カテゴリー「14、横須賀」の記事

浦賀紀行、西浦賀へ向かう

◇大衆帰本塚の碑

Uragaa23屯営地跡の道路を挟んで向かい側の警察所の脇に大衆帰本塚の碑がある。
元治元年(1864)に建てられ、篆額は紀州の医師で国学者大畑春国が書いた。

碑文は流暢な平安擬古文(平安時代の和歌・仮名文を模範として雅文(がぶん)体で書いた文章)浦賀奉行与力の中島三郎助の筆跡が刻まれている。
本文の要旨はこの周辺の昔の様子はのどかな湿地帯であったが、開発の波が押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養し、此処で命を 落した先人たちの思いを忘れぬよう、伝えるもの。
浦賀の人々が先人を敬う、気風も供え、筆跡に刻まれる素地を持つ、中島三郎助の姿を表した記念碑である。
大衆帰本とは仏教用語から解釈すると、生きとし生けるものが、本来あるべきものに戻ると読解けるのだそうである。

◇浦賀コミュニティセンター分館(浦賀文化センター)

浦賀警察から更に歩を進めると進行方向右側の高台に浦賀センターがある。ペリー来航に関わる黒船や応接した奉行所はじめ浦賀を支えた回船問屋、浦賀を代表する悲憤のヒーロ中島三郎助など、模型・パノラマ・写真などで紹介されここでしっかりと、浦賀を学習でき、史跡巡りの案内役を果たしている。
<中島三郎助>

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文政4年(1821)浦賀奉行所与力・中島清司の長男として浦賀に誕生する。天然理心流・剣術目録、北辰一刀流・剣術目録など武士として剣術・槍術を備え、砲術に関しても諸流派の免許皆伝、更に大筒鋳造、砲台建設に至るまで、専門技術も備えたスペシャリストであった。
<造船・操船の第一人者>
天保6年(1835)、14歳で浦賀奉行所の与力見習いで出仕。天保8年、当日の三郎助は観音崎台場で勤務、砲撃に参加していないが、奉行所は開国と通商を求めるアメリカの商船モリソン号を平根山から砲撃し退去させる。三郎助は当時日本で数少ない砲術のエキスパートとして評価されている。異国船の打払令は衝撃的事実として、内外に伝わり、幕府は報復を恐れ廃止し、水・薪で穏便に帰って貰うことになった。
三郎助は浦賀奉行の命令で台場に据える大砲を製作し、異国船に供え奉行所の技術担当官吏と評価される。

                        <サナハスケ号>

Image嘉永6年(1853年)ペリー来航のおり浦賀賀奉行所の応接掛を勤めたが、米国から相応の地位の役人の応対を求められ、架空の副奉行と偽り、応対した。黒船には最初に乗った人物としてサスケハナ号に乗艦し、艦内を観察し、戦艦の知識や情報を得た。
応接掛の職を解かれ、日本最初の洋式帆船、鳳凰丸の建造に専念し、嘉永7年に完成させ、艦の副将に任命される。
建造の傍ら台場の青銅製大砲の鋳造修理も行い一奉行所の与力でありながら、造船技術者、海防問題の第一人者として著名になる。
寛永7年(1854)幕命によって日本最初の洋式帆船「鳳凰丸」の建造の主任技師として腕を振るった。安政2年(1855)三郎助は勝海舟・榎本武揚等と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として後進の指導にあたった。
浦賀にドックを作り、咸臨丸の修理など海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。

<戊辰役で幕府に捧げる>
大政奉還して幕府崩壊し与力・同心も解散するなか、幕臣として主家徳川に殉ぜんと決意し、長男恒太郎(22歳)と次男英次郎(19歳)ら連れと榎本武揚と共に江戸を脱出する。

函館五稜郭に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に千代ケ岡に散下した。明治2年(1869)5月16日 49歳「ほととぎす、われ血を吐思い哉かなと言う辞世の句を残した

◇愛宕山公園

文化センターから、外海に向かって更に歩を進めると渡し船の船つき場を過ぎて間もなく、愛宕山公園がある。
明治24年開園で市内で一番古い公園で、かなり風化している。
石段を登って行くと、生い茂った樹木の間から浦賀港と停泊する船舶の群れが間近に見えて来る。

<中島三郎助招魂碑>
三郎助は、勝海舟らと共に長崎の海軍伝習所へ派遣され海軍士官としての修業と造船技術を身につけ、海国日本の基礎を築き揚げた。新政府に逆らった三郎助らは慰霊することができなかったが、明治24年これが解け碑を作った。
榎本武揚や中央気象台長の荒井郁之助らの発案で三郎助のやり残した一つが造船を浦賀でやることになった。
こうして誕生したのが浦賀ドックであった。
此処は浦賀港を一望に見渡せる愛宕山山頂の適地であり、母卿の地を思い舟を愛す三郎助を追慕する浦賀の人々の鎮魂の碑でもある。
招魂碑の向かい側には浦賀港越しの高台に彼の墓が対座するように建ち、入り江を挟む用に東西からこの港を見守っている。
しかし、そのドックも閉鎖され、迎える船も無く、かっての活気を帯びた時代を伝える象徴的なタワーとして虚しく立っている。

     <閉鎖された浦賀ドックの姿を留める>Img_6376

<咸臨丸出航の碑>

            <公園内にある碑>Image1


日米修好通商条約の締結100年を記念して昭和35年(1960)に建てられた咸臨丸出航の碑もある。木の葉の様な舟に乗り、異国の地に驚きと感動を読んだ咸臨丸に乗船した、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らの名が裏側に連ねている。

◇西叶神社

西浦賀の鎮守さま。本来は叶神社が正式名称であるが、東にも叶神社があるため、識別のため西叶神社の呼称が使われている。新年の言い伝え、東で袋を貰い、西で勾玉を貰い、袋に入れると願いが叶う恋愛関係が成就する。
社殿の下にある銅製の灯篭は浦賀の遊廓によって寄進され「ほしか」で繁栄した浦賀 に人が集まり、金も落ちた。

<「ええじゃな いか」>

Images2lq1mjxb叶神社境内の一角に大きな石の井戸がある。幕末にこの井戸の前に畳表、麻、砂糖、など万を扱う商い「潮幡屋」があった。慶応3年(1867)「潮幡屋」の砂糖樽の中から、一枚の大神宮の御札が出てきた。

当時、不景気にあった「潮幡屋」が閉店に追い込まれる時に「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が 広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。
「これぞ、商売繁盛の吉報なり」と大喜び、これが浦賀の「ええじゃな いか」と言われる民衆運動の始まりとなる。
全国版で広まったが 近畿、四国、東海地方などで発生した騒動の目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説もある
 

◇未だ残す廻船問屋

船番所は浦賀奉行所の出先機関で与力、同心が常駐、江戸へ出入りする荷物と乗組員の検査を行っていた。この業務は三方問屋と言われ下田・東西浦賀で100軒余り委託され実務を担当していた。問屋衆は「船改め」を行う時は足軽役になり苗字を許された。
荷物の検査は米・塩・酒・油・醤油・味噌・薪・炭・綿・木綿など11品目を念入りに行われ  3カ月に一度江戸へ報告する義務があった。徴集した銭は篝屋(灯台の前身)の薪代と廻船問屋の収入になった。
問屋を営みながら、自分の廻船で瀬戸内海や東北まで商いをしていた者もおり、店舗を構え蔵が並び一大問屋街でもあった。
                      <その姿を留める廻船問屋>

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幕末期に所有する廻船も60隻を数えた。写真の宮井家も問屋の最も古い一軒であった。
階の出窓には少し短めの格子が等間隔に並べられ、上部に空間が生まれている。海野格子のような美しい格子 模様が、往時の廻船問屋の繁栄した姿が家屋の中に見受けられる。
一階の店舗軒下には大きな櫓が飾られ廻船問屋の歴史の姿が今日にも伝えている。
路地脇に現代では大変珍しい防火用水槽が家の近くに置かれていた。水槽の正面に「日高屋」の名前がしっかり読み取れた。恐らくこれも廻船問屋。町のそこそこに問屋街の往時の姿が伝えている。

愛宕山から降りて、海岸線から離れ、山側に向かう。
風雲急を告げる黒船の来航に沸いた浦賀で外国船の窓口となった奉行所も、今は石垣しか残っていない。僅かな痕跡を確かめ東西浦賀を結ぶ渡船場に辿り着く。
西浦賀は此処で終了。渡船で東浦賀へ

浦賀紀行、東浦賀へ向かう

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浦賀紀行、東浦賀へ向かう

◇渡船を渡り東側へ上陸

東西浦賀を結ぶ渡船は現代でも貴重な運搬役を、果たし浦賀には欠かせない貴重な足となり、浦賀のシンボルである。東浦賀への出発点は西浦賀からの繋がりから、この渡船からとする。

◇徳田屋跡

         <徳田跡、碑で案内>Uragaa71
船着場の直ぐ近くに徳田屋跡がある。浦賀は宿場でないため、船乗り以外は宿泊は原則禁止であった。
黒船来航で脚光を浴び、浦賀への来行が増え、幕府の許可を得て旅籠が誕生した。
文化3年(1811)東浦賀に3軒の旅籠が許可され、中でも徳田屋は草分け的な存在で江戸時代から明治・大正まで続いた浦賀を代表する割烹旅館である。多くの武士や文化人が宿泊し、吉田松陰や佐久間象山、始め桂小五郎なども利用している。

<黒船前に松陰・象山熱く語る>
黒船来航にいち早く神田お玉ケ池(岩本町二丁目)の「象山書院」からいち早く駆けつけた象山と、その象山を師と仰ぎ後からやってきた松陰とこの宿で落ち合い、日本の将来を熱く語り、翌日黒船を見に行く。
二人を師として仰ぐ若者達の、国家を動かす激動の渦もこんな所から生まれている

<幕府の厳重な監視下>
安政の大獄で尊皇攘夷の支持者100人以上を処分吉田松陰はじめ水戸藩は家老安島帯刀はじめ4名を斬首した。
万延元年(1860)、桜田門外の変で水戸藩士主体で井伊大老が殺害される。浦賀湾を控え回航ルートから水戸藩士の残党が立ち回る恐れがあり、どの旅籠も奉行所の役人が来て、宿泊人の厳重な取り調べを行うことになっていた。そんなお触れを前に宿泊人を出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けた。更に徳田屋では番所の「船改め」を受けずに房総半島へ直行できる船便を持っていた。密やかに幕政にも背き自由な気風が底流にあった徳田屋だったのであろうか・・・
大正12年の関東大震災で倒壊し、今はその跡形もない。観音埼燈台も同地震で倒壊しており、地勢を一変している大きな地震であった。

◇顕正寺(けんじょうじ)

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船着場から浦賀駅側に行くと大きい道を渡ると乗誓寺、海側に顕正寺がある。

時期は異なるが同じ咸臨丸の操船に従事した二人の有能な技術者が、同じ墓域に眠る。光と影を持つ咸臨丸の運命に片や維新前の不慮の戦いに没し、一方は維新以降も海運界に生きた、二人の対照的な生涯がある。

<咸臨丸犠牲者、春山弁蔵の墓>

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元浦賀奉行所同心である春山弁蔵は日本初の蒸気軍艦、千代田、洋式軍艦鳳凰丸など設計に従事した有能な技術者であるが、咸臨丸副長として乗船し犠牲になった一人である。
◇ああ~悲惨咸臨丸
咸臨丸は酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされる。
自力走行出来ない、咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられる幕府艦隊の船として江戸を脱出して蝦夷に向かった。
外洋で海が荒れ、回転丸との綱が切れ咸臨丸は相模湾に漂う、一帆船になってしまい駿州 清水港に吹き寄せられる。清水港に入った咸臨丸は修理のために大小の銃砲、器機等は陸揚げした。
新政府軍は清水港に停泊している咸臨丸に追討の軍艦を差し向け、戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、無抵抗な乗組員を次々に惨殺する。非道な扱いに36の遺体が清水港に浮き、新政府軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。
次郎長は「死ねば仏。仏には官軍も徳川もない」と小舟を出し、子分を動員して遺体を集め、向島の砂丘に葬った。静岡の清水に咸臨丸の乗組員「壮士の墓」は市の文化財にもなり有名であるが、悲憤の仲間が此処にも居るのである。

<岡田井蔵(せいぞう)の墓>

Uragaa7a02岡田井蔵は浦賀奉行所与力増太郎の実弟で、16歳で幕府学問所「昌平覺」に入学して漢学を学ぶ。勝海舟らと長崎海軍伝習所で機関学を学び、江戸に戻り軍艦操練所で教授方手伝出役で幕府海軍の人材養成に当たる。
咸臨丸で機関方青年士官として乗艦、連日の荒天の中サンフランシスコに到着するなど米国へ渡った一人である。
帰国後長陽丸の機関士となり、伊豆、小笠原諸島の調査・開拓に従事更に徳川家茂上洛の警護などに当たる。
明治維新後は、横須賀製鉄所の海軍一等師として、軍艦の設計など手がけ、軍艦盤城、海門などの諸艦建造に尽力、技士として海軍造船界に大いに貢献した。惜しまれて退職し、明治37年(1904)横浜市青木町で没する。
享年68歳であった。
岡田井蔵は近代日本の幕開けの地浦賀から出て、幕府海軍の創立に身を投じ、咸臨丸の偉業に参加、さらには海軍造船界で活躍する海の先駆者となる。
海運に身を投じ、維新を前に悲憤に消えた春山に対し、岡田は維新を越え穏やかな形で生涯を閉じている。

◇東林寺
今回の歴史散策の東浦賀町のメインは此処、東林寺である。通りからご覧のような石畳にせりたつ高台に所にお寺がある。この石段を登り、正面のお寺でお参りした後、左手の墓石群に向かう。

<中島三郎助親子の墓>

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中島家の墓が寺の左てにある。
その一角の右手前が三郎助、その並びに次男英次郎、三郎助の向かい側に長男の恒太郎が仲良く並んでいる。
一番奥の植え込みの向こう側は浦賀港であり、海に近い眺めの良い所にある中島三郎助は浦賀奉行所の一与力の身分であるが、黒船来航の折、最初に乗り込み、応接掛かりの任を果たす。
持って生まれた才覚から、見識を深め技術者として海国日本造船・操船の第一人者として礎を築いた。
慶応4年(1868)大政奉還して幕府崩壊し、浦賀奉行も廃止されるなか、新しい時代を迎え、色々選択もある中、主家徳川氏に殉ぜんと決意、函館まで白兵戦を挑み、二人の子供までも連れ添い散っていった。
中島の遺志を継いで、浦賀ドックまで生まれ、その技術は造船として華やいだが、100年 以上の培われた技術はドッグ操業停止ともに幕引きされた。
<文人としての才覚>
文人として和漢の学に造詣が深く、和歌、俳諧、漢詩などをたしなみ、俳人として「中島木鶏」の名で浦賀はおろか江戸市中までその名は広がった。低迷混乱の世にあって国事に忙殺されながらも、時に詩を吟じ、折にふれ俳諧に想いを託すなど、その遺詠の数々は当時の彼の心境を余すところなく今に伝えている。

◇東叶(かのう)神社

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東浦賀コース寺社巡りもとうとう一番縁に来た。外海にせりたち緑濃い明神山と言われる神社の裏山一帯が歴史文化を背負い色々の史跡がある。
神社の社殿は石段を上がった所にあり、更に左側にある階段を登って行くと本殿がある。尚、登って行くと鬱蒼とした木々に包まれた山の中に色々な史跡に巡りあえる。このせりたつ自然の要塞は戦国時代の小田原・北条氏の水軍の砦跡で浦賀城と呼ばれ、対岸は房総半島と江戸につながる水路を俯瞰出来る。
北条氏は対岸の房州・里見氏に警戒の目を光らせていた。
<急階段を登る>
急勾配、長い階段に、皆息を切らし拝殿背後の急階段で明神山へ登る。ちょっと階段を踏み外したら忽ち、  奈落の其処へ、階段中央の手すりが唯一の安全ガードに縋りながら、一歩一歩確かめるように、登る。
<勝海舟断食の碑>
頂上の東照宮の隣に勝海舟断食の碑がある。咸臨丸の艦長格である勝海舟は航海前に此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る叶神社に航海の安全祈願をした。

勝海舟はこの東照宮脇で修業用の法衣で身を包み
座禅を組み、断食修行をおこなった。若干黄ばんでいるが、しっかりした修業用の法衣は現在、東浦賀叶神社に奉納されている。今回特別に見せて貰った。
渡航に関して長崎以来の同期生であった中島三郎助から咸臨丸の航洋性能や艦齢からみた船体強度の問題など情報を得ている。そうした懸念と一方では航行には大変弱く航海中は病人同様で船室からほとんどでなかったと言われている。
黒船に脅かされて7年、舟将と命じられ未知の世界に行く事への不安から決死の覚悟での渡航を物語っている。

◇旅の軌跡を追うがごとく

     <正面の凸地が平根山、その先が燈明堂、手前が浦賀港>Uragaa96
明神山の山頂に立つと今まで歩いて来た場所がパノラマのように見えて来る。遥かか彼方に目を転じると房総の山々が薄ぼんやりと見えてくる。三浦半島と房総半島に挟まれた海域に白波を立て航行する船が無数に散りばめられる、美しい情景である。

手前に目を転じると平根山の向こうがペリー来航の久里浜である。トンネルを潜って、海岸沿いに歩いた燈明堂の浜がくっきりと見える。モリソン号を砲撃した平根山のお台場も目の前である。その燈明堂から海岸伝いを通り愛宕山を経て、西浦賀町に繋がる。。
松陰や象山など彼等が見た鮮烈な黒船を見ながらの軌跡を辿りながら、幕末の雰囲気をタップリ味わった。

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凝縮された幕末の浦賀を巡って

2015年、大河ドラマ「花燃ゆ」がいよいよ走り出した。
旺盛な知識欲に沸く吉田松陰は鋭い触覚を効かせ、実に行動的で全国を走り、吸収していく。脱藩までして、その真っ直ぐな生き方は、幕藩体制など伝統を護る武家社会が受け入れられず悲劇が生まれる。

全国行脚の一つが、浦賀であろう。

032300961その浦賀港は相模湾に面し、波浪から護られるた自然の立地から、船舶ドックとして、近代造船の道が切り開かれる。一方、ペリーが浦賀沖にやって鎖国政策にピリオドがうち、日本の近代化が始まる。
その浦賀には幕末史がたっぷり詰まり、何度か足を運んだ場所である。当ブログでも既に紹介しているが、「花燃ゆ」を機会に改めて触れてみたい。

◇駅前で歓迎
浦賀港を目の前に、京急浦賀駅の前が一番賑やかな場所である。
ロータリーの一角の壁に貼られた馬鹿でかい絵(案内看板)がいやでも目に飛び込んでくる。 黒船来航にいち早く神田お玉ケ池の「象山書院」からいち早く駆けつけた象山と、吉田松陰とこの宿で落ち合い、日本の将来を熱く語り、翌日黒船を見に行く。
衝撃的な黒船来航は日本を大きく変えて行く、衝撃的な出来事であった。
幕末史を飾る一頁をこの看板が物語り、自然とその雰囲気が漂ってくる素敵な街である。
町を挙げて歴史・文化を大事にしている様子がこの看板にして直に伝わって来る。

◇徳田屋旅館跡
黒船来航に沸く当時の徳田屋 旅館は黒船見たさに、各地からやってきた泊まり客で廊下もあふ れる位に一杯となる。早耳でしかも行動がじつに機敏な象山は浦賀に一番乗りであったらしく、海防に心砕く象山の姿勢が良く表れている。
その由緒ある徳田屋旅館は1923年(大正12年)9月1日相模湾沖を震源として発生したマグニチュード7.9の関東大地震で倒壊し、今はその影もなく、碑を残すのみである。
10万5千人余の犠牲者が生まれ、目の前の震源地に一溜まりも無かったのであろう。

◇横須賀市道2073号線

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駅前から浦賀港沿いに外海に向かうと途中に渡し船がある。
この航路は横須賀市道2073号線 と言われ、浦賀の港を横切って、東岸と西岸を結ぶ重要な交通機関なのだ。
渡し船の歴史は古く江戸時代まで遡る ことができ、大正時代は3~4の業者が経営するほど盛んな時代があった。
お客さん数人を載せ、ものの数分で渡ってしまうが、海上から対岸の風情を確かめるのも一景である。

◇咸臨丸

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1)太平洋横断
日米通商条約批准に開国の機運の中、無謀とも思える、太平洋横断を行う事が急務であった。オランダから購入した軍艦「咸臨丸」は最初に太平洋を横断したはこの浦賀から出航している。
「「気合だ~、気合だ~、気合だ~」海軍伝習生から軍艦奉行への出世の道に掛けた「勝海舟」は過酷な冬の太平洋を航海に当たって、決死の覚悟の程が、断食して安全祈願をした。
その碑が「叶神社」に建っている。

2)清水港での悲劇
咸臨丸は酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされてしまう。
自力走行出来ない、咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられる幕府艦隊の船として江戸を脱出して蝦夷に向かった。外洋で海が荒れ、回転丸との綱が切れ咸臨丸相模湾に漂う、一帆船になってしまいは駿州 清水港に吹き寄せられる。
新政府軍は清水港に停泊している咸臨丸に追討の軍艦を差し向け、戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、無抵抗な乗組員を次々に惨殺する。非道な扱いに36の遺体が清水港に浮き、新政府軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。

次郎長は「死ねば仏。仏には官軍も徳川もない」と小舟を出し、子分を動員して遺体を集め、向島の砂丘に葬った。
元浦賀奉行所同心である春山弁蔵は日本初の洋式軍艦鳳凰丸など設計に従事した有能な技術者であるが、咸臨丸副長として乗船し犠牲になった一人である。
顕正寺に墓石がある。

◇悲憤のヒーロー
「中島三郎助」は西浦賀の奉行所の浦賀奉行所与力の役宅で誕生し、文武を磨かれた。
武術は、槍術の宝蔵院高田流、砲術は高島流砲術、剣術は天然理心流・北辰一刀流を学んだ。武州一円に広まった天然理心流が浦賀にも広まったのだ。学問は、漢学者の下で俳句・和歌・漢詩の素養も身に付けた。
次々と浦賀に来航してくる異国に幕府の窓口として裁き、時には開国と通商を迫る外国船を退去させた砲撃技術も持ち、頭脳ばかりか腕前も優れ、八面六臂の活躍であった。
奉行所の一応接掛の身分に乗船を拒否されたが、役職を偽り、最初に黒船に乗り込み、目の前の最新技術の艦内をくまなく見て周り、根掘り葉掘り聞きまくり、アメリカ人には煙ったかれたが、その旺盛な探究心から日本で最初の洋式帆船「鳳凰丸」が誕生した。日本初となるドライドッグを浦賀に築造し、咸臨丸の船底の修理とコーキング(ひび割れなどを埋める作業)を無事に完了させる。

「三郎助」は「勝海舟」・「榎本武揚等」と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。
「三郎助」は幕臣として意志を貫き戊辰戦争で旧幕府軍として参加、函館で子供達と三人一緒に戦死している。
千代ガ岱陣屋で榎本からの撤収の呼びかけを拒絶し、大量の火薬を詰めた大砲に跨り、引き寄せた敵もろとも自爆せんとししたが、雨のために点火が成らず、やむなく刀を振りかざし敵陣へ乗り込み白兵戦を挑む、壮烈な最期と言われている。

          <「三郎助」以下親子三人の墓>0323007311
大政奉還後の戦国の騒乱、主家報恩のために、弁天台場で亡くなった土方歳三と重なる。
「私がさきに昌宣と死を共にしなかったのはもっぱら慶喜公のむじつの罪を雪(そそ)ぐ日のあることを期しているからである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。今このような状況になってしまった以上、いさぎよく戦死するだけである。仮にゆるやかな処分によって命を永らえたとしても私はどうして復(ふたた)び地下の昌宣と顔を合わせることが出来るであろうか」と歳三が残している。・・・殉節両雄の碑から

「三郎助」親子3人は、浦賀港を見渡せる東林寺に眠る。

凝縮された幕末の浦賀は「ようこそ幕末の世界」 史跡巡りマップ「三浦市」で紹介されてます

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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ、そして決行

「JR横浜西口から台町へ向かう、一行」

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前日からの雨、当日は台風に刺激され大雨の予報に、一部欠席の声もあり、当日行くのは己のみではと思えたが、幸いにして雨は小振りとなり決行した。
八王子を起点に、2次集合場所の横浜駅西口で一部の参加者をピックアップし、神奈川宿、台町の田中屋を目指す。
ビルの雑踏を抜け国道1号線沿いを神奈川駅側に向かうと、ビルの谷間の急階段に田中屋を見つける。
この階段を登り切った旧東海道の田中屋に出る。
安藤広重の東海道五十三次「神奈川宿台之景」から、坂の途中に「田中家」の前身「さくらや」の看板が見とれる。海に浮かぶ大きな船あたりが現在の横浜駅当たりと言われている。
従って、我々が歩いてきた当時は海中の中にあったのである。
全盛期では58軒の料亭が立ち並んだが、当時を語れるのはここ1軒だけで、看板を死守する姿に感服する。

            「旧東海道、神奈川宿台(現、台町)付近」

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お龍は明治7年(1874年)に自立の道を模索し、「菅野(かんの)覚兵衛」の紹介で 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いている。
覚兵衛は土佐勤王党に加盟し、龍馬らともに神戸海軍操練所に参加し、長崎で亀山社中(のちの海援隊>を結成し、第二次長州征討の乙(いっ)丑(ちゅう)丸の艦長と海援隊隊士として活躍している。
慶応4年(1868年)3月、生前の龍馬の希望もあり長崎でお龍の妹・起美(三女)と結婚しており、龍馬、お龍との関わりが深い。
お龍は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて目立つ存在だった。
一方では土佐藩士からお龍のことを「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」
と言われたり、龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねて来たお龍を冷たく追い返したり、自ら持った気性から、回りから支援も余りなかったようだ。

□神奈川台の関門跡
田中屋から西に下り、神奈川台の関門跡がある。
開港後、外国人があいついで殺傷され、その捕縛がままならず、各国の領事から「幕府は何をやっているんだと」非難され
横浜周辺の主要拠点に関門や番所を設け、相次ぐ外国人襲撃から守るため警備体制を強化した。
その番所が此処に立ち、番兵がにらみを効かせていた。さしずめ怪しげな成相の己も、行く手を阻み、これ以上の西下を許さなかったのであろう。

□アメリカ領事館の本覚寺
関門跡から東海道を戻り、アメリカ領事館の本覚寺につく。
生麦事件で遭遇した4人の外国人の一人リチャ-ドソンは絶命、遺体は余りにも切り傷が凄いので途中の宗興寺で縫い合わせ、雨戸に乗せてここ本覚寺に運ばれる。苦しんでいるのでこのまま助からないと、「武士の情け」と喉を一突きし止めを刺したのが、薩摩藩の海江田武次である。

海江田武次は有村俊斎を名乗り、俊斎を頭に雄助、治左衛門の三兄弟であった。桜田門外の変で治左衛門は実行者の一人で自害、雄助は推進役として事件後切腹しており、維新以降生き残ったのが武次一人である。
薩摩の一行400人の行列はイギリス軍が来る前に、此処神奈川宿から保土ヶ谷へさっさと逃げてしまう。当然イギリスから下手人の始末を要請されたが、黙殺してしまう。
台町周辺はびっしりとビルが立つ、一等地にあるが、一歩離れ、ここ東海道はお龍あり、攘夷あり、生麦事件あり、幕末・維新史が埋もれた一角のようである。

京急に乗って横須賀中央へ
□おりょう会館

「寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが、「西村松兵衛」と再婚し横須賀で暮らす。「松兵衛」が「菅野覚兵衛」の家に出入りし、「覚兵衛」の紹介された、と言う説と料亭田中家で仲居をしていた時に松兵衛と知り合ったという説もある。
夫に先立たれた妹・光枝がお龍を頼るようになり、3人で暮らすようになったが、やがて「松兵衛」と「光枝」の二人がお龍の元を離れて別居してしまい、一人暮らしになり、明治39年(1906)長屋の一角でひっそりと亡くなる。
晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と「松兵衛」に絡んでいたというが、僅か2年に満たない龍馬との生活を胸に約30年の横須賀暮らしであった。

会館には立派なおりょうの胸像と建物の裏側に終焉の地の碑が立っている。
ふと回りを見ると、何れお迎えが来る世代が多かった。会館でお世話になったら、お龍と一緒に夢想の世界へ案内してくれると、紹介したが、笑って流されてしまった。

□軍艦三笠へ
                   「軍艦三笠の雄姿」

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「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
そう考えると、三笠の見学はこの旅ではで唐突無縁ではないことを、説明しようとした。しかし目の前の重装備の軍艦に、既に心を奪われ、つまらない説明は無用と、それぞれ赴くまま、三々五々飛んでいってしまった。(笑い)

圧巻は何と言っても、東郷平八郎と秋山真之らが指揮取った艦橋であった。降りしきる雨の中、片手に資料、片手に雨傘、手が塞がっている状態で足元も滑る急階段登り降りは厳しかった。砲弾飛び交う中で艦橋は殆ど無防備、こんな所で体を晒、指揮を取った幹部の姿が凄かった。
時間も無く足早に駆け抜けた三笠で、際立ったのが旅順口閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の写真がそれを演じた俳優で元オリンピックの水泳選手「藤本隆宏」とそっくりであった。ロシア娘を虜にしただけあった男前の姿がそのまま、生き生きと輝いていた。

親父たちの世代が小学唱歌で唄っていた、広瀬中佐の唄が、微かに浮かんで来る。
「轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。荒波洗ふ デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」>♪♪・・・♪。

□信楽寺
                   「山深い場所を背後にお龍が眠る信楽寺」

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京急京浜大津の信楽寺へ
墓碑は「贈正四位(ぞうしょうしい)阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている大きな墓石である。『*贈正四位阪とは死後に贈られた正四位の位。
明治時代以降は、幕末の尊皇攘夷や明治維新において亡くなった功労者であった。』
ひっそりと、孤立無援のお龍には亡くなった時には墓らしいものもなかった。
「松兵衛」の知友「鈴木清治郎」と戊辰で東山道軍総督府大軍監、維新後宮内省の宮内官僚となった「香川 敬三」らの尽力によって、大正3年(1914)に立派な墓が建立された。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、衝動的に買い求め、お龍に贈ったのが清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」であった。
二人の木像、供併せ「月琴」(作り物)を拝見し、信楽寺を後にした。
横須賀の山深い信楽寺にこの雨の中、訪れ人も、我々以外に誰もおらず、お龍旅の最後を飾る、お寺であった。
この後、「龍馬」も警備陣に加わった、立会川の土佐藩浜川砲台跡へ向かう予定をしたが、雨中行軍で余力も失せ、多摩郡へ帰路についた。
本日は台風の余波で終日、凄い雨であった。こんな天気であったら、とても史跡巡りどころで無かったのが、せめてもの慰めであった。   

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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ

横須賀大津の商店街

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草木が芽吹く時期を迎え、街中を歩くの良いのかなと「お龍の旅」を企画した。
しかし3.11の大地震により、予想も付かなかった足回りの混乱から旅、どころでは無く、中止になった。
そんな制限が解消され、改めて再チャレンジする。

今度の週末は台風の影響で雨模様であるが、2011ー5ー28、決行する。

□お龍の後半生を振り返ると
「龍馬」が凶刃に倒れる迄の僅か1年10カ月の「龍馬」との生活。未亡人となった後、下関、土佐、京都と転々するが、坂本家とも折り合いが悪く、新天地を求めて、東京に出て横須賀に暮らす。
横須賀で寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが「西村松兵衛」と再婚し30年近く暮らすが、凋落しひっそりと66歳で亡くなる。
「龍馬」の遺志は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
その華々しい戦果を見届け、お龍は天国の竜馬の元に走り報告に向かう。

折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となった。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方
につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
贈正4位のお龍の立派な墓が建立される。

□そんな背景から横浜、横須賀の縁の地を追ってみる。
仲居時代の横浜の田中屋。晩年暮らした横須賀。バルチック艦隊を破った三笠。静かに眠る大津信楽寺。

<ちょっと欲張って>

龍馬が剣術修行で江戸に来たときに、ペリー来航で、動員された品川の浜川砲台跡

などなど、たっぷりと彼らの跡を辿ってみたい。

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海運史を飾る浦賀

Image1       <浦賀の燈明堂の浜付近で船舶を見る>

ドラマの進捗が2回目のペリー来航に併せ、「龍馬」が再び土佐藩の下屋敷の警護のために動員される。
日本中に夷人(外国人)をしりぞける攘夷活動が活発になる中、桂小五郎は「龍馬」を呼び出し、「吉田松陰」を探しに出る。
ストリーは「龍馬」と「松陰」の出会いが生れるが、果たして出会えたのだろうか?
「龍馬」が生涯を通じて大変大きな出来事として、姉の乙女さんに宛てた手紙の中にあると思う筈であるが、判然としてない。
まあ、それはともかくとして、人一倍、好奇心旺盛な「松陰」や「佐久間象山」が最初に見た黒船が大きく心揺るがし、純粋で一縷な気持ちを、海の向こうの世界に駆り立てられたのであろう。
最初の黒船来航時は浦賀の割烹旅館「徳田屋」へ江戸を始め各地から駆けつけた見物客で、ごった返し満室となり廊下にまで溢れたと言われているが、神田お玉ケ池の「象山書院」から駆けつけた早耳の「象山」が一番乗りだったようである。
後から駆けつけた「松陰」も「徳田屋」で合流し、「象山」らと膝を交えて、未だ見ぬ黒船を前に、未知の文明世界に耳を傾け語りあったのであろう。
浦賀港は深い入江にあり、それを挟んで東西の浦賀町があるが、それを結ぶ小さな渡し船 「横須賀市道2073号線」がある。
その船着場近くに、「徳田屋」があった。幕末から明治、大正まで在ったが、関東大震災で潰れてしまい、徳田屋跡碑だけが、当時の姿を僅かに語り継いでいる。前述の「松陰」や「象山」も此処を利用したが、桂小五郎などなど武士や文人などが必ず訪れた由緒ある旅館である。

その入江の先が平根山でトンネルを通じて海岸沿いに燈明堂の浜に出ると、外海に出る。天気がよければ向かい側の房総半島が確かめられる。その沿岸部に数隻の黒船が現れ、砲声を轟かせ、「松陰」や「象山」も身体を震わせながら、目の前の姿と音に衝撃的な対面をする。

04290056>       <大勢の幕末の志士達で賑わう咸臨丸祭り>

浦賀にはせんさく好きで、最初に黒船に乗り込んだ男として「中島三郎助」がいる。根掘り葉掘り聞きまくり、アメリカ人には煙ったかれたが、その旺盛な探究心から日本で最初の洋式帆船「鳳凰丸」が生れ、建造の主任技師として活躍した。
「三郎助」は「勝海舟」・「榎本武揚等」と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。
「三郎助」は幕臣として意志を貫き戊辰戦争で旧幕府軍として参加、函館で子供達と三人一緒に戦死しており、浦賀港を見渡せる東林寺に眠る。

華やいだデビューを飾った、最初に太平洋を横断した咸臨丸はこの浦賀から出航している。この咸臨丸の渡航を前に「勝海舟」は此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る「叶神社」に航海の安全祈願をしたその碑が建っている。

幕末の海運史はまさに浦賀から起きており、沢山の人物が此処で関わっている。浦賀ドックを含めた街ぐるみ、海運の歴史にたっぷり浸る事が出来る、大好きな街である。

そんな姿を三浦紀行で纏めてみた 。

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幕末海軍史を飾る三浦半島

Img_21471 三浦半島は日本の海軍の街として、幕末史を飾る船や人物が登場し、半島全体がワクワクするような大好きな場所である。整理すると以下に代表される。
1)ペリー来航
日本を震撼させた黒船来航 「ペリー上陸記念碑」の建つ久里浜港。
好奇心旺盛な象山、松陰が黒船見学で宿泊した「徳田屋跡」
2)中島三郎助
勝海舟、榎本武揚らと共に、長崎の海軍伝習所で、海軍士官として身につけ、江戸の海軍操練所教授方として後身の指導した中島三郎助。
その三郎助親子は戊辰戦争で函館で戦死する。その墓は「東林寺」遺品は「浦賀文化センタ」にある。地元で慕われ、浦賀の有志で建てられた「中島三郎助招魂碑」のある「愛宕山公園」
3)咸臨丸
最新式蒸気船で華々しくデビュウした咸臨丸は太平洋横断へ、その出航を記念した碑のある「愛宕山公園」
決死の覚悟の太平洋横断に安全祈願を唱え勝海舟が断食をした「東東叶神社」
榎本武揚とともに、咸臨丸副長の職で函館へ向かったが、台風に遭い、清水港で遭難し官軍に惨殺された一人の春山弁蔵の墓がある「顕正寺」
その咸臨丸も末期は忘れ去られるように函館港外で座礁全壊してしまう。
4)海軍の遺構
明治初期水兵養成の「屯営跡」や明治時代の歴史を誇る乾式ドックとして残される「浦賀ドック」などなど
その半島の根っこに位置する横須賀に足を運び、軍艦奉行小栗上野介の残した横須賀製鉄所とその遺志から生まれた海軍基地の姿を見てきた。写真はヴェルニー公園にある小栗の胸像である。
その小栗も大政奉還後の江戸開城の折に抗戦を唱えた一人あったが、職を奪われ斬首される。
その小栗の遺志が近年評価され、小栗ご子孫が作った「オグリン」のイメージキャラクターが生まれるなど横須賀では大事な人物として慕われている。
その姿を捉えてきた。お勧めしたい場所の一つである。
小栗上野介

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