カテゴリー「03、幕末日野」の記事

幕末もコレラの洗礼

中国湖北省武漢から始まったコロナウイルスの感染はあっという間に世界各地に急速に広がっている。
根源地の防疫は元より人と人との接触避け、消毒の励行など行っており、国によっては封鎖効果で一時より、沈静化傾向に見られるが、世界レベルではどんどん広がり、収束の見通しが出来ない深刻な状況に陥っている。
9年前東北地震から原子力発電所の被災から停電。石油コンビナートの壊滅から石油の供給不足からライフラインの確保にガソリンスタンドに長蛇の列。噂デマもあって、買占めがあって米が消え、生活用品である、水、牛乳,パンETCが先読みで買いだめで商品棚から、消えていった。
そんな再来か、コロナ防疫からマスク、テイッシュパーパ、トイレットペーパーが消えていった。
近代文明化学が進んだ今日でも、難解な病に有効な手段を持てずひたすら沈静化を待つだけの深刻な状態にある。


◇幕末時の深刻な流行り病
こうした流行り病は今に始まっているわけでは無く、幕末には日野で起きており、今日のような防疫体制もなく、未成熟な医学もあって、甚大な被害をおこしている。
元亀元年(1570)~幕末(1860年代)まで大凡300年間は幕府の天領であった。日野は江戸を守るような要衛の地として、住民を手なづけるため年貢の割付も低く、幕府に対する忠誠心は強かった。
しかし天保の凶作からの飢餓から百姓一揆を生み、物価騰貴から庶民を追い詰め、寛永6年のペリー来航による対外防衛の幕府負担が困難にあり、献金の上納を領地の住民に強要した。
幕府の瓦解が目に見えるころ献金を巡る混乱が生まれ、一稼ぎしようとした輩もあり、やくざの流行る土壌でもあった。
幕府は天領には江戸に近い所は江戸で常駐し、支配しており、日野もその一つ現地不在もあって十分な取締が出来なかった。
各地に蜂起した百姓一揆や浪人に手を焼いた江川担庵の発想により『農兵隊』の組織化を採用をした。幕府の威信が掛かっていた兵農分離の建前も時代の流れは、最早崩れていた。


<『日野宿組合農兵隊』旗>>
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こうした状況から『日野宿組合農兵隊』が誕生する。名主佐藤彦五郎は幕府の役人があてにならず自らの自衛意識から剣術を稽古し、浪人の取締など警察機能も自前で備えこれに当たった。

こんな状況の中で、流行り病としてコレラが流行った。今日のような組織的な防疫体制も取れず、幕府も住民にお任せ、恐ろしい病魔の洗礼にあう。
数多くの犠牲者の中に明治4年(1871)4月1日流行り病の名で新選組井上源三郎の兄で千人同心井上松五郎が亡くなった。継いで28日妻が、5月9日長男定治郎20歳の若さで後を追い、瞬く間に身近な3人が病魔の災禍の前に命を失う。たった1か月余りに3人が亡くなったが、昨今では志村けんが掛かって間もなく亡くなり、危急の伝わり方は昔も今も変わらない。改めてその感染力の強さに思い知らされる。


< 恐ろしいコレラの災禍の渦に巻きこまれる。写真は三途の川の亡者の着物をはぎ取る「奪衣婆」 >
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◇当時の記録から(佐藤彦五郎日記)
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それぞれの時代で、悪病退散にひたすら祈祷と『芳香剤』を巻いたこと。特段の対策もないまま大量な犠牲者があった深刻な状況であったことを伝えて居る。それぞれ時代は異なるが、以下のように記録されている。

①安政5年(1858)9月
流行病にて人多く死去し、昨中旬より町内、御嶽山御神豹に社を建て、昼夜念仏を百万遍と唱え農業・家業忘れるほどの騒ぎ。世の中の不穏に付き、三日三晩、鎮守神において福島村神主親子が悪病退散を祈祷を就行した

江川代官所の公事方の加判役(大幹部)柏木総蔵が江戸宿植木屋藤兵衛方へ 今流行病の予防の裁きは『芳香剤』は奇特の病にこの上ないと推量、支配所名主へ『芳香剤』を施せと指示する。
『芳香剤』3斤の目方の袋、千袋を9日、13日施す。

②文久2年(1862)にはコレラは当時コロリと言った。日野にも激烈に蔓延し死去するもの実に百余人、仏棺が街道に列をなしたと云う。
この時私財米穀を救撫し、かつ薬剤を広く施与した為、将軍家より奇特の賞として前後二回白銀を賜った。
なお、当時かねて家に蔵してあった多数の大般若経巻が疫病除けの呪いになるとて望まれるまま、幾巻も貸し出したと云う。
(近年この経巻は大昌寺へ寄進してしまった)


◇コレラの庚申塔

こんな大きな災禍に後世に伝えようと庚申塔が立てられた。
その一角に歴史の意気証人の一つである、庚申塔が確かこの辺にあったと微かな記憶を頼りに訪ねて見たら、かなり風化した姿で残されていた。
場所は都道から一歩離れ日野警察裏側の脇道でかっては賑わいを見せていた旧甲州街道の一角である。以前は雪印があったが都市開発で周辺が一変してしまった。
周辺の土地開発が進んで居る様で、様子が一変してしまった。


<2020年3月現在の庚申塔>
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たまたま、以前に行った時の画像が手もとに残されておりその画像を含め載せてみる。
当時は庚申塔はもしっかりした台座に据えられ既に文字は読めないが脇に案内板があり全体を通して威厳は保っていた。
現在はその案内板の姿は無くなり庚申塔も激しく風化し、前面は剥離し崩れかかり、その文字も読み取りずらい状態に変わっていた。17年程でこんなに変わってしまうのであろうか、その痛々しい姿がとても残念であった。


<2003年当時の姿>
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蔓延1年(1860)に自然石で作られた庚申塔である。
 当時、悪性のコレラが流行ったが、この塔に日夜祈願したところ、1名の患者も出なかったとの言い伝えがある。

魔の手が地球上に襲いかかり、未だ根本対策を立てられず、見通しもたたない現状であるが、100年以上前から繰り返されている。こうした犠牲者を生んだ、生き証人が街の片隅にひっそり佇み、消えかかっている。

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佐幕思想を追った近藤、土方

平成から令和へ迎え、明治維新から150年の節目の年であった。
この明治維新に崩壊寸前の幕府の矢面に立ち、新選組が戦い散っていった。
『殉節両雄碑』が高幡不動の境内に立ち、戦い集団を引っ張った近藤勇・土方歳三両雄を称えている。
彼等がその支えとなったのが強烈な佐幕思想から成り立っている。
 普段、何気なく目にする日野宿から、佐幕思想との繋がりを辿ってみた。

◇幕府支える武士への憧れ

1)その代表格の一人が日野誕生の「土方歳三」でもあった。
豪農層から出て、天然理心流の剣術を身につけ、激動期に武士の世界に入ることが、近藤勇や土方歳三始め新選組の隊士が抱く、ある種のステータスであった。
 農民から武士への道は、折しも崩壊しかかる徳川幕府を支えようとすることは、多摩地域での幕府の報恩に報い るための宿命でもあった。
その源を辿れば八王子・日野など地域の千人同心が武田遺臣であり、徳川家への報恩思想が根強く脈々と受け継がれている。
その影響下にある近藤や土方にも共通の報恩思想が息づいているものと考えられる。
一方では地域は幕府の主要な財源となる年貢収取の対象となる田畑を持つ天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称であった。

2)お侍になりたい願望を具体化。

<『乃武乃文』(すなわちぶすなわちぶん)正斎老人貞亮書の扁額>
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近藤や土方、そして新選組隊士の大半が農家出身で、武士になりたいとその思いを今日に伝え残されるものは日野 宿本陣の玄関口に飾られる四字銘扁額なのであろう。
 『乃武乃文』正斎老人貞亮書の扁額である。
この四文字の先である、武士を追っかけ華々しく散っていった。

これを書いた『柳田正斎(やなぎだしょうさい)』は寛政9年(1797)~明治21年(1888)下総国佐原(千葉県佐原市)生まれの書家・漢学者・漢詩人。
名乗は貞亮。 若くして昌平黌学問所に学び、剣道を通じて千葉周作と親交する。
 柳田家は江戸時代の儒学者正斎そして泰麓、泰雲と受け継がれ、現代は八ヶ岳泰雲書道美術館で柳田書法が展示されている。

3)『乃武』で歳三が習った天然理心流
江戸中期に天明や天保の飢餓を生み出し、農村も荒廃させ治安が乱れた。幕府は関東取締出役の設置や改革組合村の設置で農村の取締の強化を図った。
浪人や無宿者の横行は、宿場内に自ら剣術の稽古がなどの自衛策が自然と生まれた。
このような背景から、剣術が流行り、その一つである天然理心流が日野に浸透した。
土方歳三は安政6年3月に日野新井村土方勇太郎他4名と一緒に天然理心流に入門している。
土方の剣術の書状は残されていない為、どの程度の腕前であったのだろうか、良く判っていない。
しかし万延元年(1860)府中六所宮の天然理心流の奉額式には納額式には刃引の形を披露しており、同年に発行された『武術英名録』に天然理心流、歳三の名前が載せてあり、一流の剣客と評価されている。


4)『乃文』で歳三が学んだ本田覚庵
本田覚庵と言えば幕末の”三筆”の一人である書家の市河米庵の弟子で土方家とは親戚関係で覚庵より書を習ったと言われている。
 土方家から本田家まで約5キロの距離、徒歩で1時間余である。歳三はこの覚庵に書道を習い、万延元年に9回、 文久元年に3回、文久2年に3回、合計15回本田家を訪れている。
 土方の書簡は小島家には京都へ行く、以前のものと、以後のものが残っているが、その書簡は上洛 以前のものは字が小さく、筆跡は女性のように優しいと言われている。
本田家には近藤勇も7回も通っており、上洛する前に剣術稽古の傍ら、本田家に足繁く通い、書や学問を学び、知性と教養を深め、近藤・土方の武士集団としての人格形成に擦り込まれていく。

(現在でも残る本田家)
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江戸時代初期から約350年間続く下谷保村の名家で母屋は慶安年間(1648~51)の建築と言う。
代々著名な文人を迎える当家の家風が守られ著名な漢詩人との交流もあり地域文化の拠点でもあった 一個人住宅が今なお、住まいとして使われている大変貴重な文化資産である。
母屋は茅葺きの屋根はそっくり、現状維持のままトタンで覆っているようである。
トタン下は分厚い厚みの屋根にすっぽり覆われていた。土間から囲炉裏、歳三が尋ねた面影など当時の姿、そのままの家の中を拝見した。

◇粛清の厳しい戦闘集団
1)浪人集団から組織集団「新選組」へ
時あたかも尊王攘夷(天皇を尊び、外国人を排除)が水戸学で生まれ、桜田門外の変が起きた。井伊大老が倒され弱体化された幕府の再建が急務であった。
幕府再建の一策として清川八郎が在野の有志を、浪士組として取り立てるが、近藤、土方も幕府の浪士組に参加し上洛する。
しかし清川は攘夷決行で江戸に引き上げる。これに反発し公武合体までは京都の天皇・将軍警護すべきと、芹沢鴨・近藤・土方らが京に残り清川から離れ、壬生浪士が生まれる。
その間、将軍警護の会津藩・薩摩藩のクーデターで討幕を目論む長州を京から追い出し、会津藩の配下で活躍する。
一方では組織の中核でもあったが粗暴な振る舞いをする芹沢一派は排除する。
武士ありきで単なる浪人集団から組織集団への羽ばたきは厳しい規律も備え、浪士組から新選組へと変わりその実績から、周りの目も変わってくる。

2)武士以上の厳しい『軍中法度』

歳三が着用した鎖帷子(くさりかたびら)と手甲である。
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池田屋騒動や禁門の変では隊士らは重装備で戦いに臨んだ。戦闘集団として変わっていく象徴的な武装姿である。

近藤勇が一番熱い夏の真っ盛りの池田屋事件で着用して戦った鎖着こみはで重さが6キロある。
鎖で出来ているので刀で切れず、護身用となったが、汗まみれの苦闘の中の戦いであった。

新選組は京の町に火を放ち、長州のクーデターを未遂に留めた池田屋騒動では討幕派志士を倒した。
池田屋の報復を背景に長州藩の京都攻撃の『禁門の変』の戦いがあり、新選組も活躍する。新選組の活動は激動の嵐の渦の中に自ら突き進んでゆく。
文久3年池田屋事件の功績で幕府から幕臣取り立ての申し出があったが、身軽な道を選び辞退する。
その功績から入隊希望で隊士総数は一気に140人ほどになり1番から10番組に組織に編成されている。 歳三の組織論がより厳しく隊規を造り筋金入りの組織が生まれている。
 『軍中法度』で具体的に①武士道に背くこと②局を脱すること③勝手に金策いたすこと④勝手に訴訟を取り扱うこと、この4か条を背く時は切腹を申しつくること。この厳罰主義が歳三の姿勢を伝えて居る。
 池田屋事件の以前に『壬生浪士掟』の隊規があり脱走者は発見したら殺害するということが既に決めら れていた。

3)粛清の嵐
動乱の京に忽然と現れ尊攘派浪士達を震撼させた新選組。元々浪人集団であったが、会津藩預かりの幕府公認の組織としてまとめ上げるには「血の粛清」が必要であった。
新見錦、芹沢鴨、平山五郎、野口健司,山南啓介、河合喜三郎、武田観柳斎、伊東甲子太郎、藤堂平助等々30名以上が粛清の嵐に消えていった。
中でも派閥争いで壬生浪士組の筆頭であった芹沢含めた一派。新選組史を刻んだ油小路事件の伊東以下の御陵衛士の一派。多摩以来の朋友で副長の山南など、新選組が粛清の繰り返してまでも守らなければならないのが「体制」であった。

<浪士組を脱退し、そのまま壬生に留まり新選組が結成される。その新選組の屯所となった八木邸当初は母屋の東の離れだけであったが、母屋まで占拠された。平時は宿舎であったが芹沢とその一派の襲撃もここであった>

<新選組の屯所となった八木邸>
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4)悲願の武士、取り立て
 慶応3年6月新選組を幕臣に取り立てられる。総員105人の隊士のうち、近藤が御目見得以上の身分となって見廻 組与頭、歳三は見廻組肝煎、,副長助勤は見廻組の格式が与えられる。
しかし、それ以前に新選組を離れ伊東甲子太郎以下の御陵衛士は幕府取り立てを受け入れなかった。
御陵衛士になびき新選組から離れようとした隊士7,8名が切腹、処刑されている。
尊攘思想の色合いから討幕に傾注し、勇殺害計画した伊東甲子太郎以下の御陵衛士が暗殺される。

◇戊辰戦争へ 新選組も渦の中
日米修好条約の締結など強権から薩長が反発し武力討幕を画策する。徳川慶喜は立て直しを務めたが成果が得られず大政奉還を朝廷に申し出、265年続いた幕府が滅びる。
慶応4年1月 『鳥羽伏見』開戦 する。
 薩長は薩英戦争・下関戦争で外国軍と戦った経験を踏まえ,洋式の軍備で旧幕軍を圧倒し、撃破した。
 旧幕軍は反撃したが、錦の御旗を掲げた征討軍の前に朝敵とされてしまい、戦意を喪失 し 新選組も含め京都から大阪へ撤退する。
徳川慶喜江戸へ 新選組も富士山丸で江戸へそれぞれ撤収を図る
戊辰戦争も西から東へ甲州勝沼~流山~宇都宮~会津~仙台へ転戦する。
幕軍の敗戦に新選組も当初の仲間が離れ、離合集散を繰り返す中、敗報が続く幕軍と共に更に北へ向かう。
4月流山で勇は東山道軍に掴まり板橋で処刑され、新選組史に大きな転機を迎える。

◇歳三、北の大地、函館で散る
歳三、宇都宮城の攻防戦で負傷し、会津城下で療養し2か月余前線離脱する。
新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟が誕生したが米沢藩・仙台藩が離脱し崩れる。最後の砦、会津城も1か月籠城戦で堕ちる。
歳三は榎本武揚率いる艦隊で仙台を離れ新天地蝦夷地に向かう。仙台残留に歳三の生来の仲間であった斎藤一が離れる。
蝦夷で上陸後い箱館五稜郭を落とし箱館政府をを樹立する。
歳三はこれまでの実績を踏まえ『陸軍奉行並』に上り詰め、幕軍の最前線で新政府軍に向き合い戦ったが、明治2年5月11日、一本木関門で戦死、華々しい生涯を閉じる。

『殉節両雄碑』

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『近藤・土方の二人は時代の変革の中、最後まで徳川幕府に対する節義を守り、朝敵の名を冠せられたまま激流の中に没していった。』
と称えた『殉節両雄碑』 。
没後、両雄を称える顕彰する『殉節両雄碑』が篆額は松平容保、撰文は大月盤渓、書は松本順により、明治21年高幡不動の境内に建立される

何故、佐幕思想かを含め、以下HPで書いてみた。併せて御覧ください
日野宿と佐幕思想の繋がり

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大型台風で眠りから覚めた日野宿

令和を迎え未曾有の大型台風19号が関東から東北へ駆け抜けてゆき各地に爪痕を残していった。
江戸と甲州地域を結ぶ旅人の道として甲州街道は歴史的にも大事な役割を持ち、現代でも一大物流の輸送路の役割を担っている。
この甲州街道はどうしても多摩川を超えなければならない。大きな川幅に普段はそこそこの雨量では川幅に救われ、静かに流れている。
それが今回のような滝のような雨が長時間続くと、牙をむき出し、物凄い勢いを持った水流が、川筋の構造物を破壊に結びつけるエネルギー をもっている。

◇崩れた日野橋
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流れ込んだ雨水がどんどん増え水深が高くなり、水流も益々早くなりそのエネルギーに日野橋を支えていた橋桁が、基礎部分をも根こそぎ、はがし地底で擦れてしまった。橋桁の移動が、上部の橋の路面が引きずられ、別の橋桁に載せられた路面とずれが生じゆがんでしまった。

この基礎を固められたコンクリートの巨大な橋桁が、激流の前に敢えなく、移動してしまった

 

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このため本来にある路面がゆがみ、凹凸が出来しまっい、輸送路としての機能を失った。大変危険のため、橋は閉鎖された。

波打つ路面に被害の甚大さを物語る。幹線路を失い、復旧もかなり長期間予想される。この多摩川越えは並走する「立日橋」や「日野バイパス」で横断できるが、交通量の多いところで、日野橋不通で大渋滞が生じている

<至難の多摩川越え>

元々この甲州街道の多摩川越えは代々渡船であった。

江戸時代を通して渡船場は治安上の重要な役割を果たし、将棋で言われる有名な諺で「王手は日野の万願寺」と例えたように軍事上重要な役割を持っていた。
貞享元年(1684)渡船場の位置が万願寺から日野渡船場に移り、その経営は日野宿に任せられ宿役人の監督下で渡船が運行されるようになった。
◇宿の財政を担った
文政7年(1824)御定渡船賃は宿役人から提示され渡船賃は一人10文(約400円)であり。武家、住職、近在25か村は無賃、但し近隣25村は代わりに年々穀物を徴収し、渡船の管理運営費に充てた。
安政5年(1858)6年、の当時の記録から渡船も軌道にのり渡船の総収入から必要経費ひいた収益が宿場財政大きな部分を占めたといわれている


この渡船も安全走行のため、川が増水し、水深が1丈(約3m)から1丈2,3尺を超えると「川留め」と言われ、船は出せなかった。水深1丈以下で舟明け」となった。

◇魔の手は往時から

今回、日野橋陥没が起きた。

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水難事故は往時から度々起きたようで、その魔の手が今日まで続いているようである。
弘化3年(1846)今日同様、長雨が続き、「川留め」からようやく「舟明け」となった。

「川留め」で待機した旅人含め馬船に34人が一気に乗り込み満船、舟はかたむき、川の中程まで来たとき、突風が吹き、高波が船には入り、船は転覆、旅客は川に投げ込まれる。船頭2人以外は全員が激流に巻き込まれ、溺死する痛ましい事故事故が発生した。
増水した急流に流され死骸は多摩川の下流へ、遠く川崎あたりまで流れていったという。

この増水は広域におよび、多摩川、浅川の合流点付近は水没し、石田寺北にあった土方歳三の生家でも、物置、土蔵が押し流され、母屋まで流されそうになった。水難を聞きつけ近村の人々によって、西方の現在地に移築している。

◇明治維新以降
渡船場の経営は日野宿から日野町へと受け継がれる。
◇日野橋完成以降
大正15年(1926)この日野橋が完成し、歴史的な渡船の業務はこの橋の完成をもって終了した。

 ◇日野宿問屋役、佐藤彦五郎

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佐藤家は正保(1644、~48)頃から彦右衛門を襲名し日野宿問屋役を務めていた。
最後の寄せ場名主として幕末から維新にかけて治安維持とも併せこの渡船維持したのは佐藤彦五郎であった。
彦五郎は明治35年9月17日76歳ですでに深い眠りについているが、今回の多摩川の狂乱が呼んだに日野橋橋梁の事故にきっと驚いてるに違いない
「文明の発達した今日、強靭化された構造物も未だ未だ自然災害には弱い」改めて思い知らされた。

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天然理心流の宗家の墓も消した近藤勇の処刑

年初、new musical出演の葵ひなたさんが、遥々宝塚から日野へいらっしゃいました

 

当日、5時の閉館間際、既に日は落ち、真っ暗の中、図らずも案内する機会があり、終始輝いた目で、残された幕末の雰囲気を確かめて居られました。
拝が案内した中で一番印象的な話としては慶応4年4月25日近藤勇が板橋で処刑され、墓石を埋め、約100年後、埋め戻され、地表にその姿を表し深い眠りから覚めた事実が衝撃的であったようで、Facebookに書かれてあった。
勇処刑にからみ、失礼ながら、誤りもあり改めてここで触れておく。

 

       <八王子戸吹 桂福寺内「剣聖光武神」名の廟堂>

 

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                                <復元された宗家の墓>

 

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土に埋めたのは八王子戸吹、桂福寺の天然理心流の宗家初代、近藤内蔵之助と二代目近藤三助のお墓である。
御存知新選組の武術は芹沢鴨や伊東甲子太郎が粛清され、残った近藤勇、以下は天然理心流である。
浪士組から新選組へ池田屋騒動などで京の治安維持に活躍した武術は天然理心流であった。
近藤、土方、沖田も天然理心流で取り分け、沖田も剣さばきの腕が評判であったようである。

 

文久3年(1863)3月未だ新選組に成る前、壬生浪士時代に、会津藩松平容保公の要請で剣術稽古として、天然理心流を披露した。京の治安維持を、預かる会津藩主の前での拝轄を許され、武術の披露に一同は感動したと言われている。

 

 

 

勇の処刑された事実が天然理心流がらみで多摩地域の八王子戸吹に及ぶことを恐れ、宗家、二人の墓は土の中に埋められ深い眠りの中へ入った。

 

戊辰役で敗れた幕府軍の配下の新選組武術である天然理心流は賊軍の武術として、一切まかりならぬと、明治維新以降、教えず見せずで水面下に隠された。
時代は変わり、昭和45年、天然理心流、二代目近藤三助の末裔の坂本家ら関係者が掘り起こし、八王子郷土資料館で粉砕された墓石を繋ぎ合わせ、再び日の目を浴びた。

 

正式な天然理心流は刀術、棒術、柔術、居合術の総合武術である。
天然理心流を世間に名を広めたのは新選組であるが、刀術だけであることから、本家本流の系譜からは区分されて居るようである。

 

ぺりー来航時、治安維持の機運が生まれ、名主でも自宅に稽古所を用意し剣術稽古に励んた。
日野の名主佐藤家や小野寺の名主小島家も天然理心流の一門から近藤勇や沖田総司が出稽古で訪れ、剣術の腕を磨いた。

 

日野宿、佐藤家も稽古場が誕生し「佐藤道場」が有名であるが、現在の佐藤家は火事で燃え、文久3年に完成する。
玄関に長屋があり、建物建築中は長屋で借住まい、建物完成後本宅に移り、空き家の長屋を佐藤道場に開設した。
開設は慶応の時代になっており、新選組は京に居る時代のため、佐藤道場から新選組が育ったことはなく、既に農兵隊の時代に変わっている。
天然理心流だけでも、深い話があり、時間の関係で説明は出来なかった。

 

         <葵ひなたさんと教えてもらった>

 

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予定される新選組ミュジカルには、葵ひなたさんは沖田総司役。
テーマは『碧く散る』新選組の遺志を組んで碧く散り、聴衆に感動を、武勲を日野から見送りたい。

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海外留学生の日野案内

                 <何時も賑わう、高幡不動>Image2111昨今の外国の観光渡来はブームとなっており話題になっているが、此処日野の最前線ではその片鱗が見受けられる。
アニメからか、新選組大好きで、中国から2~3回の本陣レピータも今や珍しくない。
そんな背景もあってか、口コミでの浸透から、来日した留学生から観光誘致を図ろうと、そんな活動に遭遇した。そのターゲットになった一つが早稲田文理専門学校であった。

当校では色々間口が広いがその中の一つクリエイター系企業および全国の・大学と連携して「クリエイター教育」を実践している。
今流行りのゲームの企画や制作を行なう遊戯開発者を文部科学省委託事業の後押しもあって育て、ゲーム開発、アプリ開発、IT系の会社に送り出している。
留学生を支援するサポートシステムから、中国、香港、台湾、韓国、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレー、ネパール、等々東南アジア系の若者を生徒として受け入れている。
そんな背景から、先ずは観光日野を理解し、核となって、貰い留学生の仲間から、裾野を広げたいと言う主旨から、学外教育が実施された。

◇学外授業で来日野

       <彼らを待ち受ける高幡不動参道>

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       <それと判る、姿で賑やかに彼らがやってきた>

Image311東南アジアの海外留学生を学外授業の一貫で中国を中心に周辺の国々から約20人の若い男女の生徒を日野で迎えた。
専門学校において、教育を受けるに足りる日本語能力を有する者と言う、入学条件から、通常の会話は殆ど出来る能力を持っている。
しかし、日本史や新選組を背景とした幕末史について、どの程度の理解を或いは興味を、全員同じフェーズを持っているか全く不明であった。
高幡駅から高幡不動、一般バスに乗って日野地区へ、その間の拠点巡りは国柄み、仲間絡みの烏合集散で、やはりお国柄の文化であった。規範重視の日本とはかなりの隔たりに、「集まれ~」と言って、何処吹く風、群れ衆の時間コントロールに取り巻きは苦慮していた。

◇高幡不動案内
そんな中、高幡不動ではご住職が付き切りで、親切に彼らを案内してくれた。

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但し、肝心のご案内は日本人と同じ口調であったので、その背景をどの程度理解しているのか判らないまま、仏教の始まり、平安時代の大日如来、真言宗などなどご高説賜った。
頷きもせず、ひたすら聞いていたが、一方通行ではなかったか、質問さえ全く生まれなかった。
そんな流れの中で、「不動堂」で護摩の修業を受け、奥殿で国宝級の展示物や、新選組絡みの書物や木刀などの見学から境内の真ん中を通り山門を潜り「大日堂」唸り龍の鳴き音まで確かめ、VIP並のフルコース案内であった。

       <「大日堂」の案内>

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(護摩炊き)
「不動堂」では霊霊しく一般客に混じって護摩の修業が行われる。

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護摩とは願い事を中央の御僧司が不動の力を借りて、護摩の木を燃やし、汚れの心、心のもやもやなど煩悩を護摩の木で焼き、心や体が清らかになることによって願いが叶う。これが護摩の修業である。
これから皆さん、願いが成就するよう、お祈りする。
多数の住職のなかで、朗々と響くお経が読まれ、毅然と行われる儀式に彼らも、大人しく修業を受けていたが、果たして護摩の意義を理解し、御利益を得たか、全く不明であった。
(歳三の手紙・写真・木刀)
奥殿では不動明王像始め、国宝級の展示物がある中で、檀家総代であった土方家を大事に扱っている。
歳三が家族に送った手紙で、当山の檀家であったこと。この手紙を綴った後、鳥羽伏見の戦いで命をかけて、戦に望んだ。
幕末であるが、髷を結っていない、恰好がフランス軍、西洋の格好をしている。
天然理心流の当時から伝わる木剣でこれで稽古に励んだ。大変長く、剣術を身につけた。
土方フアンであれば目を輝かす、土方との出会いでもあるが、彼らには未ださほど響かず、理解もされていなかった。

        <高幡不動で周回も終わり、集合撮影>

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(日野地区)
高幡でそれぞれ食事を済まし、一般バスで日野へ移動。
本陣で案内。土間に接する18畳の大広間で座って貰い、説明に及んだが、総じて眼は虚ろ、説明者の朗々の語り口も、虚しく、響くばかりであった。
挙げ句の果て、説明半ばで、取り巻きに急がれ、終了を余儀なくされた。
(最後に)
予定ではその後、神明の坂を登り、ふるさと歴史館に行く、予定を組んでいたが、一旦終了する。
希望者のみの参加を募ったようだが、大半は心非ず、そのまま脱兎の如く帰り、残ったのは僅か数名で当日の終演を迎えた。
これまで、案内した、経験から、案内する側、される側、一体となって、廻り、その残された史跡めぐりの出会いを楽しみ、確かめるものと思ったが、正直言って全く感じられなかった。
留学生相手の特異なケースではあるが、前日、前触れもなく呼び出され、何をどうしたらも、判らず準備不足もあったが、全くフェーズがあわなかった。
果たしてこれが、核になりうる人材なのであろうか、無為な1日ではなかった事をささやかに思いたい。

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新選組を支援した高幡不動川澄寛主にお悔やみ

高幡不動は国指定の重要文化財を多数保有し、古来関東三不動の一つとして親しまれ境内は参拝客で人並み絶えることなく、賑わいを見せている。
その高幡不動の川澄貫主が2017ー10ー10亡くなられた。
平成元年(1989)現貫主に就任され、お不動様の重文の大修善など古来残された歴史物を整備、修復するなど寺門興隆に尽力されている。
◇川澄貫主がやり遂げたもの

 

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  <川澄寛主>

 

高幡不動尊の不動明王像は、国指定の重要文化財で、その不動明王像の高さは、丈六(坐像三メートル)で平安時代の作として有名で、平安時代この大きさの仏像は関東に四体しかない。
この不動明王像は、平安時代後期に高幡の地で造立され、関東地方の不動信仰の先駆けになったことは間違いないと言われている。
その不動明王像と約二万点の収蔵文化財の総合調査が昭和六十年から六十一年にかけて、文化庁と東京都の調査班により、行われ、さまざまなことが解明された。
中でも丈六の不動明王像は、正面から見ると威風堂々としているが、内部はぼろぼろに劣化しいつ崩れても不思議でない状態で、早急な修理が必要であった。

 

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         <修理した初代の不動明王像>
高幡不動尊では、年間二千百座以上の護摩修行をとり行なわれ、ご本尊の不動明王のお姿がないということは考えられない。川澄貫主は、この修復事業は課せられた仕事と受け止める。
修復は、京都国立博物館国宝修理所でしかできず、修復期間は4年あまりとのこと。
その間、伝来の護摩修行を継続するために、初代ご本尊さま不在中に身代り本尊像を造立することになったが、費用は三億円もかかり「大変だなぁ」言うのが、正直な気持ちであった。
浅草寺の雷門と風神・雷神像は、松下幸之助氏が一人で納めたもので、それにならい寄進者探しに走ったが、見つからなかった。
本尊不動明王が平安時代から現在まで、大勢の参詣者のお力で護られてきたことに改めて気がついた。
その日の護摩修行から参詣者お一人お一人に一口一万円のご寄進のお願いを申し上げ、四年間に一万人近い方からご寄進をいただき、平成9年(1997)4月に新たに造立した身代りの丈六不動三尊をお迎えすることが出来た。
従って不動明王像は二つあり、護摩炊きが行われる不動堂は身代わり、初代は奥殿で参拝客を迎えている。

 

◇新選組を支えた一人

 

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<新選組とも関わり深い高幡不動の仁王門>

 

、新選組副長土方歳三の生家は高幡山の檀家総代の旧家である。歳三の姉が嫁いだ日野宿名主佐藤家は高幡山の有力な信徒である。
昨今の新選組に対する想いが膨らむ中、大河ドラマで光を浴び、新選組フアンの増大は高幡不動でも大きな影響があったと思われる。
奥殿にも歳三の不動への心使いの手紙や境内には歳三像、勇と歳三を称える両雄碑などまさに新選組を支え、縁の寺として高幡不動であり、その寛主も特別な想いもあったかと思われる。
貫主個人では石田寺の歳三忌の法要の供養。2003年の中外日報社の主催の作家浅田次郎氏との「土方歳三と新選組」の対談で檀家寺、館主の深い語りは想像以上であった。小僧時代に高幡に取材に来た司馬遼太郎と会い、司馬遼の歳三への温かさ感じたと仰られた。京都チャンネルの放送では土方家の過去帳の紹介。などなど、輩が知る限りでも是ほどあり、それ以外に多数あると思われるが、新選組との関わりの深さを物語る。      

◇火災の凶事

 

Image2111        <火事で全焼した普門寺、本堂>

 

川澄氏は高幡不動の貫主でもあるが、一方では普門寺の住職でもあった。
日野宿本陣の甲州路を挟んだ向かい側の路地に普門寺があり、2014年1月11日に火災があり、本堂とご自宅も炎上した。狭い路地のために大型車両が入れず、大量な消防車両が甲州路に渦巻き、煤で真っ黒になった消防士が走っていたことなど、鮮明に記憶に留めている。
本堂は壁を残して、内部は完全に焼き付けており、再び戻すことの出来ない歴史遺産を瞬時で失うことは大きい。
幸いにして、本堂の南側の有形文化財に指定されている江戸時代後期の「観音堂」は無事であったのは救われた。
その復興の目途が立った矢先で、今回のご当人の凶事であった。

 

◇護摩修行

 

Img_96501       <不動堂にて身代りの丈六不動三尊での護摩炊き>
今年(2017)3月に新選組150回忌供養祭が大々的に行われ、その時の供養が大導師の役名で貫主であった。式終了後、演台で新選組末裔に囲まれ中心に記念撮影が行われ元気な姿が、昨日のようであったが、突然の訃報に驚いた。
折しも、訃報を知らされた翌日に、観光協会に依頼され、東南アジアの若者20人余りの観光案内でお不動さんで一緒に護摩炊きの修業をした。
川澄寛主は、観光協会の会長でもあり、お不動さんはじめ、その影響は計り知れないものと裏舞台では混乱と思っていた。しかし、当日は何事もなかったように多数のご住職の元、伝統の護摩炊きの儀式は粛々と行われた。

 

継続される護摩炊き、それも、これも川澄貫主から引き継がれたお不動さんの大事な行事である。

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殉節両雄之碑の篆額作成に慶喜の涙

高幡不動の境内には土方歳三像と並んで殉節両雄之碑が立っている。

<高幡不動の殉節両雄之碑>、
良く見ると、 何故か篆額の部分に白く、霞みがかかっている

◇両雄とは、
多摩の出身で幕末の京都において勤皇の志士から恐れられた新選組の隊長近藤勇と副長土方 歳三を指している。

◇大槻磐渓は感慨を含めてこのように整理総括している。
言うまでもなく新選組の近藤・土方両子は有らん限りの忠を尽くして主君に仕えた者であり、死を以ってその生涯を全うし他に比すべき者などいないと謂ったとしても誰も意義をさしはさむこなど出来ないであろう。 世は変わって、明治の治世になったが、近藤、土方の志を翻すことなく武士として貫き殉じた意志は人々の心 を捉えていた。二人の行動に揺り動かされ、建碑に繋がった。

◇碑の建立起案に関わった人々、
篆額は旧会津藩主松平容保、碑文は小野路村、小島為政が起草した「両雄士伝」を基に大槻 磐渓が撰文し、碑文の約1600文字は松本良順が書いている。

碑文の訴えたいもの、建立起案に尽力した人々に光を当ててみたい。 篆額の揮毫は最初、松本良順の斡旋で徳川慶喜に申請したが慶喜は依頼の書面を見入り、繰り返し目を通して、ただ黙って涙を流し、はっきりした返事もなく、結局受けないことで終わってしまった。良順は慶喜公の揮毫 を断念し、松平容保に依頼することにした。

<150回忌総供養祭の講演から>

           <松平家14代当主松平保久氏>

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文久2年(1862)から京都守護職に就いてから会津藩の運命は大きく変わっていく。
当時の京都は新しい時代を切り開こうとする尊皇攘夷派などそれに乗じた過激派などで治安が悪化した。幕府側に支援する公家の家を襲撃したり、首をはねたりテロ活動が暗躍した。
幕政に登場した松平慶永公は京都守護職と言う職制を設け、徳川親藩の会津藩に白羽の矢を立てた。
幕府の命令に背くことが出来ないが、藩内では守護職のような、火中の栗を拾いに行くようなもの、危険の任を引き受けるな、との意見や、容保公も体が丈夫でなかったこともあり固辞続けていた。
しかし、慶永公から就任を迫られ、会津藩家訓第一条から、守護職を受ける苦渋の決断をする。
この決断が後々の悲劇に繋がる。

鳥羽伏見の戦いで破れ戊辰役で、慶喜自身も錦の旗が上がった以上、これはもう逆らえない、朝敵にはなりたくない。慶喜は容保らを引き連れ大阪から「開陽丸」に乗って江戸に戻って、ひたすら恭順の意を示し、容保には一切関わってくれるなと、とまで言って 会津藩は見捨てられてしまう。 味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者が生まれる。

<顕彰碑の建立を計画>、
こんな背景の中、戊辰の傷も癒えぬ、明治7年(1874)、日野宿の佐藤俊正が中心に顕彰碑の建立を計画した。
会津藩、配下にある新選組近藤・土方両雄の顕彰碑の建立に関わる慶喜の涙は主君のために散って行った、会津藩兵士や新選組隊士の償い切れない残痕の思いであろう
慶喜が書けなかったことも、松平保久さんの話しで明確になり、こんな話が繋がってくることを改めて、思い知らされた。
何よりも、松平保久さんのお話の中で、会津藩を称して『愚直』ということであった。
高幡でその碑を見てきたが長年の風雪から全体に風化しているが、何故か 篆額の 部分だけが白色に変化しており、会津藩兵士や新選組隊士に対する、積年の悲しみを見るようであった。

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土方歳三から石田三成へ

今年も、年間の一つの節目ひの新選組祭りが終わった。
施設に関わりを持ち、この日にめがけ、全国から大勢のお客さんを迎える立場から、関心事のひとつである。
観光に、町おこしに大河ドラマに寄せて、集客効果にある種の期待感を持つのは何処も同じであるが、終わってしまうとそれまでの一過性であるのも事実である。
観光地に行くと、復刻版が観光案内所に飾られ、ああ~ここにも、かっては大河ドラマで取り上げられたと言う、認識程度に留まってしまう。
当地でも、大河ドラマが新選組が役者さんの人気とも併せ、異常な人のうねりが生まれたが以来、もう10年以上も経過した。

その一人が何と言って地元の雄である、悲憤のヒーロ土方歳三であった。役者は山本耕史であったが、男前、格好良さ、ニヒルな感じで、茶の間のTVから身近なヒーロの歳三に仕立て上げてしまった。

   <市役所前でフアンの前に揉みくちゃにされ、凄い熱気>

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         <衆目の中、フアンの前で山本耕史がご挨拶>Image
       <そんな歳三が身近な存在に近づけてくれた>12025471

まつりの催しで、当地での関わりの深さから歳三が引っ張り出され、フアンが後を追った。本陣の駐車場の仮ステージでインタビュウをやったが、あふれ返るフアンの黒山に近寄り難い存在になってしまった。

そんなシーンが昨日のように浮かび、未だに自分の中では俳優山本耕司は歳三なのである。

その山本耕史が、乱世の戦国時代に再び大河ドラマ『真田丸』でニヒルな石田三成で登場する。
豊臣政権下では、建て割り世界の実力者として絶大な権力を握ったと言われるがそんな役回りを見事にこなし、歳三が三成にすっかり変わってしまった。
歳三は新選組のトップ2として、局長近藤勇を押し立て、新選組を最強集団へと組織し機能する役割を果たした。
一方、三成は豊臣政権を支える五奉行の中でも随一の実力者として、秀吉の取り成しは常に三成を通じて行ったと言われている。
時代を越えての二人の人物であるが、其の置かれている役回りと実力を発揮する姿が正に参謀役として自然と重なってしまう。

それを演じる山本耕司が、二人の姿を着せ替え人形のように置き替わり違和感なく溶け込んでくる。
歳三は北の果て、函館で進政府軍を前に一本木関門で銃弾に散っていった。、
一方、三成は豊臣没後、関が原の東西決戦で徳川家康に破れ、伊吹山で捕縛、京の都を引き回され六条河原で処刑された。
何処まで演じられるのであろうか・・・。

そもそも、ひの新選組祭りの町おこしで、新選組に光を当てた大河ドラマの役割は大変大きい。しかし、此処に訪れるフアンを前に語っても、大河ドラマ「新選組」を知らない、若い世代の層が、結構多くなっている。時間の経過が新たな潮目に変わっても、根強い新選組フアンが育っているのである。
昨日、此処にいた山本耕史が、既に遠くの存在である事実に、時の流れを感じてしまう。

<余計な与太話>
『おいおい、生涯を独身で通した歳が、嫁さんを迎えたとさ』
『それもなあ、驚くなかれ、皇女和宮と聞くぜ』(和宮役は堀北真希)
『う~ん・・・となると、正に公武合体ではねえか』
『いくら、京で活躍したと言っても、まさか将軍に嫁いだ和宮とはいくら何でも、身分が違いすぎるのでは・・・』
一介の農民上がりが、皇女を嫁として迎える。大河ドラマも一時の過熱も収まり、何時の間にか、粛々と現代版のメルヘン ドリームが生まれていたのであった。

肝心の公武合体は井伊大老が倒され幕府独裁を修正し、天皇と幕府が一体化を目論見、歩み寄ったが結局叶わなかった。推進役の老中安藤信正は水戸浪士に坂下門外で襲撃され、和宮降嫁の推進役であった公家の岩倉具視は落飾謹慎処分を受ける。
『和宮の降嫁の事実だけで、尊皇攘夷運動と対立が生まれただけで、何も変わらなかった』

『安政の大獄』の大量な粛清にやったら、やりかえす、の荒れた時代の収束に最早何も
やっても叶わなかった。

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新政府軍に没収された日野農兵隊の最新式銃

<英国エンフィールド社製。先込め式のミニエー銃を元込め式に改めたものである。>04110028
ライフリングが施され、照尺があり、有効射程距離が長くなる。
シイノミ弾(椎の実形の弾)を使用するか、火薬包と一体となった紙包弾丸を使用するので装填が大変便利になる。
さて、幕末から維新にかけて日野宿でその銃に纏わる、こんな話を追ってみる。

 

◇農兵隊の設置
当初は伊豆周囲の海防を目的に建議(意見を申し立てる)された農兵であったが、文久3年(1863)10月、農村の不穏な情勢から、伊豆韮山の江川太郎佐衛門の支配下である日野を始め武蔵、相模伊豆、駿河など、日野宿組合を元に日野宿農兵隊が編成された。
農兵隊取り立ては高百石につき一人とされたがやや多い30人が農兵と集められた。
運営資金は宿の有力者からの献納金で賄われ、鉄砲購入や練習費用に当てられた。農兵の弁当などは佐藤彦五郎が受け持った。
農兵隊は教育を受けた佐藤源之助(彦五郎の息子)、佐藤隆之介(上佐藤家)が指揮者となり普門寺、宝泉寺を事務所として多摩川河原でオランダ式に教練した。
こうして訓練された農兵隊は慶応2年(1866)名栗(埼玉県入間郡)で起きた武州一揆で、多摩川築地(昭島市)の鎮圧に当たる。

 

慶応3年(1867)江戸市中で挑発的なテロ活動を続ける薩摩系浪士の集結する八王子宿の壺伊勢屋を日野宿農兵隊を含めた剣士が襲撃し、テロ活動は未遂になる。

 

◇鳥羽伏見の戦いでは刀から銃へ

 

慶応4年正月3日鳥羽伏見において戊辰戦争の火蓋が切られた。幕府軍の最前線伏見奉行所に布陣した新選組は火力に勝る薩長軍を相手に特異の白刃をひらめかして勇戦したが、銃火器の威力に勝てず次第に退き、4月淀堤の戦闘で井上源三郎は銃弾を受け戦死した。
<討幕派の薩摩軍などが陣取った『御香宮神社』。新選組や会津藩兵の幕府軍と激しく戦った。>

 

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<奉行所近くの料亭「角三楼」の表格子の弾痕跡>

 

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土方歳三は残留の兵を纏め正月12日富士山丸で大阪を出発、15日に品川沖へ着き江戸に帰った。
江戸帰還を知った彦五郎は正月18日、下染屋の歳三の兄、粕屋良順と同道江戸へ行き、近藤、土方に会い鳥羽・伏見の戦況を聞いた。
前年負傷した近藤に代わり鳥羽・伏見の戦闘を指揮し身を持って薩摩軍の銃火器の前に、苦渋を味わった土方歳三の「もう刀や槍せ戦う時代で無くなった」という話しに聞き耳を立てた。

 

◇新式銃の購入
彦五郎は日野に帰り、やがて関東へ来るだろう薩長軍を迎え撃つため、元込め銃の購入を同志にはかり、農兵隊士有山重蔵を横濱へ派遣した。
横濱へ急行した有山重蔵は1月23日に元込銃20丁、600両で購入の商談を成立させ、日野に帰っている。
彦五郎は当時の日光勤番中の井上松五郎に手紙を送っている。
ようやく、元込め銃を20挺を手に入れ、兵士に引き渡した。ゲーベル銃1発撃つうち、元込め銃5発撃ち、実に便利と評価している。農兵新規宿方にて20人ほど取り立て5日より稽古開始する。
購入した元込め銃は谷戸で試射された後農兵に引き渡され、2月から調練が続けられた。宿方農兵の士気も旺盛であったことが知らされた。

 

◇勝沼戦争で敗退
3月1日江戸を出発した甲陽鎮撫隊は2日に日野へ到着した。鎮撫隊の一行を待ち受けたのは新装備をした日野農兵隊もその一つであった。佐藤家に集まり、近藤に甲州行きの同行を願い出たが、許されなかった。彦五郎の口添え遂に同行を許した。
同行者の指揮は彦五郎が勤め、彦五郎の俳号が『春日庵盛車』から彦五郎は春日盛と変名、隊名を『春日隊』とした。
鎮撫隊は江戸から出発し、調布、府中と近藤の門弟が数多くおり、同行を願い出たが同意しなかった。
日野農兵隊のみが同行したのは、鳥羽伏見の戦いで銃火で苦しめられた歳三の話からも、元込め銃を装備し調練された日野農兵隊の戦力を買われたものであること、明らかである。
鎮撫隊は甲州行きを目指したが、甲府は既に官軍に堕ちており、途中の勝沼で戦ったが僅か2時間余りで破れ、江戸へ向かって退き、春日隊も活躍する間もなく日野へ退いた。
11日、東征軍が横山宿(八王子)へ到着した。
官軍にいち早く恭順した高島藩か参勤交代でかって知ったる甲州道中で嚮導役を勤めた。同日、東征軍が日野宿捜索を受け、宿内はこれまで以上に緊迫した。
身の危険を感じた彦五郎夫婦は大久野村(現西多摩郡日の出町)、羽生家へ、長男源之助は粟須村(現八王子市小宮)、次男以下は小野路村(現町田市)へ避難したが、源之助が東征軍に捕まる。

 

◇元込め銃の押収
源之助は八王子の本営に連行され彦五郎の行方、彦五郎と勇・歳三の関係、武器の隠し場所を厳しく尋問される。
歳三の生家では歳三に関係するものは庭に埋め、家人は高幡山へ三日間隠れた。
小野路村小島家では源之助捕縛の報に荷物を片づけ、裏山え隠れた。
高島藩兵が日野宿内農兵改めを始め、同夜には彦五郎宅に踏み込んだ。
農兵達も古谷平右衛門は小野寺の橋本家へ、和田勘兵衛は埼玉へ逃げ、その他の連中も後難を恐れ、それぞれ逃げた。銃の捜索は厳しく、上・下佐藤家の池ざらいまで行われ、仲井の田圃(セイコーエプソン東側付近)積まれた落ち葉の中から元込め銃、19挺が東征軍に押収された。
<仲井の田圃。正面はセイコーエプソン工場の東側、開発が進んでいるが未だ耕作地が残されている>

 

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結局、最新式銃も威力を発揮できないまま押収されてしまった。

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秋日和に恵まれ日野宿案内

Image11111111 遥々、相模原からご夫妻で日野迄お出まし頂いた。
かっては、地獄の洗礼を浴び、何とか帰還出来た闘病仲間である。
拘留期間が満了し、互いのハードルを越えた事を祝うと、娑婆の世界で会う約束であった。
歴史に多少関わりを持つ身分に、こんな所もあるよと、紹介していたが、ご案内の機会が生まれた。
折しも好天続きの秋日和に日野の歴史を案内し、紅葉、真っ盛りの街中をたっぷり堪能することが出来た。

<ご案内>
15時スタート、「秋の日は釣瓶落し」と言われるぐらいに日が落ちるのが早い。
もたもたしていると、直ぐに暗くなってしまい、見どころの一つである欄間も見えなくなってしまう。
日の落ち行く時を気にしながら本陣と上・下佐藤家の檀家寺である「大昌寺」を駆け足で廻る。


◇本陣にて

              <天井の飾り物「鳳凰」> Image41参勤交代の大名を迎える為の格式がこの式台付玄関口に代表される。
切妻瓦屋根に妻の三角部分に異彩を放つ動物もどきの姿をした飾りものが目を引いている。
建物を火災から守る飾り物であるが、玄関口の目立つところで、躍動感溢れる、力の籠もった「鳳凰」である。
頭の前部分はキリン、後ろは鹿 。あごが燕、頸は蛇、背中は亀、尾は魚で仮想合成され、古来中国で尊ばれた瑞鳥の一種である。
この「鳳凰」の頭部に佐藤家の家紋が見える。
長い風月に晒され、風化も見られるが、その繊細な造りは今なお健在であり、遠くは参勤交代の大名行列や、幕府瓦解の前、近藤勇一行の甲陽鎮撫隊を迎えている。明治維新以降、京都行幸の明治天皇以下の大集団を迎え、普段、建物の外側は説明機会が少ないが、どうしても見て欲しかった、火除けの守り神であった。

◇故郷、懐かし
本陣の建屋に入る。約150年も経過した和風建築に江戸時代の空気感をたっぷり、味わって頂き満足されたようである。たまたま、奥様の東北の言葉のイントネーションから時々感じられたが、ご出身が山県であった。建物を支える大きな大黒柱と巨大な梁、杉の板戸、すすけた天井板に、故郷の山県にもこの様な建物があったようで、その姿が重なり懐かしく感動されていた。
とりわけ、お住まいと近い、東京の多摩地区での思いも寄らぬ、故郷の空間との再会に、高揚し目の前のてかてかに輝く、大黒柱に触れていた。

◇小野路の小島家
何処に行くのも行動を共にする仲良し夫婦は小野路の狭い道路に、車を走らせ風格のある家屋敷の前を通ったと言われたが、恐らく名主小島鹿之助の家に違いない。
その小島家の近くに住む縁者の橋本家に嫁いだのが、彦五郎の長女「なみ」さんの嫁ぎ先でもある。小島家は佐藤家と名主仲間であり、名主が中心になって剣術を習い始め、天然理心流の門弟でもあり、佐藤家とも深い繋がりを持っている。
佐藤家、同様、新選組になる前の試衛館道場時代の近藤勇と門弟達の、天然理心流の出稽古先の一つであり、そんな長い付き合いから新選組時代の前後から彼らの痕跡がしっかり残されている。
その話しに,駆り立てられ、俄か新選組に有らずとも、小野路行きに心揺らしたようである。

◇本陣から大昌寺へ

旧甲州街道を西に向かい最初の信号を左折すると車が1台通れる狭い路地に行く。大門と言われる高幡不動に抜けるかっての専用古道で看板の有ったが散逸してしまった。住宅に囲まれた場所から、抜けると水路沿いに欄干など整備された、日野用水に出る。

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◇日野用水と鮎
この付近の用水の澄みきった水に、魅せられ鮎の姿が確かめられたと話題になった。日野用水は永禄10年(1567)、上佐藤の佐藤隼人が、滝山城主、北条氏照から囚人を貰いうけ開墾に着手した。
多摩川から導水し、田畑に宿の豊かな米造りに繋がり、現代でも市内に張りめぐる用水としてきちんと維持されている。天領と言われる幕府との結びつきも、こんな所から生まれている。
鮎の話しに、たちまちSさんが色めき立つ。相模川に年間の漁業許可書を持ち、度々鮎釣に竿を落とす、鮎釣の名人のようである。川の流れに合わせ、浮きの動きに集中、ブルブルと来る竿の感触は止められないだろうなあ~。入院時の手持ち無沙汰の病床では、家から持参した釣道具から、小さな釣針に糸をからげ、多数の仕掛けを準備し、来るべき日に備える、真剣な姿が印象的であった。

◇大昌寺

その用水の近くに、石碑が立つ、大昌寺の桜並木で整備された参道である。
山門を潜ると立派な本堂が建ち、屋根には、葵ご紋の家紋がきらびやかに輝いている。
大昌寺は徳川家、菩提寺の一つである芝、増上寺の末寺である。本堂の前で手を合わせ、墓域に向かう。

        <大昌寺>

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     <天井にきらびやかに輝く、徳川家の家紋「三つ葉葵」>Image211一番奥に、旗が靡き、上・下佐藤家の墓石が並ぶ両家の前に向かい墓参をする。
歴代の佐藤家が刻まれる墓碑に彦五郎、おのぶさんの名前を確認し、改めて深く眠る、故人に来意を告げ、安らかな安寧を願い、手を合わせる。

墓域の入口から、多少崩れた石畳の両側は、彦五郎と一緒に幕末期に活躍した日野剣士たちの仲間の一部を除き、大多数が此処で眠る。
慶応3年、関東擾乱を図り、八王子の壺伊勢屋に泊まる、薩摩の浪士への襲撃に彦五郎以下、佐藤僖四郎(上佐藤)中村太吉朗、馬場市次郎、原栄蔵、高木吉蔵、佐藤家の長屋に住む山崎兼助の日野剣士7名が参加するが馬場市次郎、山崎兼助がこの襲撃で亡くなる。
襲撃当日、彦五郎宅に集まり、潔く飛び込んでいった剣士達の大半も、声を掛ければ呼応するであろう。不穏な幕末期、天然理心流の稽古仲間は新選組として送り出し、一方では宿を守った。そんな彼らと、一緒に居られる世界に色々な妄想が膨らんでくる。
そんな繋がりを含め、墓域に残される幕末を追っていると、瞬く間に暗くなり、大昌寺を後にする。

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