カテゴリー「03、幕末日野」の記事

土方歳三から石田三成へ

今年も、年間の一つの節目ひの新選組祭りが終わった。
施設に関わりを持ち、この日にめがけ、全国から大勢のお客さんを迎える立場から、関心事のひとつである。
観光に、町おこしに大河ドラマに寄せて、集客効果にある種の期待感を持つのは何処も同じであるが、終わってしまうとそれまでの一過性であるのも事実である。
観光地に行くと、復刻版が観光案内所に飾られ、ああ~ここにも、かっては大河ドラマで取り上げられたと言う、認識程度に留まってしまう。
当地でも、大河ドラマが新選組が役者さんの人気とも併せ、異常な人のうねりが生まれたが以来、もう10年以上も経過した。

その一人が何と言って地元の雄である、悲憤のヒーロ土方歳三であった。役者は山本耕史であったが、男前、格好良さ、ニヒルな感じで、茶の間のTVから身近なヒーロの歳三に仕立て上げてしまった。

   <市役所前でフアンの前に揉みくちゃにされ、凄い熱気>

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         <衆目の中、フアンの前で山本耕史がご挨拶>Image
       <そんな歳三が身近な存在に近づけてくれた>12025471

まつりの催しで、当地での関わりの深さから歳三が引っ張り出され、フアンが後を追った。本陣の駐車場の仮ステージでインタビュウをやったが、あふれ返るフアンの黒山に近寄り難い存在になってしまった。

そんなシーンが昨日のように浮かび、未だに自分の中では俳優山本耕司は歳三なのである。

その山本耕史が、乱世の戦国時代に再び大河ドラマ『真田丸』でニヒルな石田三成で登場する。
豊臣政権下では、建て割り世界の実力者として絶大な権力を握ったと言われるがそんな役回りを見事にこなし、歳三が三成にすっかり変わってしまった。
歳三は新選組のトップ2として、局長近藤勇を押し立て、新選組を最強集団へと組織し機能する役割を果たした。
一方、三成は豊臣政権を支える五奉行の中でも随一の実力者として、秀吉の取り成しは常に三成を通じて行ったと言われている。
時代を越えての二人の人物であるが、其の置かれている役回りと実力を発揮する姿が正に参謀役として自然と重なってしまう。

それを演じる山本耕司が、二人の姿を着せ替え人形のように置き替わり違和感なく溶け込んでくる。
歳三は北の果て、函館で進政府軍を前に一本木関門で銃弾に散っていった。、
一方、三成は豊臣没後、関が原の東西決戦で徳川家康に破れ、伊吹山で捕縛、京の都を引き回され六条河原で処刑された。
何処まで演じられるのであろうか・・・。

そもそも、ひの新選組祭りの町おこしで、新選組に光を当てた大河ドラマの役割は大変大きい。しかし、此処に訪れるフアンを前に語っても、大河ドラマ「新選組」を知らない、若い世代の層が、結構多くなっている。時間の経過が新たな潮目に変わっても、根強い新選組フアンが育っているのである。
昨日、此処にいた山本耕史が、既に遠くの存在である事実に、時の流れを感じてしまう。

<余計な与太話>
『おいおい、生涯を独身で通した歳が、嫁さんを迎えたとさ』
『それもなあ、驚くなかれ、皇女和宮と聞くぜ』(和宮役は堀北真希)
『う~ん・・・となると、正に公武合体ではねえか』
『いくら、京で活躍したと言っても、まさか将軍に嫁いだ和宮とはいくら何でも、身分が違いすぎるのでは・・・』
一介の農民上がりが、皇女を嫁として迎える。大河ドラマも一時の過熱も収まり、何時の間にか、粛々と現代版のメルヘン ドリームが生まれていたのであった。

肝心の公武合体は井伊大老が倒され幕府独裁を修正し、天皇と幕府が一体化を目論見、歩み寄ったが結局叶わなかった。推進役の老中安藤信正は水戸浪士に坂下門外で襲撃され、和宮降嫁の推進役であった公家の岩倉具視は落飾謹慎処分を受ける。
『和宮の降嫁の事実だけで、尊皇攘夷運動と対立が生まれただけで、何も変わらなかった』

『安政の大獄』の大量な粛清にやったら、やりかえす、の荒れた時代の収束に最早何も
やっても叶わなかった。

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日野農兵隊と銃

<英国エンフィールド社製。先込め式のミニエー銃を元込め式に改めたものである。>04110028
ライフリングが施され、照尺があり、有効射程距離が長くなる。
シイノミ弾(椎の実形の弾)を使用するか、火薬包と一体となった紙包弾丸を使用するので装填が大変便利になる。
さて、幕末から維新にかけて日野宿でその銃に纏わる、こんな話を追ってみる。

◇農兵隊の設置
当初は伊豆周囲の海防を目的に建議(意見を申し立てる)された農兵であったが、文久3年(1863)10月、農村の不穏な情勢から、伊豆韮山の江川太郎佐衛門の支配下である日野を始め武蔵、相模伊豆、駿河など、日野宿組合を元に日野宿農兵隊が編成された。
農兵隊取り立ては高百石につき一人とされたがやや多い30人が農兵と集められた。
運営資金は宿の有力者からの献納金で賄われ、鉄砲購入や練習費用に当てられた。農兵の弁当などは佐藤彦五郎が受け持った。
農兵隊は教育を受けた佐藤源之助(彦五郎の息子)、佐藤隆之介(上佐藤家)が指揮者となり普門寺、宝泉寺を事務所として多摩川河原でオランダ式に教練した。
こうして訓練された農兵隊は慶応2年(1866)名栗(埼玉県入間郡)で起きた武州一揆で、多摩川築地(昭島市)の鎮圧に当たる。

慶応3年(1867)江戸市中で挑発的なテロ活動を続ける薩摩系浪士の集結する八王子宿の壺伊勢屋を日野宿農兵隊を含めた剣士が襲撃し、テロ活動は未遂になる。

◇鳥羽伏見の戦いでは刀から銃へ

慶応4年正月3日鳥羽伏見において戊辰戦争の火蓋が切られた。幕府軍の最前線伏見奉行所に布陣した新選組は火力に勝る薩長軍を相手に特異の白刃をひらめかして勇戦したが、銃火器の威力に勝てず次第に退き、4月淀堤の戦闘で井上源三郎は銃弾を受け戦死した。
<討幕派の薩摩軍などが陣取った『御香宮神社』。新選組や会津藩兵の幕府軍と激しく戦った。>

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<奉行所近くの料亭「角三楼」の表格子の弾痕跡>

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土方歳三は残留の兵を纏め正月12日富士山丸で大阪を出発、15日に品川沖へ着き江戸に帰った。
江戸帰還を知った彦五郎は正月18日、下染屋の歳三の兄、粕屋良順と同道江戸へ行き、近藤、土方に会い鳥羽・伏見の戦況を聞いた。
前年負傷した近藤に代わり鳥羽・伏見の戦闘を指揮し身を持って薩摩軍の銃火器の前に、苦渋を味わった土方歳三の「もう刀や槍せ戦う時代で無くなった」という話しに聞き耳を立てた。

◇新式銃の購入
彦五郎は日野に帰り、やがて関東へ来るだろう薩長軍を迎え撃つため、元込め銃の購入を同志にはかり、農兵隊士有山重蔵を横濱へ派遣した。
横濱へ急行した有山重蔵は1月23日に元込銃20丁、600両で購入の商談を成立させ、日野に帰っている。
彦五郎は当時の日光勤番中の井上松五郎に手紙を送っている。
ようやく、元込め銃を20挺を手に入れ、兵士に引き渡した。ゲーベル銃1発撃つうち、元込め銃5発撃ち、実に便利と評価している。農兵新規宿方にて20人ほど取り立て5日より稽古開始する。
購入した元込め銃は谷戸で試射された後農兵に引き渡され、2月から調練が続けられた。宿方農兵の士気も旺盛であったことが知らされた。

◇勝沼戦争で敗退
3月1日江戸を出発した甲陽鎮撫隊は2日に日野へ到着した。鎮撫隊の一行を待ち受けたのは新装備をした日野農兵隊もその一つであった。佐藤家に集まり、近藤に甲州行きの同行を願い出たが、許されなかった。彦五郎の口添え遂に同行を許した。
同行者の指揮は彦五郎が勤め、彦五郎の俳号が『春日庵盛車』から彦五郎は春日盛と変名、隊名を『春日隊』とした。
鎮撫隊は江戸から出発し、調布、府中と近藤の門弟が数多くおり、同行を願い出たが同意しなかった。
日野農兵隊のみが同行したのは、鳥羽伏見の戦いで銃火で苦しめられた歳三の話からも、元込め銃を装備し調練された日野農兵隊の戦力を買われたものであること、明らかである。
鎮撫隊は甲州行きを目指したが、甲府は既に官軍に堕ちており、途中の勝沼で戦ったが僅か2時間余りで破れ、江戸へ向かって退き、春日隊も活躍する間もなく日野へ退いた。
11日、東征軍が横山宿(八王子)へ到着した。
官軍にいち早く恭順した高島藩か参勤交代でかって知ったる甲州道中で嚮導役を勤めた。同日、東征軍が日野宿捜索を受け、宿内はこれまで以上に緊迫した。
身の危険を感じた彦五郎夫婦は大久野村(現西多摩郡日の出町)、羽生家へ、長男源之助は粟須村(現八王子市小宮)、次男以下は小野路村(現町田市)へ避難したが、源之助が東征軍に捕まる。

◇元込め銃の押収
源之助は八王子の本営に連行され彦五郎の行方、彦五郎と勇・歳三の関係、武器の隠し場所を厳しく尋問される。
歳三の生家では歳三に関係するものは庭に埋め、家人は高幡山へ三日間隠れた。
小野路村小島家では源之助捕縛の報に荷物を片づけ、裏山え隠れた。
高島藩兵が日野宿内農兵改めを始め、同夜には彦五郎宅に踏み込んだ。
農兵達も古谷平右衛門は小野寺の橋本家へ、和田勘兵衛は埼玉へ逃げ、その他の連中も後難を恐れ、それぞれ逃げた。銃の捜索は厳しく、上・下佐藤家の池ざらいまで行われ、仲井の田圃(セイコーエプソン東側付近)積まれた落ち葉の中から元込め銃、19挺が東征軍に押収された。
<仲井の田圃。正面はセイコーエプソン工場の東側、開発が進んでいるが未だ耕作地が残されている>

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結局、最新式銃も威力を発揮できないまま押収されてしまった。

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秋日和に恵まれ日野宿案内

Image11111111 遥々、相模原からご夫妻で日野迄お出まし頂いた。
かっては、地獄の洗礼を浴び、何とか帰還出来た闘病仲間である。
拘留期間が満了し、互いのハードルを越えた事を祝うと、娑婆の世界で会う約束であった。
歴史に多少関わりを持つ身分に、こんな所もあるよと、紹介していたが、ご案内の機会が生まれた。
折しも好天続きの秋日和に日野の歴史を案内し、紅葉、真っ盛りの街中をたっぷり堪能することが出来た。

<ご案内>
15時スタート、「秋の日は釣瓶落し」と言われるぐらいに日が落ちるのが早い。
もたもたしていると、直ぐに暗くなってしまい、見どころの一つである欄間も見えなくなってしまう。
日の落ち行く時を気にしながら本陣と上・下佐藤家の檀家寺である「大昌寺」を駆け足で廻る。


◇本陣にて

              <天井の飾り物「鳳凰」> Image41参勤交代の大名を迎える為の格式がこの式台付玄関口に代表される。
切妻瓦屋根に妻の三角部分に異彩を放つ動物もどきの姿をした飾りものが目を引いている。
建物を火災から守る飾り物であるが、玄関口の目立つところで、躍動感溢れる、力の籠もった「鳳凰」である。
頭の前部分はキリン、後ろは鹿 。あごが燕、頸は蛇、背中は亀、尾は魚で仮想合成され、古来中国で尊ばれた瑞鳥の一種である。
この「鳳凰」の頭部に佐藤家の家紋が見える。
長い風月に晒され、風化も見られるが、その繊細な造りは今なお健在であり、遠くは参勤交代の大名行列や、幕府瓦解の前、近藤勇一行の甲陽鎮撫隊を迎えている。明治維新以降、京都行幸の明治天皇以下の大集団を迎え、普段、建物の外側は説明機会が少ないが、どうしても見て欲しかった、火除けの守り神であった。

◇故郷、懐かし
本陣の建屋に入る。約150年も経過した和風建築に江戸時代の空気感をたっぷり、味わって頂き満足されたようである。たまたま、奥様の東北の言葉のイントネーションから時々感じられたが、ご出身が山県であった。建物を支える大きな大黒柱と巨大な梁、杉の板戸、すすけた天井板に、故郷の山県にもこの様な建物があったようで、その姿が重なり懐かしく感動されていた。
とりわけ、お住まいと近い、東京の多摩地区での思いも寄らぬ、故郷の空間との再会に、高揚し目の前のてかてかに輝く、大黒柱に触れていた。

◇小野路の小島家
何処に行くのも行動を共にする仲良し夫婦は小野路の狭い道路に、車を走らせ風格のある家屋敷の前を通ったと言われたが、恐らく名主小島鹿之助の家に違いない。
その小島家の近くに住む縁者の橋本家に嫁いだのが、彦五郎の長女「なみ」さんの嫁ぎ先でもある。小島家は佐藤家と名主仲間であり、名主が中心になって剣術を習い始め、天然理心流の門弟でもあり、佐藤家とも深い繋がりを持っている。
佐藤家、同様、新選組になる前の試衛館道場時代の近藤勇と門弟達の、天然理心流の出稽古先の一つであり、そんな長い付き合いから新選組時代の前後から彼らの痕跡がしっかり残されている。
その話しに,駆り立てられ、俄か新選組に有らずとも、小野路行きに心揺らしたようである。

◇本陣から大昌寺へ

旧甲州街道を西に向かい最初の信号を左折すると車が1台通れる狭い路地に行く。大門と言われる高幡不動に抜けるかっての専用古道で看板の有ったが散逸してしまった。住宅に囲まれた場所から、抜けると水路沿いに欄干など整備された、日野用水に出る。

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◇日野用水と鮎
この付近の用水の澄みきった水に、魅せられ鮎の姿が確かめられたと話題になった。日野用水は永禄10年(1567)、上佐藤の佐藤隼人が、滝山城主、北条氏照から囚人を貰いうけ開墾に着手した。
多摩川から導水し、田畑に宿の豊かな米造りに繋がり、現代でも市内に張りめぐる用水としてきちんと維持されている。天領と言われる幕府との結びつきも、こんな所から生まれている。
鮎の話しに、たちまちSさんが色めき立つ。相模川に年間の漁業許可書を持ち、度々鮎釣に竿を落とす、鮎釣の名人のようである。川の流れに合わせ、浮きの動きに集中、ブルブルと来る竿の感触は止められないだろうなあ~。入院時の手持ち無沙汰の病床では、家から持参した釣道具から、小さな釣針に糸をからげ、多数の仕掛けを準備し、来るべき日に備える、真剣な姿が印象的であった。

◇大昌寺

その用水の近くに、石碑が立つ、大昌寺の桜並木で整備された参道である。
山門を潜ると立派な本堂が建ち、屋根には、葵ご紋の家紋がきらびやかに輝いている。
大昌寺は徳川家、菩提寺の一つである芝、増上寺の末寺である。本堂の前で手を合わせ、墓域に向かう。

        <大昌寺>

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     <天井にきらびやかに輝く、徳川家の家紋「三つ葉葵」>Image211一番奥に、旗が靡き、上・下佐藤家の墓石が並ぶ両家の前に向かい墓参をする。
歴代の佐藤家が刻まれる墓碑に彦五郎、おのぶさんの名前を確認し、改めて深く眠る、故人に来意を告げ、安らかな安寧を願い、手を合わせる。

墓域の入口から、多少崩れた石畳の両側は、彦五郎と一緒に幕末期に活躍した日野剣士たちの仲間の一部を除き、大多数が此処で眠る。
慶応3年、関東擾乱を図り、八王子の壺伊勢屋に泊まる、薩摩の浪士への襲撃に彦五郎以下、佐藤僖四郎(上佐藤)中村太吉朗、馬場市次郎、原栄蔵、高木吉蔵、佐藤家の長屋に住む山崎兼助の日野剣士7名が参加するが馬場市次郎、山崎兼助がこの襲撃で亡くなる。
襲撃当日、彦五郎宅に集まり、潔く飛び込んでいった剣士達の大半も、声を掛ければ呼応するであろう。不穏な幕末期、天然理心流の稽古仲間は新選組として送り出し、一方では宿を守った。そんな彼らと、一緒に居られる世界に色々な妄想が膨らんでくる。
そんな繋がりを含め、墓域に残される幕末を追っていると、瞬く間に暗くなり、大昌寺を後にする。

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殉節両雄之碑と建立の発起の人々

                  <高幡不動の殉節両雄之碑>Img148高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。
殉節両雄とは多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方歳三を指している。
明治7年(1874)8月明治政府は今後、戊辰戦争で新政府軍に敵対し「朝敵」となった戦死者の霊を祭ることが出来る太政官布告を出した。

布告に基づき、旧幕府の典医松本良順の呼びかけで、高幡山金剛寺(日野市高幡)で近藤土方の墓碑建立の計画が生れる。佐藤俊正(彦五郎)や小島為政らも計画に賛同し旧門人や有志から募金を集められ、より具体化される。
碑文は二人の誕生から死に至るまでの略歴と功績を記して顕彰するものである。具体的には両雄自身が死を厭わず突き進んだ心情と、それを讃える大槻 磐渓の言葉に殉節両雄碑の意志が伝わってくる。内容が単なる慰霊碑ではなく、両氏の賊名を晴らし、忠勇義烈を讃える顕彰碑であった。

篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いている。
碑文の訴えたいもの、建立起案に尽力した人々に光を当ててみたい。

1)碑文の内容
要旨をごく簡単に表すとこんなことであった。

(1)両雄二人の軌跡
武州と甲州の境の源から江戸の生活に役立たせる多摩川は清く美味しい。
「近藤昌宣(まさよし)」と「土方義豊(よしとよ)」はその多摩川の両岸の生れである。二人はは剣法を近藤邦武(くにたけ)に学ぶ。から始まり、新選組とあわせ散っていった二人の軌跡が語られる。
京での新選組として治安維持に活躍。
禁門の変で長州兵が攻める上がるのを幕府側として守り撃退するなど功績が評価される。
戊辰戦争が始まると東軍として戦うが、東軍敗走の中、京から、江戸、東北、最後は函館で終戦を迎える。
この間、「昌宣」は流山で官軍に捕まり、慶応元年4月15日に板橋で処刑され、その首は京都に晒された
慶応2年5月11日、箱館で「義豊」は銃丸が下腹を洞(つらぬ)いて戦死した

(2)二人が残した言葉

①囚われの身に降伏勧告に対して「昌宣」が残した言葉
「我が主慶喜公は前(さ)きの戦いで朝廷に刃向かう気持ちはなかった。鳥羽・伏見の守備兵は関の通過を拒み、大砲を打ちかけてきたので止むを得ず応戦しただけである。讒言(ざんげん)をする人は余りにもひどく、慶喜公に反逆者の名を被(き)せて天子の名の軍隊がいなずまのように攻めてきた。この事が私達が非常に残念に思う事で何とか無実の罪をそぎたいと希(こいねが)っているだけなのだ。今更弁解がましくしゃべることなどない」
と言い放ち刑に臨んで少しも態度を変えることなく堂々と刃を受けた。

②函館戦争中に語った「義豊」の言葉
「私がさきごろ「昌宣」と死を共にしなかったのはもっぱら慶喜公の冤(むじつ)の罪を雪(そそ)ぐ日のあることを期(き)していたからである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。
仮に緩やかな処分によって命を永らえたとしても私はどうして再び地下の「昌宣」と顔を合わせることが出来るだろうか(とても出来ないことだ)」と語った。
それを聞いた人達はその言葉に涙をおとしたと言う

(3)大槻磐渓は感慨を含めてこのように整理総括
新しい政府が出来たが国民の親しみは未だそれほどでは無い。新しい天皇中心の体制となったが人々の気持ちは未だ静まっていない。このような時世に当面して、武士の激しい気概と節操を身につけ、自分の進むべき道と死に場所を確かりと見極めている者は一度前へ向かって進めばその信念を枉(ま)げるような事はしないものである。
言うまでもなく新選組の近藤・土方両子は有らん限りの忠を尽くして主君に仕えた者であり、死を以ってその生涯を全うし他に比すべき者などいないと謂ったとしても誰も意義をさしはさむこなど出来ないであろう。
      
2)明治の世に碑建立
世は変わって、明治の治世になったが、近藤、土方の志を翻すことなく武士として貫き殉じた意志は人々の心を捉えていた。二人の行動に揺り動かされ、発起人となって建碑に繋がった。

(1)建碑に揺り動かしたマグマ
多摩地域には二百数十年の幕府天領地として、幕府との絆があり、薩長政権とは異なる歴史風土がある。
自由民権運動に走った発起人も多くいる。多摩で起きた反政府運動が自由民権運動に繋がったのもその風土から生まれたと考えられる。
京の治安維持で活躍した新選組の武術が天然理心流の名を広めた。その天然理心流も戊辰後、新政府から賊軍の武術として禁止された。発起人の多くは天然理心流の門人でもあった。

(2)戊辰動乱の怨念が不許可
碑文を神奈川県に提出したが建立の許可が貰えず、明治9年の銘が入っているが実際に建つたのが明治21年であった。「朝敵」とされた二人に対する戊辰動乱の怨念の激しさが許可に長期間要したことが伺える。

(3)建立の発起人
近藤・土方に深い以下の人々が発起に尽力した。

       <系譜をクリックすると拡大される>発起人の系譜上の繋がりが判る。

Image◇佐藤俊正
歳三の義兄。勇、小野路の小島為政と義兄弟の契りを結んだ。新選組が上洛し物心両面で支えた。
天然理心流の多摩・相州から門弟を託された。

◇糟谷良循
歳三の実兄、府中に養子、医者となるが天然理心流も入門

◇土方義弘
歳三の兄義巌(喜六)の長男で土方本家の「隼人」を継ぐ、明治16年に自由党に入党する

◇本田定年
谷保村の旧家で書家で退安と号し、明治16年自由党に入党。佐藤俊正の長男俊宣の妻とまの兄で佐藤家と姻戚関係にある。

◇橋本政直
小野路村の旧家、元禄6年(1693)から名主を務める。政直の妻なみは佐藤俊正の長女

◇小島為政
江戸中期から豪農、20代鹿之助先代に継ぎ名主。関東取締出役の居室ともなった。近藤勇らが剣術指南
明治7年近藤勇と土方歳三の冤をそそぎ事績を正しく伝えようと「両雄士伝」を纏める。大槻磐渓はこれを参考に撰文している

◇近藤勇五郎
勇の婿養子。明治9年に宮川家から近藤家を継ぐ。明治14年、野崎村(三鷹市)の吉野泰三らが結成した民権結社自治改進党に入党

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調布みなさん、日野案内

            本陣に集まった調布史談会の皆さんImage1
観光協会の紹介で3月15日(日)調布史談会主催の日野史跡巡りの案内をやり遂げた。
最も気にかけるのは天候であるが、事前予報では所により、雨も予想されたが当日は薄曇りで温かい街歩き日和であった。
そんな好天に後押しされ、参加者も10数人の予定が膨れ上がり31人も参加された。
この大人数に該当では声も届かず、急遽ヘッドマイク付の携帯スピーカーを借りて備えた。
これだけの人数が集まると、群れの移動集散、説明場所の確保、トイレなど色々問題が頭をよぎる。一人ではどうすることも出来ない、スタッフの皆さんの支援で無事に何とか回すことが出来た。

         長蛇の列に集散も一苦労する

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メインは何と言っても本陣であるが、当日は資料館の開催日もあって、一般客で満員、普段出来ない外部からも時間を割いて案内した。

◇日野宿本陣跡(上佐藤家)
日野宿本陣のもう一つ上佐藤家はマンションに置き替わってしまったが、建物沿いに残される玄関口にのみマンションとは異質の和風の門が見える。
一介の油売りの斉藤道三が美濃国の守護職に上り詰める国盗り物語。

家督の継ぎ争い道三は息子に破れ戦死する。道三に仕えた武士の一族3人が東国へ流れ、その一人が日野に落ち着いた隼人がご先祖であった。北条氏照から囚人を貰いうけ今日の用水作りの基礎を造った立役者。

周辺の落ち武者や野武士を追い払い、村を護り、甲州道の建設に尽力し、村人の推挙で名主となる。、

◇日野宿本陣(下佐藤家)
・明治天皇京都
明治13年明治天皇京都行幸で休憩され、国の中核を担う人物が随行している。
明治天皇をその錚々たる随行者に如何に大きな出来事であったかを紹介する。
折しも大河ドラマ「花燃ゆ」百姓上がりの利助は後の伊藤博文であった。

松下村塾生の一人で品川御殿山の英国公使館焼き討ち、要人の暗殺など過激な尊王攘夷の志士志であった。
禁門の変などで、仲間が倒れる中、維新に生き残る。海外渡航で開国論に目覚め、長州閥の有力者の木戸の後ろ盾や、英語に堪能なことから総理大臣まで上り詰めた人物であった。

太政大臣三条実美(さねとも)は薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家の1人。長州系が京都を追放され太宰府へ3年間の幽閉生活。七郷落ちで有名。維新以降は新政府の中枢となる。
 
・行幸の碑の下に御膳水が果たして何処か?
明治天皇が行幸の折、お茶に、この御膳水の水が供された。その場所は碑の近くの塀の裏にあり、井戸枠があったが、朽ちてしまい、現在、鉄板で蓋が掛けられている。
御膳水については直接飲用されることもあって、宮内省から何回も調査し、問題なしと此処が選ばれ井戸が掘られた。

・時代の流れを反映した人の流れ
参勤交代の大名。壺伊勢屋事件で薩摩の浪士捕縛での日野剣士達。旧幕府側、最後の生き残りを掛けた甲陽鎮撫隊。明治天皇。時代を追って本陣から見送った歴史の拠点に熱い眼差しが向けられた。

(本陣~有山邸~大門通りを経て大昌寺へ)
◇大昌寺
・きらめく葵御紋
大昌寺ではに徳川家の檀家寺の芝増上寺の末寺であることから、屋根上で、お馴染みの葵御紋がきら星のように輝いている。
・壺伊勢屋事件
壺伊勢屋事件で薩摩浪士捕縛に参加した佐藤彦五郎、以下の多数の日野剣士が此処に眠る。
「お~い」と声を掛ければ血気盛んな剣士たちが直ぐに集まる様な距離にある。
彦五郎宅の長屋に住み、犠牲になった一人、山﨑兼助も此処で葬られ、行方知れずであったが、砂川の流泉寺で見付けた。

かっては宿内遥か浅川まで時を告げた巨大な鐘楼が土台から持ち上げられていた。
折しも本陣、上段の間の曳き家が思い起こされる。

                    持ち上げられた鐘楼は櫓の上に

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(大昌寺~宝泉寺~西の地蔵)
・お地蔵さん前で「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」
六つの地蔵さんが控える。
何れあの世に世話になるなら
どの道が良いなどと身勝手な思いも寄せて
ご案内も終演となる。

          お地蔵さん前で最後の案内

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・ああ~感動の拍手
杖を付ながら、何とか群れに追いついて頂くなど、最後まで無事にご案内。
地蔵さんの前で下手なご案内にも、拍手で締めて頂き
「この一瞬に案内冥利につきるなあ~」と感動を頂き、お別れする。
駅の乗降客が行き交う中で、この群れと拍手に、じろじろ見られたが(笑い)
やり終えた達成感に満足であった。

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「山岡鉄舟」日野をめぐる

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新選組まつりも終わった5月の日曜日に未だ大きなイベントが残されていた。
山岡鉄舟研究会(以下研究会)の皆さん総勢24名を新選組日野をご案内することであった。
当日の案内コースは研究会や当ブログでも紹介されており、記事の重複は避け、コース案内を担った立場から触れて見たい。

□益満休之助から生まれた奇縁
そもそも、鉄舟と日野との繋がりは文久3年(1863)徳川家茂公の上洛時の京の治安維持に江戸の浪人を集め浪士組として上洛するが、清川八郎の献策を具体化する「浪士取締役」を担ったのが鉄舟であった。その後、浪士は江戸に帰還するが、京の治安維持に残留したのが後の新選組となる。
一方、鉄舟は江戸城無血開城をなし遂げた立役者であるが、それを影で支えたのが薩摩の浪士益満休之助である。益満は幕府側に捕まり処刑されるところ勝海舟に救われ鉄舟の駿府行きを支援する。上野戦争では再び新政府側で戦い戦死する。その数奇な運命は拝の関心時ではあったが、研究会の矢澤さんがお見えになった折に他に来館者おらず時間の経つのを忘れ、延々と語りあってしまった。そんなご縁から、研究会の関心事である新選組日野のご案内の実施に繋がった。

□コース案内
当日は幕末の面影を残す日野地区と土方歳三の墓のある満願寺地区、最後は高幡不動でそれぞれモノレールを乗り継いでのタフなコースであった。
ヘッドマイクと携帯スピーカーを下げ、説明資料とタイムスケジュールを手に迷路のような市街地を安全に時間通り廻ることが大きな課題でもあった。
更に研究会の看板にふさわしく、研究者や幕末史に造詣の深い方々の集まりだけに、場所案内に留まる内容の薄い説明では耳を貸してくれないであろう。既に半年前にスケジュールを決定し、廻るコースも決まっていたが、日野宿の舞台を背景にあれも、これも台詞が頭の中を駆けめぐり、余り整理が付かないまま、当日に臨んでしまった。
限られた時間に現地ならではの口伝も含めたコアーな話も披露した。

□日野宿の中心部

           <正面の本陣家屋は下佐藤家、右側のマンションは上佐藤家>

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江戸から諏訪に通じる甲州街道は全部で45宿であったが、日野宿は本陣、脇本陣が居並び参勤交代を迎い入れる形式であった。
甲州街道を挟んで向かい側に右手のマンションが本陣で、その左隣が脇本陣である。
現在でもその姿を留める都内唯一の本陣形式の建物である。
両家とも名主を勤め、佐藤姓であるが、血縁関係はなく、マンション側は京に位置することから上佐藤、脇本陣は下佐藤と識別呼称されている。
幕末期には新選組との繋がりに深い関わりがあった事は知られている。
明治14年、明治天皇は京都行幸に次いで、多摩村連行寺向ヶ丘御猟地へ兎狩りに行幸された折りにも休憩されている。
玄関前にて「金華山」と呼ばれる御愛馬に乗馬され、近衛騎兵が警護される中、薄雪白き、麦田圃の畦道を騎馬軍服姿で勇ましく猟場へ目指した。鉄舟も乗馬し、後を追った。二人の躍動感溢れる姿が、目に浮かぶ。

一方、上佐藤の佐藤隼人は美濃国(岐阜)で斉藤道三に仕えた武士てあったが、道三戦死で日野に来た一人であった。
永禄10年(1567)滝山城主北条氏照から囚人を貰い、用水作りを着手し、今日総延長は約177kmの日野用水に至る。水に恵まれ市域は稲作が盛んで「多摩の米蔵」と言われている。
その用水は現在でも手厚く護られ、街中に清水が流れ、鮎の俎上がこの付近でもあり話題になった。そんな先人が残された遺産が今日でもしっかり護れている。

                <今日に伝える用水路>

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□幕末が詰まった裏道

        <右角がヤンメ地蔵、背後が欣浄寺、その奥が井上一族の家>

0101甲州街道から北側に入った狭い路地の一角が、まさに由緒ある幕末ロードである。
右角にある地蔵堂が目の病にお利益があるヤンメ地蔵である。幼い時代近くに住む沖田総司は義姉のミツに連れられて、この地蔵にお参りしたと言われている。
その背後に幼稚園を弊営している欣浄寺がある。この広場が天然理心流の稽古場の一つとして利用された場所である。

「や~、とう~」と言った掛け声が響きわたり、時代を担う若者たちが新選組や新徴組、或いは千人同心として時代の嵐の中に入っていった。
巷間伝わる新選組隊士が育ったと言われる佐藤家の長屋の佐藤道場は慶応2年(1866)の開設であり、既に京を舞台にいる新選組と結びつけるのは矛盾がある。佐藤道場の稽古は農兵隊や志を持つ若者と言われている。
その先が井上源三郎の生家である。
八王子千人同心を代々勤め源三郎の兄は、七代目として将軍家茂の警護で上洛している。弟源三郎も浪士組として参加、後の新選組の六番隊隊長として活躍するが鳥羽伏見の戦いで戦死している。松五郎の息子泰助も新選組へ入隊、家族ぐるみ幕府に身を注いでいる。
井上家の斜め向かいが井上家の分家で幼少時代の沖田総司と母親替わりに面倒を見た義姉のミツが暮らしていた。
分家の林太郎はミツと結婚し、沖田家に養子入りした。林太郎は千人同心として上洛している。嘉永5年(1850)に、父元常が亡くなり、翌年、林太郎とミツとの間に子供が誕生する。
総司はそれまで親代わりに面倒を見ていた松五郎により11歳で試衛館道場に預けられる。

□日野に残した鉄舟の書
高幡不動の奥殿で名前が紛らわしいが山岡鉄舟から奉納されてある屏風が展示されてあった。
更に、今回特別に佐藤資料館の佐藤福子館長の許しで特別に開館して頂いたが、同家の保存書類から鉄舟の掛け軸を探して頂き、今回展示頂いた。
今回のコースから外れたが甲州街道を挟んで本陣の向かい側に普門寺があるが、今年の1月に本堂が消失した。同寺の有力な檀家の一つ高木家で、高木長次郎は浪士組上洛に参加している一人である。長次郎の次男浜の助は明治3年(1870)土淵姓を名乗り、「英(はなぶさ)」と改名し分家して日野八坂神社の宮司となる。
明治5年(1872)山岡鉄舟の門人として谷中の春風館に弟子入りし、玄関番から始めたと言う。
そんな繋がりから、鉄舟が日野に訪れた時、八坂神社神官の土淵家と高木家へ度々訪れたようで、各種の掛け軸や刀剣など譲られている。
日野にも鉄舟の足跡が多数残されているようである。

□鉄舟と徳川慶喜の涙
高幡不動の殉節両雄の碑は近藤勇、土方歳三の賊名を晴らし忠勇を讃える顕彰碑で当時の時代背景から新政府が中々認められず建立に10年以上かかった。
「篆額(てんがく)」は当初、徳川慶喜に依頼したが、碑文を読みただただ涙を流し、応ぜつ松平容保が揮臺した。

江戸城無血開城の立役者は鉄舟である。
慶喜は鉄舟を呼び、「二心はない。朝命に絶対にそむかぬ」と交渉役を頼んだ。
鉄舟は江戸開城について駿府の官軍の渦巻く営中へ行き、西郷隆盛と面談する。
大総督官(有栖川宮)からの五箇条の条件を西郷隆盛から示された。
一、城を明け渡すこと
二、城中の人数を向島に移すこと
三、兵器を渡すこと
四、軍艦を渡すこと
五、徳川慶喜を備前へ預けること
「謹んで承りました。四箇条は異存はありませぬが、主人慶喜を備前へ預ける一条は何としても承服できません」と抗議した。
西郷は語気を強め「朝命ですぞ」と大上段から浴びせた。が、鉄舟は怯まない。
結局、西郷は折れ、五条は取りさげた。、
西郷の格言に「生命も名も金もいらぬ人は始未に困る。そんな人でなければ、また天下の大事は成らぬものです…」とあるのは、山岡鉄舟を評したものといわれる。
慶喜の流した涙は、もとより碑文の忠勇で散っていった両雄でもあるが、身を投げ救った幕臣の一人鉄舟でもあったことも、改めて思い起こした。

□最後に

         <歳三像の前で鉄舟研究会の皆さん>

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拙い説明でも、終始耳を傾けて頂いた寛容さに救われ、何とか廻りきれ、最後の高幡
不動の「殉節両雄之碑」で完結した。やり終わった達成感と、皆さんの拍手に感動さえ生まれた。「おつかれさまでした」

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普門寺の火事

           <炎上 した普門寺の本堂。屋根瓦は落ち、内部は燃え尽きている>Img_50242111本陣の当番日である2014年1月11日、旧甲州道は消防車両で埋まり、大渋滞の一般車両で只後とならぬ異常事態であった。炭で真っ黒な消防隊員が走り回っていたが、既に鎮火した後であったが普門寺本堂と隣接する家屋が火災で焼け落ちていた。
本堂は壁を残して、内部は完全に焼き付けており、再び戻すことの出来ない歴史遺産を瞬時で失うことは大きい。

しかし、本堂の南側の有形文化財に指定されている江戸時代後期の「観音堂」は無事であったのは救われた。
普門寺は日野宿の中心に位置しており、日野の歴史を語るには欠かせない存在である。
ここでは幕末から維新に絞って、役割を果たした舞台と、日野の歴史に関わった有力な檀家高木家について触れてみたい。

<農兵隊屯所>

      <罹災から免れた 観音堂。農兵隊屯所として使われた>

Img_501621111<農兵隊屯所>
嘉永3年折しも黒船騒ぎに、国防治安の声高く、文久3年(1863)御代官江川太郎左衛門は管下に命令し日野宿組合農兵隊を組織した。
隊長役は伊豆韮山の江川代官邸で洋式訓練や操銃術の稽古を受けた名主佐藤彦五郎の長男の源之助、と上名主の長男隆之助の二人に15~45才の精選された30人が農兵として集められた。
宿有力者から献納金で鉄砲や練習所費用が賄われ、多摩川河原で調練を励み、普門寺、宝泉寺を修練場として呼び、事務所として使う屯所とした。
宿内の5人の千人同心の教導で河原に出て練兵、射的を勉励し、春秋2回は江川代官配下の3教官が派遣され、オランダ式操銃練兵術も習っている。
元より天然理心流の門弟の多くも農兵隊に参加しており、最大60名とも言われ、江川代官配下で銃を担ぎ近代化を遂げ国防に励む、集団がこの辺で見られたのである。<高木家>
普門寺の一角に日野宿の代表的旧家の一つで、高木家一族の墓がある。


<高木長次郎>
高木長次郎、後に2代目吉蔵は文政10年(1827)生まれる。農業のかたわら家業として質屋「角屋」を経営していた。
長次郎は多摩地域の豪農に見られるように天然理心流に励んで免許まで取っている。
安政5年(1858)秋には、日野宿鎮守の牛頭(ゴズ)天王社(八坂神社)へ剣術上達を祈願する額を奉納しているが日野宿の天然理心流最古参剣士として名を連ねる。文久3年(1863)の浪士組上洛の際に上洛している。

慶応3年(1867)「御用盗」と言われた薩摩藩の浪人捕縛の八王子壺伊勢事件では佐藤彦五郎以下総員7人の日野宿の剣士の一人として参加している。

慶応4年(1868)近藤勇が甲陽鎮撫隊を編成し、甲州道中を甲府城へ向かった。日野宿の農兵22人の中の一人として参加する。勝沼で破れ、それぞれ身を隠したが、長次郎は御獄山のお宮の黒田家から大岳山の山小屋に匿われ、約1年後赦免され日野に戻った。明治14年(1881)で没する。
日野宿の天然理心流の剣士の一人として、日野宿の運命を背負いながら幕末を生き抜いている。

<長次郎の子息>
長男の吉造は安政元年(1854)誕生する。
明治5年(1872)記者になって1年間アメリカ・ボストンに渡っている。明治10年西南戦争に志願兵として出征する。
自由民権運動に参加し、自由党に入党するなど多摩地域に起きた政治活動の推進役を果たす。
一方、日野銀行の取締役や、実弟とレンガ製造所の設立に参加するなど事業を起こしたが、明治26年、39歳で亡くなる。
次男浜の助は安政3年(1856)誕生する。
慶応3年(1867)11歳で普門寺の住職隆有の弟子になって入門する。
明治3年(1870)土淵姓を名乗り、分家として「英(はなぶさ)」と改名し、僅か15歳で日野八坂神社の宮司となる。
明治5年(1872)山岡鉄舟の門人として弟子入りし、玄関番から始めたと言う。
明治21年レンガ製造所を設立するが、明治23年(1890)に急死し、レンガ製造所も閉鎖される。
因みに製造された煉瓦50万個の一部は多摩川、浅川の鉄橋で現代でも使われている。

<山岡鉄舟との関わり>
新選組以来山岡鉄舟と懇意としており、山岡鉄舟が日野に訪れた時、八坂神社神官の土淵家と高木家へ度々訪れたようで、各種の掛け軸や刀剣など譲られている。
山岡鉄舟は誰でも頼まれるとすぐ書いたが、しっかり対価は貰ったようで、鉄舟居士の禅書として宿内に多数出回ったようである。

<最後に>
何時起きるか、判らない火事は時代を越えて、常について廻る。一瞬にして焼き尽くし、失うものは大きく、改めて火事の恐ろしさを見て、身の引き締まる思いがする。
被災された方々には見舞申し上げると共に、歴史を語り伝える象徴として、早期の復元を待ちわびたい。

詳細はこちらで紹介されています。ご覧ください

万願寺の渡しから日野宿へ

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日野、駆けめぐり「こんな事もあり」PART2

Yさんと日野地区を一通り廻った後、モノレールに乗って甲州道口から満願寺にむかう。

◇満願寺地区
                   <石田寺>03271

石I田地区は多摩川と浅川の合流点に位置し、豊かな恵みと一方では洪水にさらされる。
万治年間(1658~61)大水で1.8m浸水、石田寺が流失し、弘化3年(1865)では歳三の生家土蔵と物置が流されている。

大水では多摩川の渡しが、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故も記録されている。
現代でも河川敷のブルーハウスが浸水に逃げ後れ、ヘリコプターで救出されるなどTVでなまなましく報じられ、自然の水難は現代でも引きずっている地帯である。そんなことから、川底に建設機械が入り、堆積された砂利を起こす、治水対策が年中行事のように行われている。

石田村は出水と氾濫から飛び地が多く、新井・満願寺・下田などの村と複雑に入り込んでいる。
そんな背景から生れた道は大きな道から住宅地に一歩入ると大変判りにくく、案内人泣かせの場所である。

この土地の大きな特長は住宅地、墓地含め、見渡す限り土方姓ばかりである。
最近になって、別姓が住まわれているが、戦前までは土方姓の単一姓のみであったようで、これ程の純粋培養された土地は珍しい。

石田寺は高幡山金剛寺の末寺であり、土方家は高幡山の有力な檀家総代格でもあり、歳三忌の折は高幡山からお住職が来られ歳三の墓石の前でお経をあげ供養する。

南側に日野高校が隣接するが、2013年の高校野球の地方大会は私立のシード校を次々と倒し、あれよあれよと言う間に決勝まで進んだが、惜しくも甲子園行きを逃してしまった。地元の声援虚しく国立以来の都立の夢は叶わなかった。
この快挙は偶然であったのであろうか。地元の雄、歳三は京での見回り組から、戊辰役では旧幕府軍として、誠を掲げ幕末を駆け抜けた。歳三の機智と武勇の気が時代越えて、草の根の日野球児に乗り移り、戦勲が生れたのではと想像する。

同校の応援歌はRCサクセションの「雨あがりの夜空に」の替え歌であり、同校のOBの亡き忌野清志郎の代表作でもあり、ユニークな学校である。

◇浅川河岸

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浅川に出て、このまま満願寺戻るまで、結構距離がある。
Yさんには負担かなと思いつつ、ついついマイペースでモノレールを乗らず、浅川土手を高幡不動に向かってしまう。
河岸は四季を通じて今が一番、見通しの効く時期であり、川沿いの自然と取り囲む山を見ながらの風情も趣がある。正面に丹沢連峰、右手に大室山が霞んで見えるが、大室山背後の富士の秀峰は生憎、お隠れのようであった。

川岸の水辺には渡り鳥が群れをなし飛来し、のんびりと一時を休んでいる。幼少時代育った 歳三も、恐らくこの付近で同じ風景を眺め、時を過ごしたのであろう。
河岸沿いを上流に向かい、南北を繋ぐふれあい橋を渡ると、当日のゴール地点の高幡不動である。五重の塔や背後のこんもりとした山が見えてくる。

◇高幡不動

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高幡不動の境内は樹木の生い茂る深い高幡山に囲われる。切り立つ斜面に小高く見晴らしの効いた頂部はそっくり自然が残され、歳三達始め天然理心流の門弟が稽古の傍ら野試合の訓練所になった。

慶応4年(1868)3月東征軍の主力である迅衝隊は、甲陽鎮撫隊を勝沼にて撃破し、諏訪高島藩の先導で甲州街道を東下し武蔵国多摩郡の八王子宿、日野宿を目指し、やってくる。日野の住民は恐怖に陥れ、焼き討ちさえ覚悟し、身を隠し、財産は親戚等に預けた。歳三の生家では歳三に関わる持ち物や書状は庭に掘って埋めた。家人は縁者の家か、高幡山に三日間隠れたとも言われている。

正月は過ぎて日日も経つが、境内では出店が出て、賑わいを見せていた。
前回の日野地区に併せて、「こんな事もある」PART2,高幡版も書いてみた

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日野、駆けめぐり「こんな事もあり」

未だ正月気分が明けきらない日に、日野の史蹟巡りを実施した。
山岡鉄舟研究会の史蹟巡りが半年先であるが、具体化するための第一歩として、研究会のスタッフYさんに下見をして頂く、ことであった。
前日は北風が吹き下ろし終日寒く、放射冷却で零下の厳寒の朝であったが、日中は風も収まり穏やかな散策日和であった。
午前中は旧日野宿を中心に回り、午後から万願寺で歳三の生家跡石田寺を廻り、浅川沿いを高幡不動へ向かう、タフなコースであった。
そもそも、鉄舟と日野との繋がりは文久3年(1863)徳川家茂公の上洛時の京の治安維持に江戸の浪人を集め浪士組として上洛するが、清川八郎の献策を具体化する「浪士取締役」を担ったのが鉄舟であった。その後、浪士は江戸に帰還するが、京の治安維持に残留したのが後の新選組となる。
その新選組には日野からは土方歳三、井上源三郎が参加し、中核を担う活躍をしている。
維新後、鉄舟は明治天皇の侍従となり、明治13年の明治天皇の京都行幸や翌14年の多摩丘陵の兎狩りに同行しており、日野宿本陣に一緒に休んでいる。
そんな繋がりから日野も、史蹟巡りとして見ておきたい一つとされたと思われる。
さて、その日野も新選組が大河ドラマにまで取り上げられ、町おこしのブームまで起きたが、既に10年以上も経過し、一部では淘汰されているものが散見され、そのまま埋もれてしまう事を危惧する。
今回、新選組関連の遺跡は当サイトでも書き、ネットでも色々報じられているので割愛する。日野の歴史を伝える大事な遺産ではあるが、「忘れてはならない、こんなことがあること」も思いつくまま、書いてみた。

◇西の地蔵さん

050600241 甲州道、日野宿の西の玄関口である。
坂が背後のJR中央線の踏切で繋がっていたが永久に遮断されてしまった。甲州道を行き交う旅人。参勤交代の大名。慶応4年甲府へ東征軍を迎え撃つ、勇以下甲陽鎮撫隊。その鎮撫隊を撃破して日野宿探索に宿を震えあがらせた東征軍の迅衝隊。等々歴史の流れの行列を目の前で地蔵さんが見ている。

◇金丸四浪兵衛の墓

050600421 地蔵さんの向かい側に目の前の法泉寺へ、山門を潜って左側に金丸四浪兵衛の墓がある。
乗りの良い唄がある(一部のみ)
「今は昔の物語、徳川七代将軍の、家継ぎ様の大奥に 美人のほまれ名も高き、老女絵島と山村座俳優生島新五郎 、 これが情話の数々に、まつわり来る物語。
勘定方の役人の金丸四郎兵衛定曹(さだとも)も八丈島に流されて、洞期をつとめ島帰り、花のお江戸を後にして里にむかいて旅立ちぬ」
四郎兵衛さん浪人に成り下がり、他の事件に関与、追われる身、法泉寺に寄った折に此処で自害。 かってあった案内板もなくなり、その墓を撫でると病が直ると言われ、ツンツルテンの墓石が唯一の目印である。
高遠の絵島は有名だが、日野にも、関与した人物が眠っているが、知る人ぞ知るで、忘れかけている。

◇日野宿本陣
都内で唯一残された本陣(正式には脇本陣)、日野宿名主を勤めた佐藤彦五郎邸。邸内の一画で天然理心流を稽古し、上述の浪士組の送り出し、京都残留後の新選組を物心両面で支えている。
甲陽鎮撫隊が甲府行きの時、勇以下が休憩している。勝沼で甲陽鎮撫隊を破った東征軍の迅衝隊の日野宿探索のターゲットは当然、本陣であり、留守居役が捕まり、彦五郎以下は追求を恐れ、五日市他へ身を隠した。この間近藤勇の処刑などあるが、彦五郎は助命嘆願し、約1カ月後、戻ってくる。
時代が代わり維新以降では京都行幸や兎狩で明治天皇を迎え、側近として同行した参議伊藤博文や太政大臣三条実美を迎えるなど時代の変革の嵐の中に晒された。徳川天領地として徳川を支えた日野の気風が、根強く、複雑な思いで、維新を迎えたのであろう。

兎狩での来宅は急であったようで、鉄舟から「聖上に酒を差し上げる用意に」
上酒は土地に無く、彦五郎は最上の地酒を取り寄せ差し上げ何とか取り継ぐった。聖上のお笑い声に、彦五郎は何か粗忽でもあったと心配したが、後で鉄舟から、襖の太田蜀山人の狂歌にお笑いになったと聞かされ、彦五郎は思わぬ光栄に胸が躍ったとのことであった。

聖上は愛馬「金華山」に乗り、鉄舟と共に雪の中、多摩の連光寺へ颯爽と向かった。

◇有山邸

100100061本陣の御前の間、上段の間は明治26年の火事で燃えた彦五郎の息子の養子先、有山家へ、ダイナミックに曳屋された。建物は現存するが非公開である。その有山家に一風変ったモダンナ洋風建築が、甲州道沿いにある。
維新間もない時期の渡米、日野の最初の銀行創立など実業家として彦吉の野心を物語る象徴的な建物が、華麗な面影を残し軒を並べている。

日野地区から浅川沿いで高幡地区へ、結構タフなコース。同行頂き、先の長い準備の第一歩を道中、無事く完走できた。旅の締めくくりに、一献交わし、幕末を熱く語り合い、時間の経つのも忘れ、楽しい一日であった。

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「石田」は多摩川と浅川の合流点、豊かな恵みと洪水の歴史

              <水再生センターの一画にある北川原公園。その向かい側がとうかんの森>

Img_275511111前回、当ブログで日野高校を案内したが、歳三の生家がこの付近であった。
日野高校、石田寺は隣にあることは紹介したが、北側は水再生センターがある。その一画に北川原公園があり、その向かい側はとうかんの森である。
その北川原公園が歳三の生家であった。
同地帯は浅川と多摩川の合流点であり、歴史的にも出水の災禍に見舞われている。

<歳三生家流出>
万治年間(1658~61)では大水で1.8m浸水し、石田寺は流失する。
弘化3年(1846)6月、歳三が12歳の時に長雨で川が増水し、堤防が決壊し、一帯は洪水となり、生家の土蔵が流され、母屋も時間の問題であった。村人が総出で、母屋等を解体し、字北田(現在の資料館)に移築した。

現資料館の入り口の2本の柱と梁は旧宅の大黒柱から流用したものと言われている。
洪水時に村人を動員するのは石田村では土方家は一番の旧家であり、何時の頃か「石田の大尽」と呼ばれていたことからも頷ける。

<日野渡船転覆>
甲州道はこの多摩川を舟で渡り、日野渡船場として日野本郷の名主の佐藤家が管理していた。
同年6月中旬から川留めとされ渡船の往来は止められていたが、7月2日に川明けとなり、旅人25人、と荷駄などを乗せ船頭4人が操船して渡った。
折悪く突風で舟が転覆、助かったのは2人の船頭のみで32人が犠牲となり、六郷まで流された遺体もある、大惨事となった。
この舟には日野宿に留め置かれていた諏訪印旛守家来の先触4通、御用状1通、道中奉行への注進状3通などが乗せられていた。
事故は代官所に報告され、検使に来て、公用状の流出が重視された。公儀が人命より重かったのである。結果は当番組頭に過料三貫門、名主問屋・組頭、を急度叱りおくことで、落着した。時の名主兼帯問屋は佐藤彦五郎で、20歳であった。

 
          <現代でも出水の爪痕を残す、浅川の洪水事例>

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2007年日野橋付近で、出水、ブルーハウスの住民が取り残され、ヘリコプターで救出され、大騒ぎになった事件もあり、出水事故は現代でも続いている。

時代を越えて、普段おとなしい河川も、時にはキバをむき出し、暴れる。取り分け浅川は多摩川と比べ流速が早く、激しく、暴れ馬のように、多摩の気概が乗り移っているような感じがする。

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