カテゴリー「22、井伊直弼」の記事

優れた人格と勇猛な井伊家の祖「井伊直政」の生涯

幕府瓦解まで支えた井伊家の粗、井伊直政に光を当て、彦根城中心に追ってみる。
◇井伊家の祖、井伊直政の出自
遠州井伊谷の出で、家系は平安末期、井伊荘園の在庁官人と言われ、エリートのキャリア官僚の出。
井伊氏は室町期に今川氏に服従し、直政の先々代は桶狭間の戦いで戦死。先代は今川氏に疑われ、攻め殺される悲憤の中にあった。
幼少の直政は母に守られて漂白し、少年時代に遠州で、家康に見い出され、井伊谷の旧領を与えられ近侍する。
直政にとって家康の存在は主従関係を越えた恩人であり、生涯、精一杯誠実に家康に尽くし報いた。
思慮深く、四方への気配りし、口も重いことから、人柄を買われ家康は信頼し、内々の相談相手にもなった。
一方、武勇の面では西軍と対峙している折に、人馬一体で突撃する「突っかかり」と呼ばれる野戦方式を自ら実践した。この勇猛果敢さは生涯継続し、16度も合戦に一度も敗北はなかった。優れた人格を備える一方、武功に力を発揮する直政の存在は家康の頼りがいのある直参であった。

◇勇猛な武田の赤揃いを継ぐ

           <勇猛で名をはせ、秀吉側から恐れられた井伊赤揃い>

Image1 武田家が勝頼の代で織田信長の甲州攻めで破れ、滅んだ。家康は信長に頼み武勇を誇る武田の集団を吸収し、直政の配下に付けた。
当時、武田は赤い具足、指物、鞍から馬のムチまで赤で揃え、「赤揃」と言われる恐れられた軍団であった。直政はそのスタイルを継承し「井伊の赤揃」と呼ばれるまでになった。
直政は家康の指示で武田の陣立てや戦法を学び、信玄の洗練された武術を継承した。大軍の決戦には直政は先鋒部隊として錐(きり)のように深く穴を開け、期待に応えた。
天正12年(1584)尾張の小牧で秀吉軍と対峙した家康軍が膠着した折に、秀吉は直政の猛気に恐れ「赤鬼」と呼ばれた。
幕末期の藩主の井伊直弼は時勢の混乱に追い詰められた幕政に収拾を図るべく、公卿、大名、諸藩の活動浪士を大弾圧し、辣腕を振るった直弼を「井伊の赤鬼」と呼んだことにも繋がっている。

◇空前の兵士が動員された関が原の戦い
慶長5年(1600)、東西両軍があいまみえ関が原の戦いが行われ、勝敗が決しなかった。
西軍の将小早川秀秋の裏切りによって、一気に東軍の勝利になった。
東軍の徳川家康はその夜、戦場で仮泊したが、直参の井伊直政には休息を許さず、近江への侵攻を命じた。近江には西軍側の石田三成の居城佐知山城があり戦略的に陥れる必要があった。
家康は直政に1万5千人の将兵を与え、山中の狭い道路は人馬で充満し、侵攻を阻害した。夜間行軍に続き、翌朝の8時間の激闘で士が疲れきっていた。
近江への侵攻で総司令官となった井伊直政は後に彦根を与えられ、その勲功は35万石の祖になる。
最前線に立つ直政は、二つの鉄砲玉を受けるほどすさましかったが、この傷が災いし、破傷風となり、過労と重なりでなり2年後の慶長7年(1602)40歳で亡くなる。

◇佐知山城の落城

            <彦根城から市街地を越え、目の前の山頂が悲劇の佐地山城跡>

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関が原の戦い後、石田三成は伊吹山に姿をくらまし、生きて再興の機会を伺った。
主の居ない佐知山城は老人や女子、士卒の家族が留守を守っていた。城は東軍1万5千名に囲まれた。
「開城せよ」で三成の主たるものは切腹、士卒は降参するものを許すと命令を申し述べた。
城中では奮戦して戦おうと意志を固め、士卒には強制せず、死を共にしようとする者のみ、残れと触れた。
その間、城から離れた者は僅かで、城中男女2千数百名が城に残り、2日間激闘し討死もしくは自害した。
三成は如何に士心を得ていたことを物語るものであった。
三成は捕らえられ、京の六条河原で処刑された。三成の処分は家康命で直政が行うが、丁重に礼遇した。

◇敗者に対する直政の処遇
三成の旧領を相続し佐知山城に入った直政は石田時代の法や慣習を尊重し、近江の国風を学んだ。家来団に対しては関が原合戦のことは禁句として、三成批判を抑え、密かに慕っているであろう感情を護った。
こうして西軍の中核部隊である近江衆の心を捉え、敗者である近江人を徳川の配下にした。人を得た直政の配置が家康の絶妙なる人選でもあった。
直政の人柄と家康に尽くした働き振りが、機運となって徳川家と井伊家の絆が生まれ、幕府瓦解まで繋がる。
直政の思想、人格、事歴が基礎になってその後の井伊家の藩風として継がれる。

◇彦根城の築城

家康は直政に「西国30余か国の諸大名の監視」の重責を負わせる。京都の公家をはじめ、西国の諸大名として特に長州の毛利家、薩摩の島津家で、その家各の重さは井伊家代々に相続されている。
幕末期の井伊直弼も政治意識の中にこの一言が、濃厚にあり、独裁と言われる「安政の大獄」も忠誠の結果と言われている。
彦根城の築城は大坂城の秀頼討ちを狙う、家康の意志から生まれたが、場所選びに任された井伊の重臣達は彦根山(金亀山)に決め、家康も大いに賛同した。築城を前に直政は亡くなり、次の直勝に継がれる。
家康は築城を公儀普請(ふしん)とし、江戸から普請奉行三人を派遣した他、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛弾若狭、越前の7ヶ国、12名の大名に手伝わせていた。

◇維新後も残された彦根城

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明治維新の太政官冷から、多くの城が姿を消した。明治天皇がこの城を見、その典雅さ感じ入って、残したいと言う意志からと言われている。
彦根城は湖畔にあって、雅びを感じさせる優しさをもっている。
建物も石垣もこの付近の佐知山城や観音寺城など在来の古城郭の物を取り壊し移され、巧みに利用し近郊の古建築の感覚が反映され、実現している。

優雅な城と城内の急峻な階段、多数の狭間、戦う城の姿の、彦根城 .は実際に確かめてきました。こちらでで紹介してます。

司馬遼太郎作 街道をゆくシリーズ「近江散歩、奈良散歩」引用する。

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井伊直弼の青春期を過ごした「埋木舎」

35万石の城下、江州彦根で井伊直弼の青春期に過ごした空間を訪ねてみた。
紹介する前提となる直弼が関わった事件を整理してみる。

◇「安政の大獄」
ペリー来航で開国を迫り、強力な武力を背景に、威嚇砲撃で江戸市民始め、国内を恐怖に陥れた。開国か攘夷か騒然たる世論の波に幕府の基盤も揺るぎだした。
安政5年(1858)4月、大老になった直弼は大老の職権のもと紀伊慶福を将軍経嗣と定め、一橋慶喜を押す水戸成彬らと激しい対立する。さらに勅許も持たずに独断でアメリカと修好条約を結んでしまう。
これに反発し、「直弼専横」を叫ぶ非難の声が渦巻き水戸藩など尊攘派志士を煽り立て、京では反幕運動が起こる。
幕府の体制維持のために、直弼は大老としての使命感から力で弾圧し、切腹、死罪、獄門など極刑は8人にわたり、連座する者女子供含め100余人もの大量処刑が行われ「安政の大獄」と言われている。以来、直弼は、執行した幕閣としてダーテイなイメージを背負いこんでしまった。
◇「桜田門外の変」
安政7年(1860)3月、大雪の中、行列が桜田門にさしかかったおり、水戸主体の浪士の集団が襲撃し、大老井伊直弼の首が落とされた。
当該ホームページで  桜田門外の変   を紹介している。

明治維新後も横浜開港の功績から、直弼の銅像が建てられたが、安政の大獄の犠牲者の吉田松陰を信奉する人物の怨念から、銅像の首を落された。
当該ホームページで  横浜開港と攘夷活動 を紹介している。

□青春期を過ごした「埋木舎」
<大久保家は彦根初代藩主井伊直政以来井伊家を側近として維新まで支え、維新後「埋木舎」は井伊家から大久保家に贈与された>

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直弼は文化12年(1815)、彦根城11代藩主直中の14男として誕生する。両親を失い、17歳で300俵の捨扶持(すてぶち)で城下の屋敷の部屋住みに入る。『世の中をよそに見つつも 埋もれ木の埋もれておらむ 心なき身は』世に出ることなく、埋もれ木のように扶持果てる己の運命に託して、この住まいを「埋木舎」と名付けている。
14男と言う重い宿命にとても藩主の見込みはなく、養子も、持参金持ちなら未だしも、そんな資産もなく、不成功で終わってしまう。悶々と一生埋もれてしまうのであろうかと言う正直な気持ちでの「埋木舎」とも思える。
しかし、直弼は彦根の清涼寺で座禅を続けるかたわら、茶道・和歌・能・謡曲は達人の域に国学・書・陶芸の他剣道・柔術・馬術・弓術など文武両道の修練を一日僅か4時間の睡眠で励んだ。
直弼は幕閣としての重要なポストである大老職は横死するまで僅か2年余りであった。抜擢されまで、直弼の人格形成に15年間、幅広く、研鑽し励んでいる。
      <直弼の人間形成に重要な役割を果たした空間>

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◇茶道
     <一期(一生)に一度だけしかない出会いを大切にしようとする茶の湯の名言が井伊直弼の「茶湯一会集」から生まれている>

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茶道は埋木舎に茶室を建て茶の湯の研鑽を続けに「入門記」を著し、自ら学んだ見識から石州流の一派を宣言する。生涯における直弼の茶名は「宗顔」とも「無根水」とも号す。
46年の生涯でもっとも愛したのは茶の湯で当代随一の人物共言われている
既に非業の最期を予見したのか戒名まで準備しており、本人の意志として、この茶名「宗顔」が使われているところに拘りをもっている。

◇居合術
居合術は「新心新流」を創設し「勝を保つためには滅多に刀を抜いてはならぬ」いって「保剣」としている。こうした武術の備えながら「桜田門外の変」では駕籠の中で、最早これまでと、自分の死を予見していたように、討たれている。

□何故このような執行に駆り立てられたのであろうか
埋木舎時代に文武両道、茶道・和歌・能・謡曲は達人の域に達した人物が、暴挙とも思える行動に駆り立てられた のであろうか。
直弼は中でも茶を愛し、研鑽続け、お茶を通じて、誰の話でも聞けると言う「一期一会」を残している。しかし、いざ大老という要職に付いたときに取り巻きに優秀なブレーンが居らず、独断先行で走った。大老として、政治的な修養はないまま、いきなり政治的な表舞台に立たされこうした結果が生まれたのではなかろうか・・・。
個人的な修養はあっても、必ずしも政治的力量に繋がらないのは現代でも、同じで、民意を裏切られる。

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桜田門外の変

2014年の冬は例年にない大雪に見舞われ、この三多摩地区も雪国になってしまった。雪と言うと、ふっと浮かぶのが真っ白な世界に真っ赤な血で染まった桜田門の変である。
安政7年、幕府の大老井伊直弼の一行の行列が上屋敷から江戸城に登城する時に浪士の一団に襲撃され、井伊直弼の首を打たれてしまう「桜田門外の変」が起きる。
この事変が転機になって、幕藩体制が徐々に崩れ、世の中が変わって行く、幕末史を飾る大きな事件を追ってみる。

安政7年(1860)旧暦3月3日は、新暦27日で未明から季節外れの大雪であった。

        <桜田烈士が集まった愛宕山に碑が残る>

Img_1660111 集合場所は愛宕山で、石段を登るころには白雪が2寸(6cm)程積もっていた。
登るにつれ市中の雪景色が広がり、見事な眺望であった。

愛宕山については天狗小僧寅吉のいた筑波山系の岩間山(現在の愛宕山)の山頂で愛宕神社で愛宕信仰修行の話があり、天狗がらみで繋がりがあるのであろうか・・・。

社務所付近には既に同志が集まっていた。
同志18人、唐笠、羽織、マチ高袴といった普通装束の者、笠を被った又引姿、合羽姿とまちまちであった。
水戸藩の佐野竹之助が有村治佐衛門に決行に参加する水戸藩の面々を引き合わせる。
総指揮者関鉄之介の最後の注意があり、数人ずつ石段を降りたはじめた。

□何故テロが生れたのであろうか
13代将軍家定の時、病弱で子が居ないために将軍後継ぎで問題が起きるが、水戸派、紀州派で派閥争いが起きるが、紀州派の実力者として井伊直弼が頭角を表す。
性格の強さに加え、ブレーンがなく、「徳川のために俺が頑張らなければ崩壊する」という危機意識から安政の大獄が起きる。
安政5年(1858)4月大老になった直弼は独断でアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結ぶ。
調印に激怒した徳川慶喜と三郷の田安慶頼、水戸の徳川斉昭が井伊大老を面責し、調印を非難する。
孝明天皇は幕府に対する抗議として調印に関わった幕閣の排除を迫る勅諚を幕府に通さず直接水戸藩へ届けられ、天皇から異例の勅諚があった。
「戊午(ぽご)の密勅」と言われ、勅諚の写しが各藩に届けられ、これを機に水戸の徳川斉昭の周辺への幕府の弾圧が始まる。
井伊が水戸藩主徳川慶篤に返却を迫ったが、藩内は高橋多一郎の拒絶派と服従派と別れるが、老中安藤信正の遅延すると水戸家は滅亡するぞと恫喝し、慶篤の父斉昭も返納やむなしと応じる。
これに対し「直弼専横」と非難が渦巻き、水戸、薩摩の連携や尊攘派志士の運動を煽る結果となる。

京都を中心に一斉に起きた反幕府運動に対して力で弾圧したのが「安政の大獄」であった。
切腹・死罪・獄門に処せられた者8人。連座する者女子供含め、百余人という大量処罰など厳しいものであった。
当時、全国的に有為な人材として、吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎など結果的に抹殺してしまった。

◇大老の暗殺計画
安政の大獄で 藩主の父である徳川斉昭の謹慎など、反対勢力を弾圧された水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎、関鉄之助などの過激浪士が中心になり、薩摩藩の有村次左衛門など連絡し大老暗殺の計画を具体化していく。
井伊直弼の仕留め役を「有村治佐衛門」と決める

◇行列へ襲撃

       <事件のあった桜田門>

Image3111111 辰の刻(午前8時)城内の大太鼓が鳴り出す。
尾張候の行列が通りすぎ、桜田門に入るころ、井伊家の門が開き、井伊家の行列が門を出る。かぶり笠に赤合羽で身を固めた揃いの装束姿の5、60人行列がきざみ足で出てくる。

一方、唐笠と合羽に下駄の通行人姿の総指揮者「関鉄之介」を先頭に佐野らが付いて、井伊の行列に向かっていく。
行列の先頭が松平大隅(おおすみ)守屋敷の門前に達した時、先頭襲撃組の「森五六朗」が飛び出て「捧げまする、捧げまする」を連呼して、井伊家の供頭、供目付の二人を斬りさげる。

井伊家の供回りは降雪のため、すべての刀につか袋を被せ、厳重な雪支度をし、ツカ袋の紐を解かない限り、刀は抜けなかった。おまけに吹き雪のために視界が悪く、行列の後方からは先頭の様子が判らなかった。

◇短筒を合図に
「ズドーン」合図の短筒がなりひびき、右襲撃組の「佐野竹之助」、左襲撃組の「有村治佐衛門」らが突進する。駕籠の右脇には井伊家きっての使い手、供目付「川西忠佐衛門」が居り、稲田重蔵を斬り、広岡子之次郎ねのじろう)と相まみえ、広岡の額を割ったが、佐野の一刀で致命する。佐野は駕籠にすすみ、駕籠の中を突きたてたが、反対側の有村 が
早かったか判らない。

有村は井伊を引き出し、一刀で首を落とし、申し合わせの鬨(とき)をあげ、思い思いに引き揚げた。
その間の闘争は15分程度であった。

◇有村治佐衛門の3兄弟
有村3兄弟の中の弟治佐衛門は華々しく桜田門外で散った。
次兄、雄介は薩摩藩工作のため西走したが、鹿児島についた3月23日、薩摩藩は幕府の探索が鹿児島に迫ると恐れ桜田事件の関係者を到着の夜、切腹させる。
長兄、俊斎は故日下部三次の養子となり、海江田武次と称す。(海江田は日下部の原姓である)
海江田武次は文久2年8月21日の生麦事件での外国人殺傷し、3兄弟そろって、テロ活動に走る。武次は幕末から、維新にかけて生き残り、維新後は弾正大忠、元老院議官などに任じられ、余生を送っている。

◇事件を伏せる
驚天動地の藩主急死に、跡目相続出来ず、井伊家お捕潰しになることを恐れ、井伊直弼の死を隠した。跡目相続の手続きを終えてから、死亡を公表した。水戸を叩けと、憤る藩士の暴走を押さえ井伊家を残した。
桜田門外で鮮血で染まり、幕府の崩壊がこれを機に徐々に始まってゆく。

詳細はこちらで紹介されています。ご覧ください

桜田門外の変

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井伊大老討たれる

Image111_2 桜田門外の変で、とうとう井伊大老が討たれる。当ブログで紹介した有村雄助、治左衛門の兄弟がドラマでも襲撃前、薩摩藩が精忠組の立ち上げ時の集団に字幕付きでちらりと登場しており、そのシーンはしっかりと見ておいた。

さて、その井伊大老も体制維持のために弾圧をやらざるを得ないとする、使命感で安政の大獄を徹底的にやった。おかれた背景の中で天下の非難は彼一人に集中しているが、果断にやりとげたことに評価する人も居る。

その井伊大老の墓と 井伊の大名行列で居合わせた供揃で犠牲となった8人の「桜田受難八士」の碑が豪徳寺にある。

一方では長州藩が百姓から買い上げ「長州山」と称され抱屋敷を建て、後に現在の「松陰神社」がある。安政の大獄で犠牲となった吉田松陰や頼三樹三郎が回向院に葬られた遺骨をここに回葬され「松陰神社」となった。「禁門の変」などで墓が破壊されるなど佐幕、倒幕など時の流れの中で墓も時の運命と共にした。

その豪徳寺も松陰神社も旧玉電(現田園都市線世田谷線)の沿線にある。また都心では大変珍しい茅葺き屋根の代官屋敷も同線の沿線にあるが、この代官屋敷も彦根藩世田谷領として、井伊大老の影響を色濃く残した屋敷である。

この沿線に正に佐幕、倒幕の姿がそのまま残されているようで、何度か訪れた場所の一つである。当サイトで以下で紹介している。

旧玉電に幕末史を歩く

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いよいよ桜田門外の変

Img_12851 いよいよドラマは幕末の大きな転機を迎える、この桜田門外で井伊大老が暗殺される。井伊もどうやらこんな時期が何れ来ると覚悟をしていたようであった。その井伊を討ったテロ活動に薩摩藩の有村俊斎、雄助、治左衛門の3兄弟が深く関わる。
国元では示現流'(じげんりゅう)の名人と言われる薬丸半左衛門に学んだ、薩摩藩士である。3兄弟の内、雄助、治左衛門は江戸に出府し、江戸屋敷詰めになった。
3人は当時の藩主島津斎彬に愛され、長兄の俊斎は世才に長け、坊主になり、西郷隆盛、大久保利通に知り会う中にあった。

安政の大獄で吹き荒れる中、水戸有志と密会を重ね井伊誅殺し薩摩藩壮士3千人を持って大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に望み朝命によって幕政の改革を迫る「井伊斬奸(ざんかん)計画」が着々と練られた。
この計画を実施する有志十数人が脱藩する話が藩主の父、島津久光に漏れ、沙汰止みになる。ところが、江戸の薩摩藩邸では国元の急変を知らされず、斬奸を進めていた同士が召還され、残ったのは有村兄弟だけになる。

そんな背景の中遂に計画は実行され、万延元年(1860)3月3日、治左衛門は桜田門外の変で井伊大老を討ち、自身も現場で息絶える。次兄雄助は薩摩藩工作のため西走したが藩庁命で桜田事件の関係者として切腹させられている。二人は自主的に残ったのではなく、国元へ戻る程の大物ではなかったようで見捨てられた。俊斎は京都藩邸に居て、「井伊斬奸(ざんかん)計画」の京都工作に奔走し、事件に関わったが生き残った。俊斎の妻「松子」は治左衛門が壮挙に出る前日、父伊三次の仇である井伊を撃つと言う事で治左衛門と仮夫婦の契りを結んだが、治左衛門没後、さっさと俊斎に嫁いでしまっている。

2年後の文久2年(1862)生麦事件が起きて、薩英戦争までなった大事件が、生麦 で起きた。薩摩藩の行列に外国人が突っ込み外国人を殺傷したが、その3人の刺客の1人がなんと俊斎であった。イギリスから下手人の引き出しと処刑を迫ったが、薩摩は3人共隠し通した。俊斎は後に養子に行き海江田武次を名乗る。
難を逃れた 海江田武次は明治2年(1869)京都で刑法官判事につき、翌年奈良県知事になるなど明治時代まで悠々と余生を送った。

幕末を揺るがす大事件の当事者として、有村3兄弟が深く関わったが、薩摩藩から見離され次男3男が事件の中で露に消え、一方長男のみが保護され生き残ると言う運命のターニングポイントをこの「桜田門外の変」から起きた幕末事件に思い起こされる。詳細は以下で紹介する。

桜田門外の変

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受難の井伊直弼

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開国か攘夷か、幕府の運命を一身に背負いながら開国の道に辣腕を振るったのがこの彦根藩主・大老井伊直弼であった。
幕政に絶大な権力をふるって、さっさとアメリカと修好通商条約を結んでしまい、横浜開港の道を作った。条約調印に反対する反幕府活動に対して安政の大獄と言われる力での弾圧で攘夷派志士を潰し、桜田門で横死した。旧彦根藩の有志が伊井掃部直弼の開港功績を記念して銅像を建立し、掃部山公園と名付けた。
しかし、除幕式の、数日後には銅像の首が切り落されてしまった。
当時の神奈川県知事周布(すふ)公平の父は萩(山口)藩士周布政之介(まさのすけ)である。井伊直弼は長州・萩の人々が尊敬する吉田松陰を安政の大獄で殺した人物で、当然、周布公平も井伊直弼に好感情は持っておらず、こうした因縁から銅像建立は許しがたかった。開港の牽引者、直弼も気持ち休まらず、明治42年になって2度目の受難が、ここ野毛で、起きており、長州の末裔に未だ攘夷のエネルギーの燃え残り火が残されていたようである。

掃部山公園

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