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<title>幕末掲示板</title>
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<description>先人が残した遺産を追い、歴史との出会いを楽しもう
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<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3289.html">
<title>熱く燃えて</title>
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<description>待ちに待った新選組まつり 昨年は3.11の列島を襲った大地震に、何処も、まつりは...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/05/14/041100041.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;041100041&quot; alt=&quot;041100041&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/05/14/041100041.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;待ちに待った新選組まつり&lt;br /&gt;昨年は3.11の列島を襲った大地震に、何処も、まつりは中止に新選組まつりも見合わせられた。&lt;br /&gt;そんな背景の中で、2年振りのまつり、天気は快晴のお出かけ日和に、街ぐるみ人の渦で大変な賑わいであった。&lt;br /&gt;本陣案内の巡り合わせに、遭遇し、かってない大量な来館者に嬉しい悲鳴をあげながらの一日であった。&lt;br /&gt;朝9時頃の開門前には既に来館者の群れに、少々早めのご案内で始まった。以降次々に押しかける来館者は5時の閉館時間まで、人の渦は切れなく、結局960名近くの大量な入館者であった。&lt;br /&gt;普段は平日は10名前後、休日で100名程度が通例で、4月の累積入場者が約1000名だったことから、ほぼ1カ月分の入場者が1日で来てしまった。&lt;br /&gt;そんな中で幕末の空気が残される建屋の中で、真剣に聞いて頂ける方達との巡り合わせに、熱い語らいは始まった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;嘉永2年(1849)の火事を背景に生れた殺傷事件から、身を守るために剣術の稽古が宿命的に生れ、天然理心流の出稽古を通じて、近藤周助と養子の近藤勇との出会いと深い絆が生れた。&lt;br /&gt;参勤交代の大名を迎い入れる為の建物の格式の世界。&lt;br /&gt;京見回りから、故郷に帰った土方歳三が気持ちよく寝てしまった五月の心地良い風が吹き抜ける玄関の間。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;倒幕の嵐の中、鳥羽伏見の戦いで破れ、急遽編成された新選組の生き残りが、甲陽鎮撫隊として、編成され甲府へ目指し、江戸を出発した。慶応４年3月、此処日野宿で休憩し、慌ただしく甲州道を西下したが、勝沼で破れ、江戸へ遁走、勇は捕縛され間もなく処刑された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戊辰戦争の終末で土方歳三の最期とそれを伝える、市村鉄之介の報告に、徳川の天領地から維新を迎え、日野も大きく変ってゆく。&lt;br /&gt;明治13年、300人以上の大集団をお迎えした明治天皇の京都行幸。&lt;br /&gt;翌14年の多摩地区の兎狩りで訪れた明治天皇と付き添いの山岡鉄舟。その出発の折に愛馬「金華山号」に跨がる明治天皇の姿は旧多摩聖跡記念館に、「金華山号」の剥製は聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)に展示の紹介。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治26年日野の火災により、上段の間は彦五郎の息子の養子先の有山家に譲られた。その有山家が佐藤泰然が創設した順天堂の五代目の堂主である。泰然の息子は松本家に養子に出され新選組とも関わりの深い幕府の侍医「松本順」であり、そんな繋がりの紹介に、驚きの反応もあった。&lt;br /&gt;高幡不動の殉節両雄の碑の書は「松本順」と説明したが、両雄の碑の存在そのものが、殆ど判らず、話が通じなかったのも、現実の姿と思えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;甲陽鎮撫隊に付いて行ってしまった佐藤彦五郎は官軍に追われる身に、愛妻「のぶ」との五日市の大久野村への逃亡など受難の維新。&lt;br /&gt;「散る雪や柳を見ても梅見ても」彦五郎が残した俳句に明治10年1月愛妻「のぶ」との別れと、残された木枕の話しなどなど幕末から維新にかけた、建物とそれにかかわる人達の足跡を駆け足で一気に、紹介した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;奥の深い、歴史建物だけに突っ込めば突っ込むほど、再現なく、繰り広げられる世界に、限られた時間の中で、どれだけ伝わっただろうか・・・。&lt;br /&gt;切れ目ない来館に大声の発声で喉も、痛く、既に限界、疲労感の中にもやり終えた一日にであった。 &lt;br /&gt;駆け足の説明に最後まで付き合って頂いた謝意に、ささやかな拍手に、微力ながら、通じたのか、嬉しかった。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>幕末日野</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-05-14T15:22:32+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-f727.html">
<title>念願の「金華山」と逢えた</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-f727.html</link>
<description>明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで、馬車で皇居を出発出発された明治天...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;明治14年(1881)2月、中央道巡幸に継いで、馬車で皇居を出発出発された明治天皇御一行は八王子、恩方方面で狩猟をなさって、日野の旧佐藤邸で小休止された後に、連行寺村へ向かったことは既に当ブログの「明治天皇行幸と山岡鉄舟」で書いている。&lt;br /&gt;明治天皇は溺愛した愛馬「金華山」を携え、幕末から維新に駆けめぐった山岡鉄舟を従者として、従え、連行寺村、周辺多摩の山野を駆けめぐった。&lt;br /&gt;四囲が住宅地で開発される中で、都立桜ヶ丘公園として、自然の森がそっくり残されている。&lt;br /&gt;天皇の狩猟天覧は、郊外の狩猟地の一つとして、ここ連行寺村が選ばれ、御前山、大岳山、雲取山など素晴らしい眺望のきく高台にある&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;天皇が愛馬「金華山」に跨がり、この眺望を楽しみ、兎狩りの一時を此処で過ごされた。&lt;br /&gt;馬を携えた明治天皇も山岡鉄舟も此処に来て、同じ姿を眺めていたのであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/23/meiten303.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;436&quot; title=&quot;Meiten303&quot; alt=&quot;Meiten303&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/04/23/meiten303.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 旧多摩聖蹟記念館の中央に飾られた明治天皇のご寵愛深く『金華山号』とそれに跨がる明治天皇の姿を拝顔する事が出来た。&lt;br /&gt;明治１３年から１６年間御料馬として公式行事使われ、名馬の誉高い馬として知られている。&lt;br /&gt;陛下の御乗馬にいつも敬礼の姿勢をとった。 万馬がいななきや突然の砲声や小銃にも驚か動かずに位置を保っているなど｢頭部美しく､怜悧沈着で外物に驚かない特質｣と評されている。&lt;br /&gt;長寿といえる２６歳で死亡し、明治天皇は大変ご悲嘆され、剥製にして主馬寮に置くよう仰せられた。この剥製は神宮外苑の聖徳記念絵画館(以下絵画館)に安置されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/23/img_689411.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;109&quot; title=&quot;Img_689411&quot; alt=&quot;Img_689411&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/04/23/img_689411.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;絵画館には何度も訪れている。長い武家政治から、維新に向かう歴史的な事実を背景に明治天皇・昭憲皇太后の主な業績が80枚の絵画で描かれている。画廊としても世界第一級の折り紙がつけられと言われ、歴史の紹介記事で何度か目にする絵の原点は此処から生れている。「大政奉還」や「江戸城開城談判」などなど生き生きとした歴史事実を今日に伝える、巨大な絵の前に思わず、吸いよせられてしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな80枚の絵のインパクトが大変強く、「金華山」の存在は拝の中では薄かった。&lt;br /&gt;しかし、色々調べるうちに、「金華山」の存在が大きくなり、どうしても、その姿を見たかった&lt;br /&gt;絵画館中央の吹き抜けのホール一角にガラスケース越しに「金華山」の現姿を見ることができた。剥製と隣には骨格がそれぞれ陳列されている。&lt;br /&gt;ああこれが「金華山か～」と剥製を前に、漸くたどり着いた、感慨も一入であった。旧多摩聖蹟記念館の銅像はやはり美術品で如何にも馬体が逞しく、美しく仕上がっているが、絵画館の物は馬脚も太く、短く、全体的にずんぐりしていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;｢クセなきは得がたかりけり　牧場より進めし駒の数はあれども｣&amp;nbsp; &lt;br /&gt;｢乗る人の心をはやく知る駒は　ものいうよりもあわれなりけり｣&amp;nbsp; &lt;br /&gt;｢久しくもわが飼う駒の老いゆくが　惜しきは人に変わらざりけり｣&amp;nbsp; &lt;br /&gt;金華山号は、体躯はさほど大きくない。栗毛の毛艶も鮮麗とは言い難く颯爽とした風姿に乏しかったが、骨格全体のバランスは良かった。｢頭部美しく､怜悧沈着で外物に驚かない特質｣と評されている。明治天皇が上記の評句がある。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>幕末日野</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-04-23T22:36:57+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1b78.html">
<title>風雨にうたれた沖田総司終焉の地</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1b78.html</link>
<description>大凡2カ月前から、四谷地区を中心に歴史旅を計画した。 所が日にちが近づいてくるに...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;大凡2カ月前から、四谷地区を中心に歴史旅を計画した。&lt;br /&gt;所が日にちが近づいてくるに従って、どうも週末の天候が怪しくなってきた。&lt;br /&gt;当日の予報は東京地方、昼前後から雨、しかも風雨とも激しくなる。&lt;br /&gt;公募もしたので、日程変更は出来ない。&lt;br /&gt;祈るようにJR中央線信濃町駅から出発。&lt;br /&gt;殆どが創価学会の建物になってしまったが、かっては17代将軍家正公(亀之助)が学んだ2000坪の学問所の紹介から始まる。外苑東通りを西側に旧寺町(左門町)に向かった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;寺町では剣豪榊原鍵吉や「鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川 宣以、通称長谷川平蔵。&lt;br /&gt;打ち首同心こと首切り浅右衛門こと山田浅右衛門などの墓参までは祈りが通じたのか、天与の神が救ってくれたのか、傘をさすほどでもなく、歴史旅も順調に済んだ。&lt;br /&gt;しかし、途中で軽く昼食を取り、外苑西通りを越え多武峰神社(内藤神社)辺りからこれ迄の穏やかな曇り空から一変し、雨風が激しく強くなった。&lt;br /&gt;さす傘も吹き飛ばされ、おちょこになったり、風の止む間を見計らって建物の軒先に退避しながら、新宿御苑の柵付近の旧渋谷川の跡を追う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;風雨も激しい中、橋の欄干やかって流れていた川跡を示す、塞がれたトンネルに渋谷川の跡を確かめる。&lt;br /&gt;この渋谷川にかっては川沿いには水車が複数あり、御苑側に黒鉛を突いた水車小屋、更に下流側の池尻橋の近くには米引き用の水車小屋があり、エコエネルギーの先駆け、として、この水流を貴重な動力源として使っていた。&lt;br /&gt;外苑西通りを渡って、池尻橋の対岸に出る。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/02/img1941.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;268&quot; height=&quot;353&quot; title=&quot;Img1941&quot; alt=&quot;Img1941&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/04/02/img1941.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; WIDTH: 268px; DISPLAY: block; HEIGHT: 353px&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;沖田総司が匿われていた植木屋平五郎の納屋はこの付近と言われている。&lt;br /&gt;付近はマンションとかって渋谷川の外壁に囲まれ、昼尚暗き、谷間にある。&lt;br /&gt;だんだん強くなる雨、沖田総司が、もうこれ以上近寄るなとの悲痛な叫びとも思えたが、全員の意志は崩れることはなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;lt;旧渋谷川跡&amp;gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/04/02/img_23941.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Img_23941&quot; alt=&quot;Img_23941&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/04/02/img_23941.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;渋谷川の先はマンションの裏手になり、柵が設けられ、鍵がかかっている。&lt;br /&gt;予め見学の主旨を手紙で伝え、許可を頂きこの雨風の中、ご出馬頂き、特別に開けて頂いた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;谷間に風は若干収まり、往事の姿を思い浮かべながら見る事が出来た。&lt;br /&gt;普段、通りから離れた場所だけに、こうした見学機会の巡り合わせに特別な想いでの見学であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戊辰戦役に倒幕に勢いを得た薩長軍に対して、幕府も崩れ、最前戦に居た新選組も西から引き揚げる。&lt;br /&gt;慶応4年(1868)1月大坂城から退去した新選組は富士山丸で品川に入港する。近藤と沖田は介護役の隊士と神田和泉橋の医学所に入り、その後、稍福寺の野戦病院に運ばれ 、松本良順の手当てを受けたと思われる。&lt;br /&gt;沖田の謎めいた史実に、終焉の地も、浅草の今戸節とここ千駄ヶ谷(明治の半ば迄は南豊島郡大字千駄ヶ谷村、現新宿区大京町)節がある。&lt;br /&gt;千駄ヶ谷の当地は雑木林に覆われた「御焔焇(えんしょう)蔵」といって幕府の火薬庫、西側には内藤駿河の守の広大な屋敷、南側は雑木林、新政府軍から探索を受けても、隠れ場所はいくらでもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな節に行政も動きだし、「総司終焉の地も碑」の建立も噂されたが、沙汰止みとなり、新宿ミュージアムの一環で案内板が建てられるようである。&lt;br /&gt;そんな長い先の話しでも無い様で、果たしてどんな物が用意されるか、改めて見届けたい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;現地の様子はこちらで紹介してます。&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/okt1.htm&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;font-size: 1.2em;&quot;&gt;沖田終息の地&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>新選組</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-04-02T22:46:17+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-7366.html">
<title>中山道の「和田宿」に和宮の降嫁を追う</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-7366.html</link>
<description>和田宿本陣 中山道行って、大分時間を経ってしまったが、そんな旅の...</description>
<content:encoded>                                                     &lt;和田宿本陣&gt;
&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/03/22/wadasuwa203.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;132&quot; title=&quot;Wadasuwa203&quot; alt=&quot;Wadasuwa203&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/03/22/wadasuwa203.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;中山道行って、大分時間を経ってしまったが、そんな旅の思い出に「和田宿」についてひも解いてみる。&lt;br /&gt;何といっても和宮の行列の落とした影響が大きい&lt;br /&gt;文久元年(1861)11月6日(現12月)に泊まれたので今年で丁度150年を迎える。&lt;br /&gt;和宮の行列の本体は2794人記録が残っているが京都方から送って見える方が1万人、江戸から迎えに来た人が1万5千人と言われている。&lt;br /&gt;普通は継ぎ立てと称して宿間で荷物程度であったが、この人が特別なため、色んな警護の者が付帯するので4集団に別れた言われているが、先触れから始まり、4日間で総人数が、何と8万人の大集団が通ったと言われている。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;&lt;p&gt;&amp;lt;大火事で消滅したが&amp;gt;&lt;br /&gt;折しも和宮が来られる年の3月に和田宿では大火事が発生し宿の殆どが、全焼してしまった。燃え尽きた宿から、急場の借り住まいも、目処の建たないのに、皇女が休まれる居住を用意することはとても出来ないと幕府に願い出た。&lt;br /&gt;幕府からはまかり成らぬ、直ぐ建て直せと言う命令が下った。命令する以上、幕府も相当腰入れし、資金や、全国から調達した材料も貸し与え、職人も全国から動員され、3月に出火し、突貫工事で宿場は9月には復旧させてしまった。&lt;br /&gt;何故そこまでして、やらざるを得なかったのであろうか・・・?。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;lt;幕府の政治路線で載せられた &amp;gt;&lt;br /&gt;皇女和宮は有栖川宮幟仁親王と婚約していたが、幕府から将軍の妻として降嫁の願いが出される。&lt;br /&gt;当時、幕府は外国と開国条約を結ぶが、外交権は天皇にあり、幕府の越権行為と京都御所を背景に反対する過激志士など大きな渦となった。&lt;br /&gt;日本国の主権は幕府にあり、条約締結は天皇に許可を必要とするのか、否、外交権は天皇にありと国論が割れて幕府は整合出来なかった。ここで生れたのが「公武合体」論であった。&lt;br /&gt;天皇と幕府を一体化し幕藩体制をしく政治路線を強化したかった。 &lt;br /&gt;&amp;lt;無事に降嫁&amp;gt;&lt;br /&gt;そんな背景から、和宮は婚約者が居たのに、いやいやながら天下太平のためなら、余儀なしと受け入れられた。&lt;br /&gt;文久元年(1861)10月20日、桂御所を発ち中山道をたどり江戸城へ向かった。&lt;br /&gt;11月5日、下諏訪へ入り、本陣に宿泊した。&lt;br /&gt;16歳の和宮が読まれた、「食べごろも濡れまさにけり渡り行く、心も細き、つゆの架け橋」&lt;br /&gt;木曽を通ってきて下諏訪宿で読まれた唄。下諏訪を朝7時に出発して、夕方6時に和田宿に到着したと言う記録が残っている。&lt;br /&gt;火事後、生れたのが、この本陣建物がある。&lt;br /&gt;住まいとして利用した「主屋」は残されたが、しかし大名や和宮が宿泊された「座敷棟」は無くなってしまった。&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;&amp;lt;現在の姿&amp;gt;&lt;br /&gt;和宮はお迎え出来たが7年後には大政奉還で新政府に移り変わり、宿場制度も無くなる。このため収入が断たれ、大火災の復旧に関わる返済は、幕府から借金返済は無くなったが、他の松代、下諏訪からも借金だけが残ってしまった。その返済のために和宮を迎えた総檜の御殿の間は丸子と言うお寺さんに売られてしまった。&lt;br /&gt;この家の通りを挟んだ向かい側が「かあちゃんち」と言われる元脇本陣の家である。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

                                                  &lt;脇本陣(かあちゃんち食堂)&gt;
&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/03/22/wadasuwa101.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;155&quot; title=&quot;Wadasuwa101&quot; alt=&quot;Wadasuwa101&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/03/22/wadasuwa101.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;脇本陣は二つあり緑川家と羽田家が、月の半分半分交代で仕事をしていた。羽田元総理も同地方出身で写真が掲載されてあった。&lt;br /&gt;文化、文政のころ870mの宿に72軒もの旅籠があった和田宿であり、街道筋に多数の旅籠が残されるが、僅か観光に訪れる客ぐらいでひっそりとした町並みであった。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;span style=&quot;color: #000000;&quot;&gt;本陣の建屋に上がって、からくりやら、漬け物石をのせられた屋根、 色々面白いその姿を確かめた。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/wadasuwa.htm&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;font-size: 1.2em;&quot;&gt;
&gt;中山道を行く「和田宿」&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;  &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>旅行・地域</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-03-22T15:19:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-5b58.html">
<title>天皇陛下の心臓手術と順天堂</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-5b58.html</link>
<description>   ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &amp;lt;佐倉の順天堂&amp;gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/02/28/jyunten01.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;299&quot; height=&quot;191&quot; title=&quot;Jyunten01&quot; alt=&quot;Jyunten01&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/02/28/jyunten01.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 天皇陛下の心臓大手術が行われ、無事に終わり術後の養生されておられることは喜ばしいことである。&lt;br /&gt;この大手術に東大と順天堂大学との合同チームと言う異例の治癒態勢であったことが報じられている。&lt;br /&gt;陛下の心臓の病気を診てきた東大が、非常に良い成績を残されている実績から、敢えて順天堂大学の天野篤教授に協力要請し、ベストの治療を目指した選択であったと、評価されている。&lt;br /&gt;天野教授は心臓を動かしたまま、血管を縫い合わせるオフポンプの手術のリーダー的存在で、これまで約5500件の心臓手術実績が裏打ちされている。&lt;br /&gt;TVでも模型を使って、天眼鏡もどきで拡大し、心臓を動かしたまま血管を針と糸で縫い合わせる微細で高度な手作業であった。&lt;br /&gt;高度医学が進んだ現代でも、経験に培われた、その手腕による「匠の技」そのものである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;順天堂と言えば佐藤 泰然（さとう たいぜん)の名前が浮かんでくる。&lt;br /&gt;泰然は天保14年（1843年）江戸から佐倉に移住した「佐倉順天堂」を開設し、現在の「順天堂」に繋がっている。&lt;br /&gt;「順天堂」は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「泰然」は、文化元年（1804年）公事師の佐藤藤佐（さとうとうすけ）を父に現在の神奈川県川崎市生まれる。&lt;br /&gt;名は信圭（のぶかど）泰然は通称である。&lt;br /&gt;蘭方医を志し、長崎に留学し、蘭学の見識を深める。&lt;br /&gt;天保9年（1838年）、江戸へ戻り、両国薬研堀に「和田塾」を開く。外科の優秀性を認められ、患者や塾に生徒が集まってくる&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇「泰然」が残したもの&lt;br /&gt;「泰然」は順天堂の塾生がオランダ語の習得と書物だけの勉強に偏ることなく、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、教育した。その結果、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。&lt;br /&gt;ウイルス感染により起こる天然痘は当時大変恐れられていた病気であったが、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ策から、安全で進歩した牛痘法を佐倉藩内にいち早く導入し、高く評価されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇多くの人材が羽ばたく&lt;br /&gt;「泰然」は実子を後継者とすることにこだわらず、医者として有能な人物は選んだ進歩的な選択は代々受け継がれ、「順天堂」の発展を支えている。実子の「良順」も松本家に養子に出し、「松本良順」として幕府の頭取になり、戊辰戦役では幕府典医として活躍し、新選組とも関わりを持っている。&lt;br /&gt;一方、優秀な弟子であった「尚中」を養子にし、「順天堂」の後継者としている。これも「泰然」の拘りが貫かれている。&lt;br /&gt;幕末期の戊辰戦役では、幕府軍、新政府軍の軍医として主要な要職をはじめ、軍の要職や外務大臣な始め、榎本武揚の妻など内外の主要ポストに繋がる系譜が生まれている。&lt;br /&gt;「泰然」の後を継ぐ、人物は養子であり、4代まで続いている。姉妹はそれぞれ各界の要職の妻として嫁がしている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「泰然」のこうした「順天堂」の発足思想である有能な人材の育成が今日まで、実践され、代々受け継がれている。&lt;br /&gt;一昨年、その 「泰然」を追い&lt;span style=&quot;color: #ff3300;font-size: 1.4em;&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/jyunten.htm&quot;&gt;佐倉順天堂&lt;/a&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;に行って見た。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>幕末</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-02-28T14:01:07+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-f295.html">
<title>「ようこそ幕末の世界へ」サイト引っ越しのご案内</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-f295.html</link>
<description>移り行く激しいネットの世界で変化が求められるのも、時代の流れなのであろうか。 幕...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;移り行く激しいネットの世界で変化が求められるのも、時代の流れなのであろうか。&lt;br /&gt;幕末の情報の場として流していた&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;「ようこそ幕末の世界へ」&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;はこれまで多くの皆さんに御贔屓にして頂き、かなりのエネルギー注ぎ運営してきた。&lt;br /&gt;そのサーバー提供会社のinfoseekから、一方的にホームページの運営は今年で停止する旨の宣言をされてしまった。&lt;br /&gt;思えば同サイトも、当時の話題の人物「ホリエモン」の運営するライブドアで幕を開けた。&lt;br /&gt;その「ホリエモン」が収監され、表舞台から消え、ライブドアもホームページの運営が中止になり、現在のinfoseekに移行を余儀なくされた。&lt;br /&gt;そのinfoseekからも、今回このような宣告に「おいおい、またかよ」と思わざるを得ないが、企業のトップポリーシに逆らう事も出来ない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「さあ、折角積み上げた情報の山をこのまま、流してしまうのも悔しい、せめて足腰の動く間、脳味噌が固まらない間は何とか続けよう。」&lt;br /&gt;色々、提供会社を模索し、niftyの&amp;quot;la coocan&amp;quot;に乗換を決定し、ようやっと引っ越しを完了した。&lt;br /&gt;10年以上の運営から積み上がった情報量はファイルの数にして4500に及び、その間、ファイルに溜まった埃など修復しながらの、作業であった。&lt;br /&gt;既に、時代から取り残されたISDNの遅い転送速度に新サーバーへのお引っ越しに3時間にも及ぶものであった。&lt;br /&gt;重い、重い引っ越し作業も何とか終わり、いよいよご来店を待つばかりにこぎ着けた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな、&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;&lt;strong&gt;引っ越し作業も終わりました&lt;/strong&gt;。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;引き続きのご来店とも併せ今後とも、御贔屓に宜しくお願いを申し上げます。&lt;br /&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;font-size: 1.2em;&quot;&gt;お気に入りに、加えていただければ、嬉しいです。&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style=&quot;color: #ff0033;&quot;&gt;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/02/18/image11111.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;169&quot; title=&quot;Image11111&quot; alt=&quot;Image11111&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/02/18/image11111.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>一般</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-02-18T07:29:25+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-ab8b.html">
<title>魁(さきがけ)塚</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-ab8b.html</link>
<description>昨年(2011)の秋、念願かなって、下諏訪の魁塚に行ってきた。 ◇凄惨な処刑が ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;昨年(2011)の秋、念願かなって、下諏訪の魁塚に行ってきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/02/06/img_1510.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Img_1510&quot; alt=&quot;Img_1510&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/02/06/img_1510.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇凄惨な処刑が&lt;br /&gt;慶応４年(1865)3月１日岩倉具視の率いる東山道総督府は下諏訪に進んだ。既に下諏訪に着いていた赤報隊は岩倉に本陣を譲り、辺鄙な桶橋(とよはし)へ下がった。&lt;br /&gt;総督府の使いから軍議があるから出頭するように命令が下り、相楽が下諏訪に到着すると、潜んだ兵士たちが突然襲いかかった。&lt;br /&gt;その数日前に本営からあらためて官軍先鋒を認める旨の墨付きが届いて居たため、彼らの意志が認められたと信じ、相楽は立ち向かおうとした部下をきつくたしなめ、率直に両刀を差し出した。&lt;br /&gt;設楽以下54人はただ一度の取り調べもなく、二昼夜、下諏訪神社の境内で並木に縛られ氷雨の中さらされた。&lt;br /&gt;3月２日、相楽以下赤報隊の幹部8名は礎田の刑場に移され、「赤報隊はご一新の時節に乗じ、官軍先鋒を偽り諸藩や農民を脅かした」と言う罪によるもので処刑を宣告され、、無言のうちに斬られていった。&lt;br /&gt;「にせ官軍」であると言う罪文をちらりと見せただけで、有無を言わせず残酷な処刑であった。&lt;br /&gt;江戸騒乱に動員され、倒幕の前線で利用され、今度はご維新のために江戸城開城のお先棒を担がされ、挙げ句の果てに処刑とはどういうことかと、怒り心頭の矛先も納めぬまま、順次処刑された。そして最後は相楽であった。&lt;br /&gt;相楽は同志の最期をじっと眺め、死の座になると皇居の方角に向かって、遙杯（ようはい）し、太刀取りに「しっかりやれ」と声をかけた。振り降ろした刀に相楽の首は三尺飛び、地に音をたてて落ちた。 &lt;br /&gt;東山道総督府は斬首8名を含む54人の処分を行った後、3月4日下諏訪を立ち、江戸へ向かった。&lt;br /&gt;諏訪湖の北岸、長野県下諏訪町の市街地の一角に、「魁塚」（さきがけづか）、または「相楽（さがら）塚」と呼ばれている場所がある。戊辰の年の慶応四年（１８６８）三月三日、「偽（にせ）官軍」という罪状で、八人が斬首された場所だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇「魁塚」&lt;br /&gt;「魁塚」は、下諏訪駅から国道20号線に出て、西側、国道から少し入った住宅街の空き地にある。当時は廻りは畑で盛り土で、高くなった部分が、現在でもそのまま残されている。&lt;br /&gt;墓碑には、上段に相楽の名があり、下段に七人の名が列記されている。&lt;br /&gt;◇「相楽総三」&lt;br /&gt;相楽は本名、小島四郎左衛門将満（まさみつ）(通称四郎)と言い、国学と兵学を教え百人の門人を数えた。&lt;br /&gt;慶応3年(1864)10月初め、四郎は江戸の薩摩藩邸に入り、以後、「相楽総三」を名乗り、西郷の倒幕計画に呼応し江戸市中の強盗・放火などテロ活動が行う。佐藤彦五郎が薩摩浪士捕縛にかかる、壺伊勢屋事件もこの騒乱の一環である。幕府は薩摩藩邸を攻撃し、薩摩藩邸炎上、相楽らは京都に逃げた。この藩邸焼き討ちが、口実となり、結果的に倒幕決戦として戊辰戦争を引き起こす。&lt;br /&gt;慶応４年1月相楽は赤報隊を名乗り、官軍の東征を助ける先鋒隊を結成し「租税半減」の旗を押し立て、京都方面から木曽街道を下った。新政府は財政が厳しい中で年貢半減を相楽達が進めると、困ること。更に本隊の東海道行きの命令を無視して東山道へ進軍してしまったこと。そんな背景から偽官軍として処分してしまった。「魁塚碑」は「相楽総三」の孫、木村亀太郎が長い苦難の末無実の罪を証明し、此処に建てられた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇境内で縛られた場所を追ってみたが&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;lt;下諏訪神社&amp;gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/02/06/img_1501.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Img_1501&quot; alt=&quot;Img_1501&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/02/06/img_1501.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; 彼らが縛られたのは色々資料から境内の一角と言われている。境内であれば何らかの目印なり、案内があるだろうと、無性にその所在を確かめたく、杉の木探しに走った。たまたま目の前に移動する巫女さんの姿に思い切って声かけたが、判らなかった。我が儘な来訪者の意向をくんで頂き、此処へ行けば、誰か判るだろうと案内されるまま彼女の後を追い、社務所に向かった。役職者とも思われる人から、その所在について「岩波家の山の上で秋宮神社の境内ではない」旨の説明であった。&lt;br /&gt;バスの旅に限られた時間に、これ以上の深追いは出来なかったが、当地へ思い描いていた場所はそれで十分であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;こちらで、詳細を紹介しています&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/sagara.htm&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;font-size: 1.2em;&quot;&gt;赤報隊「相楽総三」の軌跡&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>幕末</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-02-06T21:05:02+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/stand-alone-4be.html">
<title>Stand Aloneの心地良い、響き</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/stand-alone-4be.html</link>
<description>終日、雨の予報と今にも降りそうな気配に傘を持って本陣に出かけた。 旗を掲げても、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;終日、雨の予報と今にも降りそうな気配に傘を持って本陣に出かけた。&lt;br /&gt;旗を掲げても、雨が降れば、撤収するのも、かったるいなあと思いつつ、何時もの様に&lt;br /&gt;10本近くの旗を担ぎ、通りに面した場所に掲げ、いざ本番に備える。&lt;br /&gt;しかし、結局は降らなかったばかりか、午後から日も出てくる天気に、予報が思い切り外れていた。&lt;br /&gt;「なんてこったい、嘘つき天気予報め」&lt;br /&gt;と思ったが、その雨降りの前触れもあったが、寒さもあって、出足をくじかれ、休日にも関わらず、何時もと違い、一桁違う寂しい来館であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;100坪の館内の片隅に固まって、カーペットと電気ストーブで暖を取りながら、出番を待つ。拝は寒冷地仕様と皮下脂肪で、差程、寒さは苦にならず、まあ、我慢できる。&lt;br /&gt;こんな日に限って、天候なにするものぞと歴史、取り分け幕末にかなり造詣の深い、ヘビーユーザも多い。こんな閑散であっても、対話の中で学ぶことも多い。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そんな一時、一通り、説明が終わっても、人気のない部屋で、立ち去り難く、その雰囲気・歴史の空気を確かめている。&lt;br /&gt;静かに歳三や彦五郎の姿を追っているのであろうか、・・・。&lt;br /&gt;「どちらからお見えですか」&lt;br /&gt;「愛媛からです」&lt;br /&gt;熱心な女性フアンである。&lt;br /&gt;「愛媛? ・・・と言うと大河ドラマの&amp;quot;龍馬&amp;quot;」&lt;br /&gt;「いえ、龍馬は高知、今は&amp;quot;坂の上の上の雲&amp;quot;です」&lt;br /&gt;咄嗟の軽はずみな言葉に、丸抱えで四国の文化圏は一つとの勘違いで、思い切り外してしまった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;坂の上の雲のエンデイングで登場する印象的なシーン&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/01/24/question_ph011.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;140&quot; title=&quot;Question_ph011&quot; alt=&quot;Question_ph011&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/01/24/question_ph011.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;その坂の上の上の雲は3年に亘る放映で、惜しみつつも終わってしまった。&lt;br /&gt;朝の散歩で携帯ラジオは必携で出かける。&lt;br /&gt;たまたま聞いていたのがNHKで偶然にも、聞き覚えのある、メロデーが流れる。&lt;br /&gt;ああ忘れもしない、&amp;quot;Stand Alone&amp;quot;, であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「ちいさな光が 歩んだ道を照らす&lt;br /&gt;希望のつぼみが 遠くを見つめていた&lt;br /&gt;迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる&lt;br /&gt;凛として旅立つ 一朶の雲を目指し・・・・」♪♪・・・♪&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;街中を歩きながらも、テーマ曲に映し出される、山の尾根の先にたなびく雲の情景が浮かんでくる。&lt;br /&gt;実に響きのある素敵な唄である。&lt;br /&gt;作った作曲家も坂の上の雲を熟読した上で、練り上げられた &amp;quot;Stand Alone&amp;quot;であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;数有る司馬遼太郎作品が大河ドラマで取り上げられ、放映された。&lt;br /&gt;坂の上の上の雲も何度かエントリーされたが、司馬遼太郎は頑に断った。&lt;br /&gt;そして、故人となってから、漸く放映が実現された。&lt;br /&gt;今頃、坂の上の上のたなびく雲の上から、司馬はきっと見ているだろう。&lt;br /&gt;生きていればどんなコメントが返ってくるのであろうか・・・。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>坂の上の雲</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-01-24T10:39:43+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-35d9.html">
<title>国境の垣根を越えて伝わるもの</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-35d9.html</link>
<description>   ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;lt;日野宿本陣、中庭&amp;gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/01/11/01130029.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;299&quot; height=&quot;224&quot; title=&quot;01130029&quot; alt=&quot;01130029&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/01/11/01130029.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;朝は氷点下の厳しい世界が続いている。&lt;br /&gt;本陣の式台は威厳を表す格式の世界であり、何時も開けっ放しで北風が建屋に吹き抜け寒さが畳からも伝わってくる。&lt;br /&gt;佐藤彦五郎の妻、おのぶさんが亡くなったのは明治10年1月16日の雪の日と記録されているが、丁度今頃の正に寒い日に47歳の生涯を閉じた。&lt;br /&gt;こんな寒い日に、熱心な来館者が訪れる。戊辰戦争の奥羽列藩同盟の縁の、仙台やその周辺から色々な想いを巡らし、じっくり見ておきたいと言うことであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇シンガポールから新選組&lt;br /&gt;一方、外見は日本人と殆ど変わらぬシンガポールの女性の二人がサポートも無く、訪れた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;単に和風建築の日本文化の触れ合いに観光目的の来訪と思ったが、れっきとした「ヒジカタ・オキタ・サイトウ」などの人物が自ら出てくる 新選組フアンと聞き驚いた。&lt;br /&gt;日本語は理解していると言うが、通常の会話なら問題ないが、専門用語などはやはり首傾げ、時には筆談に頷き、一歩一歩、彼女らの理解を確認しながらゆっくりしたペースで進めた。&lt;br /&gt;幸いにして他にお客も居なかったことから、二人にフルサポート出来た。&lt;br /&gt;案内しながらも熱心に聞き、頷く姿に「何故、シンガポールで新選組」がむしろ気になって、仕方がなかった。&lt;br /&gt;一通り、案内を終わり、愚問かも知れないが、尋ねたら、どうやらアニメのようであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;家に帰ってその仔細を調べる。新選組アニメ『薄桜鬼』であった。&lt;br /&gt;エンタメ業界からも注目される年末の一大イベントとなった「コミックマーケット81（コミケ81）」（2011年12月29～31日）の参加者総数が50万人を記録した。震災・超円高により海外から遠征する参加者・・・の記事に始めて納得した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;お二人はお勤人、わざわざ休暇を取って来日、その一日がどうやら本陣であったようだ。彼女達曰く、日本人は年末、年始に沢山休むが、私達は働け、働けで、年始にそれ程の想い入れもなく、通常の休暇の一環での来日と言われた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇chejuの地で、司馬遼太郎の登場&lt;br /&gt;話が変わるが、数年前、韓国のchejuで流暢な日本語を駆使した献身的な女性ガイド文(moon)さんにお世話になった話を此処でも書いた。&lt;br /&gt;仕事で韓国と関わりを持ち、多数の出会いがあったが、文の姓は少ない部類と思うが、chejuに生れ、育った生粋のcheju人であることが後で判った。彼女の広い知識に、観光地、食事所、お土産屋とcheju島内の東西南北を楽しく駆けめぐった。&lt;br /&gt;そのmoonさんの口から何と、司馬遼太郎の「眈羅(たんら)紀行」の紹介があった。日本に隣接しているとはいえ異国の地でmoonさんが淡々と語る、中に突然の司馬作品の登場に驚いた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;全国を歩く「街道をゆく」シリーズは何冊か読んでいるが、「眈羅紀行」は見落としていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2012/01/11/img1601.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;299&quot; height=&quot;359&quot; title=&quot;Img1601&quot; alt=&quot;Img1601&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/01/11/img1601.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇国境を超えた二つの外国人の話し&lt;br /&gt;アニュメ『薄桜鬼』や司馬遼太郎の紀行文、国境の垣根を越えて、色々な形で情報や文化が広がり知れ渡っている現実の世界に驚愕した。&lt;br /&gt;激しく燃えるナショナリズムに領土問題や過去の歴史問題をマスコミで鮮烈に報じられるが、一方では若い世代など、こうしたチャンネルも静かに広がって居る事に安堵した。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>幕末日野</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2012-01-11T13:45:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-3d9c.html">
<title>日本海海戦</title>
<link>http://byp.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-3d9c.html</link>
<description>   ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &amp;lt;戦艦三笠の主砲&amp;gt;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/12/30/mikasa14.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Mikasa14&quot; alt=&quot;Mikasa14&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2011/12/30/mikasa14.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;年越しのロングドラマも最終回を迎え遂に終わってしまった。&lt;br /&gt;高い山の切り立つ尾根筋の瓦礫を背景にたなびく雲を背景に流される、あのテーマ音楽が、何時までも耳に響き、わくわくするような感覚に思わずテレビの前に釘付けになってしまった。&lt;br /&gt;12月28日の朝日新聞に&amp;quot;戦艦三笠、39年振りのにぎわい&amp;quot;と報じられ、年間見学者が、平時10万人 を越え、18万人を越える勢いであること、改めてNHKドラマの影響の大きさを感じさせられる。&lt;br /&gt;拝も5月に横須賀に押しかけ三笠艦橋に登り、三笠に見学した中の一人であった。&lt;br /&gt;最新鋭戦艦4隻を擁し、世界最大・最強レベルと言われていた巨大艦隊のバルチック艦隊を日本海で向かい撃ち、完膚なきまで叩き日本艦隊の勝利で、ドラマは終幕を迎える。&lt;br /&gt;海戦が何故これまでに完璧終わったか、節々に伝えている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &amp;lt;情報戦で活躍した三六式無線電信機&amp;gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/12/30/mikasa4.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Mikasa4&quot; alt=&quot;Mikasa4&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2011/12/30/mikasa4.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1 )情報能力のツール&lt;br /&gt;戦力を集中して1箇所でバルチック艦隊を捕捉迎撃するには位置と向かう方向が大事な情報である。&lt;br /&gt;ロシアが有視界の旗信号に頼っていたが、貨客船「信濃丸」の三六式無線電信機から、日本艦隊に いち早く情報を伝え、大事な役割を果たしている。&lt;br /&gt;モールス符号を使った無線電信は当時の最新鋭のものであったが、古典的な原理の無線機であり、モールス符号も既にプロでは使わなくなり、趣味のアマチュア無線の一部で使われている程度に淘汰されてしまった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それはさておき、いち早く伝えられた情報を基に、艦隊編成を伴う次の作戦計画にに如何に重要であったかを物語る。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2)「丁字戦法」で緒戦を飾る&lt;br /&gt;この時代の軍艦は砲の多くが舷側に並んでいるので、横方向に砲撃できる単縦陣が主流であった。&lt;br /&gt;先頭をいく旗艦「三笠」は大胆に敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった。&lt;br /&gt;しかし、敵前での回頭は危険の状態を晒し、ドラマでも当初は先頭の「三笠」に攻撃を集中し、多数の命 中弾を受けていた。そんなリスクを負いながら、単縦陣でまっすぐ進む敵艦隊に対して、進路を横にふさぐ形の、丁の字の体勢を形成する。&lt;br /&gt;敵の後続艦が遠いうちに、味方の全艦艇の側方から先頭艦へめがけて一斉に砲撃する。連合艦隊の砲弾が バルチック艦隊先頭の2艦に多数命中し、「オスリャービャ」と「クニャージ・スヴォーロフ」で火災が発生する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;緒戦の砲戦でバルチック艦隊は統一のとれた艦隊運動が行なえず、連合艦隊が追撃し集中砲火で多数の艦船が炎上や沈没へ向かう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;lt;伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭&amp;gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&lt;a class=&quot;mb&quot; href=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/12/30/mikasa3.jpg&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;225&quot; title=&quot;Mikasa3&quot; alt=&quot;Mikasa3&quot; src=&quot;http://byp.cocolog-nifty.com/blog/images/2011/12/30/mikasa3.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: auto; DISPLAY: block&quot; /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;3)『飛んでくる水雷』&lt;br /&gt;秋山真之が大本営に打った伝文が「天気晴朗なれど波高し」の天候であった。&lt;br /&gt;軍艦の装甲構成は艦の水線付近は厚く施され、水線以下は海水が土塁の役割を果たし、装甲は全くされて いない。当日は波高しでロシア艦隊が絶えず動揺し、腹(水線以下)を見せるために其処へ日本の砲弾が命中し、海水が入り艦は傾き沈んだ。波高しは魚雷と同じ結果を引き出した下瀬火薬を詰め込み伊集院信管をはめ込んだ 主砲弾頭である。&lt;br /&gt;『飛んでくる水雷』とも言われ恐れられた三笠の後部主砲下に置かれてあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;4)射撃能力の高さ&lt;br /&gt;鎮海湾で砲員の訓練で日本艦隊の射撃能力の高さはロシアの倍以上。100発中70発の命中の域に達し新たな数隻の戦艦、装甲巡洋艦などが戦列に加わった鮮烈に鮮烈にを増加した結果になる。&lt;br /&gt;砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。&lt;br /&gt;数隻の戦艦、装甲巡洋艦などを増加した結果になる。砲撃は一門だけが試射し、水煙を見て、その弾着を確かめて艦橋上から各砲台に距離を知らせ、正確な着弾が目標に向けられ、精度を高めた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;◇勝利に終わったが &lt;br /&gt;撃沈された戦艦6隻、巡洋艦4隻、 死者約5000人、捕虜6100人 華々しい戦火を上げた大勝利に終わった。&lt;br /&gt;しかし、連合艦隊の凱旋を前に三笠は佐世保港内の係留中に謎の爆破で、339人の船員と共に海底に沈没してしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;坂の上の雲の主役秋山真之はこの海戦の中枢を担う一人として活躍した。&lt;br /&gt;戦略家として卓越した手腕や、文書も非凡な才覚を持ち、海軍幹部として将来を約束された逸材であるが、天才と狂人が同居しているとも言われ、穏当な官僚でもなくこの海戦で燃え尽きてしまったのか、50歳で病死してしまう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;華々しい海戦の陰に、こうした事実も、残しながら、歴史的な海戦であった。&lt;br /&gt;NHKドラマとして、何度かエントリーされながら、消え、司馬遼太郎没後、3年越しのスパンで漸くドラマは終わった。&lt;br /&gt;三笠の見学を含め、その姿をこちらでも書いてみた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/mikasa.htm&quot;&gt;&lt;span style=&quot;color: #0000ff;font-size: 1.4em;&quot;&gt;&lt;strong&gt;軍艦 三笠&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>坂の上の雲</dc:subject>

<dc:creator>隠れ新八</dc:creator>
<dc:date>2011-12-30T14:39:40+09:00</dc:date>
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