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京都弾丸ツアー

           <「弾丸ツアー」、実現に高幡不動、五重の塔下、屯所へ集合>Image211

◇新選組縁の京へ
京都では佐幕派の人物を天誅として暗殺するなど、尊皇攘夷派の志士浪士の乱暴狼藉はやりたい放題で幕府も手を焼いていた。

京都の浪人を制圧するため、江戸の浪人を集めその任に尽かせようと、庄内藩の郷士清川八郎の献策が取り入れられた。
文久3年(1869)2月、こうして集められた浪人は300~350人と言われ、後の新選組の母体をなす近藤勇、土方歳三達も参加した。

浪士組234人と言われる大部隊は2月8日伝通院を出立し、中山道を進み、碓氷峠や木曽の山間、渓谷を越え135里(約527キロ)を16日間かけての長旅で京に到着する。
途中で「俺の泊まり場所が無い」と街道で火をつけ暴れまくった芹沢鴨を修めるのに三拝九拝するなど、一筋縄ではなっかた旅であった。

それから約150年、彼らが約半月かかった旅は約3時間弱で、結んでくれる近代交通が実現した。開業後、大きな事故もなく、世界の最先端を誇る超高速の新幹線で遠いかの地行きも気軽に行き来できる時代を迎えた。
そんなインフラを活用し、新選組の旗揚げとなる京に残された足跡を辿る事にした。
走馬灯のように、高速で移り行く車窓に、浪士組の旅姿を思い浮かべる暇もなく、あっと言う間の乗車時間で実現出来る。

◇身の丈で可能な1泊2日
参加した浪士組は
「浪人きたり候ときは、二人扶持(一人扶持は一日米五合の支給)に金十両、幕府より、下され、候よう承る・・・。」と幕府から支給されている。
150年後、観光を目的とする旅のため、当然、幕府からの扶持もなく、関わる費用は限られた小遣いを捻出し、充当しなければならない。
時は金なり、前述の高速化を実現した新幹線代が旅行費用に大きく重くのしかかる。稼ぐ当てもない身分で身の丈で、出来る贅沢は精々1泊2日の早出、遅着の称して「弾丸ツアー」なのである。

◇さてその行き先は
既に新選組の活動拠点となる代表的な場所は知識も浅く頼りない一人旅であったが、拠点は回り、悔いを残さず周り切れた。今回は地縁者も居り、何回も同地を訪れ土地勘を持つ、人など、心強い参加者も含め10数人の旅である。
折しもこの時期に東軍慰霊祭があり、連泊してそちらに繋げる参加者もいるが、主体はとんぼ返りである。学習院への攘夷決行の建白から、新選組と袂を分け東下した清川八郎組と同様で京を後にする。

一日目はこんな所)
「彦根城」
折しも大河ドラマ軍神黒田勘兵衛の戦国ロマンに寄せて「彦根城」を眺めるのも一計であろう。
「草津本陣」
本陣に携わる身分として、本陣建屋は気になる所。中山道と甲州街道の合流点で和宮の旅跡を残す下諏訪宿を見学したのは3年前であった。一連の本陣巡りに外せないのが、中山道と東海道の合流点である「草津本陣」であった。

同じ江戸巡りにここを分岐し和宮は中山道、篤姫は東海道を通り江戸城へ目指した。規模の大きい行列に、残された遺稿の姿を体が動くうちに確かめたい。

        <どうしても見たかった会津藩屯所金戒光明寺>

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二日目は新選組)
金戒光明寺ー壬生寺ー八木邸ー光縁寺ー島原・輪違屋・角屋など選ばれた。新選組の生い立ちから始まる活字では伝わらない生の舞台を確かめられればと代表的な一部であった。
道中、歳相応に歩きも不自由な参加者もあり、ジャンボタクシーに身を委ねる。

◇夢をかけ具体化
少数とはいえ、京の都へのグループ旅行。果たしてどんな史跡の巡り合わせが、生まれるか、夢膨らませながら、新選組縁の高幡不動の境内で打ち合わせを行った。
こうして知恵を絞り、生まれたのが上述の称して「弾丸コース」である。関わる時間設定と費用を積み上げ骨子は何とかまとまる。
集約後、「殉節両雄の碑」「歳三像」を前に京行きを告げ、旅の安寧祈願を祈った。
酷暑は避け、10月に実施する。

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小布施の「高井鴻山」

おお~又来なさったか」と高井鴻山の使いの者が優しく、迎い入れてくれるようであった。
10年近くになるであろうか、立山のアルペンコースに行った時、途中で立ち寄ったのが此処松代の高井鴻山邸であった。

真っ白な壁の蔵屋敷とからくりで仕込まれた書斎の「ゆう然楼」は記憶に留まり、そのまま残されてあった。今回企画された信州のバスツアーは殆どが戦国であったが、幕末関連の一つがここであった。

Takai211高井家は酒造業で冨を築き上げ鴻山の祖父で、天明の飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当て、それが幕府に認められて、「高井家」の名字帯刀を許可される。

商売は、信州を手始めに、江戸、京阪北陸、瀬戸内まで商圏を広げていた。生まれた時には、三人の兄が死去し、後継ぎとして期待されたのが鴻山であった。
15歳の時に京都へ遊学し、国学、蘭学、漢学などを広く学び、その後江戸に出て詩文や書、絵画など芸術にも優れた才能を発揮した。
天保11年(1840)父 熊太郎が病死し、鴻山が12代目当主となるが、経営は不得意で、弟に任せていた。小布施に戻った後の鴻山の元には北斎をはじめ、多くの文人達が訪れている。

鴻山は京都・江戸へ遊学をした際に、知己を広めたが、松代の真田家の家臣であった佐久間象山との交流があり、鴻山も攘夷論や朝廷の権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化公武合体論を説いた。さらに蘭学も研鑽した。

その、象山は、西洋の近代化文明を導入唱え、江戸で砲術や軍学を指南した。
教った諸藩士には勝海舟や会津藩山本覚馬、坂本龍馬、吉田松陰など時代を代表する、逸材が育っている。
象山は松陰の米国密航を企てに連座して、幕府命で松代へ護送蟄居する。文久2年1862)蟄居を解かれ、象山に教えを乞うた人物も、多数おり、象山との繋がりから小布施の鴻山宅にも訪れている。

「ゆう然亭」は鴻山が、中国明時代の文人陳文燭の書斎「ゆう然亭」にあやかって名付けた鴻山の書斎兼サロン。
もともと鴻山の祖父が寛政年間(1789-1800)に隠宅として建てた二階建の京風建築でからくり造りになっている。
鴻山を訪ねて来る幕末の志士や文人墨客がここで語りあったという。「ゆう然楼」の額は鴻山直筆である。
その鴻山が相手した人物の中でも佐久間象山、久坂玄瑞、藤本鉄石等は苛烈な運命を辿っている。
外国排除を訴える尊皇攘夷派が渦巻く京都で象山は京都で暗殺される。
長州の尊皇攘夷の先頭をきった久坂玄瑞は幕府軍に対し、禁門の変の敗北で自刃する。
藤本鉄石は孝明天皇の大和行幸の詔を奉じて兵を挙げた天誅組の幹部として、十津川で兵を集めるが、七卿落ちの政変で幕府軍に攻められて戦死する。特に、象山・鉄石は書画に造詣の深い人であったから、鴻山の心を深く傷つけたことと思われる。

          <身を潜める為の、カラクリが生生しく、緊張感が伝わる>Img_48141
「ゆう然亭」は表向きは鴻山の書斎やサロンではあるが、一方では攘夷家のアジトのような緊迫した場所である
幕府の急襲時に脱出することのできる「抜け穴」等のからくりが巧みに備えられている。
抜け穴は本宅や表の座敷に通じ、いざと言う時に逃げる ことができた。因みに昭和34年までは本宅への穴は残っていたようである。
抜け穴や、隠れ部屋の存在は、幕府が鴻山監視に隠密を差し向けていたかもしれず、そんな危険性も承知の上で、志士を迎い入れた肝の座った鴻山の豪胆さが伺える。

「鴻山愛用の火鉢」

    <この火鉢に幕末を賑わした多くの、人物が暖を取っている>

Img_4810111そもそも当庵のゆう然とは物事にとらわれず、思いのままに進退すると言う意味がある。
家人を遠ざけ、小さな火鉢を囲み、先進文明国をも視野に入れ、長いスパンで日本の歩むべき姿を熱く、語り合った。
六尺離れた位置から、議論が熟すると、相寄り火鉢を押しつ押されつして、畳が擦り切れる程だったと言われる。
年季の入った火鉢に鴻山、佐久間象山、藤本鉄石、久坂玄端もこの縁に触れ語った。ズリズリと引きずってみたが、その重みと黒ずんだ輝きは時代の流れを何時までも伝えている様であった。
詳細は
高井鴻山記念館で紹介してます。

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玉電沿線の歴史を歩く

              <豪徳寺>Img_4035111井伊直弼は性格の強さに加え、ブレーンがなく、「徳川のために俺が頑張らなければ崩壊する」という危機意識から"安政の大獄"が起きる。
その"安政の大獄"の執行側の中心人物である井伊直弼と死罪となったその犠牲者の代表人物の一人、吉田松陰の二人が玉電(現東急世田谷線)沿線に隣り合わせで眠っているのも、大変奇遇の巡り合わせである。
松陰は伝馬町の獄舎で処刑されたが、一方の直弼も恨みを買い、桜田門外で襲撃され、首を撥ねられる。
折しも桜前線が東下し、ほぼ満開に近い時期に華やかな桜に包まれ幕末、玉電ツアーを実施した。

□豪徳寺
豪徳寺駅で集合し、直弼の墓とその背後に桜田殉難八士の碑のある豪徳寺へ向かう。墓域の一画が塀に仕切られ、代々の井伊家の墓が居並び、地図で案内されている。
◇桜田門外の変
直弼が襲撃された桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日であるが、新暦であると、3月24日であるが、今回の旅巡りはその前日の23日であった。
当日は大雪であったことが、記録され、決行を遂行する襲撃側にとっては格好の雪降りでもあった。
すべての刀につか袋を被せ、かぶり笠に赤合羽で身を固めた揃いの装束姿の5、60人厳重な雪支度をし、井伊家の門を出た行列が桜田門へ向かう。
予め周到な計画をしていた18人の襲撃組が左右から行列を襲った。
突如の襲撃に、行列側はつか袋の紐を解かない限り、刀は抜ず、おまけに吹雪のために視界が悪く、行列の後方からは先頭の様子が判らなかった。井伊家の供頭、供目付の二人が倒され、浪士達が一斉に駕籠に殺到し、直弼の首が落とされ、その間の闘争は僅か15分程であったと言われている。
駕籠の右脇には井伊家きっての刀の使い手、供目付「川西忠佐衛門」は、襲撃側の二人を斬り、額を割ったが、別の一人に倒され、桜田殉難八士の碑に名前が載っている。
◇何故テロのターゲットに
14代将軍の世継ぎに、 一橋慶喜を擁立する水戸斎昭らと激しく対立し、直弼は大老の職権のもとで紀伊慶福(後の家茂)を将軍の継嗣としてしまう。
更に独断で外国との修好通商条約を結ぶ。これに対し「直弼専横」と非難が渦巻き、志士の運動を煽り、京都を中心に一斉に反幕府運動が起きる。これに対して力で弾圧したのが「安政の大獄」であった。

              <境内の吉田松陰像>

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□松陰神社
吉田松陰始め尊皇攘夷運動で「安政の大獄」で消えていった 頼三樹三郎他の獅子達の墓や、萩の実物を模した松下村塾があるのが、松陰神社である。直ぐ近くにこじんまりとした松陰神社駅がローカル線の独特な趣の一画にある。

◇吉田松陰
嘉永3年(1850)藩の許可を得て、九州から東北に全国に遊学するが途中で藩の許可を取らず、遊歴の罪で士籍を削られる。
佐久間象山など、多くの知友、指導者との出会いが生まれ、松陰に大きな影響を与えた。
ペリー来航に出会い、その武力に驚き、文明世界を見ておきたいと、海外密航の企てを大胆にも実行するが、悉く失敗する。
直弼の元、老中間部詮勝が朝廷・志士の弾圧を狙った人物として、暗殺計画を藩主に上申するが、収監され、処刑される。萩で蟄居後、松下村塾で家学を通じて松陰の意志が伝えられ久坂玄端、高杉晋作、木戸孝則、伊藤博文など、後の逸材を輩出している。
萩の実物を模した鄙びた建物が、往事の姿をたっぷり伝えてくれる。

             <世田谷代官屋敷>

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□沿線に伝える幕末
彦根藩井伊家の出先として色濃い拠点として茅葺きの世田谷代官屋敷が建物と庭がそっくり残され重要文化財として江戸時代をたっぷり伝えてくれる。
取り分け庭木に変形した見慣れぬ幹は特別な出会いであった。日野本陣にもある、100年以上の樹齢の"ざくろ"が「此処にも会った」と、ある種の感動もあった。
折しもコースを通じて、桜が満開、華やかな彩りを味わう春最前線の中、幕末史を賑わし、激しく生き、散っていった幕末の人物の足跡を訪ねてみた。

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「ならぬことは、ならぬものです」

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来年の大河ドラマは「八重の桜」
白河、会津へ行った観光地では看板、旗は「八重の桜」一色であった。
東北地方を襲った東日本地震に復興も未だ癒えぬまま、観光にも影響を及ぼしていることもあって、大河ドラマにかける期待も大きいものと思える。


「八重の桜」の新聞広報で主役の八重役に腰に帯刀し銃を手にする、勇ましい戦闘姿の綾瀬はるかが眩しく目に入る。
その広報記事のトップテーマに「ならぬことは、ならぬものです」が掲げられている。
あれ、聞き覚えた言葉と思ったが、会津藩の子弟教育の日新館に行った時に、この言葉が直ぐに浮かばれた。
「ならぬことは、・・・」こんなことから生れている

◇什(じゅう)
日新館に入る前の6~9歳まで構成する「什」と言われるとなる独特の組織がある。侍の子どもたちは6歳になると、必ず町内の子どもたちのグループ・什に入らなければならない。什の集まりは毎日午後からで、当番の家に集まり話と遊びが始まる。

年長が「什長」となり自分達が決めた規則である八条からなる什の掟を、全員正座の上、「什長」から聞く。
自治的な方法であるが、「ならぬことはならぬものです」と最後の一行だけが決められのは会津らしいやり方であった。

◇違反には処罰
もし違反者がいれば罰が与えられる。軽いものは無念と言い、皆の前で「無念でありました」と言い頭を下げ、手の甲にシッペイがある。重い罪は「派切り」と言って派から除外される。

「派切り」があると「什長」の前で父兄が誤りを正したことを言って謝る。全員が総て了解された上で罪は許される。

年長者への礼儀と尊敬、同年者との友情、これを自然に身につけさせる。武士としての日新館教育の前に、自然の遊びのうちに人の道、社会人としての基本を習う。将来を背負う会津の武士になるために厳しいしつけであった。

◇什の掟
一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、うそを言う事はなりませぬ
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五、弱いものをいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

「什の掟」を見るとかなり、時代のずれも感じるが、我々日常に忘れ去られ、軽視されている大事な掟が、改めて再認識させられる。
現実を振り返ると、自殺まで追い込む学校での陰湿ないじめなど、解決の目処さえたっていない。

「ならぬことはならぬものです」
100数十年前に、「什の掟」として唱え、6~9歳の幼年期に自分達でのルールを自然に守られていた。

先人達が残した貴重な伝統文化は日本の誇るべき遺産と思えるが、そんな根がことごとく崩れさっている。
「什の掟」の道徳が自然と植えつけられる素朴な手法が玉虫色に輝いて見える。
「いじめなんてめっそうもない」なんて今頃、草葉の蔭で呟いているのでは無かろうか・・・。

一方では「ならぬことはならぬものです」一徹な八重の生き方をドラマの展開で見守りたい。

関連する 会津藩校「日新館はこちらで案内しています

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新選組を熱く語った「早乙女貢」氏

Wakamatsu207白河・会津旅では天寧寺に行ってみた。
歳三は会津で療養中に天寧寺で戒名を刻んだ近藤の墓を建立した。寺の墓域から愛宕神社に抜ける参道の途中に 建てられ、鬱蒼とした木立は函館の壁血碑の雰囲気に似ている。新政府軍にしてみれば賊軍とされ、三条河原で晒した近藤の墓など当時の置かれた状況から、墓も憚る状況であった。本堂から離れ、山の中に隠れる様にひっそりと、隠れる様に墓地があった。
その途中におや、見覚えの有る作家「早乙女貢」が此処で眠っている。お亡くなりなったのは聞いていたが此処に墓があったのは驚きであった。早乙女貢は曾祖父為親が会津藩士で、会津藩士四代目を自任し、会津の山河と城下を心の故郷と愛し続け、2008年 82歳で亡くなる。
会津松平家の現当主松平保久とも親交があると同時に会津藩への思慕の強い作家。『會津士魂』に代表される幕末作品・考察における視点は一貫して会津・新選組など幕府側に立っている。
没後、遺骨はお別れ会を経て、静岡の富士霊園の「文学者の墓」に葬られたが、その後、此処に改葬された。
熱い会津の血が流れる当人の思いが遺言によっては残され、彼を支えた「士魂の会」が墓所を建立した。

早乙女貢の作品は読んで居ないが、日野市市政35周年記念講演会で来られていることが記憶によぎった。
その熱演振りは我が家に収蔵されたVTRにあった。VTRは時代の流れで既に淘汰され、新しい媒体に変っており我が家でも殆ど見る事は無くお蔵入りであった。会津行きをきっかけに眠っていたテープを取り出し、氏の鮮烈な語り口を見る事が出来、映りだされる画像は衝撃的であった。

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写真に有る、黒髪豊かでオールバックに着物姿、飾り気は全く無く、その風貌からして幕末の志士であった。
演題には一切のメモを持たず、記憶の中から回転良く、出てくる言葉に無駄はなかった。さながら攘夷志士と向き合い、或いは薩長に真剣勝負で斬りこんで行く様であった。
早乙女氏について、藩と終始敵対した長州藩とその関係者に対しては、徹底的に辛辣かつ一切容赦のない全面的に否定的な主張に終始している、と言われている。歯に衣を着せず、ずばずば言う氏に、批判も多かったようであるが、会津の魂がそのまま引き継がれ、骨っぽい作家であった。

新選組の名前が日本中に知れ渡る池田屋事件。当時としては此れだけの凄まじい働きをしたグループは無い。
何故それが生れたかを熱く語っている。
その生れた源泉は勇や歳三には多摩地方に代々住んでいたと言う郷士の伝統がある。
多摩地方は「武蔵7党」の戦国時代からある、由緒ある血をひいている。
この辺に居る人達は先人の血を引き武士の潔さ、武士がこうあらねばならないと言う伝統が続いている。
此れがいみじくも幕府が生きるか、倒れるかと言う幕末にはっきり近藤達の働きによって如実に現れてたということである。
板東武士(関東のことを板東)の本当の血の流れ日本人が持つ正義感、武士道で如実に形で現れた。
これがたまたま会津藩と結びついたと言う事によって封建時代は終わり、武士道の成果が武士道の最後の瞬間において、花びらのように美しく舞った。
と結んでいる。
早乙女貢氏が天寧寺で近藤、土方と近くに寝ていることも判る様な感じがする。
お冥福を祈る。

当日の旅紀行は以下で紹介してます。ご覧下さい

ようこそ幕末の世界へ

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中山道の「和田宿」に和宮の降嫁を追う

                                                     <和田宿本陣>

Wadasuwa203中山道行って、大分時間を経ってしまったが、そんな旅の思い出に「和田宿」についてひも解いてみる。
何といっても和宮の行列の落とした影響が大きい
文久元年(1861)11月6日(現12月)に泊まれたので今年で丁度150年を迎える。
和宮の行列の本体は2794人記録が残っているが京都方から送って見える方が1万人、江戸から迎えに来た人が1万5千人と言われている。
普通は継ぎ立てと称して宿間で荷物程度であったが、この人が特別なため、色んな警護の者が付帯するので4集団に別れた言われているが、先触れから始まり、4日間で総人数が、何と8万人の大集団が通ったと言われている。

<大火事で消滅したが>
折しも和宮が来られる年の3月に和田宿では大火事が発生し宿の殆どが、全焼してしまった。燃え尽きた宿から、急場の借り住まいも、目処の建たないのに、皇女が休まれる居住を用意することはとても出来ないと幕府に願い出た。
幕府からはまかり成らぬ、直ぐ建て直せと言う命令が下った。命令する以上、幕府も相当腰入れし、資金や、全国から調達した材料も貸し与え、職人も全国から動員され、3月に出火し、突貫工事で宿場は9月には復旧させてしまった。
何故そこまでして、やらざるを得なかったのであろうか・・・?。

<幕府の政治路線で載せられた >
皇女和宮は有栖川宮幟仁親王と婚約していたが、幕府から将軍の妻として降嫁の願いが出される。
当時、幕府は外国と開国条約を結ぶが、外交権は天皇にあり、幕府の越権行為と京都御所を背景に反対する過激志士など大きな渦となった。
日本国の主権は幕府にあり、条約締結は天皇に許可を必要とするのか、否、外交権は天皇にありと国論が割れて幕府は整合出来なかった。ここで生れたのが「公武合体」論であった。
天皇と幕府を一体化し幕藩体制をしく政治路線を強化したかった。
<無事に降嫁>
そんな背景から、和宮は婚約者が居たのに、いやいやながら天下太平のためなら、余儀なしと受け入れられた。
文久元年(1861)10月20日、桂御所を発ち中山道をたどり江戸城へ向かった。
11月5日、下諏訪へ入り、本陣に宿泊した。
16歳の和宮が読まれた、「食べごろも濡れまさにけり渡り行く、心も細き、つゆの架け橋」
木曽を通ってきて下諏訪宿で読まれた唄。下諏訪を朝7時に出発して、夕方6時に和田宿に到着したと言う記録が残っている。
火事後、生れたのが、この本陣建物がある。
住まいとして利用した「主屋」は残されたが、しかし大名や和宮が宿泊された「座敷棟」は無くなってしまった。

<現在の姿>
和宮はお迎え出来たが7年後には大政奉還で新政府に移り変わり、宿場制度も無くなる。このため収入が断たれ、大火災の復旧に関わる返済は、幕府から借金返済は無くなったが、他の松代、下諏訪からも借金だけが残ってしまった。その返済のために和宮を迎えた総檜の御殿の間は丸子と言うお寺さんに売られてしまった。
この家の通りを挟んだ向かい側が「かあちゃんち」と言われる元脇本陣の家である。

                                                  <脇本陣(かあちゃんち食堂)>

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脇本陣は二つあり緑川家と羽田家が、月の半分半分交代で仕事をしていた。羽田元総理も同地方出身で写真が掲載されてあった。
文化、文政のころ870mの宿に72軒もの旅籠があった和田宿であり、街道筋に多数の旅籠が残されるが、僅か観光に訪れる客ぐらいでひっそりとした町並みであった。

本陣の建屋に上がって、からくりやら、漬け物石をのせられた屋根、 色々面白いその姿を確かめた。

中山道を行く「和田宿」 

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済州島と司馬遼太郎

            済州島(cheju)と漢拏山

Img_29431近くて遠いと言われた隣接韓国は日本に追いつけ追い越せと、誇り高い民族性とナショナリズムが産業を初め、サッカー、野球などスポーツを含め今や広い分野で隆盛の勢いである。
韓国は現職時代、仕事で深い関わりを持ち、何度か往復しているが済州島(cheju)はその一つで元々、発電所の制御設備の仕事で何度か訪れている。
昨今の韓流ブームに、完璧に染まってしまった連れの熱い要望もあり、仕事を離れ何十年ぶりかの韓国chejuの変容振りを確かめるのも面白いと、お付き合いした。

              賑やかな旅ツアー

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◇どんな旅巡り。
'06ー4、昼間はバスに身を委ね、乗っては降りの繰り返しに、観光地を巡る、阪急交通社のツアーであった。参加者は17名で大半はお金と時間沢山持つ、「ン十年前の美少女軍団」で、おじさんは私含め、2名だけのおぞましい、ハーレムの世界であった。


◇chejuの地で、司馬遼太郎の登場
そんな中で3日間、終始天候に恵まれた中で、現地旅行社の、時々理解出来なかったが、まあ流暢な日本語を駆使した献身的な女性ガイド、文(moon)さんにお世話になった。
韓国と関わりを持ち、多数の出会いがあったが、文の姓は少ない部類と思うが、chejuに生れ、育った生粋のcheju人であることが後で判った。
moonさんのchejuにかける思いが、広い知識に繋がって、観光地、食事所、お土産屋とcheju島内の東西南北を楽しく駆けめぐった。
そのmoonさんの口から何と、司馬遼太郎の「眈羅(たんら)紀行」の紹介があった。日本に隣接しているとはいえ、異国の地でmoonさんが淡々と語る、中に突然の司馬作品の登場に驚いた。全国を歩く「街道をゆく」シリーズは何冊か読んでいるが、「眈羅紀行」は見落としていた。
改めて司馬作品の浸透力は国内ばかりかchejuにまで及んでいることに司馬の凄さを思い知らされた。蛇足ながら、帰国後早速その本を買い求め、旅の記憶と重ねてみた。(笑い)

◇3日間cheju島をまさに駆けめぐった。
島の歴史を物語る様に火山活動が原点であり、内陸部の噴火口や溶岩道や海岸線の奇岩絶壁など世界的にも例が少なく、それが島のあちこちに国の指定文化財として大変多く残され、地球誕生を思わせる幻想的な夢の世界であった。
この火山活動に連動して生れた神話は三姓穴の形で、祀られ、語り継がれ、その聖地を訪れchejuの誕生の原点を知る事が出来た。
史跡探訪とも併せ、韓流ドラマ、チャングムや・オールインの撮影現場を周り、思い出のシーンに皆さん、うっとりしていた。
3日間の旅、食事に一緒に箸を突っ付き会い、和気あいあいの中、韓流通のおばさん達の話に耳を傾け、韓国文化一色に塗り潰された世界は居心地が良かった旅であった。

                神聖な「三姓穴」

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□三姓穴の話
紀元前2337年、漢拏山の北の麓の三姓穴から3人の神様が生れ、それぞれ高乙那(コウルナ) 良乙那(ヤンウルナ)  夫乙那(ブウルナ)と言い祀られている「眈羅王国」の開国の神話が此処三姓穴から生れている。
「眈羅」と言う独立国家は12世紀まであったが、百済から新羅の勢力下に置かれ、その名は眈津(たんしん)とも変称させられたが、高麗朝末期の1291年、現在のcheju(済州)の名称に改称させられた。
今でも島全体の人口の30%は高さん良さん夫さんと言われ、 これら三姓が島出身で、今回の案内人もその一人である。
3神人は土から生れ、狩猟で生活していたが、東の海から大きな舟がやって来て、3人の気品のある美しいお姫さまが五つの穀物の種と五つの動物を連れてきた。
お姫さまは碧浪(hekiryou)国から来たと言われているが、その存在ははっきり判っていない。chejuの東と言うことから九州の島国ではないかと言われている。福岡、北九州当たりに行くと宗像神社に祀られた3人のお姫様がchejuに来たのではと言う話もあるが、4300年も前の昔話である。
三姓穴に行ったが、神の誕生地は遠方から眺めに留まった。近くに上から見た写真が展示されてある。
不思議なのは此処は雨が幾ら降っても溜まらず、雪が降って、廻りが積っても此処だけは積もらない。近代科学のメスは入らず、今日まで一度も測量していない、謎の深い穴である。

◇司馬遼太郎が何故、眈羅にその思いを馳せたか
それは司馬の奥様が小学生の時、文順礼さんという同級性がいた。文の一家は眈羅の島から日本にきた。
文順礼さんは可愛くて勉強が出来、言葉づかいと、お行儀の良い品格の持ち主であったことが、鮮烈なイメージで残されていたようであった。その間、日本の敗戦の混乱から互いの消息を絶えた。それが大阪の市立博物館の韓国の出土物の展示会で37、8年振りの感激の再会があった。
その時に一緒にいた文順礼さんの連れ合いも眈羅の人である事が判った。その出会い含め、眈羅の人との交遊関係は深い。
司馬とのそんなご縁が、一緒に当地に赴きたいと言う気持ちが強く働き二人の眈羅人を説得しchejuに同行したようである。・・・眈羅紀行より

3日間の旅はこちらで紹介してます韓国chejuの旅 

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晩秋の大内宿へ

ちょっぴり寒くなったが、四季を通じて、今や観光の最高のシーズン。那須塩原でのんびりと温泉でもと、友人6人で出かけたが、宿泊の翌日がネイチャーツアでホテルから1時間半大内宿へバスで運んでくれた。国道289に約4.3㎞の甲子トンネルが出来、気軽に大内宿へ行けるようになった。単なる呑み助の集まりに、歴史史跡を見えるなんて予想しなかっただけにラッキイであった。

Img_1851 <大内宿全貌、宿の外れから宿全体が俯瞰出来る>

会津から下野の今市(現在の日光市今市)に至る道を会津西街道と呼ぶ。大内宿はこの会津西街道の宿場の一つであり、江戸-会津間の物流を賄う問屋場が置かれ、更に本陣・脇本陣を備え会津藩の参勤交代の宿所として利用され、一般の旅人の往来とも併せ重要な役割を担い、賑わいを見せていた。
大内宿は戊辰戦争における激戦地でもあった。戦いの場を関東から東北へ進軍する官軍に敗走する会津軍は、後からやってくる官軍の助けにならぬよう、街道沿いの集落を焼き払っていった。大内宿もまた焼かれそうになったものの、村の名士たちが会津軍と掛け合い何とか事なきを得たという。
明治17年、日光街道( いまの国道118と121号)が開通すると、日光街道は道幅も広く、関東と会津の最短距離で結ばれ、人、物の流れが新しい道路に移っていった。
大内宿は山間の僻村として徐々に淘汰され近代化の影に取り残されていった。
しかし、大内宿は日光街道から遠く隔たったところに位置し、時代の波に取り残されたことが、幸いし開発の手から守られ、奇跡的に茅葺きの家並みが残され、街ぐるみ貴重な文化遺産として、観光面から今日、光を浴びるようになり、観光客で賑わいを見せている。
今では殆ど見る事の出来ない江戸時代の宿場風景がそのままタイムスリップ出来る。

Img_1835 <大内宿本陣は燃えてしまい復元されたもの。図面、記録も無いため、別本陣を参考に造られた>

大内宿は450mほどの緩やか坂道になっている街道に沿い、村の人々は半農半宿で生計を立て40戸あまりの寄棟造りの茅葺家屋が等間隔で整然と立ち並んでいる姿はまるで、博物館のミニチュアセットを見るようである。未舗装の道といい道脇に流れる生活用水がのどかな雰囲気を作っている。

Img_1852 <正法寺>

宿場町の突き当たりの小高い山の斜面に、正法寺という寺があり、ここの墓域の一角、よく陽のあたる場所に会津藩士「笹沼金吾の墓」がある。
「笹沼金吾」は元々砲兵隊頭取として日光口を守備していた。大内峠の戦いで会津軍は敗れ退却したが、一人とどまり、西軍に立ち向かい敵兵数人を斬り伏せ、壮絶な戦死を遂げた。
遺体は村はずれに晒されたが、これを哀れんだ大内の村人が密に葬ったといわれる。
そんな墓石が戊辰戦争の傷跡が未だ残される。

今では珍しい茅葺きの屋根、たっぷり、歴史を感じ、楽しめる大内宿であった。取り囲まれる山々を越えると、すぐ向こうには会津の城が、旅人を迎えてくれるだろう。そんな東北路であった。

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流山

072900531 赤城神社大しめなわは神聖な区域にかけ渡して内外を分け、不浄をさえぎる物である。しめ縄は 長さ10m太さ1.5m、重量300kgある。見事なものである。このしめ縄は氏子衆が毎年10月行われ、1年間は人々は見守っている。流山の歴史を感じる伝統的な行事である。

所で流山は幕末期、新選組の近藤と土方が帯同した縁の場所である。近藤は再起を図るために屯集したが官軍に包囲され、単身出頭し、江戸川の矢河原の渡しで馬に乗せられ、連れさられていく、新選組縁の場所である。

近藤たちは長岡七郎兵衛方を本陣としたが、一方では官軍がこの浅間神社の裏に菊の紋付きの旗をたて陣取り、長岡本陣へ大砲を向け、双方で合戦となる。江戸方は不意をうたれて官軍に大敗してしまう。

現在はキッコーマンの工場があり、その周辺は新選組の屯集した縁の場所含め、歴史を感じる古い家屋を残し、町全体が落ち着いている。幕末の歴史散策として、色々歩き回ったが、 大好きな町の一つである。

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東京の西の外れ

Img_692111 東西に長い東京の西の外れ、五日市大久野村、へとうとう来てしまった。車がバンバン走る秋川街道を一歩脇道に入ると、一面の畑、に所々に住宅があるが、もう此処まで来ると人影が少ない、たっぷり土の匂いのするのどかな場所である。この大久野村の一角に一際大きな敷地を有す羽生家がある。屋敷の中にも大きな樹木が立ち、そこに立つ母屋も幕末以来の建物である。

此処が慶応4年、勝沼戦争で春日隊を編成し、甲陽鎮撫隊の後を追った日野宿名主佐藤彦五郎が官軍に追われ、逃げ隠れた場所である。彦五郎、のぶ、5歳のとも、それに下女と道案内に縁者含めた一行が、途中の桑の須で捕まりそうになったが、深夜未明に羽生家まで辿り着く。

今日でも自然の樹木を多く残し、此処までは官軍の手は及ばないと思われる場所であるが、小さな子供を抱えながらの此処迄の逃避行にただただ驚くばかりであった。追ってから逃れ艱難辛苦の旅にどんな辛い思いをしただろうか・・・彼らの此処迄の逃避行の軌跡を辿って、hpにアップしてみた。

3月頃撮影に約3カ月かかってようやく完成ρ(°o°)ゝはぅ~

彦五郎逃亡記

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