組の成長過程に忙殺される歳三であったが、江戸で念願の隊士募集に目途が立ち日野へ来た。束の間の安らぎに安堵したのか、5月の爽やかな風に、気付いた時にはふと、昼寝の世界に入ってしまったのであろう。

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案内人Kさんのこと

何年前のことであったか、残暑の厳しい9月であった。
◇歴史遺産の紹介
此処の甲州道に面する本陣の式台で幕末の風が流れている。甲州道に在する高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代で公家、大名が各藩と江戸の間を往復する時の休憩所である。
鳥羽伏見の戦いで破れた新選組が甲陽鎮撫隊として再編成され近藤勇以下が甲府城へ目指し、西から江戸城を攻める新政府軍を阻止で向かう過程で一行が休憩した。
意気に燃えた鎮撫隊の目的は叶えれず、途中の勝沼で破れ、江戸へ散開した。後を追うようにシャグマ姿の陣笠付け、殺気だった官軍が甲州道を東下し、日野宿にも押し入り探索の手が入った。是れを期に幕藩体勢が崩壊した。
幕府瓦解後、民衆からは天を遍く神のような存在の明治天皇が、近代国家に生まれ変わり、国民に親しまれる姿を見て貰う機会を積極的に作り、全国に行幸した。京都まで巡行される明治天皇が休息された。
幕末から維新にかけて、新選組はじめ歴史のうねりを語り告げられ、僅かに残された希少な存在である。

◇当日の案内疫を担うが
当所の開設以来、建物を背景にした歴史の蘊蓄を活かし誰よりも語りを楽しんでいた、案内人の一人であった。
所が声が霞み、振り絞って出す姿が、痛々しかった。
以前から体の変調をきたし、当番、当日から、半月程前から、案内の生命線である、声が掠れて突如出なくなった。
本来なら当日は休むべき状況であったが、恐らく家族の静止を振り切って覚悟の上の無理しての登板であった。
カメラを持参し、建屋を含めた、何時ものフィールドを背景に当人の姿を撮ってくれと頼まれた。この時に此処へ戻れないことを、覚悟の上で、最後の姿を記録に留めたいと、只事ならぬ状況が初めて判った。
言われるままの撮影であったが、此れまでの経験のない重苦しいもので、あったが、何とか納まった。

掠れた声にかなり無理もあり、重い様子にこちらから、何を声をかけていいやら、判らず、休めばと声かけたが、そのまま閉館まで、続けられた。
相応の覚悟の上、めりはりを付けたかったようだ。最後のお客様を送り、一緒に門を潜り建屋の別れを告げ、無事にやり終えた満足感に浸って いたようであった。

◇再会叶わず
それまで酒も嗜み、普段と変わらない生活であったが、体全体が蝕まれ深刻な状態に驚いたこと、近日に家族を伴って今後の処置を聞きに行くことを吐露された。
同じ歴史仲間、再びの再開を祈って、門前でエールを送ったが、叶うことが出来ず、それが最後、何処からとも無く、1年後、訃報を耳にする。

◇解脱を祈り

             <異風堂々の芝増上寺、三解脱門>

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徳川家の菩提寺の一つが芝の増上寺で、14代将軍家茂のほか、歴代将軍や皇女和宮が眠っており、度々出かける。
増上寺の表看板として、入母屋造り朱塗りの豪華な建築洋式の三解脱門が道に面し、「どうだ~」と言わんばかりに道行く人に威風堂々とした姿を見せる。この三解脱門も知恩院の門も日本一と言われるが、同じ浄土宗で此処を通る人は解脱して通ると言われている。

解脱とは「苦悩を克服して絶対自由の境地に達すること。」・・・広辞苑
「きっと、解脱して、今頃、彦五郎と盃を交わし、歓談に浸っていると、思えるが」

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中国歴女を迎える

            <本陣入り口、中庭にて>

01110012東シナ海での中国軍艦による領海侵犯や、中国軍機が自衛隊機への攻撃、中国はここ数か月間、日本に対して極めて威嚇的な行為を繰り返すようになった。
国内では人権派弁護士の大量拘束や、メディア関係者への締め付け、中国国内の知識人の間には重苦しい空気が垂れこめている。
国のトップ、周金平の席巻欲、傲慢さから、きな臭い背景にある同国の影響が、嫌がおうでも降りかかってくる。

それはさておき、何時もの様に本陣で来館者を迎えていた。
平日、しかも朝からの雨は午前中一杯、続いており、何時もの通り、寂しい午前中であった。

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そんな中、一人の若い女性が入館した。
その出立から、一日本人と思い込んでいたが、日本語は十分判らないと言う話しに初めて中国人と判った。
通常の会話は殆ど違和感なく、進められるが、判らないと額にしわを寄せ、言葉の前後から一生懸命理解しようとする様子が判る。
会話に事欠かないレベルではあるが、異国の地へ女子の一人旅、それがコアーな日野へ土方歳三や近藤勇がの新選組を追う姿に驚いってしまった。ん~ん、歳三も、最早、海を越えて大陸にも伝わっていることに、これも垣根のない情報の文化なのだろうか・・・。

その背景はアニメであろうか、それとも書籍からであろうか、既に植えつけられたイメージを自分の目で確かめ、重ねることで、目に映るものに、感動している様子であった。
他にお客も居なかったこともあって、建物はたちまち、遥々中国から来られた女性ワールドの世界に、なってしまう。

建物を巡りながら、何時ものように、土方歳三や、函館から来た市村鉄之介の話しに、目を輝かし、聞き入る姿は平時の新選組フアンと全く大差ない。
歳三が寝てしまった式台付きの玄関で、彼女自身をスマホに撮ってやったり、色々のお土産が出来たようであった。

日本古来の和室の文化で十分堪能してもらったが、折角だから中国との関わりに何か繋がるものはないか、一生懸命模索してみた。
屋内ではないが式台の天井部分の『火除けの飾り物』が思いついた。

                  <式台の天井部の飾りもの>
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鳳凰(ほうおう)は古来中国で尊ばれれた瑞鳥
竹実を食い、れい泉を飲み現れる。
元々の生まれは一緒だが、後世、日中独自のデザインに変わっている。
現代の中国では一般に、頭はキンケイ、オシドリ、孔雀、など鳥の合成体に対し日本では一般に、容姿は前部が麟、後部が鹿、頸は蛇、背は亀、頷(あご)は燕、嘴は鶏、尾は魚であるとされる動物の合成体になっている。

このように元々の生まれは一緒であり、、こんな所に繋がっている。かなり風化しているが火除けの守り神として、飾られていることに、頷き、一生懸命、画像に収めていた

上海の大学3年生、中国も学歴偏重の世界、将来は医者に成りたいと、さらりと言って のける当たり、図抜けた才覚の持ち主と思われる。
初めて訪れる異国の地に何とか使いこなす会話を背景に一人で行動できる凄さに驚かされる。、これからモノレールに乗って石田寺へ向かうと言われた。
こちらも調子にのって 、時折、中国語、『没有(meiyou)』(日本語の『無い、無し』)を挟み、連発、何とか親近感を持たしたが、笑って受けてくれた。
また此処で会えれば、嬉しいと、見送った。

新聞、TVなど限られたメデイアから伝わる情報の中、冒頭の中国人に対する、先入観はどうしても偏ってしまい、悪い面ばかりが伝わってくるが、中にはこんな人も居ることを認識させられた。

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スーパー歴女を迎え

04110025 一時は零下5℃の世界に寒い寒いと思っていたが、寒い日、温かい日が目まぐるしく変わり、季節の変わり目を感じる。
列島を襲う荒天の予想、関東地方も午後から大雨と前日から報じられた。
なんと言う巡り合わせの悪さ、こんな日に当番なんていやだな~と思いつつ、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで待機する。

当たって欲しくない天気であったが、案の定、雨が降り出し、一気に雨足が強く激しくなった。静寂な館内、何処となく、一斉に雨音がリズミカルに音を刻み、響きわたる。

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日差しのない館内は薄暗く、開けっ放し式台越しに、中庭の梅が、既にピンク色に染まり、開いているが、雨粒が滴り落ちる。
そんな悪天候の中、一人、二人と回転効率が悪いが、来館される。

館内は寒く、ホットーカーペットで暖を取りながら、歴史好きの女性と向き合い、館内案内前にご挨拶を始める。
和風建築に留まるのか、土方歳三の新選組に関わるものかどんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか?伺って見る。

三重から遥々来られ、『新選組歴、ン十年、単にミーハーですよ』と言いつつ、京に近い場所柄、壬生近辺は庭の如く、新選組の踏み跡を追い、会津、函館を走り回る、スーパー歴女であった。
猪苗代湖に近い、激戦地の母成峠で車で行ったが、深い雪に遭遇、雪中に埋もれながらも追い続ける、敢闘精神。
深い歴史に著名な人から広く愛された東山温泉で足湯に浸かり、治癒に泊まったも歳三の姿を思い浮かべ、直接湯に触れるなどは、正に新選組愛は半端ではなかった。

函館では小生も車で廻った同じコース、幕軍の上陸地点、鷲の木海岸から、開陽丸が眠る、江差、松前城、から函館に戻る函館戦争の軌跡を追って、松前半島を廻った話しや、あの独特な星姿を俯瞰出来るようにな現在の五稜郭タワーなど、背の低い時代では見えなかったなど、目を輝かせ、関西弁が心地良く、響きわたった。

新選組愛に浸透されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、新選組に取りつかれ、筋金入りのスーパー歴女と感じられた。
しかし、歳三の家も馴染みのようであるが、此処本陣は初めての来館であること、三重と日野の間が距離以上に遠かったのであろうか。

<天然理心流と勇の処刑>

そんな詳しい人物にはと思ったが、佐藤彦五郎も門弟の一人である天然理心流の紹介に特に感心事であったようである。
戊辰の戦いで破れ、賊軍と言われる配下にある新選組の武術、天然理心流は新政府からも厳しく、教えず、見せずと言う存在になってしまった。
初代宗家、近藤内蔵之助や二代目近藤三助の墓が並ぶ、八王子の戸吹の桂福寺は言わば天然理心流が流行った拠点でもある。
慶応4年4月勇が捕縛され、板橋で処刑された暁には、事が此処、戸吹に及ぶことを恐れ、墓石を砕いてて地中に埋めてしまったこと。更にその墓石を昭和の暁に掘り起こし、半年がかりで丹念に繋ぎ合わせた生生しい写真には衝撃的に映り、しっかりとメモを取られていた。改めて、事件の大きさを、傷だらけに修復した墓石が今日に伝えている。

そうこうしている内にバスで訪れた茨城からの20数名に及ぶ団体さんが来館された。タイムスケジュールで組まれている集団の一部に加わって頂き、流れに沿った御案内に入って頂いた。突然団体の渦に巻き込まれ、熱く濃い話はそれまでとなってしまった。

幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈りお別れした。

雨足は益々、激しく、以来止むこともなかった。この雨の中、再び来館者を迎えることなく、館内は再び静寂の世界に、益々暗くなる世界に彦五郎、歳三の幻影を追いながら、閉館を迎えた。

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時代を越えて伝える「日野宿本陣のザクロ」

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秋の一日、朝は寒かったのに日中、長袖では暑く、寒暖の差が激しい。
本陣の中庭に真っ赤で大きな実の果実が顔を覗かせるようになった。
普段、廊下伝いにに見える、この幹を指さし、「果たしてこの果実な~んだ」と謎をかけるが、若い人たちの殆どは首を傾げる。
年配者は「ざくろ」と造作もなく答えが返ってくる。
普段、果物として店頭に揃え飾られることも少ないし、街中でもざくろの樹を見ることも少ない。果実豊潤な時期の代表選手の柿などと比べると希少な存在でもある。

Image12サイズは野球のボール程度の大きさで、直径が6~10cmくらいで、重さは100~300g程度である。
果実の中には赤いツブツブがたくさん詰まっていて、この部分を食べる。柿・リンゴのようにがばっと、かじられる物とは違って、種に覆われた層の仮種皮(かしゅひ)のつぶつぶを口に含み、種は吹き出し捨て、僅かな部分を食べる。
さわやかな甘味と酸味があり独特の食感があるが、食べるのにもどかしさが付いて廻るので、直に食べるのは地味な存在で果物の王様になれない理由かも知れない。
中の種はそのまま食べても大丈夫だが、種が気になるようならはき出すか、あらかじめ搾ってジュースにする場合もある。
国産ざくろの流通は殆どなく、店頭で売られている物の多くはカリフォルニア産で、ジュースにはイラン産も使われている。

<ざくろの歴史>
旧約聖書や古代の医学書などにも登場しているザクロは、5000年以上前から栽培されていた。昔から健康や美容によいとされており、好んで食べられていたようで、原産地であるイランからシルクロードを通って中国やヨーロッパに伝わり、日本へは平安時代に渡来したと言われている。

<期待される効能>
最近の健康志向で直ぐに効能を追ってしまうが、ザクロには抗酸化作用のある「デルフィニジン」「シアニジン」などの「アントシアニン」や、「エラグ酸」などのタンニン類が含まれているため、生活習慣病予防に効果があると言われている。
また血流効果から高血圧予防、動脈硬化予防、脳梗塞予防、心筋梗塞予防などにも効能が期待されている。

<ザクロ伝説>
ザクロが沢山の種子を実らせる、性質のため、昔の人は、ザクロを豊かさの象徴とした。日本で有名なのは、鬼子母神(きしもじん)の仏教との接点がある。
鬼子母神は、豊かさを象徴する女神であり、子沢山で、子宝の神なのである。ザクロは、豊かさの女神に捧げられる果物であった。
種子を覆う仮種皮は、まるで宝石のように美しく輝き、昔の人が、「女神に捧げるもの」と神聖視したのが、判る気がする。
<味のある幹>
ザクロには「ねじり幹」と呼ばれる幹がねじれる性質があり 自然にも、ねじれるが、人工的に行ったりもするので、どう形を造っていくか、盆栽家の腕の振るいどころとして、好まれるようである。

<時代を越えて語り伝える>

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老木になると褐色の幹にはコブの様な突起が出来、長い年月の風格が備わってくる。
彦根藩井伊家の出先として彦根藩世田谷領に都内唯一の代官屋敷は、大場代官屋敷とも言われるが立派なザクロの樹があり、幹の部分から老木であった。
此処、佐藤彦五郎邸も根の部分が二股に別れ写真のようなコブの突起が見られ、明らかに老木であることが判る。
年老いた爺ちゃんも婆ちゃんが、如何にも皺(しわ)が一杯で、長い年月、労苦を積み重ね、老成化した姿を見るようである。

この老木も時期になると鮮やかに真っ赤な花が咲き、それが熟成され、大きなザクロに成長する。
果たしてこの老木は如何程の樹齢なのであろうか?勝手な妄想が生まれる。

慶応元年、歳三は京都土産を持参しての文久3年以来の実家帰りである。佐久間象山の書を佐藤家への土産し、二日間泊まり、4月15日ザクロ樹に見送られ日野を去る。成熟したザクロの真っ赤な色は倒幕に揺れる激動の渦に巻き込まれていく新選組姿を表しているようである。

彦五郎とおのぶさんとの間には4男、2女の子宝に恵まれたのも、このザクロからの奇縁から、少なくともご縁があったのであろうか?
その子供たちも、明治、大正、昭和と存命されている方もおられ、貴重な果物としてザクロを食されておられるであろう。
この老木のザクロが時代を越えて、色々語り伝えてくれる。

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「千客万来、日野宿本陣」

       <日野宿本陣、ちょっと古い写真>Image111
今朝も氷点下2、3℃の世界、身を縮めながらの本陣出動である。
開館前に、風に吹かれ、パタパタ揺らぎながらの旗揚げ陣屋で、全国から駆けつける同志を迎える。
熊手で中庭の松の廊下を砂利かきをする頃、駐車場に座高の高いワゴンが止まった。1人、2人と何と総勢7人もの壮年の男性が1台の車から次々と降りてきた。
開館前であるが、入館希望である旨、告げられたが、係りの人達は庭先に落ちた枯れ葉回収でおおわらわであった。
折角、早めの到着に目の前で待機するのも勿体ないし、機転を効かし、入口付近の日溜まりで、普段やらない外回りの案内を行う。

甲州街道を挟んで向かい側に高札場と問屋場の碑があり宿のど真ん中に当たる。
日野宿に参勤交代で大名を迎えた二つの本陣があったこと、両名主は佐藤家であり、上・下佐藤家の京に近い方から上継いで下で識別したこと。マンションに変わった姿に、かっての二つの本陣の姿を描いてもらう。

              <明治天皇行幸の碑>

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維新以降、明治13年に明治天皇が京へ行幸されたおりに休憩されている。
その行幸の記念碑に明記された御善水とは井戸を指す。石壁の近くに選ばれ、場所を宮内庁から何回も調査し、良かろうとお墨付きをもらった。
数年前は井戸枠もあったが、腐り撤去され 現在は鉄の蓋が掛けられいる。

入母屋作りの式台の屋根部に取り付けられた変わった飾り物は火災から護る"懸魚"であること。

                 <式台の天井部の飾りもの>

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その懸魚に使われているのが鳳凰(ほうおう)で古来中国で尊ばれためでたい鳥であること。
頭から尾まで、色々な動物の姿を形どった仮想鳥であること。
こうして火災から護られているが、長い年月、風雨に晒されているため心なしか風化が進んでいるように見える。

建物は嘉永2年(1849)の火事で燃え、文久3年に完成する。長い建築の期間に門脇の長屋で仮住まいしていたが、建屋完成で、長屋から本宅へ移る。
屋敷の東側で佐藤道場を開いたといわれるが、この長屋が空き家になり、改築し慶応2年(1866)に道場を開設している。
その長屋は門と一緒に大正の火事で消失している。
寒い朝、日溜まりを選び、其処で説明する内に結構な時間も経過。
館内前での繋ぎ役の案内序曲は終わり、いよいよ本番の館内案内に移る。
早朝ともあって、他の来館者もなく、たっぷりと建物と同家と歳三の関わりを紹介し、皆さん真剣に耳を傾けてくれた。
説明も終わり、再びワゴンに七人が乗車、気のあった歴史の男旅が日野宿を離れる。
次に向かうのが、相模湖にある小原宿本陣へ、今日中に大月の下花咲に行ければと仰って、満載の車は西へ下った。

同日、やはり車組は大雪の中、新潟から来館された、小さい男の子を連れ立った御夫婦であった。
どうやら、奥さんが主役。じじいの話に3歳の子は、興味なし、車旅の疲れか、ご亭主の腕の中で抱かれ、何とか館内一回り。
最後は新選組の羽織を着て、ピース合図の写真撮影に、ご満足の様子。
別れ際には愛嬌を振りまいて、しっかり手を振り、ご挨拶であった。
これから、千葉の流山へ、勇の軌跡を追っての旅巡り、奥さんのプロデュースかコアーな新選組の旅巡りのようであった。

嵐が来館してからかなり経つが、放映された影響から、訪れる来館者も、未だ後を絶たない。
放映された時に、嵐が色々、建物や置物を取り上げた。
現物を前にこちらから謎かかけすると、曖昧なお母さんより、子供がしっかり答える。
その記憶力の差にお母さんが、恥じらい、してやったりの子供の姿も何とも微笑ましい。

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日野宿の幕末、演劇公演に熱くなる

Img0751幕末、幕府の力も落ち多摩地域でも薩摩浪士の活動や農民の一揆の勃発で治安が悪くなった。日野宿を始め多摩地域を巡る周辺地域で活動する日野宿佐藤彦五郎と日野宿剣士の活躍振りを中心とする、演劇であった。
余りメジャーでもない日野宿剣士や上田修理、伊牟田尚平など、薩摩浪士などローカルな人達にも光を当て、構成するストーリーに真摯に取り組む、作者の思いが込められているようである。
日野宿剣士として紹介される佐藤僖四郎、中村太吉朗、高木吉蔵、馬場市次郎、井上松五郎と新選組に入らず、剣士として彦五郎と共に活躍した人物の名前に記憶を蘇らせる。

多数のお客を呼び、興行収益にも繋がる演劇である以上、客寄せに新選組の人気を使うのは致し方ないが、敢えて多摩の根付いた土の匂いがする素朴なテーマに向き合うことが何か共感さえ覚えてくる。
千人同臣として時の十四代将軍家茂公の警護で上洛するために、宿から出発する井上松五郎(源三郎の兄)と見送る人々の姿はまさに天領として幕府を支える気持ちが自然と伝わってくる。

折しも、清川八郎率いる浪士組に参加するか否か、勇がつねと結婚し、たまの誕生に家庭の幸せを掴む時期に一剣道道場主としてこのまま、終わるか、傾く幕府のために身を注ぐかの選択に大いに悩む。
勇、つね、彦五郎がそれぞれの立場でぶつかり合い、揉み合いそして最後は幕府のため、浪士組の道を選んでいった、勇の決断のプロセスがきちんと描かれていた。

幕藩体制が揺るぎ、江川太郎左衛門からも地方の自衛として農兵隊が誕生し、日野でも育ち、治安維持に力を付けてくる
多摩川の築地川原で農民不満の一向一揆の鎮圧や八王子の壺伊勢屋事件で彦五郎以下、日野宿剣士が活躍する部分をそれぞれ時代を追って、演じられる。
刀から銃への時代にピストルや銃が登場するが、弾の装填にミニエー銃の先込め操作など実に細かい所まで徹底し操作していた。
これなら、平成農兵隊として参加出来るのでは思ってしまう。

幕藩体制の攪乱のため薩摩藩邸から出発し甲府を目指す。江川の密偵に察知されながらも薩摩浪士が八王子に到着すするが、宿泊するを所を幕府側が襲撃する。
双方に多量な犠牲者が生まれるが、参加した日野剣士が2人も犠牲になる、多摩版の池田屋騒動と言われる壺伊勢屋事件は激しい乱闘事件であった。
このストーリの山と思って、その舞台装置と殺陣に期待した。
先陣として馬場市次郎が階段に駆け上がり、ピストルで撃たれ即死する。更に彦五郎宅の長屋に住む山崎兼助も亡くなる。散っていった二人の果敢な姿の妄想を描いていたが、やや具体性が乏しく舞台の立ち回りで終わってしまい、山崎兼助も居なかった。
とりわけ、兼助については、行くえの知れなかった墓石の安置場所が見つかり、佐藤福子館長と山崎の縁者と一緒に墓参が出来たこともあって、密かな期待感もあった。

まあ、まあ、単なる一観客の勝手な期待感で、舞台劇を膨らましてしまったが、予算のやり繰りに、準備出来るのはこの程度であろう。某国営放送の如く、桁違いの予算で作り上げることは難しいことも理解すべきであろう。

2時間、休みなし、終始気合の入った演技に息つく暇なく、世の中が大きく変わっていく歴史を正面から向き合い、多摩地域の幕末に触れ合うことができた。

カーテンコールの鳴りやまぬ、拍手に熱気を受け、思わず熱くなった。
佐藤福子館長の先祖を思う気持ち、この演技にかけた役者さんへの労いの挨拶も、見事であった。

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閉幕後彦五郎さん、おのぶさん、恨み役であった上田修理に個別に挨拶し、興奮覚やらづの七生公会堂を後にし高幡不動へ向かった。
折しも紅葉で真っ赤に色付く高幡山が美しく輝いていた。

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「壺伊勢屋事件」で犠牲となった日野剣士「山崎兼助」

壺伊勢屋事件」で犠牲となった日野剣士「山崎兼助」の幻の墓石が見つかった
これまでのブログ記事を含め追ってみた。
◇2011年4月29日のブログ記事
大捕り物騒動、「壺伊勢屋事件」
大政奉還後、益々勢いを得た薩長はその矛先を倒幕に向けて動き出す。
西郷隆盛は「江戸の薩摩屋敷を根城に薩摩浪士隊は江戸の周辺地で騒動を起こして幕府勢力の分散化を図り、京都方面での討幕派の計画を支援し援護する。幕府を挑発して討幕の口実を得る」と言う事であった。
薩摩藩江戸屋敷で益満休之助を中心に、各地から脱藩浪士を集め幕府の関東地を動乱に陥れるべく画策していた。
上田務以下同志4人が甲府城を乗っ取る心つもりで三田の薩摩藩邸を出立し、甲州街道を甲府に向かう。一行浪人が上布田で宿泊後、八王子宿に入り、妓楼「柳瀬屋」と「壺伊勢屋」に入宿する。
浪士を取り押さえる幕府側は人数を二手に分け、壺伊勢屋は日野勢がそれぞれ担当する手筈を決めた。
「壺伊勢屋」の浪士等は最初に起きた「柳瀬屋」での銃砲音の夜討に気づき、壁際に身を潜め身構えた。
日野勢は「山崎兼助」「馬場市次郎」を先頭に立ち、階段を駆け上がるところ、6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「馬場市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。
日野剣士の「山崎兼助」は背中を討たれる重傷を負い、事件の翌々日亡くなってしまう。

◇2009年12月17日のブログ記事

            <山崎兼助が住んでいた佐藤家長屋>

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どうだんつつじ」と「壺伊勢屋事件」
亡くなった一人「山崎兼助」は佐藤家の長屋に住み、「馬場市次郎」とも一緒に「大昌寺」に埋葬された。
「市次郎」は馬場家の墓にあり、墓誌に生々しい事件当日の日にちが、読み取れる。
一方「兼助」の墓石は梅の樹の近くに埋葬されたと言われているが、その所在は判らなかった。
一緒に住んでいた家族は居なくなってしまい、無縁になってしまった。

◇2014年5月の発見
◇兼助に関わるこれまで
「山崎兼助」は「先誉勇進信士」の法名の墓石で大昌寺の梅の樹の近くに丁重に葬られた。。
「兼助」には当時6歳位の女児と妻が居たが、その後、行方不明となり、「佐藤彦五郎」家と「馬場」家で墓参を続けて、いたようであった。
「聞き書き新選組」ではそのような表記がされているが、はてさて、その広い敷地の中で、僅かに残された梅の樹と戒名から見つけ出す事は出来なかった。

◇兼助の墓との出会い
歴史好きが集まり、幕末史を追う会が行われており、会員の一人が兼助の末裔であった。
御高齢ともあって、名を留める程度の会員であったが、ある日、兼助のことを、ぽつりと語られ、毎年墓参されている事実を伺い、大変驚いた。
兼助が壺伊勢屋事件で亡くなり、大昌寺で埋葬され立派な墓石も立てられた 。しかし縁者も判らないまま、無縁に近い状態に なってしまった。兼助の縁者が墓石を見付け、運び出し住職の了解のもと、大昌寺から流泉寺に安置された。
縁者の先祖探しの想いが、通じて、兼助が手招きして、招き、漸く先祖帰りが叶ったのでは なかろうか。
早速、兼助と一緒に戦い最も関わりの深い佐藤彦五郎末裔の資料館館長佐藤福子様に報告した。
こうして、山﨑の縁者と、福子館長と会の有志で山﨑家の墓参りをすることが出来た。
命日は明治元年12月28日とされ、浪士襲撃の三日後に亡くなっている。
山﨑の縁者から 兼助没後、後家となった「かめ」は行方知れずとされたが、引田の宮川家に再婚されている事実も判った。これで長年来積もり積もった、ことが吹っ切れた。
◇ 辿り着いた兼助の墓

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墓石は欠損もなく、表面に斑文もなく、明治元年(1868)以来の風化も少なく、戒名もしっかり、残されていた。「先譽勇進信士」は浪士捕縛に壺伊勢屋に真っ先に飛び込み、散っていった兼助の心生きを見るようであった。
墓石を前に特攻隊のような一縷な姿を思い浮かべながら、晴れて実家で安らかに眠る仏様に手を合わせた。合掌
流泉寺は江戸時代初期の新田 開発に来た人たちの菩提寺として、慶安3年(1650年)に建立された由緒ある寺である。兼助の実家、山﨑家の菩提寺である。
◇山﨑家の家紋は「寝笹」

          <寝笹家紋>

Tuboiseya3a05_2           <下がり藤家紋」>Tuboiseya3a06







山﨑家の家紋は「寝笹」であるが、何故か兼助の墓石は「下がり藤」になっている。
推測ではあるが、兼助が亡くなった時に佐藤彦五郎と関係者の手によって法要が進められた。関係者の手で墓石も建立されたが、家紋が判らなかったが、「下がり藤」が付けられた。
何故「下がり藤」か素朴な疑問から当時一緒に活躍した日野の剣士の墓で 「下がり藤」
と関係するのではと、市内の墓地で、くまなく探し求めた。
その結果、探し当てたのが大昌寺で玉川居)祐翁こと中村太郎吉の中村家が「下がり藤」であった。中村太郎吉は武州一揆の打払い、この壺伊勢屋事件にも参加した一人で、兼助とも行動を共にした仲間である。仲間の殉死に、立派な墓石の建立に一役買ったものと推測する。何故「下がり藤」を付けたかは太郎吉に聞けば、判るであろう。

詳細は「ようこそ幕末の世界へ」 参照ください

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日野宿本陣と三味線

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日野宿本陣や佐藤資料館に嵐や杏さんが来て,紹介される姿がTVで放映された。話題になり、新選組に無縁であった嵐フアンも含め、来館者も増えその影響の大きさを改めて、思い知らされた。
その紹介で三味線のおき台に関わり、誰が三味線を使ったか、と言う設問があった。

三味線で忘れてはならないのが土方為次郎である。「聞き書き新選組」から引用してみた。

◇土方為次郎
土方歳三の長兄為次郎は目の不自由なハンデイキャップを持っても、豪胆にして智略に富みかの近藤勇も彦五郎と三人が向かい合って座る鼎坐し、肝胆(心の底)から、相手の存在を引き立たされる間柄であった。
俺は目明きでであれば畳の上では死ねない。

つまり病気や老衰で家庭において死ぬことはないと言っていた。
青年時代は府中宿にて一夜の花を愛しての帰途、多摩川出水、渡船途絶に遇い、衣類を頭上に結びつけ、めくらめっぽう濁流に飛び込み、抜き手を切って、生家所在の石田に泳ぎ着いたと言う。
そんな猛勇の為次郎も雷嫌いで、少しでも遠雷が聞こえ始めると、好きな酒杯をあおって高いびきで寝入ってしまった。
浄瑠璃義太夫に堪能であった。

◇三味線の道具の買いつけから生まれた歳三の許嫁
戸塚村に佐藤家遠縁の親戚『糸竹』と言われる三味線屋があり於琴と言うこの家の一人
娘が土地評判の万年小町である。
片手間商売の三味線屋も製作は主人の腕で、店先の客受けから三味線の調子調べ、性能を最大に発揮する、ひと節音締めは於琴しか出来ない大事な役回りであった。

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為次郎が浄瑠璃道楽、撥(ばち(銀杏の葉の形をし、弦を引っ掛けて離す小道具))、駒糸(こまいと)や三味線の買いつけはこの家であった。
目を患う人物が聞き探った美音の美人で、長唄は既に杵屋の名取り、太棹(棹の太さによって3種に分けたうちの最も太いもの。胴も大きく、また弦も太い。義太夫節などに用いられる)を執っても中々聴けた と言う。

為次郎の三味線が縁で、歳三も看板娘に出会いが生まれ、気を引かれた。
新選組副長となった歳三は暇を求めて帰郷し、立身出世して、故郷に錦をかざることを済まし江戸に帰る途中で戸塚村へ寄った。
為次郎がら聴いた話に佐藤彦五郎は『糸竹』に運び、歳三の縁談として於琴を迎い入れる話を進め挙式の段階迄となった。しかし、肝心の歳三は

「天下多事、何か一事業を遂げて名を挙げたい。暫く、自由にしておいてくれ」と言うことで、此処は許嫁とした。
しかし、そんなご縁も、実らぬまま、 歳三は戊辰役で北の地で散ってしまう。

◇佐藤家でも起居した為次郎
慶応4年(1863)の3月、甲陽鎮撫隊として近藤勇以下新選組隊士が江戸で急遽編成し、甲府へ目指す。日野宿佐藤邸で一行を迎い入れる一人が為次郎であった。
為次郎は生涯独身で石田村の生家と佐藤家で起居を相半ばしていた。
義弟の彦五郎や歳三が剣道に打ち込んでいるのが羨ましく、目が不自由の身では慰めがてら浄瑠璃稽古始めた。

甲陽鎮撫隊一行が佐藤家を出発するおり、式台から見送っている。

勝沼戦争で甲陽鎮撫隊を破った新政府軍は甲陽鎮撫隊を駆逐し甲州街道を東に上り、11日八王子に到着した。
佐藤家も彦五郎以下家族はそれぞれ、各地に逃避した。
佐藤家は留守居役の日野義順と井上忠左衛門は捕らえ無理に連れられていく、為次郎
は目が不自由であることから拘引は許された。
とあるように当日、為次郎は佐藤家に居た。

◇響きわたる唄

        <居間に掲げられた三味線>

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「東路に、ここも名高き、沼津の里♪♪。」

で始まる 「沼津の段」が最も十八番で三味線を主とし、その撥(ばち)裁きは実に堪能なものであった。
そんな撥裁きに自慢の喉から生まれる、練り上げられた為次郎の浄瑠璃が佐藤邸から
朗々と響き渡ったのであろう。
浄瑠璃に全く無縁であるが、その一節だけでも聴いてみたい。

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