カテゴリー「06、戊辰戦役(蝦夷除く)」の記事

会津城落城後の『斗南』地へ

Image411本州の北端に近い尻屋崎は、下北半島の北東部で、海につき出した陸地の突端である。
絶えず潮風に吹きさらされ、樹木が育たない荒れ地、この近くにかっての東北開花があったが、今は三菱マテリアルに吸収合併した。在職中は何度か通った、セメント会社であった。
上野から東北本線に乗って、「野辺地」でローカル線の大湊線に乗り換え終点の「大湊」まで向かう。「大湊」から更に車で県道6号線で尻屋にむかう。
打ち合わせ2~3時間で、東京から往復3日間は遥か遠い尻屋崎が、とても遠い、遠い場所であった。
この県道6号線沿いが旧斗南藩の生活拠点であった。当時、歴史には全く疎い存在であったが自然の中、特別なものが無い中で、旧斗南藩史跡が蘇ってくる。会津藩は戊辰役で破れ、厳しい自然の中、この斗南の地で暮らさざるを得なかった。その痕跡を辿ってみる。

◇会津城落城の様子
慶応4年(1868)、戸ノ口原で会津軍を撃破した政府軍は滝沢峠を越えて怒濤のように若松城下になだれ込んだ。
若松城下の戦闘は戊辰戦争のうちでも最大の激戦となった。会津藩士の戦死者は460余人、その家族の殉難者は230余人にも上った。

Wakamatsua201◇小田山からの砲撃

鶴ヶ城を包囲した政府軍は城の東南にある小田山の要害であることを探り出し、山頂に巨砲を据え付け砲撃を開始し、狙いすました砲弾は正確に城内の目標に命中始めた。
このため城内は死者が続出したちまち地獄図を描き、余りにも戦死者が多いため葬る土地さえ無くなってしまった。
9月14日袋のネズミとなった鶴ヶ城に対し政府軍は総攻撃を開始した。
小田山、館、愛宕山から打撃ち出された砲弾は糸を引くように鶴ヶ城に内に吸い込まれ、砲弾が天守閣を包んだ。同時に城の城の四方から政府軍が包囲網絞った。
9月16日、頑強に抵抗する会津軍に対して、征討軍参謀板垣退助は、松平容保に降伏を勧告した。
容保は重臣を集め協議したが抗戦派も多かったが、、城外の政府軍は10万城内に兵は3000余人、しかも1カ月の籠城で既に2000余人を失い、弾薬、食料も乏しく、兵は疲れている。
9月19日容保はついに開城を決断した。
「その方らは皆わがために戦い、父は傷つき子は討ち死にし、骨は地に積み血は曲がれて川になっている。これはもはや見るに忍びないところである。
もし。その方らがなおも王師と戦うというのであれば、われ一人でも降りるつもりである」と言いきり、家臣らもやむなく降伏を承知した。
9月22日鶴ヶ城の追手門に「降参」と大書した白旗が掲げられた。

◇転封地「斗南」建設

      <県道6号線、右側の樹林帯が「斗南ケ丘」>Image7111_2
明治2年(1869)家名再興が許され、未だ5カ月の松平容大が跡を継ぎ、三万石を与えられ斗南藩とした。幼令の容大を支えるため山川浩が権大参事として、執行責任を負った。
斗南藩は領内の開拓拠点として市街地を建設し、ここを「斗南ケ丘」と名付けられた。
市街地には一戸建て約50棟、二戸建て約80棟、掘井戸18箇所を建設した。
一番町から六番町まで大通りによって屋敷割りされ、一屋敷を百坪単位で土塀がめぐらされ区画された。Wakamatsua502
Wakamatsua503(落城後の外国人の目)
イギリス人医師「ウイリアム・ウイルス」は会津城落城後の会津の捕虜が人道的に扱われているかを検分した。ウイルス が目にしたものは会津の農民が領主階級に非常に冷たい態度を取っていることであった。
ウイルスによれば
「一般農民は残酷で無用な戦争を起こした会津藩士に敗北のさい「切腹」しなかったかぎり、彼らに尊敬に値する総ての資格を失った」
会津藩は足元の農民から憎まれており、会津藩士も判っていたのであろう。そうした背景から彼らの転封地を会津猪苗 代でなく斗南を選んだ共言われている。
いずれにしてもウイリスの行動は戊辰戦役に関して西洋人の関心が何処にあるのか物語る重要なエピソードであった。

◇会津から斗南へ厳しい旅路

Wakamatsua501
旧会津藩士と家族の移動が始まった。東京から、越後高田から、会津から海路、陸路を巡ってって北へ、北へ向かった。
政府から支給された路銀は乏しく、食うや、食わずの苦しい旅であった。野辺地から陸奥湾海岸線が大きく湾曲して北方にのび、その果てを恐山が遮っている。
この海岸線を強風にさらされながら、田名部へと辿った。
「みちのくの斗南はいかにと 人、問わば、神代(かみよ)のままの国答えよ」
神代のままだと響きが良いが、人も住み着かないような土地である。と山川浩は歌っている

◇北の防衛拠点造り
新政府は、戦後の処理は比較的に穏便に内乱の長期化をさけ、国民国家の建設を目指した新政府の存立に かかっていた。
ペリー来航以来の西欧列強の東洋進出は日本に大きく影響を与えた。この背景から蝦夷地や下北半島の開拓は近代日本の防衛拠点として欠くべかざるものであった
斗南の中心地田名部は現むつ市で日本海軍の重要基地が大湊である。日露戦争後、大湊での軍艦は平時は オホーツク海の漁船防衛まで行い北の防衛拠点の役割を果たした。大湊の発展は元会津藩士の斗南入植が契機であったことはいうまでもない、近代日本の発展の影に戊辰戦役敗軍の将兵の努力が支えた。

◇斗南藩消滅
明治4年(1871)7月新政府は旧来の封建制からの離脱のため、廃藩置県を断行した。斗南は県に改められ、旧藩主を切り離す為、旧大名は全て東京に召喚された。斗南県知事となった松平容大(かたはる)(容保の実子)は東京移住と なった。
同年9月斗南県は弘前県に合併され、更に青森県に改称された。こうして斗南藩は誕生以来僅か1年数カ月で消滅した。
藩がなくなり藩主さえ失い、斗南藩士の心の拠り所が無くなる。不毛の斗南に留まる理由も無くなり、開墾地の小屋から一戸、一戸離れていった。明治17年の調査記録から斗南から会津に戻った者は10300人余となっており、開拓に夢を かけた「斗南が丘」が再び無人の荒野に化していった。

◇斗南からの人材輩出
しかし、こんな斗南で辛酸を舐めた会津人から、多彩な人材が輩出している。

<山川浩>

Wakamatsua601
山川家藩祖保科正之の時代から仕えてきた名門である。会津戦争では日光方面で転戦。政府軍の重囲に落ちた鶴ヶ城へ、彼岸獅子の行列を装い、笛や太鼓の囃子に乗り、政府軍の包囲を潜り、無血入城した。
斗南藩大参事であったが、陸軍に入り少将に昇進する。東京高等師範学校長、東京高等女子師範学校長を歴任し貴族院議員・男爵となった。
弟の健次郎は帝国大学総長・貴族院議員・枢密院顧問官・男爵となっている
<柴 五郎>
Wakamatsua602
斗南移住後、青森県庁の給仕。上京後、陸軍幼年学校に入学 陸軍軍人として出生する。軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功 二級に至る。 陸軍部内きっての中国通としても知られ、事ある毎に中国へ派遣された。義和団の乱に総指揮を取った イギリス公使は、共に戦った柴と配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ賞賛を浴び、欧米各国から数々の勲章を授与された。
◇斗南の藩主の姪、皇室入り
Image31
昭和3年、昭和天皇の弟秩父宮雍仁(やすひと)親王と松平容大の姪にあたる「勢津子」と婚儀がおこなわれた。
戊辰以来、朝敵の汚名を被され悲憤の思いも、皇室へ入ったことで大きな節目を迎えた。会津では提灯行列、花火で祝った 。秩父宮夫妻は下北一帯を巡遊し斗南が丘にも立ち寄り、斗南の子孫を感激させた。
悲憤の思いもこの婚儀が大きな節目を迎えたのでなかろうか・・・。

併せて此方HPでも書いて見ましたご覧ください

会津戦争とその足跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝沼宿と柏尾古戦場跡にゆく

JR中央本線で始発の高尾から乗って、約1時間。電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域入り、勝沼ブドウ卿駅に到着する。
勝沼は官軍の進軍を象徴するなど、此処から始まった戊辰役の東国の最前線として、希少な大事な歴史拠点でも ある。
勝沼は何度も訪れているが、同地に住む知友を通じて、現地ならではの情報を教えて頂き、新たな発見もあり、同行者を募り案内役を勤めた。
勝沼と言うと、精々柏尾古戦場跡と大善寺に留まるが、今回、足を延ばし勝沼宿まで足を延ばし、識見を深めた。

◇「国中」、「郡内」とは
当地を語るには「国中」、「郡内」は避けて通れない、言葉であり、その意味は、こんなことと理解している。
山梨を御坂山地と大菩薩嶺を境とした東西に分け、西半分の甲府盆地を中心とする地域を「国中」と言い、東半分の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓や大月市などの地域を「郡内」と言う。当地に根を張る、武田信玄の遺臣を敬う歴史、風土の「国中」と言われる
戊辰役で戦わずして新政府軍が甲府城を落としたのも、総隊長は東山道軍参謀板垣退助の祖先は武田信玄の家来の一人で、武田の遺臣としての繋がりから、受け入れられたと言われている。
「国中」「郡内」はそれぞれ文化圏を持ち、「国中」の食べ物意「ほうとう」で「郡内」は山田うどんと言われている。此処は拘りを持って味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄の濃い味に心酔した。
県道34号(旧甲州街道)から勝沼町勝沼の交差点で甲府方向に向かって左側の道に入った所に自家製味噌を使った「ほうとう」「慶千庵」がある。門を潜り中庭に面した広大な屋敷の和室で、風情を楽しみ、食事が出来る。
◇柏尾の陣の戦い
1)日向平の攻防戦
甲陽鎮撫隊の命題は新政府軍の江戸進軍阻止で甲府行きであったが、既に甲府は新政府軍に落ちていた。
幕軍は勝沼に入り、官軍を迎え撃つために、正面からの攻撃に最適な適地として、深澤川と日川にはさまれた峻嶺の観音山の南面の山裾、日向平(日向平の呼称は現在余り使われていない)に陣を張った。
深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれない ような、奈落の底である。深澤川の渡河は柏尾橋が架けられ、東西を結ぶ唯一のルートであるが、柏尾橋は甲陽鎮撫隊が陣座した位置から、見下ろす位置にあり、格好の標的として銃撃され、渡橋は困難であった。
新政府軍の正面からの進軍は相対座することで阻止できた。
2)岩崎山攻防戦
日向平の南方に位置する岩崎山は諏訪兵と永倉新八の指揮する幕兵との戦闘であった。幕軍は奮戦虚しく、負傷者が続出したので余儀なく後退し柏尾の本隊に合流する。数で勝る官軍は岩崎山を占拠し、日川の渓谷越え、日向平の側面から追撃する。
3)日向平の挟撃
一方、北方菱山方面から深澤部落に出た谷新兵衛の土州兵の一隊は観音山の東方を迂回して日向平の幕軍陣地の全く背後に出た。 岩崎山を攻略した諏訪兵は横合の日川の渓谷から日向平の陣地に一斉射撃を開始した。
同時に東方を迂回した土州兵背面から射撃したため幕軍は三方から挟撃され、これが決定的になり、全軍敗走した。

◇戦場跡

1)幕軍の陣を張った付近。

        <甲州街道、現深澤川入口付近>

Image211)幕軍の陣を張った付近。
崖が幕軍が陣を張った日向平であり、現在の甲州街道深澤入口で甲陽鎮撫隊は此処で陣を張る
当時、江戸へ向かう唯一のルートが甲州道であり、幕軍の陣は交通の要所を抑えることで有効であった。
先端部分が出っ張り、Y字路で陣を構え正面からの敵に向き合えるが、側面からの攻撃には弱かった。山頂に陣を構えれば、下からの登坂者に対して上から制圧出来るが、大砲も上げられず、急場こしらえに 川を境に戦おうとしたことが、致命的な欠陥を生んだ。
本来の甲州街道は柵があり、柵の所にテラスが残っている部分が江戸時代の甲州街道の路面である。壁の角の先端部 分の岩盤の横の所に鳥居が立ち、その下に砲門が据えられた。
明治天皇行幸で馬車が通るため、明治9年頃から改修工事が始まり、13間の道が生まれ、従って陣を構えた鳥居の部分も、切り下げ、道を下げる掘削工事で消えてしまった。
橋のたもとが明治天皇に示すために天上錘として碑がたてられ、戊辰の役のおり官軍が進軍し此処で、東国の最初に開いた戦いの場所であると説明している。以来、古戦場と言う名前で伝えられた。
◇柏尾橋
<深澤川を挟んで、両軍戦った場所、手前側に旧橋の欄干が見える>Image3
甲陽鎮撫隊の陣を張った場所は深澤川と言われる急峻な渓谷にある。この深澤川に柏尾橋が架けられ、橋の下流側で日川に合流する。柏尾橋は甲州街道を勝沼と江戸方面に繋がる橋として大変重要な役割を担う。
柏尾橋は何回も掛け替えられており、現代の鉄骨の橋になっているが、かっては木造の橋があった。時代を追うごとに橋が架けられ昭和橋、大正橋、明治橋、江戸橋、深澤川の河原まで降り、対岸に通じる中世橋があった。
古い橋の橋桁と草藪の影に対岸の橋桁が僅かに見える、その下が深澤川である。対岸の民 家付近は甲陽鎮撫隊が破れ、退陣するおり、火がかけられた。
この先が深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれない ような、奈落の底である。
甲陽鎮撫隊と相対座した新政府軍の陣座はこの谷底の深澤川で向き合うが、大変短い距離である。
◇柴田八郎の墓
県道217号線は甲州街道の柏尾の陣(現深澤入口)に合流する。この県道を登って行くと、ぶどう畑に柴田八郎の墓がある。
柴田八郎は ぶどう畑から、果敢に飛び出し、攻めてくる官軍を迎え撃ったが、集中攻撃に会い射抜かれた。 柴田の遺体は放置されたが、その側を通った婦人が心傷めたのであろうか、此処ぶどう畑に埋葬された。墓碑に雨宮とく、 墓を建て弔う旨の記述がある。

◇祇園淵

   <幕軍兵、追い詰めら飛び込み、逃げた>

Img_5895
緩やかな坂を降りきった所に、見事な飛瀑に息を飲んだ巨大な滝壺の祇園淵に到着する。
柏尾の戦いで破れた幕兵はそれぞれ逃げた。負傷兵のうち逃げ後れたもの数名は日川の祇園淵に飛び込み渓谷
沿いに逃げた。祇園淵は日向平の甲州街道に沿う日川の一角にある。
自然から生まれた急に開けた炯眼、懐の深い、日川沿いにこんな舞台の出会いに、同行者の感動の声が上がる。
◇大善寺
勝沼戦争で甲陽鎮撫隊は大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め戦闘による、草刈り場になることは避けられた。築700年と言われる国宝の薬師堂、初め平安時代の大善寺薬師如 来像、など多数の菩薩像が守られた。  薬師堂(本堂)は国宝。開山した行基がぶどうの栽培を教えたと言われる。
これが山梨のぶどう栽培のはじまりとされ、本尊の薬師如来は手にぶどうの房を持っている。
勝沼と言えばブドウであるが、大善寺もブドウに縁の深い、お寺である。

◇勝沼宿
1)大規模集団、勝沼宿へ
新政府軍は土州、因州諏訪兵の混成部隊で、総隊長は東山道軍参謀板垣退助、 監察谷千城、以下総員、1200名であった。
6日朝甲府を発足、午前10時頃粟原に到着に到着して三隊に分かれ、一隊の土州因州藩は谷千城の指揮で等々 力から勝沼と正面に進んで行く。
新政府軍甲府到着に併せ、諏訪藩はいち早く恭順し、諏訪兵としての一隊は祀岩崎と南方から攻めにかかる。
他の土州藩の一隊は谷新兵衛が率い北方菱山(現勝沼ブドウ郷駅)を迂回し深澤部落から柏尾の陣にある敵の背後を衝かせる事に行動を開始した。
官軍は大勢で精巧な大砲や小銃を多く持ってきたので鉄砲弾、弁当などの小荷駄にも手数を要した。角村の人夫も500人に達した。

2)本陣、脇本陣跡

  <僅かに残される、槍かけの松>

Image9
旧勝沼宿の中心は参勤交代で大名が休憩した本陣、脇本陣跡の周辺である。既に建物は無くなったが、古い建物が残され往時の宿の佇まいが確かめられる。
街道沿いに残されるのは本陣に大名、公家が宿泊、もしくは休憩した場所である。建物は無くなってしまったが、槍をかけ大名がの所在を示す「槍かけの松」だけが残されてあった。
甲州街道を江戸から西下し甲府を目指した大久保大和こと近藤勇が本陣の小澤清蔵方の書院に入った。筒袖に袴を履き草履で、黒い馬にまたがり、躊 躇もなく決戦に望む姿を彷彿させる。ここの書院で柏尾山大善寺住職の訪問を受け、大善寺を戦場の草刈り場にならないよう、懇願され、勇は誓ったと言われている。こうして大善寺が守られ薬師堂や行基菩薩作の薬師如来堂も傷つかず護られ特別保護建造物となっている。

3)鳥居平の姿

        <山の一部が刈り上げられ、鳥居の姿が見られる>

Image10開戦の前日の夜の勝沼付近の一帯は戒厳令が布かれ、抜き身の見張り兵が各入り口を固め夫をかり出し篝火を炊かした。
篝火は幕軍の陣容を膨示するための偽装工作で、低い甲府盆地の官軍側から 勝沼の広範囲に点在する篝火に、いやでも目に入った。南は祝(いわい)、等々力から北は菱山方面(前述紹介した勝沼駅周辺)まで峰と宿は焚かれた。甲府の町民はこれを見て幕軍の大部隊の到着から明日の甲府での戦争を恐れた。
柏尾山の「鳥居平」では鎌倉時代からブドウ害虫駆除に鳥居型の山焼きが10月の第1土曜日に鳥居焼が行われる。
京の大文字焼きと同じ、送り火の意味も持ち、柏尾山の山頂の鳥居平は伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が甲州街道からはっきり見える。
4)官軍侵攻阻止の柵門

  <甲州街道がクランク上になり、石壁で積まれ、壁になっている、この付近で柵門を準備>

Image41



甲州街道を甲府から東下し、勝沼に陣を張る幕軍に対する侵攻を阻止するため、等々力付近と勝沼宿の浄泉寺付近2箇所の柵門を用意した。
道に面して左側が上行寺、継いで浄泉寺があり右側が勝沼氏館跡である。浄泉寺の角の所の道がクラン ク状になっており、街道を攻め込む敵に対し、柵門を用意して官軍の侵攻を阻止した。官軍は此処を迂回し勝沼氏館側に侵攻し、同所で白兵戦が行われた。
勝沼氏館跡発掘調査した折に、付近のぶどう畑の杭から多数の銃弾が多数発掘され、当時使われたもの と言われている。

■歴史を伝える建屋
勝沼宿は甲府盆地の東端の宿として、問屋場も用意され、物資の集積場として栄え、本陣と複数の脇本陣が構え
繁栄を極めた。天保14年(1843)勝沼宿は192軒の家と本陣、脇本陣、問屋場、23軒の旅籠もあった。しかし本陣 初め、当時の建物は殆ど無くなり、ブドウ農家に変容されてしまった。街道筋に僅かに残された代表的な建物を触れてみた
1) 旧田中銀行

  <和洋折衷の旧田中銀行が、甲州街道で一際輝いている、明治時代の建物>

Image7
明治30年代、勝沼郵便電信局舎として建設する。 明治35年田中銀行になり銀行社屋として改修される。
屋根は切妻瓦葺、入母屋屋根も和風を基調にベランダ、窓の外装部は洋風と和洋折衷の建物である。
明治時代初期に山梨県令藤村紫朗の指導の下で建てられた洋風の公共建築、およびその 建築様式で、100件 以上あり、「藤村建築」と言われている。
明治後期から大正時代の「国土の歴史的景観に寄与している洋風建築もの」として国の登録有形文化財となっ ている。大正2年(1913)催しに参列した北白川宮成久王の宿舎として、 使われ、 宮家の気品も備えている。

当該記事はhp『勝沼宿と柏尾古戦場跡』 で詳細が書かれており、ご覧いただければ幸甚です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

甲陽鎮撫隊の戦跡を訪ねる旅のご案内

当、ブログでも何度か紹介している、勝沼の古戦場跡巡りについて、『佐彦会』(活動内容は下記)で企画してみました。新たな発見を求め一緒にその痕跡を辿って見ませんか?

以下ご案内します。

◇概要

慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が江戸城を目指す新政府軍を阻止するため、勝沼で陣を構え、新政府軍と一戦を交えた。
柏尾古戦場から旧勝沼宿に至る甲州街道の戦跡を巡ってみる。

             <柏尾古戦場跡>

Image111111
           <祇園淵>Image15

     <攻めたてる新政府軍は勝沼宿から柏尾へ目指す>Image

◇見学のポイント
①新政府軍と幕軍と対峙した古戦場跡
②明治天皇が京都行幸で甲州道が現在の姿に変わったこと
③柏尾橋の江戸、明治、大正、現代までの掛け替えの様子
④ぶどう畑に残る会津藩兵の墓
⑤幕軍の敗残兵が追われ飛び込んだ祇園淵
⑥旧勝沼宿跡とその周辺の戦跡(官軍進行阻止のための柵門跡)
⑦郵便局舎から旧田中銀行へ、明治時代の洋風建築
等々

日時:5月21日(土) 9時~15時30分頃 
集合:9時  JR高尾駅 中央線下り(甲府方面)ホーム先頭側 
行程:JR高尾駅→(中央線普通電車)
→勝沼ぶどう卿駅・菱山→(タクシー)→柏尾古戦場・幕府軍墓→
祇園淵→大善寺→柵門跡→勝沼氏館跡→勝沼宿本陣跡→
旧田中銀行博物館→(タクシー)

→勝沼ぶどう卿駅(15時30分頃現地解散)

参加費:2.000円(資料代・現地タクシー代を含む。
勝沼ぶどう卿駅までの交通費と昼食代は各自負担)
小雨催行・荒天中止 

                                                    
申込み:佐彦会・吉澤光景(TEL/FAX:042-843-1210)
※参加ご希望の方は、5月15日までにご連絡ください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

□歴史ロマンを追って
新選組や幕末を中心に、時代を遡って彼らの足跡について自ら確かめ、学び、歴史ロマンを熱く語り会ってみませんか。

◇佐彦会とは

●日野宿名主佐藤彦五郎の残した偉業を学び、見識を深めます。
●会員により日頃の学習結果、体験談、自慢話など、幕末の想いやうんちくを語って頂きます。
●幕末関連の縁の地や歴史史跡を巡り、直に触れ合います。
●会員相互の親睦を図るため、膝を交えて幕末を熱く語らいます。
●広報資料『彦五郎通信』1年単位で発行し、活動の成果、会員の研鑽資料と広報活動に活用します。

□活動の母体は史跡巡り
幕末を中心に歴史に関わる縁の地を訪ね、自分の目で確かめ理解を深めます。
これまで 多摩地域、都心、関東周辺、京、会津を含め旅巡りは30数回を数えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

黒谷 金戒光明寺

Kurotani601金戒光明寺は承安5年(1751)、法然善上人が教えを広めるために比叡山から降りて最初に草庵を結んだ場所である。当地に光を照らしたことから金戒光明と言う名前が生まれている。

幕末期、会津松平家の武士集団が此処を本陣とし、新選組と共に攘夷のテロ活動で吹き荒れる京の街を護った。
広くて奥の深い寺域の黒谷、金戒光明寺で彼らの残した痕跡を追ってみた。

◇自然の立地から要塞づくり
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に、京の東の厳しい崖と言う地形的な背景から、京に事が起きた時に備えるための城塞とし軍隊が配置した。
黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。
因みに山内の西翁院にある淀看(よどみ)の茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。また、黒谷古地図によると浪華城遥矚(ようしょく)とあり大坂城まで見えたという。

◇会津藩駐屯する
黒船来航を機に開国か或いは攘夷か国論が揺れる中、国内はテロ活動で荒れた。権勢を誇った徳川政権も地盤が揺るぎだした。安政の大獄の終焉でテロ活動があちこちで生まれ、治安が悪化する。
特に加茂川、高瀬川の周辺では暗殺された人々の晒し首や屍体が毎日のように並べられ、安政の大獄が跡を引き血が血を呼んだと言われている。京も暗殺や強奪が日常化し手の付けられない状態になった
そんな荒れた京に守護職拝命について危険な任を引き受けるのは薪を背負って火中に飛び込むようなものだと、反対もあったが、松平容保は受け入れ、文久2年(1862)閏8月京都守護職を任じられた。
江戸を出発した一行は、24日京に入り、三条大橋で町奉行に出迎えられる。 容保は本禅寺で旅装を解き、礼服(麻裃)に改め、大勢の藩士を従え東山の山裾金戒光明寺に入った。 この行列を見ようと集まった京の町衆は蹴上(けあげ)黒谷まで、両側びっし りと隙間なく並び馬上の容保を見上げる行列は一里を超えたと言われている 約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。 ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。 この現状を何とかしたいと京の治安維持に会津藩主松平容保以下正規兵1000名が京の町衆の期待感をこもった熱い 眼差しを浴びながら、黒谷に入った。

◇新選組の活躍

文久3年2月後を追うように、江戸で集められた清川八郎率いる浪士組が京に入ったが、朝廷の為に働くと生麦事件で 政情不安な江戸に戻ってしまう。これに意を唱える一部残った近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁 (はいえつ)がかなった。 『新選組』の命名とともに、京都守護職の命により、市中取締に当たる。 都大路を縦横無尽に走り廻り、治安は回復した。この間、新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝 達が毎日のように行われ連携を取りながら、必死になって幕府を 支える。 「池田屋事件」など倒幕の志士を襲撃捕縛に成功する新選組が評価される。時代の経過と共にでのなどで個別の 戦いの時代から「禁門の変」など組織的戦いに、本格的な砲撃の戦いの時代に  変わっていく

◇黒谷 金戒光明寺の山門

Kurotani201
山門は室町時代の応仁元年(1467)に始まり10年続いた「応仁の乱」で消失しており、時代を越えて歴史の檜舞台として輝いていたのである。大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大し、乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
山門は万延元年(1860)再建され、類まれな勇壮壮大に構えている。京都守護職として会津藩主松平容保は大勢の藩士を従え、この門を潜ったのである。
山門の正面には後小松天皇の筆による「浄土真宗最初門」と勅額が掲げられている。天井に「幡龍図」が見事な絵姿で出迎えてくれる。
会津藩士たちは山門に登り、欄干から市街の様子を俯瞰し、見張り、物見櫓(やぐら)の役割を果たしていた。

◇会津藩殉難者墓地

Kurotani303
本堂の前を東へ、三重塔に向かって石段を登る。緩やかな山の斜面に石畳を歩く、周りは総て墓地である。
頂上の塔から左へ、つまり北へ墓石の間の道を行くと、その外れ、隣の真如寺との境に会津墓地がある。
案内の掲示の参道に誘導され「会津墓地」に到着する。参道は高さ1m程の土塀に囲まれ、「会津墓地」の表記された門柱の階段に道が繋がる。
山上墓地北東には約300坪の敷地に『会津藩殉難者墓地』が有り、文久2年~慶応3年の5年間に亡くなられた237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。
禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ22霊祀られている。
会津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間など戦死、戦病死するものが続出した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に墓地が整備され葬られた。
会津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

◇慶應之役伏見鳥羽淀会藩戦死者碑

Kurotani301
鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)がある。6段になって115人の戦死者の名 前が刻まれているが、碑が経年経過で、斑文が生まれ、読み辛くなっている。
大砲奉行兼軍事奉行 林権助63歳、息子、林又三郎40歳など殆どが1月3日~5日にかけて鳥羽、伏見、淀で戦死、所属を見るとその殆どが大砲に名がつく隊に所属しており、激しい砲撃戦に散っている。
(林権助親子の壮烈な死)
林権助は会津出身の外交官でひげの名物砲兵隊長の祖父の名を継いでおり、父又三郎の最期を以下のように語っている。
40歳の又三郎は明治元年(1868)1月3日伏見戦争の始まった時に京都に着いた。又三郎の父は大砲方であったがその日重傷を負っているという騒ぎで、父を見舞いに行っている。それも一目ただ会っただけで直ぐ別れてしまい、戦線に向かう。
京都の南方の淀で伏見の戦争の名残で、ちょっとした合戦があった。傲慢の又三郎には屈辱的に響いたのであろう、そこに一人踏み留り敵軍の中へ飛び込み父親の後を追うように翌々日の5日に戦死している。
又三郎の死骸も何も判らず父と同時に壮烈な戦死であった。

◇小鉄
会津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 会津小鉄」の墓がある。
小鉄は大阪出身で本名上阪(こうさか)仙吉という。
元々約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できる宿舎や守護職官邸の設営は大垣屋清八とその子分である小鉄が担った。
鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ旧幕府軍の戦死者の遺体が放置され広範囲に散乱した。小鉄は子分二百余名を動員し、官軍の命令を無視し、遺体の探索、収容に務め、荼毘に付し回向供養した。当然、官軍が阻止に入ったが、迫害も恐れず道路工事とうそぶいて、これを進めた。
維新後も京を拠点に、滋賀、大阪、神戸など関西地区の子分を抱え、賭場から莫大な上納金を得た。京で豪邸を建て、派手な暮らし振りであったが明治16年逮捕され禁固1カ月の刑となった。明治17年満期釈放後、京の丸山の祝宴には7500人が参集したと言われている。任侠の世界に身を置きながらも小鉄フアンが多かった。 

1000名余り武士集団も駐屯配備されも京を護る砦でもあったが、戊辰役で大量な戦死者も生まれ霊を祀る墓地になってしまった。
見通しの良い高台から市街地を俯瞰し、通りすぎた歴史の中で散っていった大勢の戦士たちの姿を思い浮かべてみた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

勝沼戦争を左右した歴史・文化

慶応4年1月鳥羽伏見の戦いで破れ大坂城から脱出した徳川慶喜は江戸城に入城し、大広間で御前評議が行われた。主戦、・恭順の二つに割れ激しい応酬があった。
結局結論の出ぬまま幕臣間の調整失敗などあって、自決するなど城内外に思わぬ混乱を招いた。
結局、慶喜が和平恭順を表明し、以来、幕閣は大揺れに揺れた。
慶喜ら27名は官位と剥奪と幕府領は直轄とする令が朝廷から出され、幕閣は姿を消した。当面幕府の責任は勝麟太郎と大久保一翁の二人となった。
大久保一翁から新選組は上野警備を命じられたが、一方では近藤、土方が情勢分析し、甲府城を手に入れ、慶喜を向かい入れ幕府再建を図ろうと計画した。
彼らに甲州出兵の出番が与えられ、東山道を江戸へ進撃する倒幕軍を甲州城勤番武士と共に甲州城で迎え撃つと言う計画であった。

しかし、その甲州城も新政府軍側に無血で開城し、あっと言う間に勝沼も落され、新政府軍の江戸城進出に歯止めがかからなかった。
その伏線に甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域に根を張る、武田信玄の遺臣の子孫の先祖を敬う歴史、風土が幕府に距離を置き、官軍になびいた歴史背景が大きく影響したと考えられる。
勝沼戦争の子細は既に当ブログでも書かれており、歴史・文化が戦争に繋がる具体例を書いてみた。

      <武田信玄の遺稿が残される、武田神社にて>

Img_88611
◇偽勅使事件
甲陽鎮撫隊が甲府へ向かう時期の直前に重なるように偽勅使事件があり、甲府城を巡る大きな事件があった。
  慶応4(1868)年正月、小沢一仙は名前を小沢雅楽之助と変え、同志をつのり、高松実村という公家を頭にたてて、「高松隊」を名乗って挙兵する。
   甲州人たちは戦国時代の武田信玄を唯一無二の御領主様と思っおり、開府以来の徳川家の天領というのに、幕府との繋がりは希薄であった。この時期の甲州は、草莽ゲリラによる関東騒擾の影響から、治安が悪くなっていた。 
そんな背景から天皇のご威光を背負って官軍鎮撫雅楽之助は神主、武田氏ゆかりの郷士、お百姓、甲州商人など、武家以外のあらゆる階層を付随させ甲府に入城する。
 我らは天朝様より甲州鎮撫を仰せつかる年貢半減、甲州金の独占採掘許可など勅使と城明け渡を迫った。

徳川幕府を潰滅に追い込んだ、薩長主導の官軍は、王政復古の新国家を運営の財源の確保が必要で、相楽総三らをつかって「年貢半減令」を触れさせ諸国の鎮撫に走った。
  一方三井・鴻池ら天下の豪商が財政面を面倒みることになり、当座の資金難は解消された。しかし、「年貢半減令」は米相場の利益が減り援助が望めなくなり、弊害となる。

  触れ歩いた年貢半減を取り下げは、新政府の威信に関わり出来ない。このため、鎮撫軍の工作部隊は「偽官軍」、年貢半減も「虚報」と言ういうことにして、 世直しに夢を賭けた草莽の志士たちは、片っ端から「処分」されていく。

慶応4年2月。東海道官軍総督(西郷隆盛)の使者として、土佐藩士黒岩治部之介ら3名が甲府入りし、高松実村と小沢一仙を呼び出して詰問する。
  高松隊は正式な官軍の認可なく挙兵をしたことで、「偽勅使」の罪名とされ、慶応4年3月14日、小沢一仙は、甲府の山崎刑場で斬首される。享年39才。

◇板垣退助の先祖は武田の家臣
一方、新政府軍側の板垣退助は戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍し、天領である甲府城の掌握に向けて出発した。
板垣退助(旧姓乾)は天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。
慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
この策が講じて甲州勝沼の戦いで甲州に受けいれられる土壌から、戦わずして甲府城の接収を円滑に実施した。

◇甲府城無血開城
甲府に居た部隊は官軍の本隊が来る前に、偽勅使事件で幕府から離れた。官軍は武田の遺臣団に協力要請し、武田神社、武田八幡など神主系が動き、無血のまま入城を果たす。
土地柄、幕府との繋がりは希薄なことを背景に甲府から、進軍を円滑に進め、勝沼での戦いに有利に展開した。
逆に幕府軍は倒幕軍を甲州城勤番武士と共に迎え撃つと言う目論見は消し飛んでしまい、地元の支援もなく戦わざるを得なかった。

◇新政府軍の行動

<甲州道、勝沼宿本陣跡、今も残る槍かけの松。この前を新政府軍が通過し、歴史の変化を松は見守る>

Img_594611

<甲州道から正面、柏尾山はもうわずか、この背後に甲陽鎮撫隊が控え、激戦が繰り広げられる。一部のはげ山は鳥居平野焼きが、毎年10月に行われ、大文字焼きを思わす、光景が感動を呼ぶ>

Image211
板垣退助が新政府に提出した毛筆の文書から当時の新政府h軍の行動記録を辿って見る。
板垣退助の報告書・・・現防衛研究図書館
3月1日 板垣は東山道軍総督に甲府攻略を進言し諏訪に着陣。因州、土州兵(因旛、  土 佐)と嚮導役の諏訪兵計3小隊を前哨兵として甲府に差し向ける。
3月2日板垣軍甲府へ向かう。
3月4日甲府に到着した先発の前哨兵は城代の佐藤駿河守と交渉し甲府城の受け 取りを完了する。その夜、鎮撫隊を夜襲するも失敗。
3月5日全政府軍、約1500名甲府城に到着。
3月6日甲府より谷守部、片岡健吉らが兵を率いて勝沼へ出発し鎮撫隊と戦う。
      甲府で旧幕府方、協力者を捕縛。
3月7日会津藩士、大崎壮助処刑
3月8日甲府城と捕虜を真田氏に託す。
3月9日新政府軍、甲府城を出発
3月11日武州八王子に到着
3月14日内藤新宿に到着

◇板垣退助の残したもの
甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破した。その後、江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。
龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、互いに面識はあったようである。
千葉さな子が開業した鍼灸院は、自由党員の小田切謙明をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。

甲府市朝日町の「妙清山清運寺」の小田切家の墓所になんと「佐那」の墓がある。

当ブログでも、龍馬のもう一人の妻「千葉佐那」で紹介している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鉄道遺産と勝沼戦争

      <旧中央本線(東)大日影トンネル>Img_888211

中央本線の笹子越えして間もなく勝沼である
一面の畑はブドウであり、鉄道駅名も「勝沼ぶどう卿」である。
この勝沼には鉄道おたく、鉄ちゃんに留まらず惹きつけられ中央本線(東)大日影トンネルが時代を支える鉄道の遺産として、そっくり残され、見学できる。閉じられた暗闇の異境の空間に走り抜ける列車を思い浮かべ冒険心が湧いてくる。
こんな話では幕末とは無縁な鉄の物語になってしまうが、このトンネルは戊辰役で東で最初の戦いの場であった、勝沼戦争の戦場に大変近い場所である。

勝沼をわが町と仰ら、郷土史に造詣の深い方に特別に案内して頂き、無縁と思われた勝沼戦争と鉄道施設の関わりを教えて頂き、驚いた。地元ならではの話、触れて見たい。

◇大日陰・深沢トンネル山間部は柏尾戦場に隣接
大日陰トンネルと深沢トンネルが建設された深沢は旧勝沼町の西端、旧大和村と接する急峻な山間地である。谷底を流れる深沢川は山間を流れ、甲州街道近くで、日川に合流する。
この合流点付近の深澤川に掛けられたのが柏尾橋で、勝沼戦争で戦火を開いた拠点である。
東西を結ぶ甲州街道はこの深い深澤川越えが必要であり、幕府軍は柏尾橋を落とし、官軍を阻止する陣を構える、格好の立地である。戦いに破れたものの、甲府行きを諦め、急遽ここに陣を構えたのも流石と思える。

因みに現役を退いた大日陰トンネルは遊歩道で整備され、30分ほどの異郷の世界を楽しめる。深沢トンネルは自然の冷気でワイン貯蔵庫としてワイン造りに活用されている。

◇大日陰・深沢トンネル山間部の難工事
両トンネルの工事は笹子トンネルほどの規模でないが、周辺の土木工事も含めて技術的に難しい工区であった。深沢川の急峻な谷に仮橋を架け、トンネルの残土を埋めながら既存の水路を確保するための河川隧道も同時に造られた。橋下はるかに見える河川トンネルは鉄道トンネルと同じレンガが使われ、当時のまま今なお役割を果たしている。

◇東京と山梨が繋がった
明治5年(1872)新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通してから、東京と山梨を結ぶ鉄道敷設計画に県人の大きな期待が寄せられた。
鉄道は殖産興業のシンボルであり、人々の願いであった。当時の鉄道は東京から八王子まで私鉄の甲武鉄道が完成していた。この敷設に塩山出身の実業家雨宮啓次郎らが出資し、て大きな役割を果たしている。
これを国が買収し八王子以西は国の甲武鉄道として工事が進められ県境の小仏峠、笹子峠を越え、明治29年(1896)の着工から5年の歳月を費やし、明治36年(1903)に甲府まで開通した。

◇雨宮啓次郎
弘化3年(1846)に甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)長百姓のの次男で誕生する。
少年時代から季節商いなどに従事し一財産築く。明治当初、アメリカ、ヨーロッパを外遊し、実業家としての識見を深める。日本の代表的な日本製粉株式会社の前身製粉工場の事業。軽井沢の開墾開発事業。甲武鉄道の社長に就任。64歳で没するまで鉄道・海運・石油・貿易など活躍する。
此処までの話に、雨宮の地位確立の立身伝になってしまうが、実は勝沼戦争に参加している。

◇幕府軍として戦闘に参加

          <柏尾の戦場となった場所。右側が甲州街道、江戸方面>

Image11111
慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が、勝沼にやってきた。
名主長、百姓などの村役人を介して、鉄砲の心得ある猟師や勇武の者を集め、応分の報酬や武士身分の扱いから幕軍の参加を呼びかけ、当宿内に元より、隣村にも声をかけ、人集めした。
幕軍の呼びかけに、かなりの人数が駆けつけたがその中に雨宮と言う二人の青年が招集を掛けられて、募集に応じた。
翌日、戦いが始まり、実戦に参加した。
深沢川と言われる深い、峡谷を挟んで銃隊が周辺に配置し官軍と甲陽鎮撫隊が対座する陣形が敷かれた。激しい戦いがあり、柏尾橋に火をつけ、この橋を越えられないと言うことで戦況が膠着状態になった。
その後、日川の南側の岩崎山の中腹から渓谷を見下ろせる位置から諏訪兵が 、甲陽鎮撫隊の側面から、一方山越えして甲陽鎮撫隊の背後から挟撃する。
幕府側があっけなく破れ、それぞれ江戸方面へ逃走する。雨宮達は、官軍の捕縛を恐れ二週間は山に逃げ込み、家に帰って来た。

◇「使えなかった大砲」

Kouyou01
幕府軍はフランス製の最新鋭の砲を持ってきた。雷管が付いているがその使い方を知っているのが、結城無二三だけであった。甲州の出身と言うことで、当日、村々の人を塩山の寺に招集をかけ説明会を開いていた。その最中に戦争が始まってしまった。
残った連中は昔の大砲しか知らず、雷管をセットせず、そのまま撃ってしまった。
爆発せず、高い殺傷能力は発揮できなかった。戦後、そのまま地面に放置されてしまい、それを掘り起こし回収されている。
収拾された砲弾等は個人宅のお宝になっている。
その一つが雨宮敬次郎の親戚の家に大砲弾が保管されてあり、敬次郎が持ってきたと言われている

◇戦争体験からの目覚め
雨宮敬次郎は若気の至りで、戊辰の戦争に参加して、幕府があっけなく破れたことを自分の目で見ている。
世の中大きく変わっていくことにいち早く目覚め明治になって根津喜一郎の教えに従って鉄道事業に手を出す。
実戦を体験し、大砲弾を抱えていた若者が、中央線の建設に大きく関わっていくのである。

◇戦いの足跡
勝沼ブドウ卿駅は、菱山と言われる一角で甲府盆地を俯瞰できる、高い位置位置にある。
戦う前に篝火が焚かれ、幕軍の威容を膨示する格好の場所である。一方では官軍制圧の鍵を握ったのが因幡藩兵が菱山の猟師の案内で菱山ルートで山越えしている。深澤川沿いのルートから、幕軍を背後から攻撃し、勝敗を決定づけた。

勝沼ブドウ卿駅から大日陰トンネルを潜り、深澤川沿いの国道217に行けば柏尾の古戦場に辿り着く。途中で憤死した会津藩兵の墓碑がぶどう畑で確認出来る。
ゆったりと産業遺産のトンネルと勝沼戦跡を確かめ、先人が残したものを思い巡らされてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝沼戦争を追う(その2)

◇いよいよ戦場付近に近づく A
大善寺より更に東側、甲州街道は緩斜面を上りきり山間部に入る。
正面の小高い山の手前で道が分岐し、県道217号深沢等々力線に繋がり、渓谷に入っていく。
車が数台並んで走っているが、分岐点付近で深沢入口の標識がもう直ぐの所である。
北側に柏尾山、甲州街道の沿いの南側にほぼ並行して日川(にっかわ)が流れる。この日川を挟んで南側、道を挟んで右側は岩崎山の裾野である。
沢が流れる、深い峡谷で街道とは名ばかりで人馬のすれ違いもままならぬ山道がくねくねと続いている場所に官軍と甲陽鎮撫隊が対座する陣形が敷かれた。
甲陽鎮撫隊は甲州勝沼柏尾山の東側に位置し、沢を前にした渓谷で、大砲2門を中心に、銃隊が周辺に配置し、陣取り、東下する官軍を向かえ撃った。
その陣形に沢を挟んで反対側に官軍の主力である土州・因州隊が正面から向き合う。
この間地図によると30間と言われるので僅か5~60mの鼻の先まで迫っての戦いであったと想像する。
一方、日川の南側の岩崎山の中腹から渓谷を見下ろせる位置から諏訪兵が 、甲陽鎮撫隊の側面から挟撃する。
他の土州藩の一隊は谷新兵衛が率い北方菱山(現ブドウ郷駅側)を迂回し深澤部落から敵の背後を衝かせる事に行動を開始した。

◇戦闘場所へ

B
深沢入口の分岐点に到着する。
左側が県道217号深沢等々力線で、正面に続く道が甲州街道である。角の部分が小さな広場になっており、小さな刀を下げた可愛い近藤勇の全身像が立ち、勝沼戦争の拠点であったことを案内している。
鳥羽伏見の戦いで幕軍は破れたとは言え、京の街を見回り、不貞浪士からも、震え上がらせ治安維持に活躍した。会津藩からも評価され、会津藩お抱えの新選組の局長に、似つかわぬ、軽い風体の像であった。

◇ぶどう畑に立つ会津藩士の墓碑

Image111111分岐点から県道217号深沢等々力線を先に進むとぶどう畑があり、中に会津藩士の柴田八郎兼吉の墓碑がある。
官軍側で因州藩士で名うての鉄砲の名手木村伊助はぶどう畑の囲みから飛び出し、幕軍陣地に狙い撃ちした。
それに呼応するように、会津藩士の柴田市朗(八郎墓碑)が飛び出し、大善寺の東門に身を寄せて共に撃ちあった。
柴田と木村は共に傷つきながらも撃ちあったが、無防備で標的になり、幕軍は木村に官軍は柴田に銃口を向けて一斉に撃ちだしたので柴田は胸を木村は腹を射抜かれ共に戦死した。
戦後木村の遺体は勝沼上宿の常行寺に埋葬しようとしたが住職が後難を恐れて承知しなかったので下宿の護念寺に五両収めて葬った。柴田の遺体は大善寺住職が白山渡馬頭観世音の碑のある敷間北方舊(きゅう)甲州街道に沿った樹影に埋葬した。今も墓碑は残っている。
そんな話が地元の生き残りから聞き書きとして、残されている。

◇三方から攻められ幕軍敗退
幕軍は遠路はるばる運んだ大砲2門も、大砲を操作出来る者が居なく、打った所で不発弾で、殆ど役立たずであったようだ。これに対する官軍側の大砲も余り役立たず、両軍とも火砲の出番はなかった。
放置された不発弾は周辺に散乱し、一部は地元の人が持ち去り床の間に飾られた。
正面勝沼の関門に谷千城の部隊が現れ、発砲する。
障害物がない柏尾橋は格好の標的になり迂回しブドウ棚の中に散開し、鉄砲弾で攻めたてた。
南方岩崎山は数に物言わせて諏訪兵が幕軍を圧倒し、岩崎山を奪取した官軍は更に進んで日川の渓谷を渡り柏尾の陣地を側面から一斉射撃を開始し衝いてくる。
谷新兵衛が率いる土州藩は迂回し深澤部落から幕軍の背後から衝いてくる。
幕軍は数で圧倒する官軍に三方から挟撃され、遂に此処から退却し、再び甲州街道を東に江戸に向かった。
幕軍は人家に火を放ち、 黒煙は当初西軍を悩ましたが、風向きが変わり、鎮撫隊側に吹き上げ、目もあけられぬ状態になった。


◇謎の池田七三郎の墓碑

Image1111
日川の渓谷を越え、岩崎山の狐原と言われる山中に幕府軍兵士として池田七三郎の墓碑がある。人里離れた山の傾斜地に歴史研究家、釣洋一先生にツアー旅行で案内していただいた。『明治元年三月六日柏尾の役で官軍と戦い戦死した幕府軍兵士』とある。
新選組在籍中の名を池田七三郎と名乗った稗田利八と言う人物が居るが、戊辰役では箱館まで戦っている。池田七三郎を名乗るが、新選組とは別の人物か、この山中で亡くなった人物は果たして誰なのか謎に包まれている。

◇最後に
勝沼戦争に関する史実や、土地の呼称はベールに包まれたままである。
冒頭、勝沼の戦場近くに知友いることは紹介しているが、この知友を通じて事実のギャップを埋めるのは難しかった。拝が思うほど同卿における、冷めた事件だったのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

勝沼戦争を追う(その1)

甲州市の勝沼にはブドウ園を持つ知友がおり、毎年収穫を迎える時期に招かれ熟成したブドウを頂きにお邪魔する。知友宅は勝沼戦争の戦場から数百メートルの近くにある。
一方、勝沼ブドウ卿駅の近くに産業遺産となった旧大日陰トンネルもあって、鉄ちゃん心をくすぐる。そんなこともあって、関わり合いの深い勝沼には良く来る。

山梨を御坂山地と大菩薩嶺を境とした東西に分け、西半分の甲府盆地を中心とする地域を「国中」と言い、東半分の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓や大月市などの地域を「郡内」と言う。
都心と甲府を結ぶ大事な流通経路の甲州路にある笹子トンネルがあり、このトンネル挟んで東を「郡内」、西を「国中」と言っても良いのではなかろうか。
単に地域の呼称を東西に分けただけならば、何処にもありそうな話であるが、両者は方言など、自然や文化においても大きく異なっている。
「国中」と「郡内」には生活習慣、その他もろもろ違いがあり、両者の間には県内の山より高い壁が存在し、競いあっているようにも見える。
互いのライバル意識から、両者が同席する宴席等で酒の勢いで、高揚すると激突する場面に第三者として居合わす我々も戸惑う場面さえある。
在職時代に同じ職場で近隣に住むが、出身は故郷山梨の「国中」と「郡内」である。職場の宴会で、宴も盛り上がって来ると、「おい、国中」「なんだ郡内」と始まる。
二人は、職場でも地位を持ち、社会的にも信頼される真面目人間であるが、一方では悪しき伝習の郷土愛が、こんな形で奮発してしまうのである。

そんな「郡内」からやってきた新選組は「国中」の勝沼で戦ったのである。

◇新選組と新政府軍が戦った

慶応4年(1868)3月、大久保大和(剛)こと近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が「郡内」から「国中」に抜けて、勝沼にやってきた。元々、甲府行きを目指したが、甲府城は既に江戸城を目指す土佐軍に落とされ、勝沼で陣を構え、新政府軍と一戦を交えた。

◇明日の戦いに備え篝火を焚く

甲陽鎮撫隊の幕軍は4日に勝沼に到着する
4日の夜の勝沼付近の一帯は戒厳令が布かれ抜き身の見張り兵が各入り口を固めていた。
当時、近くに住む住民の幼少時代に見た戦慄的な状況を以下の様に語り伝えている。
甲州道沿い勝沼に隣接する等々力の万福寺(甲州市勝沼町等々力)境内では抜き身の刀を掲げた侍が五六人飛び出してきたので、そのまま震え上がって逃げ帰ったと言う。

幕軍は各戸口を固めると共に、幕軍の命令で、応分な報酬を与えると人夫をかき出し篝火を炊かした。
この幕軍のと触れに町民は時ならぬ収入に、大した金儲けが出来ると乗り、我先に本陣に殺到し隊士の云う通りドンドン燃やしたものであった。

この篝火は、戦時陣容を外部に示し、攻め入る官軍に視覚の面から攪乱させるともに併せ、迎え撃つ側が不意に襲撃されないよう人数が少ない幕軍の偽装工作であった。
甲州街道を東下する官軍に対して篝火は甲州街道に接する等々力から南の祝(いわい)から北方面の高台の菱山方面まで峰と宿は焚かれた。

甲府盆地を俯瞰する高台からの篝火は官軍を威圧する効果を狙ったようであるが、甲府の町民はこれを見て幕軍の大部隊の攻勢から明日の甲府での戦争を恐れた。

<勝沼ブドウ卿駅付近から、甲府盆地を俯瞰する。遥か甲府盆地から篝火が人々の心も
揺らしたのであろう>

Image212

◇官軍勝沼に襲来

東西に甲州街道が走り、甲府から勝沼に結ばれる。
官軍の大部は甲府城に守り 、前進したのは 正面に『谷守部(千城)』が隊長で山地忠七が副長で土州、因州 の兵500人である。
土州兵は土佐藩士でなく、土佐の郷士で組織された「迅衝隊(じんしょうたい)と言う草莽部隊であった。寄せ集めでなく土佐の板垣の指揮のもと正規のオランダ式戦闘訓練された集団であった。

その官軍は勝沼宿本陣前を駆け抜け柏尾山付近で陣を構える幕軍に向かう。現在、勝沼宿本陣跡には「本陣槍掛の松」と言われ、大名や公家が泊まると目印に槍を立てかけた老松が、往時の姿を僅かに残している。
<この老松が目の前を通りすぎる一連の部隊を眺め、変わり行く時代の変化を見守っている。街道の先方が官軍がやってきた甲府側>

Image1
◇大善寺を戦火から護る

甲州街道を更に東進すると、左側に大善寺、背後の山裾が見えるが柏尾山である。
戦時前に勇は柏尾山大善寺住職箕出行守から面談受け、住職から伝来からの寺の遺産を守りたく戦場から外すよう懇願される。
間もなく官軍が襲来する。戦時に官軍は圧倒的な数の編成から、土州軍の一部の部隊は北方菱山を迂回し、柏尾山へ展開する。

柏尾山の高所から俯瞰する位置から、幕軍の陣地をめがけて撃ち下ろした。苦戦に陥ったが勇側は柏尾山の官軍には応戦を控え、寺を戦火から護った。
<付近の民家は火が放たれたが、大善寺は火から護られた。街道に大善寺があり、その背後が柏尾山>

Image131

戦場の様子は次回(その2)に掲載する。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新選組の踏み跡その2

◇小山宿で旧幕府軍勝利
                  <小山宿脇本陣(本営となった本陣は無い)>

Img_27041
新政府の処置を不満とする幕府兵は江戸を脱走し、会津に赴いて徹底抗戦する。
旧歩兵奉行大鳥圭介が総監、司令官は会津藩士、秋月登之助(本名江上太郎)、配下に入った新選組から参謀役に土方歳三(以下土方)が就く。北上を開始すると小山から宇都宮、今市、大田原と、下野を中心に新政府軍と激しい攻防戦が繰り広げられた。戊辰戦争で敗走が続く旧幕府軍が一矢を報いたのが小山での戦いものであった。
小山宿で勝利した大鳥の軍は飯塚宿から鹿沼に向かった。
秋月登之助や土方らの部隊は鬼怒川の東岸の大沼(真岡市)浅瀬を伝って渡河し「満福寺」に宿泊する。この時の新選組隊士は土方以下島田魁、漢一郎、中島登、他総勢7人であった。
大鳥軍は本営を本陣をに置き、本陣前に敵将7名の首級を晒し高揚を図った。幕府に恩義ある旧譜代の彦根藩や館林、笠間、壬生藩など、新政府側に付き、旧幕府に刃向かうことが、大鳥には許せなかった。
国道265号線「小山宿通り」沿いに脇本陣のみ残す。

◇宇都宮城攻防戦
                   <再現された宇都宮城の櫓(やぐら)>

Img_90201
旧幕府軍は宇都宮藩守った宇都宮城を攻撃した。簗瀬橋で田川を渡り城下の下河原門に殺到し、白兵戦が繰り広げられた。
土方は逃げ腰になった自軍の兵を斬り士気を鼓舞し、一日で城を落とした。
敗軍の報に新政府軍の薩長土連合の部隊が壬生城に集結し、宇都宮に襲来する。宇都宮城は奪還され再び新政府側に戻る。
土方は市街戦で足を負傷し、第一線から離れ、今市から、会津に向かう。
この間、土方は、八王子千人同心として日光勤番をしていた同郷の土方勇太郎を呼び寄せ、面会をしている。土方は涙を浮かべ、「宇都宮の戦いで逃げようとした兵を手撃ち、不憫なので日光で墓石の一つも建ててくれ」と頼んだと言われている。

◇安塚の戦い
                <激戦地、安塚に残される墓が僅かに残される>

Img_26281
宇都宮城が新政府軍に奪還される前、姿川を挟んだ、安塚集落で両軍合わせ、8、90名の戦死者が出ている激戦があり連勝続きの旧幕府軍が破れる。この戦いに勢いを得た新政府軍が宇都宮を奪還する、大きな転換期を迎える安塚の戦いであった。
栃木街道の淀橋に近い場所で鬱蒼とした樹木を背後に「戊辰役戦死の墓」がある。
安塚村の農民が遺棄された34の旧幕府軍兵士の屍体を、拾い集め、葬り石碑を建てた。明治政府から埋葬許可を取るために新政府軍、旧幕府軍と合葬と偽った。明治6年以前に建てられ、風化が進み、崩れ落ちている初代の碑と明治13年(1880)の建立された二代目が並んでいる。

◇会津で斉藤一が指揮
土方は宇都宮を後に日光経由で会津入りする。医師の進めで、東山温泉の会津藩の共同湯にて治療に専念する。
土方は山口次郎こと斉藤一に新選組隊長を命じ、新選組は再編成され白河街道(現国道294号)から赤津、福良、三代、勢至堂峠を経て白河迄出陣する。新選組は会津藩兵に加わり白川城を護るが激戦後新政府軍に奪取され勢至堂峠近くの牧之内に退却し、会津へ道を引き返す。
会津若松の七日町の通りに歳三が宿営した清水屋はコンクリート建ての大東銀行に変わり、碑が当時の場所を伝えている。

◇会津城下天寧寺に退避
新選組を含めた旧幕府軍が母成峠が破れ、会津城下に退避する。新政府軍が猪苗代城下まで進出する中,新選組は城下の旅籠や天寧寺に駆け込んだ。近藤勇の処刑は何時しか会津に知らされ、土方の懇請によって松平容保から勇の法名「貫天院殿純忠誠義大居士」を授けたと言われている。土方は法名を刻んだ勇の墓を建立した。

◇白川口と小峰城
                   <一日で数百人が亡くなった激戦地の白川口>

Img_33761
会津の前線基地でもあった白川の小峰城は新政府軍と旧幕府軍と一進一退を繰り返すが、新政府軍が奪還する。
奥羽越列藩同盟を結成し、小峰城は同盟軍のステータスであったが、落城は戊辰役の大きな転換点であった
5月1日、近代兵器の違いを持って700名の戦死者が出たが、その大半が東軍の死者であった。
津軽藩士で菊地央(たのむ)が新選組に入ったが、薩摩側に寝返りした。近藤勇が逮捕され、面通し、勇を確認通報した人物。央は津軽藩で射撃の名手で、攻めて来た時に斉藤一からの命令一発で仕留められ22歳の若さで亡くなった。

◇1カ月の籠城鶴ヶ城の攻防戦
               <生生しい弾痕跡を残す鶴ヶ城(現在修復)>

Turuga511


鶴ヶ城を巡り、両軍多くの犠牲者を出しながら、戦い、新政府軍は鶴ヶ城を包囲した。新政府軍は10万人に及び城内に砲撃し、城内は2000人の犠牲を生み、残る兵士も3000人となってしまった。
一方の会津軍は弾薬、食料乏しく、疲労困憊に9月19日、「容保」ついに開城を決意し、 追手門に「降参」を大書した白旗を掲げられ戦いは終わった。
西郷頼母一族の自害し、銃弾の中薙刀で迎え撃つ中野竹子など、婦女子おも巻き込む悲惨な1カ月の籠城戦であった。

◇斉藤一、会津に残留し、蝦夷行きと訣別する。
            <弾痕跡も生々しい石塔、背後の赤い建屋が如来堂>

Img_35131



新選組は母成峠継いで滝沢峠も新政府軍の手に落ち、8月23日会津若松城下に突入した。新選組は城への退却が最早不可能になり、塩川村に転進する。歳三は援軍を求め、大鳥圭介に新選組を預け、会津を離れた。
新選組は戦死者、離脱者が生れる中、斉藤一は大鳥圭介に旧幕府軍が仙台に向かわず、会津での玉砕を主張する。
「今落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と言って、同調する隊士と会津に残った。
斉藤をはじめ、久米部正親、池田七三郎、荒井破魔男ら13人の隊士と、合流した旧幕府軍の兵卒合わせて20人で越後街道沿いの如来堂にに本営を布陣した。新政府軍が攻めてきたが、敵に囲まれ、大半が戦死する。斉藤一他は如来堂をそれぞれ脱出し、降伏する。
石塔や地蔵さんに蜂の巣のように生生しい銃や砲弾の痕跡が、凄まじく、激しい戦いの跡が衝撃的であった。
戦いの様子をそっく、残し、後世に伝える如来堂鶴ヶ城籠城終了。
土方、配下の新選組は「大江丸」に乗船 蝦夷へ向かう。

<その3に続く>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新選組の踏み跡その1

1863(文久3年)3月、江戸で招集された浪人集団が 幕府将軍警護のために京都に向かう。清河八郎の起案で攘夷の護りにつきたく大半が江戸帰還するが、近藤勇以下が京に残留する。会津藩預かりで『新選組』として 改名、京都市中を見回り役として、治安維持に当たり、その名は全国に知れ渡る。
倒幕の嵐が遂に戊辰戦争にまで繋がり、新選組は会津藩下の幕府軍として第一線に立ち、新政府軍と戦う。京から、戦線は東へ、関東から東北、更に蝦夷まで戦線は移って行くが、函館で落ち、約6年間の短い期間で新選組の幕を閉じる。
徳川幕府から明治新政府に移り変わる、時代の変遷の中に 散っていった新選組を追っ掛けて見た。
その軌跡を辿って合間を見ては場所別に廻り、概略ではあるが、新選組路線を繋ぎ合わせることが出来た。
この間おおよそ10年近くかかってしまったが、新選組が歩んだ踏み跡を何とか徒破出来た 。
その節目となる代表的な部分をピックアップしてみた

◇新選組発足の拠点となった

      <壬生村浪士屯所となった八木邸>

Sns403_2

1863(文久3年)3月、江戸で招集された浪人集団が 幕府将軍警護のために京都に向かう。所が清河八郎の起案で攘夷の護りにつきたく大半が江戸帰還するが、近藤勇以下が京に残留する。『浪士組』として、組織化され、会津藩預かりで『新選組』として 改名、京都 市中を見回り役として、治安維持に当たり、その名は全国に知れ渡る。会津藩預かりで将軍の警護を宿舎となる八木源之丞邸で壬生村浪士屯所とし、新選組が誕生した。

◇池田屋事件
尊攘激派浪士により、御所に火を放ち親幕派の要人を倒し、孝明天皇を連れ出す計画を発覚し、その会合が行われた、池田屋へ近藤勇以下が襲撃し浪士と乱闘になる。この『池田屋事件』をきっかけに、長州藩は2000名の兵を上洛させ、禁門の変(蛤御門の変)をおこすなど新選組の名が一気に知れ渡る。

◇戊辰戦争勃発

     <新政府軍の本営となった城南宮。薩長軍は此処で幕府軍を迎え撃った>

Sns502

旧幕府軍と新政府軍が合いまみえ、鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まる。新選組は近代装備した薩摩軍の前に挑み新選組も銃をとり応戦したが、装備は古く新選組本来の刀槍では勝負にならず武器の近代化の前に刀槍の時代は終わる。

◇潮流は新政府側に
戊辰戦争で薩長の勢いに押され幕軍総崩れの中、15代将軍慶喜は松平容保、松平定敬兄弟を随従させ、夜隠に乗じて自ら、大坂城から、開陽丸に乗り込み突如、大阪を逃れ品川に何の前触れもなく慶喜は戻ってきた。
慶喜を失った旧幕府軍は大阪での抗戦を諦め所隊の解散を命じた。諸藩兵は本国へ戻り、新選組は旧幕府軍と共に江戸へ帰還する。慶喜ら一行は江戸湾に着いた開陽丸から小舟に乗換、この「お上がり場」から江戸城に帰り、その後蟄居する。

        <浜御殿にある歴代将軍の「お上がり場」>

Sns503

◇勝沼戦争
近藤勇が江戸に帰り、生き残りの新選組隊士を中心に甲陽鎮撫隊を編成し、東征軍の江戸城進攻を阻止するために甲府城へ向かう。しかし、甲府は既に新政府軍に落とされ、鎮撫隊は勝沼 で布陣し東征軍と戦ったが 2時間程で破れ江戸へ敗走する。

       <柏尾山中腹から臨む。右側が中央高速、左側が甲州街道、その甲州街道付近が勝沼戦争の舞台となった>

Sns504

◇近藤勇、板橋で処刑

      <近藤勇らが屯所にした流山の酒造業長岡屋(現酒類問屋秋元)>Ngrym503_2 慶応4年(1868)4月、新政府軍により江戸城無血開城したが、新政府の処置を不満とする幕府兵は江戸を脱走し、抗戦した。
勝沼で破れた新選組は江戸に戻り、会津に赴いて徹底抗戦しようとしたが、永倉新八や原田左之助ら数人が近藤の元を離れていく。

近藤勇以下は千葉、流山に移り隊士を含め、訓練している最中に新政府軍に包囲され、近藤勇は捕縛され、板橋に連行された。勇は五兵新田から大久保大和を名乗っていたが、新政府軍側に新選組の近藤勇が割れてしまい、土方の助命嘆願努力も実らず、板橋で斬首された。

<その2に続く>

| | コメント (2) | トラックバック (0)