カテゴリー「16、徳川家」の記事

深山の名勝を伝える「小石川後楽園」にゆく

小石川後楽園に散策がてら行ってみた。
後楽園と言うと、読売巨人のドーム型球場、ジェットコースター、ショッピング モールがある都市型エンターテインメント複合施設が浸透してしまうが、その隣接地帯に、水戸徳川家の手を尽くした深山幽谷の世界が残されている。
JR中央線沿うように流れる神田川を水道橋駅から渡れば目の前が歓楽地帯にあり、人並みの絶えない、雑踏でごった返す都会のど真ん中にある。
しかし、一連の後楽園のネーミングに押し流され、ここ小石川後楽園が後楽園の誕生の原点なのである。
今日に至って後楽園に敢えて小石川の冠をつけているのは識別するための呼称のようで、ここが後楽園の歴史の原点をであることを、余り知られていない。その広報活動を含めガイドさんは拘りをもって冠をつけず「後楽園」の呼称で通している。

慶長5年(1600)9月関ヶ原で勝利で家康は天下取りは一段落。ほっとしたのか、間もなく9男、10男、11男と子宝に恵まれた。それぞれ、尾張、紀州、水戸の御三家と言われる家康を継ぐ始祖が誕生している。その11男「頼房」水戸家の始祖なのである。
36万石の小藩主ながら負担となる参勤交代を唯一免ぜられる水戸藩誇りとなった「江戸定府」となっており、水戸徳川屋敷が誕生する。
初代「頼房」と二代「光圀」が継承し長い歳月をかけて寛永6年(1629)小石川(現後楽園)に9万9千坪の広大な上屋敷が回遊式庭園として築造される。

<水戸光圀>
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誉れ高い明の徴士、朱舜水は没落する、明から亡命する。光圀は人柄と秀でた学問に師として迎え、亡くなるまで礼を尽く厚遇している。
光圀は後楽園の造園にあたり、身近にいる朱舜水の意見を取り入れ、後楽園と命名され中国趣味豊かな庭園が誕生する。
その中国趣味として代表的な事例は、「円月橋」、「西湖堤」などで、具体化され、朱舜水の思いが残されている。
日本における各地の大名庭園作りに少なからず影響していると言われている。

<朱舜水>

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後楽とは遺臣「朱舜水」から名付けられ士は当(まさ)に天下の憂いに先じて憂い、すなわち 天下の楽しみに後れて楽しむ べしと言うことで「先憂後楽」は水戸藩の藩風になっている
中国明の遺臣「朱舜水」の書「後楽園」という扁額を入り口に掲げたと言われている。

園内は池を囲むように散策路があり、出入り口を起点に反時計方向に周回する。、熱を帯びた ガイドさんの案内に凡そ2時間、水戸徳川家の遺構を背景にタイムスリップ出来た。その代表点を紹介する

◇渡月橋(とげつきょう)

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京都の嵐山は平安時代の貴族の別荘地で観月の名所と言われている。それに類したものを後楽園でも作り たいと亀山天皇が仲秋の名月として月が橋の上を刻々と渡る風情を確かめられることから月橋(げっきょう)と言われている。
 流れる川は京の嵐山の下に流れる大堰(い)川で、現在の名称は桂川で統一されている。
 川と大小の石の配置、わずか10mほどの土橋の真ん中に立ち止まってみると、嵐山の風景を映している。

◇西湖の堤

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中国の杭州(現在の浙江省)の西湖の堤に見立てたものである。西湖の堤は中国の名勝地で現在世界遺産になっている。
 堤は道の両側に湖が広がる歩道である。現物はまるで西湖の上を散歩しているかのように錯覚してしまうと言われ、その神秘的な美しさは見る者を圧倒しする。
 美しい湖畔は季節や時間によって表情を変え、多くの人々を魅了している。

◇通天橋

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堰川にかかる橋である。紅葉の名所、京都東福寺の通天橋を模して造られたようである。
鬱蒼たる自然の中色鮮やかな朱色が、目立ち存在感を表している。
回遊路の頂部にあった観音堂から、今度は階段を一気に駆け降りと行きたい所だが、不安定な石段に、一歩 一歩確かめながら降りてゆく。ここは春が桜、夏は新緑、秋はもみじ、冬は落葉樹で四季折々の風情が確か められるが,皆足元に集中し、周りを見る余裕もない。
 紅葉の季節にはまた変わった風情が確かめられる絵になる場所である。先ほどの危険な急階段から、緩や か勾配の橋上で渓谷の風情を眺め、小休止出来る。
◇小廬山の山頂から

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山岳路から離れ、ぽっかり空間に晒され、小道を行くと小廬山の展望台に出る。
ここ小廬山は中国の景勝地から生まれ林廬山名前をつけた。
足元もおかめざさを超えて、園内の素晴らしい眺望が確かめられ、その風情に吸い込まれ、離れがたい場所である。鮮やかに刈り込まれた表面が、狂いなく、細部まで徹底した手入れに職人の心行きを感じる。
その背後は高層のビル群に取り込まれている様子が伺われる。その左側がお碗を被せたような ドームが控える。 時々、あがる歓声は遮るものなく、直に園内に響き渡る。その姿は見えないがジェットコースターの急降下での悲鳴だけが、あたりの静寂な空気を破り、伝わってくる。


◇円月橋

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この橋は石を組み合わせ、石と石が横にぶつかり合う力を利用しており、上からのひずみに強い。
側面のタイルの石積みも拘りを持って、デザインされている。 朱舜水の設計指導で製作 橋が水面に写る形が満月と言われでいるが、舜水の豊かな発想が生かされ、水面に輝いている。


◇藤田東湖の碑

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園内の西北端に藤田東湖の碑がある
幕末時、水戸藩は抗争の嵐の中、西郷隆盛・、吉田松陰など全国の尊皇志士に大きな影響を与えた藤田東湖は水戸学藤田派の後継として才を発揮し、水戸学の地位を確立する。
徳川斉昭に絶大な信用から藩政を支えたが、 尊皇攘夷の運動は水戸藩から始まり、桜田門外の変、東禅寺焼き討ち、坂下門など皆、水戸が出てくる。
その指導者は斉昭で、具体的な推進者は藤田東湖らの側近であった。
斉昭を支えるのは下級武士が殆どであり、中には農民出身も含まれ、 成り上がり者が権力を握り鼻を高くしたから天狗になったと言われている。
 藩の内政を重点に家柄の高い保守門閥派と、この天狗党との間に抗争が展開されていく。
 安政2年(1855)に発生した安政の大地震の際、母親を守ったが自身は力尽き下敷きとなって圧死する。


◇大泉水

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この庭園の中心的景観が大泉水と言われている。水面に浮かぶのは蓬莱島で中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、東方のはるか彼方の海上にあったと言われいる。そこには、神仙人が住んでおり、今も幸福な生活を送っている理想郷だとの説く思想である。
 蓬莱島の先端に築造した庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」や弁財天を祀った祠がある。


◇双葉葵で最後を飾る

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後楽園の園内周回、コースの最後を飾るにふさわしい葵の御紋に迎えられ後楽園の周回は終わった。加工された装飾品でなく、独特の模様をあしらった生の葉っぱは実に鮮やかに輝いていた。

詳細は記事はこちらでも、紹介されています。ご覧ください。
「深山の名勝を伝える小石川後楽園」

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上野「寛永寺」、特別参拝

             <寛永寺根本中堂>Image61111 天彰院篤姫は薩摩藩の島津家から将軍世継ぎに、徳川家へ嫁ぎ、遥々江戸城にやってきた。幕府の力は失い華やかな大奥の世界から追われ、幕末騒乱から維新を生き抜いた天彰院篤姫の生涯は2008年の大河ドラマで紹介され、篤姫人気に沸いた。

そんなドラマも既に6年たってしまったが、その篤姫達が眠る霊廟は遥か遠い世界で、関係者以外は立ち入ることの出来ない世界であったが、特別参拝の機会に巡り合わせ、内部に入ることが出来た。
羯諦羯諦(ぎゃ~てい、ぎや~てい)。波羅羯諦(はらぎゃ~てい)。ドンドンと打ち鳴らす太鼓に合わせ~般若心経を住職に併せて輪唱し、御本尊にご挨拶。60人近くの参拝者、本堂内に響きわたる太鼓とお経の世界に自然と高揚感が高まり、娑婆の世界から神聖な浄土の世界へ、入っていく。

□寛永寺
戦国末期、家康は関が原の戦いや大阪の陣の戦いで天下の統一が図られ、江戸を幕府の中心とした。知遇であった喜多院にいる天海大僧正を呼び寄せ、東の比叡山、即ち東叡山を建てた。天海大僧正は108歳まで長生きされたと言われ、、初代徳川家康公、秀忠公、家光公と三代に亙って 深い帰依を受け、幕府の精神的な支えとして活躍している。

江戸城から見て上野に台地がある事を着目し、皇居から見て鬼門の位置である北東であり、皇居の守る位置にある。
寛永寺根本中堂とは仏さんが居り、お寺の中心となるの本堂に相当するところ、何度か火災を受け、上野戦争で消失している。

□増上寺との関係
徳川家康の出である松平家は三河の国で浄土宗の門徒で、江戸に入った時に増上寺の檀家になった。天海大僧正の出会いから、家康が天台宗に宗派を変えかったが、先祖代々のものは変えられず、菩提寺は増上寺のまま、寛永寺は徳川家の祈願寺としたが、後に菩提寺になった。
家康の意向から葬儀は寛永寺で行い、遺体は日光東照宮で眠る方法を取られ、数代続いたが、代々の徳川家の葬儀、埋葬場所は寛永寺か増上寺か、その当時の遺言などの置かれた状況で変っている。
従って、数カ所の墓地が歴代徳川家によって変わる、判りづらいことになっている。

□慶喜公蟄居場所
寛永寺の中の大慈院と言って寛永寺の中にある一室で慶喜が蟄居していた。改築により多少狭くなった10畳と8畳の二間で少し狭くなっている。
戊辰役で多くの兵を残し、大坂城を脱出、開陽丸で品川沖に投錨、浜御殿で蒼白な慶喜一行を勝海舟は出迎えた。慶喜は容保、定敬を藩邸に送り、慌ただしく江戸城へ向かった。「上様にはひたすら恭順の意を表すため、上野寛永寺大慈院にお入りなさされませ」
大坂城から海路江戸へ逃げ帰った慶喜は勝海舟の進言に従い、慶応4年(1868)2月12日に僅かな供回りを連れて、江戸城を後に、上野寛永寺に到着した。
死一等を許され慶喜は水戸に退去したが、彰義隊、寛永寺執当覚王院義寛は上野の山に立てこもった。5月15日西軍に攻められ上野戦争は決着がついた。この戦争で大半が焼失した。

幕府260有余年の体勢が崩れ、かっては将軍職として輝き、頂点にいた慶喜が、新政府軍に、賊軍として追い込まれ、死まで覚悟した歴史のドラマをこの一室で見る様であった。

□将軍家霊廟
柵から内側がベールに包まれた将軍家霊廟である。
五代将軍綱吉公の戒名の院号である常憲院殿の勅額門である。将軍一行が馬に乗って、取り巻きを引き連れ大集団でやってきても、この勅額門を潜れる人はごくごく限られた人だけである。この門を潜る時は時の将軍であっても、必ず下馬をして自分の足で歩いて潜ることになっている。

                        <常憲院殿の勅額門>

Image31111 四代将軍家綱公、五代将軍の綱吉公の遺言で寛永寺で葬儀、墓を希望し、特例で用意した。このことで芝の増上寺は面子が潰され、菩提寺を蔑ろにするのは良くないと言う事で六代、七代は芝の増上寺に葬られることになる。
當山には、四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十三代家定公、家定公正室の天璋院、他の霊廟がある。

江戸時代は石垣はなく門の所に兵隊が立っているが、明治以降はそれが出来ず、盗賊除けに巨大な石垣が建てられ 外部と隔離されている。
御霊廟内は砂利が敷きつめられ、それぞれの御寳塔は階段が儲けられ一段高い所にあり、石畳の花道で結ばれている。
墓は宝塔と呼び、正面に扉が見えるが持仏(じぶつ)と言って、位の高い人物は自身の肌身離さず持っている仏さん(今風に言うmy hotoke)を扉の奥に納めてある。
官位の身分で装い宝塔の真下数メートルの石室に綱吉公が正装し足の裏と足の裏を合わせて座る、くげ座りで眠っておられる。
征夷大将軍に就かれ、亡くなった時に朝廷から皆正一位や従一位なり貴族の位の官位を賜り、烏帽子をかぶって官位の装いで、くげ座りで眠っていると言われている。

門の部分は宝塔と同じく、青銅製で、2011年 東日本大震災で石で積んだ宝塔は何基か倒れたが、青銅製の門と脇にある石組の壁はびくともしなかった。青銅の門は右側に鳳凰と、左側には伝説状のきりんが、裏には鶴や亀が上は法華経から出てくる異説から波模様が描かれ、お墓にしてはおめでたい意匠が施されている。これは天台宗徒のお釈迦さんの説いた妙法蓮華経という法華経の中に、仏さんのおわす世界はこんなに素晴らしく、この門を潜った先は完全な浄土ですよと言うことらしい。

□十三代将軍家定公と天彰院の墓
家定公と寄り添うように天彰院の墓がある。倹約のため、墓は石作りで門が簡略化されている。十三代は三人の御台所を迎えたが、二人は早く早世しており、三人目天彰院であるが、35歳と若く亡くなり、実子の後継者が居なかった。十三代は柿が好きで宝塔の後ろに柿の木が植えてある。

天彰院は将軍世継ぎで遥々薩摩の島津から、抜擢され、江戸城に十三代将軍家定の正室となるが、病弱な夫家定は1年半で葬去する。折しも倒幕の嵐の中、徳川家を守るべく尽力するが、大政奉還によって江戸城明け渡しとなり、幕府の瓦解から華麗な大奥の世界から追われる。激動の幕末を生き抜いた天彰院は明治16年は千駄ヶ谷の徳川邸で中風症を発して47歳で亡くなる。

篤姫は郷里の島津家のころからびわが好きであったことから右手にビワの木が植わっている。
唯一、将軍家の霊廟内にある墓である。
幕府崩壊以降も徳川家存続に尽力し、未だ10歳の若さで徳川宗家を継ぐ、十六代徳川家達を、母親がわりに面倒を見た。
維新以降も功績を残され、その栄誉から十三代の隣に天彰院が埋葬されたのであろうと言われている。天彰院以外の家定公と天彰院の墓を前に、大奥の世界が目に浮かぶ。二人の姿を前に漸く、ドラマが閉じられた。
寛永寺の詳細はこちらでご案内しています。ご覧ください。

寛永寺特別参拝

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葵御紋を巡って

これまでの歩いた歴史旅を総ざらいして、写真ライブラリーから特に有名な意味合いを持った葵御家紋を拾い集めみた。

それぞれの場所には思い入れもあるが、特に葵紋にこだわりを持って歩いたわけではないが、整理したらこんなに膨らんでしまった。これがこつこつ刻み込まれ積み上げられた財産で、正直言って、まあ~よくぞ歩いたなあ~と言うところである。
どうであろう、最近の歴史歩きの旅ブームに後押しされ、「葵御紋歴史旅」なんぞは如何であろう。

最初は徳川家康を神として祀った神社として東照宮がある010900081

芝公園の一角にあり、元々増上寺の社殿であったが、明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。

さて、徳川家の菩提寺が芝増上寺と上野の寛永寺の二つの菩提寺があるのであろう。
徳川家康が江戸へ入府した時に増上寺の前を通りがかり、当時のご住職と面談した縁から生れたと言われている。一方寛永寺は三代将軍家光が天台宗の僧天海に帰依(仏教徒になる)、葬儀は寛永寺と言う遺言から、二つの目の菩提寺という事態になってしまった。
以来歴代将軍が交替で造営することが慣例化した。厳密には交互とは言えないが、それぞれ6人ずつ葬られている。

それでは菩提寺の芝増上寺と上野寛永寺

<芝増上寺>

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芝増上寺の御霊屋(おたまや)墓所入り口の鋳抜門、14代将軍家茂公と皇女和宮が一緒に眠っている

<上野寛永寺>

Image1 上野の寛永寺、「徳川綱吉霊廟勅額門」13代将軍家定公と天彰院 篤姫が一緒に眠っている。

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寛永寺 谷中の墓地、閉ざされた歴代将軍の中にあって、唯一開かれた墓地。簡素な神式を臨んだと言われ、15代将軍慶喜公と美香子夫人が一緒に眠っている。

季節柄、緑、花に覆われ、わくわくするような気分で、外歩きを楽しめる時期である。
将軍様の様子伺いに、大河ドラマの記憶と重ね併せ、葵門をキーワードに春の訪れを確かめ、訪ねるのも良いのではと思えるのである。

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将軍慶喜公の江戸逃亡

0330000611拙宅サイトの篤姫輿入れに半月程要し、それでも未だ未成熟と思いつつも見切り発車したが、幕末掲示板の書き込みが置いてきぼりになってしまった。
その間、大河ドラマはドンドン進み、三田薩摩藩邸が薩摩浪士の江戸市内のテロ活動に業を煮やした幕府の庄内藩が中心になり、焼き討ち事件が起きてしまう。この事件を背景に薩長連合と幕府軍との戦いの火蓋が切られる。数では圧倒的な幕府軍に対し、少数ながら近代的な兵器で固められた
薩長連合の前に幕府軍は雪崩を打つようにドンドン崩れていく。
したたかな知恵者岩倉具視は薩長軍の倒幕方に天皇の「錦の御旗」を与え官軍とし、これに歯向かうは逆賊にしてしまう。
幕府軍は体制を整えるべく大坂城に一旦引いたが、時の将軍慶喜は兵士を置いたまま、軍艦開陽で江戸へ逃げてしまう。 江戸の上陸先は浜御殿の「お上がり場」で、そのまま江戸城へ逃げ帰る。

その「お上がり場」は浜御殿で案内している。
慶喜にとって最早頼るは天璋院しかないが、天璋院は顔も見たくないと再三拒否するが、何とか面会の機会が生れる。大河ドラマでは生き恥をさらすくらいなら死を選ぶと言う慶喜を前に、天璋院は手を
付き生きるべきと告げる。・・・こんな所は如何にも男として将軍として立て、徳川家を守るべきと懇願する姿が、ドラマの筋書きであった。
しかし、実際はどうであったのであろうか、慶喜は天璋院の前に平伏して、和宮ともども朝廷への謝罪を取り図って欲しいと懇願している。
慶喜に良い感情を持たないものも、徳川存亡にかけ、天璋院や和宮は行動を起こし、慶喜の赦免と家名の存続を朝廷への働きかけを行うが、意のままにならない。
そしてかっての和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍が怒涛の勢いで江戸へ向かって進発する。

その有栖川宮熾仁親王の雄姿は有栖川宮公園に飾られている。

いよいよドラマは核心に触れ、目は話せなくなる。

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和宮の婚約者、有栖川宮

Taruhito204 写真は有栖川宮記念公園にある有栖川熾仁親王の勇ましい騎馬像である。今にも走りそうな躍動的な人馬一体の姿、荘厳の中にも華やかな明治の雰囲気がたっぷり伝わってくる。この人が皇女和宮の婚約者であったのである。
園芸・陶芸・竹細工の製作も好み、書道・歌道も歴代当主同様名人とされており、和宮の歌道指南をしたとも言われ、皇女和宮の婚約者として相応しい素養の持ち主であったとも思える。

この熾仁親王は嘉永4年(1851)、17歳の時に孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王と婚約したが、公武合体策の一環として和宮が徳川家茂と結婚することになり婚約は破棄されてしまう。
婚約破棄は一方では大きな波紋を起こし、親王はこの事もあってか、明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒となってしまう。京都に集った尊攘志士はこぞって親王を頼った。

将軍徳川家茂が病死し徳川慶喜が相続したが慶喜は、熾仁親王にとって父・幟仁親王の従弟の血縁関係であった。慶応4年(1868)、幕府軍はついに官軍に矢を向け(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発するが、このとき賊軍の首領とされたのが徳川慶喜であった。
そのため、熾仁親王は血縁者が朝敵となった事を恥じて自ら東征大総督となる事を志願し、勅許を得た。

幕軍破れ、官軍は一度の戦闘もなく、無事に江戸城に到着し江戸城無血開城となった。
その折り、東征大総督として熾仁親王は死一等を命じられた徳川慶喜の助命嘆願を恭順を条件に許すなど、没落の幕府の中で新政府のトップとして歩み続ける。

熾仁親王は徳川に縁者を持ちながら和宮との公武合体から生まれた婚約破棄は朝敵征伐にまで走らせる程、大きかった事件であった。

和宮の墓から、和宮の両脇の間に抱きしめられたガラス板の人物写真が発見された。しかし光を当て、映像は消えてしまった。その相手が徳川家茂であったか熾仁親王であったか、謎に包まれたまま、 闇の中に葬られてしまった。

有栖川宮公園に熾仁親王の馬上姿が掲載されている。

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