カテゴリー「17、明治天皇行幸」の記事

絵から伝える史実『聖徳記念絵画館』

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◇銀杏並木の花道
国道246号線、通称「青山通り」から、真っ直ぐの造営された銀杏並木の黄金色に色濃く輝き、道の先が「聖徳記念絵画館」、以下絵画館である。
神聖な遺跡名として冠である聖徳とあり、 明治天皇の聖徳をお慕いして、明治神宮の内苑・外苑の造営事業が大正時代に誕生している。
外苑の広大な土地33万㎡に及ぶ、青山練兵所跡で、「聖徳記念絵画館」を中心に、 神宮球場、現在建設中の国立競技場や、明治記念館は荘重な結婚式場の晴れ舞台として、使われている。
明治天皇を前にこの青山練兵所で陸軍の凱旋観兵式が行われ、有名な画の一つにもなっている。青山練兵場では、飛行船や軍用機の発着等行われ、親爺も砂塵にまみれての演習で汗をかき重機関銃部隊として中国大陸中部の戦地に送り出されている。

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一時、この近くに住んでいたが絵画館は通称「丸館(まるかん)」とも呼ばれ親しまれ記憶の中にどっかり、座り、外苑は謂わばホームグランドであった。歴史に全く無関心であったが、当地から離れ、歴史に興味を持ち、絵画館が幕末から維新以降の近代まで、歴史を語り伝える大事な場所であることが判った。
過去に何度も見に行っているが、今回、明治神宮外苑創建90年記念も関心事で、学芸員・研究員の展示解説があり、参加してみた。
巨大な80枚の絵画を前に約1時間少々の時間で、約10数枚程の代表絵画から、絵の誕生から、門外不出の展示、絵画が語りかける歴史の中身を聞き、新たな事実に驚きと、感動をも生まれる、貴重な機会を得た。
当日は先着30名までの案内に、講演前の1時間前に入れ込み、記帳したが、定刻時にはかなりの大勢の衆で、賑わい改めて感心の深さが窺われた。

◇80枚の絵巻物語
戦国擾乱の時代を終わらせた、徳川家康が幕府を開き、約250年の徳川幕府の時代が続いた。薩摩藩・長州藩を中心に公家を含めた倒幕の勢力台頭に王政復古の大号令で、徳川の時代から、天皇を中心とした新政府に変わった。
国内内乱となる戊辰戦争を経て、日本が近代化を進める過程で、日清・日露など周辺国との戦争など国を揺るがす紛争に拡がっていく。
その間、孝明天皇の崩御、明治天皇が誕生、近代日本の変貌をなし遂げるなかで、天皇が多くの事績を残され、明治45年崩御される。
この時代の経過を踏まえでの事件や史実に基づき、明治天皇や皇后の事績を将来に伝えるために80枚の巨大な壁画で、描かれている。

◇80枚の壁画の誕生
五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)は、下絵を作成するため、取材旅行を含めスケッチし、80枚の壁画の最初の構図考え4年掛かりで水彩画で描いた。
十分調査できなかった物を含め、80枚の素案は描く画家に原則、1枚、1人の単位で画材は引き継がれ、更に調査を踏まえ作品として仕上げていく。
内容が内容だけに国家の事業と言っても良く、天皇、皇后を描く大変な事業であった
◇歴史画として史実を正確に再現投げられた画家は更にもっと詳細に調べ、歴史考証に時間をかけた。単に自分の好みに応じて、画材を描いてはならないので、当時の一流の画家は非常に苦労した。記録に残っているもので1枚の壁画を描くのに12年かかった画家もいる。

◇門外不出
壁画80枚あるが、畳み2畳程、縦3.7m 横2.5~2.7mある。巨大な絵画であって、恐らく搬送・展示場所など色々制約もあり、内苑展示など例外を除き、絵がこの絵画館から殆ど外に出たことが無い。
だからこそ、価値観があるのであろう続々詰めかける人並みは絶える事も無かった。歴史場面で度々登城する馴染みの場面は此処から生まれ、門外不出の巨大な壁画の前で、臨場感がたっぷりに、歴史の瞬間に浸ることが出来る。

◇語りかける史実
80枚の中から日頃、目にする代表的作品、『大政奉還』~『王政復古』に限定し、紹介する

画面が圧縮されているので、クリックすると拡大します。

#5 『大政奉還』

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慶応3年(1867)15代将軍の徳川慶喜は薩摩・長州を中心に幕府を倒そうとする意見が強く、未だ薩摩藩 他は表舞台に出られず、受け皿はない、政権は自分の所に戻ってくると踏んだ戦略的な意図もあって、先手を打って政権を天皇に返した。
二条城で中央に座っているが、15代将軍徳川慶喜で、将軍を支える松平容保、松平定昭ら重臣たちが居並んでいる

#6『王政復古』

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天皇、臨席のもと、新たに任命された総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職によって、慶喜の処遇を決める新政府の最初の小御所会議が明治天皇の主催で開かれた。
右側の手をだしているのが公家で岩倉具視で背後に影の人物、大久保利通、有栖川宮親王が固唾を飲んで見守っている。
左側は徳川に恩義を感じる大名達で前面に居るのは前土佐藩主で 議定の山内豊信で、遅れて来たため、裃のままである。
岩倉は慶喜に内大臣職と領地を返還させること。山内は内大臣職は未だしも領地没収は穏当でない、と激しく主張する。
いざとなったら慶喜を弁護する山内を短刀で倒せと西郷が岩倉に迫ったとも言われている。結局、慶喜を新政府に加えないと言う結末になった。こうして、王政復古のクーデターがなし遂げられ日本の命運が決まった。
会議は西郷隆盛が指揮する兵力が警戒するなかで開かれ、物々しい雰囲気、佐幕、倒幕の緊迫した対決姿勢が壁画から伝わってくる。

#7『伏見鳥羽戦』
小御所会議の決定で慶喜は朝廷の官職を退き、領土も一方的に奪われ、京都の二条城から大坂城へ移る。
会津・桑名両藩をはじめとする旧幕府軍は新政府から慶喜を外す決定に憤慨し、大坂城から京都へ進撃し、京都南方の伏見・鳥羽の地で新政府軍と激突する戊辰戦争が勃発する。
する。旧幕府軍は譜代藩であった淀藩などが新政府軍に寝返りや、離脱した藩などからも攻撃される。新政府軍は朝廷から錦旗(きんき)の下腸を受けて、官軍となり、近代装備され、数では勝る旧幕府軍を圧倒劣勢な幕府軍を前に伏見・鳥羽の戦いでは勝利を収め、旧幕府軍は賊軍となる。
壁画は長州藩の奇兵隊を率いる『三浦梧郎』は抜刀し、全軍を鼓舞し、旧幕府軍の会津藩兵を攻めたて、背後に位置する薩摩藩の大砲が支援する戦いの場が描かれている。

Seitokukaigakan301松の木に思い入れがあり、猛猛烈な寒風に吹き荒び、遠くに淀城が望まれる様子が伺える。
「三浦梧楼」は長州生まれで、戊辰戦争では奇兵隊で参戦、維新後は西南戦争に従軍する軍人出身であった。
明治13年(1880)明治天皇京都行幸の随員の一人であり、日野宿にも来ている。
以下、隣接国で国際関係も揺るがす大きな事件に関与している
明治当初、朝鮮では政治の実権を巡り、高宗(国王)の父の『大院君』と『王妃』の間で争い『閔妃』は景福宮にて暗殺された。当時「三浦梧楼」は朝鮮駐在公使として、現地に居り、『乙末(ウルミ)事変』の関係している。

詳細はHP『ようこそ幕末の世界へ』 で掲載しており、併せて、ご案内します。

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明治天皇行幸と御膳水

明治13年6月16日、明治天皇が甲州路から木曽路を京都へ御巡行され、激しい雨の中、馬車で日野佐藤邸へ到着した。雨は激しさを増し、道路上に砂礫を撒くのみで、馬車は泥に車輪を取られ、難渋したと言われている。
明治天皇を乗せた重厚な儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達の物々しい制服姿の一団は街道筋の人々を驚かす、重厚で壮大なシーンであったと想像する。
随行者は300~400人と言われ、二品貞愛親王、太政大臣三条実美(長州系公家)、参議伊藤博文、同寺島宗則、他内務郷、文部郷、宮内郷、陸軍中条、などなど国の中枢を担う要人が多数含まれた。
日野宿では宿の指導者たちが、羽織・袴に威厳を正し明治天皇の巡行を迎えた。
元々幕府の天領地の日野に幕府が倒れ明治維新後、明治天皇と言うVIPを日野でお迎えすることになった。

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<明治天皇を乗せた六頭曳儀装車(明治神宮宝物殿の展示(カタログから)。
この儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達がさっそうと乗馬し警護する。
但し、この儀装車を使われたか不明。

◇大事な御膳水
何よりも敬うべき天皇をお迎えする事ではあるが、たかが飲料水如きに井戸を堀り、差し上げる、もてなしに、如何に、大変な行事であったことを物語る。
明治天皇の住まいである御所から離れ、全国に行幸される、場面ではことの他、神経を使うのは飲料水であった。
人間の体は60~70%は水分で構成されていると言われている。そして体内の水分は常に汗、尿、呼吸なで排出され1カ月で体中の水分が入れ代わる。従って、良い水を効果的に摂取することは健康維持に、長生きできると言われている、健康造りの原点なのかも知れない。
良い飲料水の効用は既に先人の知恵として伝えられ、名水と言われるものがもてはやされている。
飲料水のコマーシャルではないが、水の大切さをこんな所から生まれ、伝承となり明治天皇の行幸にも熟慮されたのではなかろうか。

◇散在する御膳水
明治天皇が全国に精力的に行幸されたことから御膳水と言う看板で光が当てられる場所は以下のようにあちこち散在し、名所にもなっている。
1)茅野市
茅野市宮川にある曹洞宗の名刹宗湖寺は 寺の敷地内にある井戸の水を「御膳水法(のり)の真水(ましみずと命名この水は1880年(明治13年)明治天皇に献上した由緒ある井戸水
2)軽井沢宿
江戸時代より水質が良くわき出る水が豊富な湧き水は「お水端」と呼ばれ軽井沢宿を往還する旅人や宿場の人々また本陣に宿泊する大名・公家の御膳水として活用された。
明治11年9月明治天皇が軽井沢宿で昼食をとられた際に御膳水として使用された湧き水の源泉がこの谷間にある。

◇日野宿での御膳水

01110012<御膳水の井戸と場所を示す案内板がかってはあった。>

本陣にも明治天皇の行幸と御膳水の碑が残っている。
明治天皇が京都行幸で日野宿の本陣が休憩所としての利用が具体化されたときに宮内郷から敷地内での水質の調査を実施し、御膳水として検査をした。不的確であれば多摩川を利用するようであったが、現在の本陣の中庭の井戸でお墨付きを貰った。
明治天皇は明治13年の京都行幸と併せ、翌14年にうさぎ狩りで来られており、御膳水として大事な役割を果たしている。
その後、御膳水は、半ば放置され、木製の井戸の裏側ががかなり腐食し傷んでいたので桶は、外され蓋を架けられ、案内板も無くなった。

維新以降、宿を上げての明治天皇の京都行幸で迎えた大きな行事。それを支えた、御膳水の設備は当時を語り伝える大事な記念物だけにせめて場所を示す看板だけでも有るべきと思うが、知る人ぞ知る存在になってしまっている。

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うさぎ追いし、かの山

明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで、馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、日野の旧佐藤邸で小休止された後に、連行寺村へ向かったことは既に当ブログの「明治天皇行幸と山岡鉄舟」で書いている。
この兎狩りを含め4度も連行寺村へ訪れており、その関わりの深さを物語っている。
明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」を携え、幕末から維新に駆けめぐった山岡鉄舟を従者として、駆けめぐった連行寺村、周辺を尋ねてみた。
早速聖地の旧多摩聖跡記念館に目指し、京王線「聖跡桜ヶ丘」駅へ向かう。今尚、駅名の冠に聖跡が付く位に、明治天皇が行幸された事実が100年以上も経過する今日にも、語り伝えられ、影響の大きさを物語っている。
都心に繋ぐベットタウンとして、大変便利な事から駅周辺の雑踏は人並みも、切れず賑やかである。川崎街道を東に向かうと、乞田川と並行する鎌倉街道に交差し、流通の拠点として車両の渦、騒音の中に入る。

◇「行幸橋」

Img_1237乞田川沿いに南側に向かうと、連光寺方面に繋がる乞田川を渡る行幸(みゆき)橋に出る。
行幸の名前も明治天皇が渡られたことから、「行幸橋」と名付けられた。乞田川とも合わせ「行幸橋」も完璧にコンクリート化され都市化された構造物になっている。
冬には兎狩り、春から秋には鮎釣りを、民衆に迎えられ明治天皇の一行の行列が此処を渡り、高台の連光寺方面に向かったが橋の名前だけが僅かにその行跡を語り伝えている。

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橋を渡り、道なりに向かい、暫く行くと連光寺方面に向かう「記念館通り」に出る。住宅に囲まれ、急坂が何処までも続き、己の吐く息が聞こえる位に先程の喧騒が嘘のように静かである。
息が切れそうな急坂に住宅が切れ、都立桜ヶ丘公園の一角に出る。
歩け歩けで最近の歩けブームに乗ってか、トレッキングスタイルの群れ集団が向かい側から降りてくる。
街から直ぐ近く、自然に恵まれた山頂を含めた環境は気軽に良い汗をかける、恰好のトレッキングコースである。
高台付近に国策で生れ満州開拓に駆り出され、不毛の地で亡くなり、埋もれていった人々の満州開拓殉職之碑がある。
高い所から、遠いかの地で失った人達の冥福を祈り、手を合わせる。

◇狩猟地の連光寺村

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桜ヶ丘公園に入り、素晴らしい眺望のきく高台に出る
天皇の狩猟天覧は、郊外の狩猟地の一つとして、ここ連行寺村が選ばれ、早速宮内省の手で山林ので兎の生息を状況を確かめ、周辺の村々から村民動員の上、開発整備され天皇の兎狩りを出迎えた。
明治天皇が愛馬「金華山」に跨がり、この眺望を楽しみ、兎狩りの一時を此処で過ごされた。四囲が住宅地で開発される中で、都立桜ヶ丘公園として、自然の森がそっくり残されている。
旺盛な樹木の成長に視界が遮られるが、御前山、大岳山、雲取山など近くに設置された案内プレートで多摩の山々を確かめることが出来る。馬を携えた明治天皇も山岡鉄舟も此処に来て、同じ姿を眺めていたのであろう。

◇旧多摩聖蹟記念館

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西側に向かい、駐車場を越え旧多摩聖蹟記念館に到着する
中央に飾られた『金華山号』は天皇のご寵愛深く、明治13年から16年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。
陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。
長寿といえる26歳で死亡し、明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の正徳記念館に安置されている
多摩聖蹟記念館は、明治天皇の行幸をしのび、顕彰運動に尽力し、宮内大臣も勤めた田中光顕(みつあき)らにより昭和5年(1930)に造られた。老朽化し、取り壊しの検討もされたようであるが、近代建築として評価され、多摩市が改修し、多摩市指定有形文化財として生き延びた。敢えて旧と冠が付いているのは「明治天皇行幸を記念する建物」から「都立桜ヶ丘公園を訪れた人々の憩いの場」と変わったようであるが、中央に飾られた、明治天皇騎馬像が象徴的であり、敢えて旧が付くのに違和感を覚える。
田中光顕は土佐藩出身で武市半平田に師事し土佐勤皇党に参加、中岡慎太郎の下で薩長盟約の締結に尽力される。幕末には勤皇活動行った長州に傾注しており、多摩市の保有する長州藩士の遺墨が多数展示されてあった。吉田松韻、高杉晋作、真木和泉、木戸孝充伊藤博文、等々「幕末の長州史」のお勉強会でもあった。

天領でもあった幕府配下で脈々と歴史を刻み、残される遺産も佐幕よりのものばかりの日野では、どうしても佐幕依りに染みついてしまう。僅か数キロの此処に来て、一気に倒幕一色に塗りつぶされる長州の世界に戸惑いさえ覚える。

◇兎平見つけた

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旧多摩聖蹟記念館から公園内を北側の勾配を下って行く、鬱蒼とした樹林の一角に刈り取られた縁に「兎平」の標識を発見する。
狩猟にあたって、連光寺、関戸村、貝取村、一宮村、程久保村から計150人以上の人々が勢子(せこ)(獲物を追いかける人々)として駆り出された。勢子はいっせいに喚声をあげ、各自手に持っていた棒で地面を叩きながら、山頂の王座前に張られた網をめがけて山を登って兎を追い込んでいった。王座前の網に兎が飛び込むと、侍従長はそれを生け捕りにして、天皇の御前に差し出した。
続いて第2狩場、(榎田山)第3狩場(山の越)、第4狩場(天井返)などで兎狩りを実施し、夕方には行在所に引き上げる。こうして僅かな時間であるが、村人と明治天皇と侍従達とのチームワークで、自然の原野で素朴で野性的な狩りの一日が終わる。

こうして、兎平を後に桜ヶ丘公園を兎の如く一気にかけ下り、出発点の「聖跡桜ヶ丘」駅に戻るが、秋の日は短く、既に日は沈みかけていた。

下記に関連記事あり

明治天皇と兎狩り

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明治天皇行幸と山岡鉄舟

Meiten305明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、連行寺へ向かう過程で、日野の旧佐藤邸で小休止された。
夜来の雪はあがり、晴れわたり、明治天皇御一行は八王子行在所で御発輦され、甲州街道を東下し午前中に旧佐藤邸に到着する。
昨年に継ぐ、御駐輦は急であったようであるが彦五郎以下は感激し、御迎えの準備する。表門の軒が低いので、路面を掘り下げて、御乗馬のまま御通りできるように工作し、家族一同は台所で差し控え御迎えた。
式台のある玄関口から渡り廊下を通じて、奥座敷にお通りになる足音が、台所にいた家族の耳に響き、何とも言えない心強い気持ちになって、目頭が熱くなったと言う。
暫くすると山岡大書記官(鉄舟)が主人に「聖上にお酒を差し上げる用意を」と言う。「お召料になるような上酒は土地にございませんが」と申し上げると「いや、地酒で良い。「酒器も当家で使用しているものでよろしい」と言われた。
早速酒屋和泉屋(宇津木氏)から最上の地酒を取り寄せて差し上げた。急な、御駐輦で酒の準備に滞り、混乱したようであった。
◇さっそうと愛馬「金華山」で
御殿峠御猟のご帰途、更に多摩村連行寺向ヶ丘御猟地へ兎狩りに行幸された。その折りには、当家までは御馬車で小休止された後玄関前にて「金華山」と呼ばれる御愛馬に乗馬され、薄雪白き、麦田圃の畦道を勇ましく猟場さして2里の行程を鞭打たれた。
明治天皇は騎馬軍服の姿で立ち振る舞い、近衛騎兵が警護にあたっていた。八王子・日野周辺の関心はもっぱら明治天皇の兎狩りに集中していた。サポート役として山岡鉄舟も乗馬し、行動する。

◇寵愛深く「金華山号」
『金華山号』は天皇のご寵愛深く、明治13年から16年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。
金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。
陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど「頭部美しく、怜悧沈着で外物に驚かない特質」と評されている。。
明治28年(1895)6月、金華山号は馬としては長寿といえる26歳で死亡した。このとき明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の正徳記念館に安置されている。

Img110◇何故山岡鉄舟が陛下の側近役に
慶応4年(1868)慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追討軍が江戸に到着し、慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。そんな背景の中で勝海舟は山岡鉄舟を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当たらせた。官軍が埋めつくされる東海道の駿府へ、山岡の肝をすえた気迫に慶喜の件は何とか西郷預かりになった。この山岡の働きによってようやく総督府との具体的な交渉の手がかりがつかめ、後の「海舟・西郷会談」の成約を向けてのレールが敷かれたと言われている。江戸での西郷と勝の会見が、後に大きく取り上げられるが、実質的な交渉は静岡会見での山岡に負う所が大きく、江戸での会見は単にセレモニーとも思える。

山岡鉄舟はそんな経過を踏まえ西郷隆盛から人物評価されており、特別な推薦もあって、明治5年、明治政府から天皇陛下の側近侍従長として教養及び剣術の御指南まですることになった。
平安朝以来、女官たちに囲まれた天皇の生活に、無骨な男子の空気に一変させようと言う西郷の官中改革に協力したものであった。
侍従鉄舟のエピソードに彼が青年明治天皇に相撲の相手をし、畏れ多くも天皇を投げたおし、辞職を願い出たという話がある。
弟子はこれを否定している。鉄舟は天皇の青年らしい、多少度の過ぎた奔放な行跡を改めていただくよう、相撲の機会に諌言(かんげん)し、聞き入れなかったら辞職すると言って自ら謹慎したというのである。

Img_4529◇時代を越えて多摩を馬で
山岡は江戸から静岡まで官軍兵士がの居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」と叫びつつ、早馬を走らせた。東海道を疾走する山岡の早馬の図は有名な錦絵となっている。
ダイナミックに走る馬上姿の山岡と、背後を追うように、ここでは白馬姿の薩摩藩士益満休之助が描かれている。
時代を越え、山岡は立場を変えて、明治天皇の従者として、乗馬でさっそうと多摩の原野をかけ走った。
旧東海道の府中宿(現静岡伝馬町通り)、西郷隆盛と山岡鉄太郎が会見した松崎屋源兵衛宅跡があり、記念碑と錦絵が飾られている

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明治天皇の全国巡幸で日野小休

Img_11321明治天皇を御迎して既に130年以上も経過するが、余り、多くを知らされていない。その真実を追っかけ、幕末から維新にかけて、新しい時代を迎え、眩いばかりの皇室を迎える大変大きな、出来事であった。
明治天皇は京都御所に住み、外の世界には全く出ることはなく、民衆からは天を遍く神のような離れた存在であった。近代明治国家ではそんな因習から生まれ変わり、国民に親しまれる元首として、その姿を見て貰い民衆との触れ合いの機会を積極的に作っていった。
明治天皇の巡幸は隔年ではあるが、10数年がかりで88回に及ぶ、全国巡幸を精力的に行われている。
この地方巡幸を計画した中心人物は断定されていないが、大久保利通・岩倉具視の路線から生れたと言われている。
巡幸半ばで推進役の一人大久保は襲撃変死するが、大久保の構想は岩倉や伊藤博文や山形有朋らに引き継がれる。


<明治天皇を迎える街の様子は>
新生国家の元首の街への御登場は鮮烈なアピールであったに違いないが、一部では覚めた様子も伝えている。
・老婆は路端にうすべり(縁をつけたござ)を敷き正座し、天皇の通過をお待ちした。中にはちょんまげを付ける人、正装の人々など様々であった
・「東北御巡幸の御発輦(れん)を拝まんと、御道筋の両側は、万世橋より千住までの間に錐(きり)を立へき隅も無き程に充満し」と東京中が歓送の渦の中にあったことを延べている。
・農作業を妨げてまで歓迎にかりだしてはならないと言う通達にも関わらず「鳳輦を見かけ両手を合して拝むもあり、両手を打つもありて何れも遠近の村落より出たる人なるべし」・・・「鳳輦随行記」
・「天子様は生き神様」と言う信仰を抱いて、天子様を拝めば目がつぶれると言う流言を率直に受け入れた者もあれば、初めて見る天皇に概して庶民が冷淡であったことは、赤子に乳を飲ませながら行列を眺め立っている農婦の姿からうかがえる。

<日野で2回も明治天皇を迎える>
日野は徳川家康関東入国以来、甲州道中など街道の整備が進められた。幕末・維新時期には日野宿は幕府直轄領だった日野と幕府との強い結びつきから農兵隊や新選組が生れ、より佐幕色の色濃い土地であった。当時の人も「明治維新」・「御一新」の言葉より、徳川幕府の崩壊を捉えた「瓦解」が使われたのも、幕府との絆の深さを物語っている。
そんな土地背景の中、薩長色の濃い新しい体勢の明治国家の中で、明治10年代に日野に2度も明治天皇が「行幸」(ぎょうこう)の過程で立ち寄られている。
その1回目は明治13年(1880)、明治天皇は山梨・三重両県と京都府巡幸があり、6月16日に東京を出発され、日野に立ち寄られている、

Meiten1104<金色に輝く菊花紋の馬車の大パレード>
「君が代」や「日の丸」の国旗を先頭にフランス式の近衛騎兵が親衛する朱塗り、金色に輝く菊花紋の馬車を中心に一行は貞愛親王を始め太政大臣三条実美や寺島宗則・伊藤博文・山田顕義の三参議、その他維新以来の元勲連、山岡鉄舟など重臣顕官が奉じ、騎兵・夫卒・馬丁等を合わせて約360人に及ぶ大集団であった
明治天皇の御行幸の一行は府中の大国魂神社に幣帛料を供せられ、新しく架けた多摩川の仮橋を渡られ、午後3時頃旧佐藤彦五郎宅(以下佐藤邸)に到着し、小休止された。 近衛兵数十基をともなって、当日のために選ばれた日野の名望家は意義を正して玉川橋で、天皇の御一行を出迎えた。日野宿内では天皇の一行を祝して門々に国旗を掲げた。

<当日の佐藤邸では>
佐藤邸の表門前に厚い檜板の組枠高札「御小休」が建てられ、邸外四方警護厳しく、板塀内側には幔幕(まんまく)を張りめぐらし、屋内各間には絨毯を敷き詰められた。
奥の間の廊下先の御厠(かわや)を本削り材を持って新調し、内側一帯に、運ばれた青磁色の御緞子(どんず)を巡らせた。

絨毯が敷きつめられ、陛下は御靴のまま、玄関から上がられ、御足音高く、王座まで御運びあり、御茶を喫せられ、続いて清酒五合程も召し上がられた。
次々の各間には三条実美、寺島宗則・伊藤博文・山田顕義の三参議その他維新以来の元勲連、山岡鉄舟の元気な姿が目立ち、それぞれ待機していた。厨板の間(勝手と推測)の焜炉(こんろ)の傍らには神奈川県令 中島信幸などが煙草を喫煙していた。
小休後、午後5時に日野を御出発し、八王子に着かれた。

<無事大役勤めた佐藤家>
当時俊正(彦五郎)はこの南多摩郡長奉職中にて、恐懼(きょうく)描くこと知らず、家祖350年来まったく未曽有の光栄に欲すること、なお俊正として畢生(ひっせい)の労苦を重ねて、親しく建築したるこの邸宅に、有り難くも両度までも行幸御小休を仰ぎ奉ったのである。いかばかりか歓喜恐悦し、聖徳に感佩(かんぱい)(かたじけなく心に感じる))したことであろう。と同家で史話に残されている。
翌年の2回目の兎狩りは別途、予定。
詳細は>「明治天皇の全国巡幸と兎狩」で当サイトで掲載。 

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